ジャンピングフロッグ

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ジャンピングフロッグ

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 イタチに会った。
 十センチの蛙を咥え、ゆっくりと歩いていた。
 昼間にイタチを見るのは初めてだった。
 最初はやせた子猫かと思った。
 猫を細長くした体形で、脚は短く、長くてまっすぐなふさふさとした尻尾。小さな耳が小刻みに動き、ビロード調の茶褐色の体毛は夏の日差しを受け、輝いていた。
 驚いたわたしが立ち止まると、イタチは「暑いよね」と言って、黒くて丸い目でわたしを見上げた。
「子供が三匹いるの。これお食事なの」蛙を咥えたままでも喋れるのか、イタチはそう言った。
「亭主はまったく子育てなんかしないしさ。私の倍くらいの図体があるんだから、猟だって簡単だろうに。今はほかの雌追っかけ廻していて、子供の所なんか寄り付きゃあしないんだから。あなたの旦那は優しいからいいよね」わたしを見上げる。
「でもしょうがないよね。男には母性本能、希薄らしいから」笑った。
「ほんと、お互い女は大変なんだよね」わたしに同意を求める。
「あら、引止めてごめん。和美さんこれからお仕事でしょう。今日からは遅番だよね。暑いから体に気を付けて」
 言い残し、イタチは槇囲いの隙間から隣の水田の畦道に出ていった。

 次の日もイタチに会った。
 わたしが玄関から出るのを待っていた。
 今日も十センチの蛙を咥えていた。
「暑いよね」イタチは言った。
「今日の獲物は昨日のより少し大きいでしょ。子供たちの喜ぶ顔が目に浮かぶ。もう少ししたら巣立ちなの。ほんと可愛い盛りなんだから。和美さんにもわかるよね」イタチは首を傾げ、わたしの顔を見た。
「……」わたしは無言でイタチを見返した。
「いけない、ごめんなさい」
 イタチは慌てて謝った。
 わたしの表情に翳をみたのかもしれない。
「それじゃあ、お仕事頑張ってね。いってらっしゃい、また明日」
 昨日と同じように槇囲いの根元の隙間からイタチは消えた。

「あなた、イタチって見たことある?」
 わたしは朝食をテーブルに揃えながら、朝刊をひろげる夫の直樹に言う。
「……ん。いたち?」
 直樹はいぶかし気な目を上げわたしを見る。
「いたちって、あのイタチ?」
「あのイタチ」 
 直樹は質問の意図が理解できないという風な表情でわたしを見る。
「年に四、五回は見るかなあ」それでも律義にそう言い、わたしの言葉の裏に何があるのかを探るように言葉をつなぐ。
「俺、月末は忙しくて残業多いだろ。だからいつも見るのは深夜の帰り道なんだけどね。ほら、市道の側溝に排水溝があるだろ。イタチがね、一方の蓋の穴から飛び出して、もう一方の穴に走り込む。いつも夜間なので車のライトに照らされるんだけど、凄いスピードで道路を横断するんだ。何が飛び出してきたのかと思ってびっくりする」
 直樹はイタチがどうかしたの? というように、わたしの顔に視線を置き首を傾げる。
「一昨日と昨日、家の庭にイタチがいたの。大きな蛙を咥えていた」
「昼間?」
「そう。わたしが出勤しようと玄関を開けたら」
「ものすごいスピードで逃げて行ったろう」
「それが、ゆっくりと歩いていた。わたしを見ても驚かないのよ。暫くは立ち止まってわたしの顔を見ていた」
「そのイタチよほど人に馴れているのか――」直樹は腑に落ちないという顔をする。
「蛙はね、子供の餌だって」
 夫の目の色が急激に憐憫に変わるのをわたしはみる。そしてその憐憫の片隅に怒りが含まれていることをわたしは知っているが、それが憐みのように、わたしだけに向けられたものなのか、彼自身の心に帰っていくものなのか、あるいはその両方なのかは、わたしにはわからない。
「もうすぐ三年になるんだ。いいかげんに――」
 やり場のない悲しい怒りを含んだ夫の言葉は小さな音量だったが、わたしの心には大きく響いた。
 それは私達ふたりにとって、今までも、これからも続く、悲しみに違いなかった。
 時間がゆっくり流れた。
 居間のTVから少し大きめに設定したヴォリュームで朝のニュースが聞こえていた。
「君のせいじゃない……」直樹はぽつりと言う。わたしの顔を見る。
 夫の目はいつもの優しいものへと変わっていた。
 その優しさがたとえ瞬時に取り繕ったものだとしても、憐みが、怒りが、その中に数パーセントこそ残っているとしても、それは夫の紛れもないわたしに対する優しさであり、とりもなおさず夫自身の温かい心遣いであることをわたしは知っている。
「おっ、もうこんな時間かよ。よっしゃー! 今日も社畜の一日が始まるぞ」
 直樹は窮屈な笑いを片頬に浮かべ、無理筋だとわたしにでもわかる明るい声をあげた。

 その日もイタチは玄関を出るわたしを待っていた。
「暑いよね」十センチの蛙を咥えたまま、いつもの挨拶をした。
「少し大きいの狙ったから、今日は獲るの手間取っちゃった。食べ盛りを三匹も抱えていると大変だよ。でも、母親だから――」
 庭の木のどこかで蝉が鳴いていた。
 私はイタチを無視して、庭の脇に止めた軽自動車のドアに手をかけた。
 イタチはわたしを追いかけてきて、慌てて言った。
「もうすぐ巣立ちなの。一度、見にきてくれない」
 小さな耳と細いひげが小刻みに動いた。
 私はエンジンのスターターを廻した。
 
 そして次の日も、その次の日もイタチは私に「暑いよね」と、言った。
 十センチの蛙を咥えていた。
 仕事の遅番が終わるその日も、玄関を出たわたしにイタチは「暑いよね」と言った。
「あと、三日で子供達ともお別れ。和美さん明日はお休みでしょう、見にきてよ」
 丸く黒い目をくりくりさせた。

 夫を仕事に送り出したわたしはダイニングで新聞を読んでいた。
 来客を告げるチャイムが鳴った。
 わたしはモニターをオンにする。
 液晶画面には狐が映っていた。
 玄関の引き戸を開けると「お忙しいところ失礼致します」と、狐は慇懃に頭を下げた。
「決して怪しいものでは御座いません。私こういうものです」
 名刺を差し出す。名刺には、

       鼬撲滅推進協会会長
       狐

と、明朝体でプリントされていた。
「奥様、鼬(いたち)と知り合いでございますね」
 わたしは黙って狐を見た。
「いやいや、お気持ちは十分承知いたしております、はい。奥様だって人の子の母親でございました。私共の活動に対し、心情的に危惧の念をお持ちだということはよくわかります。でも、奥様の心の深い部分に鼬の母親に対する、なんといいますか、嫉妬じみた感情が微かにございます。最近、鼬をウザイと思っていらっしゃる。おっと、これは失礼、ちと言葉が今風になってしまいました」
 狐は雄弁であった。
 わたしは無言だった。
「こういたしましょう。二、三質問をさせていただきますので、YesかNoでお答え願えませんでしょうか。さすれば奥様の心に負担はかからないとは存じますが」
 わたしはかすかに頷いた。狐が言うように、イタチに対する負の感情はあった。それは私自身に向けた感情だったかも知れない。
 狐は質問を終えると満足げに頷き、最初と同じように慇懃に謝辞を述べ、「暑さ厳しき折ゆえ、御身ご自愛召されますよう」と、頭を下げた。

 次の日も休みだった。
 昼過ぎにイタチに会った。
 十センチの蛙は咥えていなかった。
 イタチはわたしを見て、「あーあ、クッソ暑いよね」と言った。
「子供、三匹とも狐の野郎に獲られた」
 悲し気な眼をわたしに向けた。少なくともわたしはそのように解釈した。
「三匹全部だよ。嫌になっちゃう。巣立ち前だというのに、ちょっと目を離している隙にやられちゃった」
 言葉の端に悲しみと怒りと、それらよりも重い後悔が乗っかっていた。それはわたし自身の気持ちに違いなかった。
「子供を失った悲しみ、あなたにもわかるよね」イタチは言葉をつないだ。
 わたしは無言で頷いた。

       〇 〇 〇

 わたしは子供を亡くした。自分のせいで。
 三年前の夏だった。
 息子は一歳と八カ月だった。
 夕方からぐずっていた。体温を計ったが平熱だった。
「心配ないだろう。様子をみて、なんだったら明日、病院に行ったら」夫の直樹は心配するわたしに言った。
「俺、明日は大事な会議があって休めないし。親父はあした非番だと言っていたから、一緒に行ってもらったらいいよ。俺からも頼んでおく」
 直樹はそう言って義父の居室がある二階へあがって行った。
 私たちは直樹の父親と同居していた。
 それが、結婚に際して直樹がわたしに示した、一人っ子である彼の唯一のお願いだった。
 わたしは彼の申し出に頷いた。
 義母は私たちが結婚する前に亡くなっていた。
 義父は徳島県警の警察官だったが、その時は定年退職をしていて、県庁所在地である徳島市にある大手生命保険会社の地区支社のお客様相談室という部署に嘱託として週四回ほど勤務していた。
 義父は警察官というイメージからは少し外れた温厚な性格の人だった。もっとも警官に対するイメージは、警察官に知り合いなどいないわたしが勝手につくりあげたものであったのだが。
 結婚当初から、義父はあからさまには言わないものの、早く孫の顔が見たいというようなニュアンスの言葉を私たち夫婦に投げかけた。
 夫の心内まではわからなかったが、わたし自身は授かりものだからあわてる必要はないという考えだった。だから、その時がくればできるものはできるのだから自然に任せていますからと、義父には笑って答えていた。
 しかし、なかなか子供は授からなかった。
 時の経過とともに義父の言葉は、病院で調べてみたらどうだろうというような具体的な提案になっていった。わたしにとって、それがだんだんとプレッシャーになった。
 義父に悪気があるわけではない。言葉の端に嫌味を含んでいるわけでもない。義父の素直な心情が単にそんな台詞になっただけなのであろう。それとも、自分の遺伝子を後世に残したいという、意識下にある動物本来の根源から、自然に形成された言葉だったのかもしれない。
 結婚したのはわたしが二十六歳の時だった。直樹はわたしより三歳年上だった。
 結婚を期に退職するという選択肢もあったのだが、わたしは会社を辞めずにいた。
 いずれ妊娠すれば辞める心づもりでいて、直樹も賛成してくれた。
 しかし、子宝には恵まれなかった。別にコントロールしていたわけではなかった。コウノトリは私達に宝物を運んできてはくれなかった。
 夫婦間のセックスは普通だった。
 何を基準に普通というのかはわからないし、そのことに関して基準などというものがあるのかどうかさえもわからなかった。
 美容室でみる女性週刊誌の記事に照らし合わせても、やはり普通だった。
 わたしには若い頃つきあった男がいたのだが、その時と比べても、わたしと直樹は普通だった。

 その男とのことで、わたしは誰にも言えない秘密をもっていた。
 男とは同じゼミで知りあった。大学三年の夏からつきあい始め、お互いに別の会社に就職し、社会人生活も一年目が終わる頃に別れた。
 原因はわたしが妊娠したことだった。
 わたしは男に産むと、言った。
 男はわたしに堕ろしてくれと、言った。
 最終的には――君とは絶対に結婚するのだから、今回だけは僕の言うとおりにしてくれという男の言葉を聞き入れた。
 妊娠は十二週目に入っていた。
 病院へは男も付いて来た。
 一晩入院した。
 退院の時、白い紙製の小さな棺に入った胎児と、死産証明書と書かれた一枚の書類を渡された。
「もう三日早ければ病院側で処理ができたのだけれど。うちの先生、堅物だから融通が利かないのよ。でも、法律は法律だから。あなたも悩んだんだよね」年寄りの看護師は死産届の手続き方法をわたしに教えたあと、そう言った。
 役所の手続きは一人でおこなった。
 翌日の二時に火葬場の予約をとることができた。
 男に電話した。
「ええっ、火葬にしなきゃあいけないのかよ」携帯から男の狼狽えた声が聞こえた。
「私たちの赤ちゃんよ。二人で見送りたい」わたしは言った。
 男は不承不承それを了承した。
 翌朝、男からメールが入った。
 ――急な仕事が入ったので行けない――最小限の文字が液晶画面に並んでいた。
 男に電話をした。
 電源は切られていた。
 わたしは小さな棺を抱え、独りで火葬場に行った。
 係員は棺が載った台車を炉の中に移動し、壁のスイッチを押した。
「合掌」と言って、自ら掌を合わせた。
 わたしと私の子供を隔てる機械音がした。
 わたしは合掌を解き、目を開いた。
 かすかにバーナーの音が聞こえた。
「ご遺体のお骨は全く残らないと思います」係員は言った。
「もしよろしければ、私どものほうで手厚く処理いたしますが、どうなさいます」
 骨の欠片すら残らないのかと、思った。
 係員は「手厚く」とは言ったが、「処理」という言葉が含まれていた。
 いたたまれなかった。
「よろしくお願いします」わたしは頭を下げ、逃げるように火葬場の外に出た。
 建物を振り返った。
 煙に別れを告げようと思った。
 煙突らしきものすら見つからなかった。
 男とは別れるだろうなあと、その時思った。

 わたしには妊娠の経験があるので、子供ができないのは夫のほうに原因があるのではないかと思っていた。
 しかし、それは直樹に言えることではなかった。
 二人そろって複数の病院を訪ねたが、どちらにも欠陥らしきものは見つからなかった。

 妊娠がわかったのは結婚して五年目だった。
 夫も義父も喜んだ。
 わたしは実家に帰って産むつもりだったのだが、直樹は出産に立ち会いたいので、ここでと言った。
 実家の母にそれを電話で告げると、母は安堵したような声で、そのほうがいいと言った。そして、兄嫁に対する愚痴を付け加えた。
 わたしには兄と姉がいて、父母には二人の内孫と一人の外孫がいた。兄は父母と同居ではなかったが、実家の近くに住んでいた。嫁姑の微妙な関係など、遠く離れて暮らすわたしには推し量ることなどできなかったが、そんなものもあるのだろうと思った。
 義父は妊娠がわかってからは、いままでだって優しくて気遣いの人なのだが、それがいっそう顕著になった。
 何くれと気を遣ってくれた。
 それは直樹のそれとは別種のものだとはわかっていた。
 しかし、時にはその気遣いを鬱陶しく思うわたしがいた。
 義父は意識していないだろうが、わたしはその気遣いに、ある種の軽さを、本人は意識すらしていない無責任さをみるのだった。
 こんなことを考えるのも妊娠期の心の不安定が生んだものだろうと、義父にはすみませんと心の中で謝りながら、わたしは妊娠期間をやり過ごした。
 
 産まれたのは体重三千百グラム、身長四十八センチの男の子だった。
 子供が男児であることは、初めての子ということもあるのだろうか、医者から前もって知らされていた。 
 名前は二人から一文字ずつとって和樹と名付けた。
 義父は命名は儂がと張り切り、姓名判断の本を何冊も買い込み、何カ月も前から首を捻り唸っていたが、命名権の指名争いは直樹にあっさりと一蹴された。

 和樹の体重は生後一か月で一キログラムも増えた。
 二か月目の後半には、手を目の前に持ってきて不思議そうな顔で自分の手を見た。時々笑った。
 四カ月目には首がすわり、おもちゃを掴んだ。
 五カ月目にはブーブーとかバーバーなどの簡単な言葉を喋った。義父は「じぃじぃ」と言ってくれたと喜んだ。
 五カ月目が過ぎるころから柔らかいペースト状の離乳食を与え、七カ月目には日に二回のそれは、おかゆやうどん、豆腐、ゆで卵、白身魚などに変わった。
 寝返りができるようになり、やがてお座りができるようになり、八カ月目にはハイハイをした。
 歯が生えてきた。盛んにおもちゃを噛むようになり、離乳食も自分でスプーンを掴み口へ運ぼうとした。
 その頃から外に出るのを喜ぶようになった。
 天気の良い日にはベビーカーで散歩に出た。和樹は景色に興味をしめしキャッキャッと笑った。
 少しだけ夜泣きをするようになったこと以外は、わたしを悩ませるものはなかった。
 出産の時、同じ病院だった人とか、市の集団乳児検診で顔を会す人などとママ友になっていた。
 LINEで情報を交換しあった。なかでも二人目を出産したお母さん、母親と同居しているお母さんの情報は役に立った。
 十カ月目には伝い歩きをはじめ、すぐに独り歩きに移った。目が離せなかった。
 一歳半の頃には、ぽっちゃりとした体型が、スリムな幼児体型に変わった。検診では身長八十二センチメートル、体重九・八キログラムだった。
 ゆっくりとなら走れるようになり、外での遊びを好んだ。

 家には六十坪ほどの庭があった。
 一部を駐車場として使い、その他の場所は、つつじや柘植、椿、山茶花などの低木を植樹し、花崗岩でできた灯篭、手水鉢などを配した和風庭園だった。
 和樹と義父はその庭でよく遊んでいた。
 ある日、庭から帰ってきた義父が言った。
「和美さん、和樹が蛙を捕まえようとした」
 家の三方は槇囲いが施してあり、その向こうは畑か田んぼだった。庭にもたくさんの植物があるので、蛙とか、蜥蜴、たまに蛇を見ることがあった。秋にはバッタ、カマキリ、コウロギなどの昆虫類が多くいた。
「和樹、蛙に興味があるみたいで、一生懸命追いかけていた。本物の蛙は無理だが、蛙のおもちゃでも買ってやるかな」義父は嬉しそうに笑った。
 義父は蛙のおもちゃを買った。
 ジャンピング・フロッグという名の北欧製のものだった。
 お尻を触ると四本の脚が伸縮し、おもちゃは跳ねた。
 和樹はそれを気にいっていた。
 いつも遊んでいた。
 一年八カ月の短い命が消えるまで。

 その日。
 夫を送り出したわたしは和樹のようすをみた。ぐったりという言葉が当てはまった。急いで体温を計った。四十度あった。
 朝方は昨晩と同じように幾分ぐずってはいたが、体温も平熱だった。幼児の容態は急変するという言葉を思い出した。
 わたしは二階の義父を呼んだ。
「どうかしたか」義父は和樹を目の端で捉え、わたしを見た。
「救急車呼びます」私は言った。
「いや、待て、車で行こう。救急車を呼ぶより速く着けるだろう」
 病院は車なら十分とかからない場所だった。
「じゃあ、私が運転します。お義父さん和樹を抱いて乗ってください」わたしは言った。
 義父の通勤用のセダン車に乗り込んだ。義父が和樹を抱き助手席に座った。
 事故は病院まであと五百メートルの交差点で起こった。
 わたしはいらいらしながら、信号が青に変わるのを待った。
 信号が変わった。
 わたしはすぐさまアクセルを踏み込んだ。
 左からトラックが猛スピードで突っ込んできた。
 わたしは衝撃で、頭をフロントガラスに打ちつけ意識を失った。
 そして、我が子と義父を喪った。
 
 わたしは自分の子供の葬儀に出ることができなかった。
「車椅子で葬儀にでたい。お願いします」医師に哀願した。
 医師は、絶対に駄目ですと言った。お気持ちは十分わかりますと、付け加えた。
 頭の傷は軽傷だったが、全身打撲のうえに、左右大腿骨と肋骨を骨折していた。
 
 痛みよりも悲しみがわたしの心を侵食した。
 眠れなかった。
 自然と涙が溢れた。わたしはベッドの上で声をころして泣いた。
 時間の経過とともに、いつか涙は枯れるだろうと思った。
 でも、そうじゃなかった。
 治りかけた切傷から何かの拍子に血が滲み出るように、涙はあとからあとからわたしの心から滲み出た。
 まるですべてが夢の中での出来事のように感じた。
 わたしはわたしじゃないと思った。
 同時にわたしの心を襲ったのは後悔だった。
 あの時、救急車を呼んでいれば……。
 あの時、義父に運転をしてもらっていれば……。
 あの時、もっとゆっくり発進していれば……。
 あの時、別の病院へ向かっていれば……。
 あの時……。
 あの時……。
 いくら考えてもどうしようもないことはわかっていた。でも、考えずにはいられなかった。

 多くの人がお見舞いに来てくれた。
 実家の父母、直樹の親類の人たち、わたしがかつて勤めていた会社の人、直樹が勤める会社の人、近所の人。
 全員がわたしに対する見舞いの言葉を少しばかり述べ、亡くなった二人に対する悔やみの言葉に多くを費やした。
 わたしは力なく頭を下げるだけだった。
 ママ友の何人かが来てくれた。
 わたしが一番親しいと思っていた若いお母さんも来てくれた。
 彼女の子供は生まれた日が和樹とは一日違いだった。
 同じ病院で出産した。
 彼女の子供も男の子だった。
 帰り際にその若いママ友は、さも思い出したように、スマホの画面をわたしに示した。
「うちの子、歩くのが遅くて心配したんだけど、二か月前にやっと独り歩きができるようになってね。でも、その後は早いよねえ。昨日なんか走り出しちゃって。私はらはらしちゃった」
 画面には正面から撮ったショットがあった。
「あら、ごめんなさい。そういうつもりじゃないからね」ママ友は慌てた風に言った。
 彼女の眼が嗤っているのを、わたしは確かにみた。

 わたしは二か月半で退院した。
 家に帰っても、なにも手を付けることができなかった。
 これではだめだと思った。でも、できなかった。
 わたしは毎日、尺度のない長くて短い時間の中にいた。
 四十九日も終え、仏壇には義母の写真と共に義父と和樹の遺影があった。
 不思議な感覚だった。居るべき人間が二人そろって居るべきところに居なかった。
 ジグソーパズルの二つのピースを失くしてしまった。そしてそれは永遠に見つからない。わたしや夫や家や家具や庭の木や隣の田んぼや畑や家の前の道やどこかで鳴く蛙の声や秋の空や白い雲や吹く風や――そういったピースは今までと同じように存在するのに、ただ、和樹と義父というピースが消え、ジグソーの絵は永遠に完成することはないのだと思った。
 そんなわたしを夫は気遣った。
 彼にしても血のつながった親と子を同時に亡くしたのだ。平常な心でいられるわけがないと、わたしは思った。
 でも彼は、君のせいじゃないと言った。
「悪いのはトラックのほう。警察の話では明らかに信号無視だった。目撃者も大勢いたそうだ。和美は被害者なんだ」
「でも、和樹とお義父さんが……」
「亡くなったことは俺も無念に思う。叶うものなら、二人がかえってきてくれればと思う。しかし、いくら考えてもそれは無理なことなんだ。気に病むなというのは和美にとっては酷な話かもしれない。でも俺が今言えるのは、二人が亡くなったのは和美のせいじゃない。君はこれ以上、苦しむことはない」
 しかし、そのような心遣いがわたしにとっては重荷となるのだった。
 それがわたしの一方的なわがままだとはわかっていた。
 夫がわたしには悟られないように泣いていたことを、わたしは知っている。
 夜中に目を覚ますと、隣に寝ている夫の背中が小刻みに震えるのを、薄闇の中でわたしはみている。押し殺した嗚咽を、わたしは聞いている。
 義父の居室に籠ってなかなか降りてこない夫に、ごはんですよと告げにいった時、笑顔をつくって慌てて出てきた夫の頬に涙の跡があったのを、わたしはみている。
 直樹はわたしを罵倒してくれても良かった。お前のせいで父親と息子は死んだのだと言ってくれるほうが心が休まったかもしれない。
 でも、彼はそうはしなかった。
 その優しさがわたしにとっては重荷となり、わたしが重荷と考えることこそが直樹にとっては、わたしの不安定な心に対する憂慮となったのだと思う。
 一周忌が終わるまでは、わたしの心はやはり不安定だった。
 病院を訪れた。
 医師は何種類かの薬を処方し、大丈夫ですよ。あなたの気持ち次第ですよ。一緒に頑張りましょうと、優しく言った。
 薬の効果があったのか、時の経過が薬として作用したのか、徐々にかつてのわたしが帰ってきた。
 しかし、夫とのセックスだけはできなかった。
 わたしには子を産む資格などないと思ってしまうのだ。
 子供をつくっても、また、わたしのせいで子を死に追いやってしまうのではないかという恐怖があった。
 一周忌を終えしばらくして、私は今の会社に就職をした。仕事の形態は違ったが、前職の知識と経験が生かせる職場だった。
 家に独りでいるのが辛かったのだ。
 和樹の思い出は、この家や庭や近所の道路や小さな公園やよく行った神社や、和樹がかつて存在したことがある全ての空間に、時間を隔てて濃く滲みついていた。
 就職することは夫も賛成してくれた。俺もその方が良いと思う。直樹はやはり優しかった。
 通勤用に軽自動車を買った。
 最初の二週間ほどは車を運転するのが怖かったが、徐々に慣れた。

       〇 〇 〇

「和美さんと同じで、私だってさ、子供を狐の野郎に獲られたのは悔しいよ。だって、あと数日で独り立ちだったんだよ」イタチは言った。
「ごめんなさい、狐にあなたの情報を教えた。だって、あなたが子供を自慢するのが悔しかった。わたしは、あなたみたいに子供を自慢することもできないのだと思った」わたしは言った。
「和美さん、狐のことはもういいよ。狐には狐の生活がある。私だって子供のために蛙を捕まえていた」イタチは言った。
「狐を憎いとは思わないの?」
「メッチャ憎いわよ、当たり前でしょ。でもね、いくら憎んでも三匹の子供は還ってこない。いくら過去を振り返っても失ったものは絶対にかえってこないの。過去は元へは戻らないの。それよりもこれからどうするかだよ、未来はまだ真っ白のまんまなんだよ。未来をどんな色に染めるかは私次第。そして和美さん、あなた自身なのよ」
「あなたは、これからどうするの?」
「私は子供を産もうと思っている。イタチは年三回、産むことができるんだよ。子供ができたら、また和美さんに会いに来るよ。今度は五、六匹産まれたらいいんだけどね」イタチの目は未来をみていた。
「たくましいね」
「女はタフでなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない」イタチはハードボイルド風に低音の声をつくった。
「それ、どこかで聞いた台詞よね」わたしは言った。
「あれ、ばれてた?」イタチはテヘッと笑った。
「和美さんも未来をみたほうがいいと思う」イタチはわたしを励ますように言った。
 わたしは頷いた。
「じゃあ、私もう行くわ」イタチは言った。「ほんとクッソ暑いよね」と、つけ加え、槇囲いの隙間から田んぼへ出ていった。
 鳴き止んでいた蝉がまた鳴きだした。
「みらい……。そうかも……」
 わたしは、イタチが出ていった槇の木の根元を見て呟いた。

 イタチはなかなか現れなかった。
 次に私が彼女に会ったのは、その年の十二月の末だった。
 庭に植えたドウダンツツジは紅葉の時期を過ぎ、一部の紅を残し、おおかたの葉を落としていた。
 手水鉢の傍に植えたナツハゼは春先にみせる鮮やかな赤とは違い、真夏の濃い緑を経て、少し遠慮がちの赤に変わっていた。
 寒い朝だった。
 イタチは出社するわたしを玄関で待っていた。
「寒いよね」イタチは言った。「お久しぶりね」と、続けた。
 十センチの蛙は咥えていなかった。
「どうしていたの。子供はできた?」わたしは言った。
「六匹産まれた。一か月前に巣立った」イタチは喜びと安堵が混じった顔をわたしに向けた。
「子供ができたら、わたしに会いに来ると言っていたよね」わたしは聞いた。
「ごめんね。今回は子育てに専念していたのよ。また、狐の野郎に狙われないとも限らないでしょ。私、過去の失敗から学ぶ主義だから」
 イタチは少し得意げな顔をした。そして、わたしの目を見て言葉をつないだ。
「和美さんに会いにこようとは思ったんだけどさ。でも、夏に会った時、私は多分あなたは大丈夫だろうなと思った。私が会いに来なくても、もう心配ないと思ったの。――そうだよね」
 イタチは深い漆黒の眼でわたしを見上げた。
 わたしは頷いた。
「もうすぐクリスマスだよね。和美さんにプレゼントがあるの。明日持ってくるから楽しみにしてて」イタチは言った。
「あら、何かしら?」
 わたしの質問には答えず「いってらっしゃい」と笑って、槇囲いの隙間から隣の畑へ出ていった。

 次の日も同じ時間にイタチは来た。
 十センチの蛙を咥えていた。
「寒いよね」と言った。
「はい、クリスマスプレゼント」イタチは言った。
 咥えている蛙は本物ではなかった。おもちゃの蛙だった。
「ありがとう」わたしは言った。
「良かった、やっぱり大丈夫だった。この蛙を見てパニクるんじゃないかと、ちょっと心配していたんだ。和美さん強くなったね」
 イタチからのプレゼントは、和樹とお義父さんが生前よく遊んでいたおもちゃの蛙だった。
「それじゃあ、メリークリスマス」
 イタチはそう言って槇の根元から出ていこうとした。
「また会えるよね」わたしはイタチに声をかけた。
「もう会わないつもり」イタチは振り返って答えた。
「でも、気が向いたらまた会いに来るかもね。あなた次第」と、笑顔で付け足した。

 その日の夜、会社から帰って夕食の準備をし、夫の帰りを待った。
 夫は仕事の関係上、月末はいつも帰宅が遅くなる。
 ダイニングテーブルの隅にはイタチからのプレゼントがあった。
 緑色の蛙のおもちゃ、ジャンピング・フロッグ。
 帰宅した直樹は着替えもそこそこに「ああ、腹減った」と、席に着いた。
 テーブルの隅の緑のおもちゃに目がいった。
「これ、どこにあったの?」目を瞬かせながらわたしに言った。
「お義父さんの部屋でみつけたの」
 イタチからのプレゼントだとは言わなかった。
「そうなんだ――」直樹は首を傾げた。
「葬儀の時、お棺に入れてやろうと思って探したんだけど、このグリーンの蛙だけ見つからなかった。他の青と黄色の蛙は見つかったんだけど……」
 お義父さんは最初、黄色のジャンピング・フロッグを買ってきた。
 ことのほか和樹が喜んだのに気を良くし、青と緑を買い足したのだった。
「壊れた時の予備だよ。それに儂も一緒に遊んでやれるし」義父は少し照れたように言った。
「和樹と親父、このおもちゃでよく遊んでいたよな」夫はしんみりとした声で言った。
 イタチと話したあの夏の日以降、徐々にではあるが、わたしはこういった話題になっても、心を締め付けられるような、そんな苦しさを味わうことはなくなっていた。
「葬儀の時――」夫は言った。
「和樹が遊んでいたおもちゃを棺桶にできるだけ入れてやろうと思った。天国でも遊べるように」言葉をきってわたしを見た。
「でも、葬祭場の係員の話では金属とか激しく燃える物は規則で入れることができないと言うんだ。俺は彼にお願いした、天国で遊べるようにって。係員は困った顔で、最小限のものにして下さいね、こんなちっちゃな子供から遊び道具を取りあげるのは忍びないですよねって言って、目をつぶってくれた。俺は和樹の棺に黄色の蛙を、親父のそれには青の蛙を入れた。親父も一緒に遊べるように……」
 少しの時間、二人の間に沈黙が訪れた。
「ごめん、こんな話をして。和美を苦しめたかもしれない」夫は湿った声で言った。
「あなた気にしなくていいよ。もうわたしは大丈夫だから」わたしは明るい声で言った。
「それよりあなた、早くご飯にしよ。お腹すいているのでしょ」
「おお! 腹ぺこだ」
 わたしはダイニングテーブルの真ん中に置いた土鍋の蓋をとった。
 お義父さんがいたときにはちょうどよい大きさだったが、今では少し大きすぎるサイズだった。
 水炊きの匂いと温かい湯気が辺りをふわりと包んだ。
 緑のおもちゃに目を向ける。
 湯気の中で「ぴょこっ」と跳ねたような気がした。

 イタチはもう来なかった。

              
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