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第九章:魔王とは何か、王が王になる前の話――千年前の地獄と九つの罪
第176話:氷河期と終末風、惑星に刻まれた円環
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この世界のどの強者にも弱点はある。
アキレウスの踵、ジークフリートの背中、バルドルのヤドリギ。
だから情報が命だ。どれだけ相手の情報を掴み、どれだけ相手に情報を握られないかが勝負の要となる。どんな強力なボスキャラでも、その技と攻撃パターンが知られてしまえば、後はただの作業に過ぎない。それがゲームの中で、プレイヤーのステータスがボスよりも明らかに低くても勝利できる理由でもある。
私もこうして勝ち続けてきたからこそ、自分が同じ手でやられることを何より恐れている。
バトル漫画で「なぜ両者は最初から全力で必殺技をぶつけないのか」と突っ込まれることはよくあるが、私にはそれが理解できる。
必殺技は必ず相手を倒すからこそ必殺技である。だが、多く世に披露すれば、その技の弱点を見破られ、攻略されるリスクを背負うことになる。つまり、必殺技に頼りすぎず、普通の相手は普通の技で倒す。必殺技はいざという時だけ使うべきものだ。
そして今こそ、その時である。
*
「マオウさん…」
セリナは別れを惜しんでいる。だが、ベリアルとの戦いが白熱化した場合、彼女たちはベリアルにではなく、私の力によって巻き添えを食らいかねない。
「三日以内に決着をつける。それ以上かかるなら、私は死んだと考えてくれ。ヴェネゴールに言っておけ。モリアが君たちを未来の世界へ送ってくれるだろう」
幾度もの転移を繰り返し、最終的に無限地獄のヴェネゴールの部屋に彼女たちを預けた。彼女たちとヴェネゴールは仲が良いし、ここはこれまで通ってきた地獄の中で最も安全な場所だ。
「どうしても……俺たちを置いていくのか? そんなに俺たち、頼りにならないってのか? 今までだって、みんなで勝ってきたじゃないか!」
レンは悔しそうに拳を握った。確かに彼女たちは私を助けるために、わざわざ千年後の未来からやってきてくれた。ここまで地獄を速く攻略できたのも、彼女たちのおかげだ。だが、今回は違う。ベリアルは別格なのだ。
「かつての神魔大戦で、天界は四大天使を戦場に送り込んだ。激戦の末、ザベルトがラファエルを、アスモデウスがガブリエルを、そしてベリアルはミカエルを倒している。その意味、わかるか?」
「俺はザベルトを倒したし、エンプラもアスモデウスと互角に戦った。なら今回だって――」
「ラファエルは癒しの天使、ガブリエルは伝令の天使だ。どちらも戦闘を専門としていない。だがミカエルは天軍の軍団長、戦争のプロフェッショナルだ。そのミカエルに勝ったベリアルは別格なのだ。はっきり言っておく――間違いなく死ぬ。重傷で済むなどという甘い考えは捨てろ」
前回の手合わせでわかった。今までのやり方では、彼女に勝てない。
「でも、ドクターは行くでありますね」
「兄貴、うちを置いて先に逝かないで( ノД`)シクシク…」
「勝手に殺されるな。大丈夫だ」
精神的にまだ未熟なロボとぬいぐるみをなだめながら、私は言った。
「私、こう見えても、結構強いから」
さあ、力比べをしようじゃないか。
姑息な手を使わず、正面から――毛玉がどこまで戦えるか、見せてやる。
*
まだ幾度かの転移を経て、私は焦熱地獄へと戻っていた。これから始まる死闘を予約した黒ずきんの少女は、待ちくたびれて頭をかき始めていたが、私の姿を認めた瞬間、その雰囲気が一変した。獲物を逃さぬ猟犬のように、鋭く狙いを定める。ギリシャ神話の三つ頭の番犬ケルベロスもかくやと思わせる威圧感だ。
「ふん~、逃げたわけじゃないデースね。あの言葉は、生き延びるための方便かと思ったデース」
「そんな姑息な男を、君の姉さんが惚れるわけないだろう」
「姉さんに弱い男も要らないデース。小細工でここまで来たが、そんなものはベルには通じない。さあ、ベルにお前の力を示せ。ただの弱虫なら、喰らい尽くすまでデース」
彼女の体よりも大きなデスサイズが軽々と振られる。死の気配が周囲に満ち、その刃先がどれほどの魂を刈り取ってきたか想像するのも恐ろしい。私は決して彼女の仲間にはなれない――そのことを肝に銘じておかねば。
次の瞬きの間にも、刃の先は私の喉元に迫っていた。速い。レン以上の速さだ。魔法使いは近接戦を苦手とする――その弱点を衝き、最初から間合いを詰めてきたのだ。だが、私に策がないとでも?
デスサイズが私の首を斬り落とす直前、私の反撃魔法が先に発動した。
青白い光が焦熱地獄全体を覆い尽くす。さっきまで荒れ狂っていた炎のオレンジや赤は過去のものとなり、光さえも凍りついてゆく。炎はその形のまま巨大な氷の彫刻となり、空中に静止した。
肌を焼く灼熱は、一瞬にして針のように鋭い冷気へと変わった。吐く息は白く輝き、空中で小さな氷晶となって舞い落ちる。溶岩の川は黒曜石のような氷の帯となり、表面には霜の花が咲き乱れた。
空からは、炎の代わりに雪が降り始める。
「どうだい?歴史上いかなる氷河期よりも厳しい極寒の世界だ。燃え続けてきたこの地獄に、少しばかりの涼しさを届けてあげよう」
すべてを凍りつかせる絶対零度の環境の中、ベリアルも例外ではなかった。全身が固く凍りつき、純白の霜が黒い衣装に映える。普通ならこれで決着だが、相手はベリアル。この状態が長く続くはずもない。せいぜい――
「Necrobrand Crescent(ネクロブランド・クレセント)!」
凍りついた彫刻が動き出す。表面の氷が割れ、黒衣から黒炎が噴き上がる。デスサイズが黒き牙となって再び襲いかかるが、残念ながらそこにいたのは私の氷像だ。
氷像が砕け、中に封じられた寒気が解放される。温度を求めて黒炎をまとうベリアルに殺到し、彼女の表面の液体をすべて固体に変えようとする。しかし彼女は慌てず、深く息を吸い込んで寒気をことごとく飲み込んだ。
まさか――酸素さえ凍らせるあの冷気を?
「でかい口を割く割に臆病な野郎デース。空間転移で距離を取ったデースか。だがベルから逃げられると思うなデース」
迷いなく、彼女は私のいる方向へ走り出す。どうやって?この吹雪の中では視界は利かず、絶対零度の世界では嗅覚も意味をなさない。だとすれば――まさか。
胸に手を当てる。呼吸の音、鼓動の音。この死者の世界で生きているのはベリアルと私だけ。それだけで位置が特定できるというのか?
「見つけたデース!」
考える間も与えられない。ベリアルと視線が合う。彼女は黒き翼を広げ、足に力を込める。次の一撃が猛烈なものになるのは明らかだ。こんな距離からは反則だろう。
だが、この魔法は単発ではない。持続するものだ。
降り注ぐ雪がベリアルに触れると、彼女から熱量が奪われ始める。黒炎に包まれた衣装の部分は平気だが、手や足、顔といった部分から凍結が進む。実際、地面に凍りついた足はもう動かない。
「Let it go, let it go~ Can't hold it back anymore~」
私の氷でできた分身たちがスキーを駆り、彼女を包囲する。
歌声が冷たく澄んだ空気に響き渡る。スキー板が氷の斜面を捉え、速度が急上昇する。旋回。板が鋭く軋み、ダイヤモンドダストの軌跡を描く。背後に回り込み、氷面を蹴る。砕けた氷の破片が雪煙となって舞い上がり、ベリアルを飲み込む雪の奔流となる。
「何を!」
彼女は雪の塊に覆われ、表面がみるみる氷結する。数十センチの氷層が衣装の上に形成されるが、一秒も経たず内側からうなる音が響く。ガラスが割れるような音と共に氷の殻が四方に飛散する。この程度ではダメか。雪煙の中から現れたベリアル本体には、ほとんどダメージがないらしい。
「Let it go, let it go~ Turn away and slam the door~」
今度は分身たちが斜面を駆け下りる。氷結した炎の彫刻の間を巧みに滑走し、ベリアルの周囲を円を描くように回り始めた。
「えい、歌うな!うるさいデース! Hellbrand Sweep(ヘルブランド・スウィープ)!」
ベリアルがデスサイズを一振りし、雪を払いのける。だがこれは予測の範囲内だ。分身たちはスキー板で氷面を蹴り、空中へ飛び立つ。空中半回転。背後から新たな雪雲が発生し、魔法で生み出された真っ白な雪が重力に逆らってベリアルへと流れ込む。
しかしベリアルは六枚の黒翼で雪の流れを斬り裂く。翼は確かに雪を分断した。
「I don't care what they're going to say~」
歌声が次第に力強くなる。スキーでの滑走はますます速く、より大胆になる。巨大な氷の炎の彫刻の頂点からジャンプし、空中で三回転。その軌跡には虹色に輝く氷の結晶が残る。
「Let the storm rage on~ The cold never bothered me anyway~」
着地の衝撃で巨大な雪の波が起こり、氷河のようにベリアルと分身たちを飲み込んでいく。氷結世界は完全な静寂に戻った。降り積もる雪の音だけが、新たな氷河期のリズムを刻み続ける。
これで終わっていればどんなによかったか。雪崩でできた小さな雪山が、内側から燃え上がった。白い蒸気が立ち上り、空中で凍りついて落ち、また蒸発する。雪の中から現れた赤髪が鮮やかで、早春の紅梅のようにこの世界に温もりを取り戻そうとしている。
「道化師の才能はあるデースね。分身でベルが倒せると本気で思ったデースか。舐められたものデース」
ベリアルが深く息を吸い込む。何かが来る――直感が告げる。
「……灰に帰れデース」
囁くような声が、衣装の襟元から零れ落ちる。
そして彼女はデスサイズを握り締めた。身長より高いその武器が、全重量、全存在をかけて振り上げられる。
一瞬、すべての音が遠のく。雪の音、氷の軋み、遠くの黒炎の轟き――すべてが深い井戸の底へ沈むように消える。
デスサイズが頂点に達した時、少女の赤髪が逆立ち、炎のように激しく舞う。衣装は黒炎そのものとなり、全身から光――否、光の欠如が迸る。
振り下ろし。
言葉にできない衝撃が世界を襲う。音ではなく静寂の爆発。光ではなく闇の閃光。
地面から最初の黒炎が噴き上がる。氷結した溶岩の川は一瞬で灰と化し、氷は溶ける間もなく気化して黒煙となる。しかしその煙さえも黒炎に飲み込まれ、炎の一部となってゆく。
次に空から再び炎が降り注ぐ。今度は黒炎の滴だ。氷の大地に触れるたび穴を穿ち、燃え広がる。青白かった世界は急速に黒と闇で塗りつぶされてゆく。
「Dark Funeral Eclipse(ダーク・フューネラル・エクリプス)!」
強すぎる。一撃でこれか。弱点とかないのか?アスロットの時のような逆転の一手は?
ガーン、鈍い音。巨大なデスサイズが、私の作り出した球体の氷盾に食い込んだ。
「毛・玉・君、あ・そ・ぼ・う」
これほどまでに嬉しくない遊びの誘いも初めてだ。氷盾にも黒炎が燃え移り、今まさに食べられようとする牡蠣の気持ちがわかるような気がする。きれいに食べられる前に、撤退だ。
指を鳴らして空間転移を発動する。しかし猟犬は獲物を逃さない。転移先を変えようとも、彼女は一秒たりとも遅れず追いつき、デスサイズで狩ろうとしてくる。これはまずいかもしれない。だが、これで世界中に分散していた私の魔力がすべて元に戻った。
さあ、魔力の精霊よ――真の力を示す時が来た。
*
「風……?」
ベリアルが異様を感じたのはその時だった。
炎の先が揺らぎ、地面の塵がふわりと舞い上がる。頬を撫でるその感触は、季節の変わり目に吹く、どこにでもある優しい風と変わらない。誰もがそれを脅威だとは思わなかっただろう。
だが――
空気が、わずかに重くなる。
風は止まらない。止まらないまま、速度だけを増していく。
彼女の黒いローブが激しくはためき、赤い髪が引きちぎられるように乱れる。呼吸が浅くなり、胸に重い圧がかかる。音が低く唸りはじめた。
もはやそよ風ではない。嵐の前触れだ。
地面の小石が転がり、次いで跳ねる。まだ溶けきらぬ雪が舞い、肌を鋭く叩く。痛みが生まれ、風はもはや「触感」ではなくなっていく。
――切れる。
そう感じた瞬間、地面に立つ氷柱が折れ、岩肌が白く削がれた。
風速は、徐々に自然の理を超えている。
「なにをしやがるデース!」爆風はもう彼女の声すら遠くへ押し流していく。でも私はわかる。この風もまた、私の一部なのだから。
風は火や雷のように派手な破壊力がないと思われがちだ。だが実際、風圧の殺傷力は凄まじい。音速は340 m/s――もし風がその速度で吹くなら、どうなるか?
鉄筋コンクリートの建造物は、風圧だけで粉砕され、基礎から引き抜かれて粉々になるだろう。岩盤や山肌は、砂紙で削られるように侵食される。人間なら、風を感じる以前にその圧力で躯体が崩壊する。
そして今、この焦熱地獄に吹き荒れる風は──
音速を越えていた。
「Inferno Requiem(インフェルノ・レクイエム)」
おいおいおい、まだ技を繰り出せるのか? 今の風速は1000m/sを超えている。体表面全体に60トン/㎡以上の圧力がかかり、生体組織の強度など無意味で、細胞レベルで破裂するというのに。しかもその斬撃はこれまでと違い、私の風を喰らいながら威力を増していく。そうか…風を「栄養」とするタイプの技か。ずるいな。
空間転移で次々と襲いかかる斬撃をかわし続け、私はさらに風の規模と速度を上げた。
やがて雲が渦を巻き始める。嵐の雲ではない。大陸ひとつ分の円環が、天蓋そのものに刻まれている。渦は止まらない。回転が増す。雲の帯が幾重にも重なり、白、灰、赤錆色の層が空を削り取っていく。
空が落ちてくる。大気が圧縮され、厚みを持った「層」として地表へ降りる。雲が地面を擦り、山脈の稜線が雲の下に飲み込まれる。音は、もう存在しない。あるのは視界を埋め尽くす回転と、それに伴う遅れた衝撃だけだ。
マッハを超えた風が、渦の外縁を走る。空の表面が剥がれていく。衝撃波が何重にも折り重なり、巨大な円環となって世界を削る。雲は蒸発し、光は歪み、時間さえわずかに遅れる。
風速、5000 m/s。それは一方向の破壊ではない。惑星の表皮を均等に磨き上げる運動。世界に刻まれた一つの円――巨大な傷痕だ。
気圧は150まで上がり、単位面積あたり約1,500トンの力を受けることになる。さすがのベリアルも、もはや風圧に押さえ込まれ、デスサイズを振るうことさえできない。さらに手足が風圧に圧迫され、明らかに不自然な方向へと折れ曲がっていく。断熱圧縮による超高温が彼女を溶かし始める。
暴食によって何でも喰らい尽くす無尽蔵の胃袋を持っていても、進食の速度には限界がある。この惑星レベルの風を一瞬で飲み込まない限り、風は無限に湧き出し続ける。私がいる限り、それはさらに速く、さらに大きく増幅していく。
これで終わりだ。風の衝撃波がベリアルの体表面の細胞をプラズマ化させ、骨格や組織の分子結合を断ち切る。有機物は炭素と水蒸気に分解され、プラズマ化した原子が輝くガスとして拡散した。
ベリアルを倒した。疲れた…魔力こそ消耗しないものの、あれだけの魔力を制御するのは精神的にこたえる。力任せの戦い方は、私に向いていないな。
風がやみ、私はベリアルの再生を待ち、勝利の証として彼女のコインを受け取ろうとした。だが、何かが違う。違和感が胸をよぎる。
一つの黒い炎が灯った。
虚空に浮かび、ゆっくりと脈打ち始める。炎は次第に膨らみ、うねり、人間ほどの大きさの黒炎の塊となる。音は立てず、光も放たない。ただ周囲の光景を歪ませ、吸い込んでいく。
炎の中から、輪郭が浮かび上がる。女性の体型をなぞりながらも、全身の皮膚から黒い炎が逆立ち燃え上がっている。衣装はなく、炎そのものが彼女の肉体を形作る外殻だ。
顔には、目も鼻もない。あるのは、顔面の下半分を縦に裂く巨大な一つの口だけ。口唇は黒炎で縁取られ、その奥は深淵のように暗い。口がゆっくりと開く──中には、鋭くギザギザに並んだ無数の牙が、幾重にも環状に生え揃っている。
炎の中で、唯一の色が浮かぶ。逆立ち燃える赤髪だ。炎よりも鮮烈な赤が、黒い炎塊の中に不気味に揺らめく。
彼女の身体が完結すると、口がさらに大きく開く。喉の奥から、地を揺るがすような遠吠えが迸る。
「ァ゛ァ゛ァ゛──ッ!!」
それは獣の咆哮でも、悪魔の叫びでもなく、飢えそのものが発する音だった。
黒炎の腕が伸び、デスサイズを握りしめる。鎌の刃もまた黒炎に包まれ、柄を握る彼女の手からは、炎が滴り落ちるように零れる。
もはや地獄の化け物。そこに理性は感じられず、本能だけで動く怪物と化している。
「だから私は嫌いなんだよな…第二形態や第三形態があるボスキャラって。萎えるわ…」
依頼期限まで、残り5日。
アキレウスの踵、ジークフリートの背中、バルドルのヤドリギ。
だから情報が命だ。どれだけ相手の情報を掴み、どれだけ相手に情報を握られないかが勝負の要となる。どんな強力なボスキャラでも、その技と攻撃パターンが知られてしまえば、後はただの作業に過ぎない。それがゲームの中で、プレイヤーのステータスがボスよりも明らかに低くても勝利できる理由でもある。
私もこうして勝ち続けてきたからこそ、自分が同じ手でやられることを何より恐れている。
バトル漫画で「なぜ両者は最初から全力で必殺技をぶつけないのか」と突っ込まれることはよくあるが、私にはそれが理解できる。
必殺技は必ず相手を倒すからこそ必殺技である。だが、多く世に披露すれば、その技の弱点を見破られ、攻略されるリスクを背負うことになる。つまり、必殺技に頼りすぎず、普通の相手は普通の技で倒す。必殺技はいざという時だけ使うべきものだ。
そして今こそ、その時である。
*
「マオウさん…」
セリナは別れを惜しんでいる。だが、ベリアルとの戦いが白熱化した場合、彼女たちはベリアルにではなく、私の力によって巻き添えを食らいかねない。
「三日以内に決着をつける。それ以上かかるなら、私は死んだと考えてくれ。ヴェネゴールに言っておけ。モリアが君たちを未来の世界へ送ってくれるだろう」
幾度もの転移を繰り返し、最終的に無限地獄のヴェネゴールの部屋に彼女たちを預けた。彼女たちとヴェネゴールは仲が良いし、ここはこれまで通ってきた地獄の中で最も安全な場所だ。
「どうしても……俺たちを置いていくのか? そんなに俺たち、頼りにならないってのか? 今までだって、みんなで勝ってきたじゃないか!」
レンは悔しそうに拳を握った。確かに彼女たちは私を助けるために、わざわざ千年後の未来からやってきてくれた。ここまで地獄を速く攻略できたのも、彼女たちのおかげだ。だが、今回は違う。ベリアルは別格なのだ。
「かつての神魔大戦で、天界は四大天使を戦場に送り込んだ。激戦の末、ザベルトがラファエルを、アスモデウスがガブリエルを、そしてベリアルはミカエルを倒している。その意味、わかるか?」
「俺はザベルトを倒したし、エンプラもアスモデウスと互角に戦った。なら今回だって――」
「ラファエルは癒しの天使、ガブリエルは伝令の天使だ。どちらも戦闘を専門としていない。だがミカエルは天軍の軍団長、戦争のプロフェッショナルだ。そのミカエルに勝ったベリアルは別格なのだ。はっきり言っておく――間違いなく死ぬ。重傷で済むなどという甘い考えは捨てろ」
前回の手合わせでわかった。今までのやり方では、彼女に勝てない。
「でも、ドクターは行くでありますね」
「兄貴、うちを置いて先に逝かないで( ノД`)シクシク…」
「勝手に殺されるな。大丈夫だ」
精神的にまだ未熟なロボとぬいぐるみをなだめながら、私は言った。
「私、こう見えても、結構強いから」
さあ、力比べをしようじゃないか。
姑息な手を使わず、正面から――毛玉がどこまで戦えるか、見せてやる。
*
まだ幾度かの転移を経て、私は焦熱地獄へと戻っていた。これから始まる死闘を予約した黒ずきんの少女は、待ちくたびれて頭をかき始めていたが、私の姿を認めた瞬間、その雰囲気が一変した。獲物を逃さぬ猟犬のように、鋭く狙いを定める。ギリシャ神話の三つ頭の番犬ケルベロスもかくやと思わせる威圧感だ。
「ふん~、逃げたわけじゃないデースね。あの言葉は、生き延びるための方便かと思ったデース」
「そんな姑息な男を、君の姉さんが惚れるわけないだろう」
「姉さんに弱い男も要らないデース。小細工でここまで来たが、そんなものはベルには通じない。さあ、ベルにお前の力を示せ。ただの弱虫なら、喰らい尽くすまでデース」
彼女の体よりも大きなデスサイズが軽々と振られる。死の気配が周囲に満ち、その刃先がどれほどの魂を刈り取ってきたか想像するのも恐ろしい。私は決して彼女の仲間にはなれない――そのことを肝に銘じておかねば。
次の瞬きの間にも、刃の先は私の喉元に迫っていた。速い。レン以上の速さだ。魔法使いは近接戦を苦手とする――その弱点を衝き、最初から間合いを詰めてきたのだ。だが、私に策がないとでも?
デスサイズが私の首を斬り落とす直前、私の反撃魔法が先に発動した。
青白い光が焦熱地獄全体を覆い尽くす。さっきまで荒れ狂っていた炎のオレンジや赤は過去のものとなり、光さえも凍りついてゆく。炎はその形のまま巨大な氷の彫刻となり、空中に静止した。
肌を焼く灼熱は、一瞬にして針のように鋭い冷気へと変わった。吐く息は白く輝き、空中で小さな氷晶となって舞い落ちる。溶岩の川は黒曜石のような氷の帯となり、表面には霜の花が咲き乱れた。
空からは、炎の代わりに雪が降り始める。
「どうだい?歴史上いかなる氷河期よりも厳しい極寒の世界だ。燃え続けてきたこの地獄に、少しばかりの涼しさを届けてあげよう」
すべてを凍りつかせる絶対零度の環境の中、ベリアルも例外ではなかった。全身が固く凍りつき、純白の霜が黒い衣装に映える。普通ならこれで決着だが、相手はベリアル。この状態が長く続くはずもない。せいぜい――
「Necrobrand Crescent(ネクロブランド・クレセント)!」
凍りついた彫刻が動き出す。表面の氷が割れ、黒衣から黒炎が噴き上がる。デスサイズが黒き牙となって再び襲いかかるが、残念ながらそこにいたのは私の氷像だ。
氷像が砕け、中に封じられた寒気が解放される。温度を求めて黒炎をまとうベリアルに殺到し、彼女の表面の液体をすべて固体に変えようとする。しかし彼女は慌てず、深く息を吸い込んで寒気をことごとく飲み込んだ。
まさか――酸素さえ凍らせるあの冷気を?
「でかい口を割く割に臆病な野郎デース。空間転移で距離を取ったデースか。だがベルから逃げられると思うなデース」
迷いなく、彼女は私のいる方向へ走り出す。どうやって?この吹雪の中では視界は利かず、絶対零度の世界では嗅覚も意味をなさない。だとすれば――まさか。
胸に手を当てる。呼吸の音、鼓動の音。この死者の世界で生きているのはベリアルと私だけ。それだけで位置が特定できるというのか?
「見つけたデース!」
考える間も与えられない。ベリアルと視線が合う。彼女は黒き翼を広げ、足に力を込める。次の一撃が猛烈なものになるのは明らかだ。こんな距離からは反則だろう。
だが、この魔法は単発ではない。持続するものだ。
降り注ぐ雪がベリアルに触れると、彼女から熱量が奪われ始める。黒炎に包まれた衣装の部分は平気だが、手や足、顔といった部分から凍結が進む。実際、地面に凍りついた足はもう動かない。
「Let it go, let it go~ Can't hold it back anymore~」
私の氷でできた分身たちがスキーを駆り、彼女を包囲する。
歌声が冷たく澄んだ空気に響き渡る。スキー板が氷の斜面を捉え、速度が急上昇する。旋回。板が鋭く軋み、ダイヤモンドダストの軌跡を描く。背後に回り込み、氷面を蹴る。砕けた氷の破片が雪煙となって舞い上がり、ベリアルを飲み込む雪の奔流となる。
「何を!」
彼女は雪の塊に覆われ、表面がみるみる氷結する。数十センチの氷層が衣装の上に形成されるが、一秒も経たず内側からうなる音が響く。ガラスが割れるような音と共に氷の殻が四方に飛散する。この程度ではダメか。雪煙の中から現れたベリアル本体には、ほとんどダメージがないらしい。
「Let it go, let it go~ Turn away and slam the door~」
今度は分身たちが斜面を駆け下りる。氷結した炎の彫刻の間を巧みに滑走し、ベリアルの周囲を円を描くように回り始めた。
「えい、歌うな!うるさいデース! Hellbrand Sweep(ヘルブランド・スウィープ)!」
ベリアルがデスサイズを一振りし、雪を払いのける。だがこれは予測の範囲内だ。分身たちはスキー板で氷面を蹴り、空中へ飛び立つ。空中半回転。背後から新たな雪雲が発生し、魔法で生み出された真っ白な雪が重力に逆らってベリアルへと流れ込む。
しかしベリアルは六枚の黒翼で雪の流れを斬り裂く。翼は確かに雪を分断した。
「I don't care what they're going to say~」
歌声が次第に力強くなる。スキーでの滑走はますます速く、より大胆になる。巨大な氷の炎の彫刻の頂点からジャンプし、空中で三回転。その軌跡には虹色に輝く氷の結晶が残る。
「Let the storm rage on~ The cold never bothered me anyway~」
着地の衝撃で巨大な雪の波が起こり、氷河のようにベリアルと分身たちを飲み込んでいく。氷結世界は完全な静寂に戻った。降り積もる雪の音だけが、新たな氷河期のリズムを刻み続ける。
これで終わっていればどんなによかったか。雪崩でできた小さな雪山が、内側から燃え上がった。白い蒸気が立ち上り、空中で凍りついて落ち、また蒸発する。雪の中から現れた赤髪が鮮やかで、早春の紅梅のようにこの世界に温もりを取り戻そうとしている。
「道化師の才能はあるデースね。分身でベルが倒せると本気で思ったデースか。舐められたものデース」
ベリアルが深く息を吸い込む。何かが来る――直感が告げる。
「……灰に帰れデース」
囁くような声が、衣装の襟元から零れ落ちる。
そして彼女はデスサイズを握り締めた。身長より高いその武器が、全重量、全存在をかけて振り上げられる。
一瞬、すべての音が遠のく。雪の音、氷の軋み、遠くの黒炎の轟き――すべてが深い井戸の底へ沈むように消える。
デスサイズが頂点に達した時、少女の赤髪が逆立ち、炎のように激しく舞う。衣装は黒炎そのものとなり、全身から光――否、光の欠如が迸る。
振り下ろし。
言葉にできない衝撃が世界を襲う。音ではなく静寂の爆発。光ではなく闇の閃光。
地面から最初の黒炎が噴き上がる。氷結した溶岩の川は一瞬で灰と化し、氷は溶ける間もなく気化して黒煙となる。しかしその煙さえも黒炎に飲み込まれ、炎の一部となってゆく。
次に空から再び炎が降り注ぐ。今度は黒炎の滴だ。氷の大地に触れるたび穴を穿ち、燃え広がる。青白かった世界は急速に黒と闇で塗りつぶされてゆく。
「Dark Funeral Eclipse(ダーク・フューネラル・エクリプス)!」
強すぎる。一撃でこれか。弱点とかないのか?アスロットの時のような逆転の一手は?
ガーン、鈍い音。巨大なデスサイズが、私の作り出した球体の氷盾に食い込んだ。
「毛・玉・君、あ・そ・ぼ・う」
これほどまでに嬉しくない遊びの誘いも初めてだ。氷盾にも黒炎が燃え移り、今まさに食べられようとする牡蠣の気持ちがわかるような気がする。きれいに食べられる前に、撤退だ。
指を鳴らして空間転移を発動する。しかし猟犬は獲物を逃さない。転移先を変えようとも、彼女は一秒たりとも遅れず追いつき、デスサイズで狩ろうとしてくる。これはまずいかもしれない。だが、これで世界中に分散していた私の魔力がすべて元に戻った。
さあ、魔力の精霊よ――真の力を示す時が来た。
*
「風……?」
ベリアルが異様を感じたのはその時だった。
炎の先が揺らぎ、地面の塵がふわりと舞い上がる。頬を撫でるその感触は、季節の変わり目に吹く、どこにでもある優しい風と変わらない。誰もがそれを脅威だとは思わなかっただろう。
だが――
空気が、わずかに重くなる。
風は止まらない。止まらないまま、速度だけを増していく。
彼女の黒いローブが激しくはためき、赤い髪が引きちぎられるように乱れる。呼吸が浅くなり、胸に重い圧がかかる。音が低く唸りはじめた。
もはやそよ風ではない。嵐の前触れだ。
地面の小石が転がり、次いで跳ねる。まだ溶けきらぬ雪が舞い、肌を鋭く叩く。痛みが生まれ、風はもはや「触感」ではなくなっていく。
――切れる。
そう感じた瞬間、地面に立つ氷柱が折れ、岩肌が白く削がれた。
風速は、徐々に自然の理を超えている。
「なにをしやがるデース!」爆風はもう彼女の声すら遠くへ押し流していく。でも私はわかる。この風もまた、私の一部なのだから。
風は火や雷のように派手な破壊力がないと思われがちだ。だが実際、風圧の殺傷力は凄まじい。音速は340 m/s――もし風がその速度で吹くなら、どうなるか?
鉄筋コンクリートの建造物は、風圧だけで粉砕され、基礎から引き抜かれて粉々になるだろう。岩盤や山肌は、砂紙で削られるように侵食される。人間なら、風を感じる以前にその圧力で躯体が崩壊する。
そして今、この焦熱地獄に吹き荒れる風は──
音速を越えていた。
「Inferno Requiem(インフェルノ・レクイエム)」
おいおいおい、まだ技を繰り出せるのか? 今の風速は1000m/sを超えている。体表面全体に60トン/㎡以上の圧力がかかり、生体組織の強度など無意味で、細胞レベルで破裂するというのに。しかもその斬撃はこれまでと違い、私の風を喰らいながら威力を増していく。そうか…風を「栄養」とするタイプの技か。ずるいな。
空間転移で次々と襲いかかる斬撃をかわし続け、私はさらに風の規模と速度を上げた。
やがて雲が渦を巻き始める。嵐の雲ではない。大陸ひとつ分の円環が、天蓋そのものに刻まれている。渦は止まらない。回転が増す。雲の帯が幾重にも重なり、白、灰、赤錆色の層が空を削り取っていく。
空が落ちてくる。大気が圧縮され、厚みを持った「層」として地表へ降りる。雲が地面を擦り、山脈の稜線が雲の下に飲み込まれる。音は、もう存在しない。あるのは視界を埋め尽くす回転と、それに伴う遅れた衝撃だけだ。
マッハを超えた風が、渦の外縁を走る。空の表面が剥がれていく。衝撃波が何重にも折り重なり、巨大な円環となって世界を削る。雲は蒸発し、光は歪み、時間さえわずかに遅れる。
風速、5000 m/s。それは一方向の破壊ではない。惑星の表皮を均等に磨き上げる運動。世界に刻まれた一つの円――巨大な傷痕だ。
気圧は150まで上がり、単位面積あたり約1,500トンの力を受けることになる。さすがのベリアルも、もはや風圧に押さえ込まれ、デスサイズを振るうことさえできない。さらに手足が風圧に圧迫され、明らかに不自然な方向へと折れ曲がっていく。断熱圧縮による超高温が彼女を溶かし始める。
暴食によって何でも喰らい尽くす無尽蔵の胃袋を持っていても、進食の速度には限界がある。この惑星レベルの風を一瞬で飲み込まない限り、風は無限に湧き出し続ける。私がいる限り、それはさらに速く、さらに大きく増幅していく。
これで終わりだ。風の衝撃波がベリアルの体表面の細胞をプラズマ化させ、骨格や組織の分子結合を断ち切る。有機物は炭素と水蒸気に分解され、プラズマ化した原子が輝くガスとして拡散した。
ベリアルを倒した。疲れた…魔力こそ消耗しないものの、あれだけの魔力を制御するのは精神的にこたえる。力任せの戦い方は、私に向いていないな。
風がやみ、私はベリアルの再生を待ち、勝利の証として彼女のコインを受け取ろうとした。だが、何かが違う。違和感が胸をよぎる。
一つの黒い炎が灯った。
虚空に浮かび、ゆっくりと脈打ち始める。炎は次第に膨らみ、うねり、人間ほどの大きさの黒炎の塊となる。音は立てず、光も放たない。ただ周囲の光景を歪ませ、吸い込んでいく。
炎の中から、輪郭が浮かび上がる。女性の体型をなぞりながらも、全身の皮膚から黒い炎が逆立ち燃え上がっている。衣装はなく、炎そのものが彼女の肉体を形作る外殻だ。
顔には、目も鼻もない。あるのは、顔面の下半分を縦に裂く巨大な一つの口だけ。口唇は黒炎で縁取られ、その奥は深淵のように暗い。口がゆっくりと開く──中には、鋭くギザギザに並んだ無数の牙が、幾重にも環状に生え揃っている。
炎の中で、唯一の色が浮かぶ。逆立ち燃える赤髪だ。炎よりも鮮烈な赤が、黒い炎塊の中に不気味に揺らめく。
彼女の身体が完結すると、口がさらに大きく開く。喉の奥から、地を揺るがすような遠吠えが迸る。
「ァ゛ァ゛ァ゛──ッ!!」
それは獣の咆哮でも、悪魔の叫びでもなく、飢えそのものが発する音だった。
黒炎の腕が伸び、デスサイズを握りしめる。鎌の刃もまた黒炎に包まれ、柄を握る彼女の手からは、炎が滴り落ちるように零れる。
もはや地獄の化け物。そこに理性は感じられず、本能だけで動く怪物と化している。
「だから私は嫌いなんだよな…第二形態や第三形態があるボスキャラって。萎えるわ…」
依頼期限まで、残り5日。
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