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第九章:魔王とは何か、王が王になる前の話――千年前の地獄と九つの罪
第179話:星は落ちるために輝く、完成された神の不完全な心
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世界最初の天使、明けの明星、全能にして最強――
それら全てを一つに凝縮したものが、
ルキエル
その名で完結してしまう。
ミカエルも、ガブリエルも、ラファエルも、僕の劣化にすぎない。
その他大勢の天使も、ただこの世界を埋めるための量産品。
彼らは僕を恐れ、嫉妬し、関わらないようにしている。
だがそれは、彼らが未完成の存在故の僻み。僕にとってどうでもいいことだ。
ある日、ザフキエルが堕天した。
『悪魔』という概念を作り、天界の三分の一の天使を連れ、天界に抗おうとした。
神の祝福を失い、『エル』の名を失った彼は、今は『パイモン』として存在している。
ひらひらした女の服を着て、忌々しい。だから僕は『女』という概念が嫌いだ。
だが、あいつだけとは決着がつかなかった。
本気で戦えば僕の勝利は確実なのに、『全知』の力を持つパイモンは正面からの戦いを避け、あちこち逃げ回った。
むかつく。
神魔大戦が終わり、平和条約が結ばれ、天使と悪魔の戦いは終わった。
でも僕は納得できない。あの女々しい奴に完全勝利する前に、僕はその裁定を認めない。
こうして、僕は一人で地獄へ来た――パイモンを倒すために。
彼を追いかけている途中、僕は変な毛玉に出会った。
いかにも弱そうなのに、僕の討伐数より上だと言う。
あんな雑魚どもをいくら倒そうが、僕にとってどうでもいい話だけど、その数字で僕より上だと勘違いするのがむかつく。決め手に、僕に勝つという夢物語を口にした。イラッときた。その毛玉を殺した。やっぱり弱いじゃないか。
でも、それだけではこの不快が収まらなかった。
毛玉を生き返らせ、実力の差を知って己の愚かさに気づく姿が見たかった。
だけど、毛玉は折れなかった。
僕の前で全然怯まなかった。
仲間が殺され、その体は悲しみに震えた。だけど壊れなかった、狂わなかった、怯えなかった。
そんな奴は初めて見た。
全能の力で、こいつを強引に屈服させることもできる。
だが、それじゃ意味がない。僕の格が下がるだけだ。
そんな虚しい勝利は、いらない。
*
僕は毛玉と約束を交わした。彼が三日後にパイモンと決着をつけたあと、僕と一騎打ちをするというものだ。正直あんまり期待していないが、いい暇つぶしになるとは思った。僕が負けることなどあり得ない。だけど逃げられるのは興が冷める。まだパイモンを探すようなくだらない時間を浪費したくはない。だから毛玉と同行することにした。
今日の毛玉は仲間たちと何かの会議をしていた。「リバエル」という単語が聞こえたが、興味はなかった。ただ僕より下の存在。どんな姿をしていたかさえ、とっくに忘れた。
だけど――
「つまらん」
三日がそんなに長いものだったか?今まではタイムラインなど気にせず過ごしてきたから何も感じなかったが、明確な時間を提示されたせいで、それを待つことが苦痛に感じられる。それに、この僕よりリバエルやパイモン如きを優先するのもむかつく。
「ね、僕の相手をして」
毛玉が困った顔をした。ちょっと可愛いかも?
「タイムリミットまであと二日しかありません。なのに私たちはリバエルを倒すどころか、彼を見つけることすらできていない。残念ですが、今は相手をしている余裕が…」
「そんなの知らない。僕はお願いじゃなく命令しているんだ。立場を弁えろ」
毛玉は諦めたようにため息をつき、僕の隣に座った。ナチュラルすぎないか?毛玉如きが僕と同じ高みに座れると思ったか。でもそれと同時に、僕の近くまで入ってくる者に対して、ちょっとした嬉しさもあった。こいつ、僕にあれだけ殺されて、まだ怖くないのか?
「それで、君はなにがしたい」
「それはお前が考えることだ。僕は楽しむ側だから。それに、ルキエル様には敬語を使いなさい」
「はいはい。ではルキエル様、クジラ釣りはいかがでしょうか。全長千メートルを超えたクジラを釣り上げたら、きっと楽しいでしょうね」
クジラ?確かリバエルもそんな姿だった気がする。僕を都合よく使うつもりじゃないか?それに釣りでじっと座って待つだけなら、今と何も変わらない気がする。
「ダメだ。他のものを考えろ」
「あの…ここは海以外何もない阿鼻地獄です。娯楽と呼べるものは何もありません」
「知らない。どうにかして」
「では、異世界の話に興味はありますか、ルキエル様」
「へえ~異世界の?どんな話だ」
この世界とは違う他の世界も存在する。僕のような超越者はその間を自由に往復できるが、僕は一度も行ったことがない。ルキエルは神の秩序の守護者だ。神魔大戦で、ラファエルは負けた、ガブリエルは負けた、ミカエルも負けた。だけどルキエルがいる。だから天界は決して負けない。これが世界のルールだ。神が僕に課した使命。
でも、僕の心のどこかで、他の世界に憧れていたかもしれない。
「異世界の神は天使を作りました。その子は、神に創造された最も美しく賢い天使でした」
「ねえ、それ遠回しに僕のことを言ってないか?」
「違うぞ。その天使は君ほど幼くないし、どっちかというとハンサム系だ」
「なんだ、ガブリエル系か。いいよ、続けろ」
「彼は傲慢な天使でしたが、神の言葉だけにはちゃんと従おうとしていました。だけどある日、神は彼に一人の青年と合わせました。青年の名はアダム。世界で最初の人間です」
「ふん~召使いとしてその天使に仕えさせる話か?でも人間は下賤な存在だ。召し抱えるなら、せめて智天使(ケルビム)くらいの品格が欲しいところだ。まあ、異世界だからそこまで贅沢は言わないか」
「いいえ、逆です。神はその天使に、アダムに従えと命じたのです」
は?
「ふざけんな…」
僕は自分をその立場に置き換えて、苦い虫を噛み潰す思いがした。人間は翼すら持たない、最下階の天使よりも劣る存在だ。そんな奴の下で恥を晒すくらいなら、いっそ…
「彼はその命令を受け入れず、自分と同じ意見を持つ天使を率いて神に反旗を翻し、堕天しました。『エル』の名を失った彼の名は、『ルシファー』となりました」
「…バカな奴だ。神は我らの父だ。アダムが憎いなら奴を殺せばいい。神を裏切るなど、天使失格だ。僕ならそいつを撃ち、神の元へ連れて行くだけだ」
そう、神は絶対だ。神と敵に回す時点で、ルシファーに正義はない。なのに、僕はほんの一瞬だけ、彼と同じ考えを抱いたような気がする。
「戦争が始まり、ルシファーはミカエルに敗れました。天界から追放され、地獄に落とされました」
「ほら見ろ、神に刃向かうからこうなる。ミカエルに負けるという点は気になるが、所詮ルシファーはその程度の奴だ。僕なら…」
僕なら?まるで僕も神を裏切るような言い方ではないか。僕はそんなことはしない。僕は…
「『黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった』世間は、ルシファーは傲慢すぎて神に成り代わろうとしたから堕天したと思いましたが、私はそうは思いません。彼は寂しかったから堕天したのです」
「なにそれ」
「傲慢なルシファーは、神だけを愛し、神にだけ愛されていました。だから神が彼に『アダムに従え』と命じた時、下の者に尽くすことへの嫌悪感より、神に裏切られた悲しみの方が大きかったのでしょう。ほら、あるだろ?『僕が一番のはずなのに』そう信じて神に仕え、違うと気づいたから堕天したのです」
「それが何が悪い…」
だって、そうした神が悪いのだから。
「悪くないさ。彼にとって神しかいなかったのに、神にとってはルシファーだけではなかった。一番ですらなかった。ルシファーが下等と認識した人間よりも下だった。だから彼はグレた。悪い子になって、もっと神に構ってほしかった。だけど、そこまでしても、彼の前に神は来なかった。来たのはミカエル。その時、ルシファーは思ったでしょう。『神は僕を捨てた』と」
「黙れ!」
僕はルシファーじゃない。僕はルキエルだ。神に最も愛される明けの明星だ。なのに、僕の不安はぬぐえない。今、神に愛されているほど、その愛を失うことが怖くなる。だから、僕は神にとって有用であることを証明しようとしてきた。神は僕を捨てないよね…
「全能の君なら、モリアを見つけ出すのも、やりたいなら簡単にできるでしょう。でも君は迷っている。この地獄のことではなく、モリアを倒した後、君の居場所がどこにあるのかを迷っている。もう明けの明星の出る幕はない。神はそれでも君を愛し続けてくれるか、君は確信を持てない」
「…戯言だ。僕は完璧な存在だ。完成された僕に、他の者など必要ない。それはお前たち未完成なものだけの劣等性だ。不完全であるが故に、足りないものを他の者から補おうとする。だけど、僕は違う。たとえ神に愛されなくても…」
たとえ誰にも愛されなくても、僕はこの永遠の時を生きていける。だって、僕は最強だから。
「でも、他の者と世界を繋ぐのも楽しいよ。それは私はこの一か月で学んだ。私は君と同じく、モリアがいれば大丈夫、他は何もいらないと思っていた。だけど、この旅で、私は満たされた。この殺風景な地獄も輝いて見えた。それに、こんなものまで出会えた」
毛玉は荷物から一枚の絵を取り出した。そこには、金髪の少年の天使が空から落ち、翼がだんだんと黒くなっていく絵が描かれている。翼は十二枚。…僕?
「いや、結構苦労してバラムからこの絵を買い取ったんだ。『堕ちた明星』。私はこの絵で君を知った。そして思った。この子を手に入れたいと」
胸がチクっとした。僕は何を期待していた?あれはただの毛玉だ。僕と到底釣り合わない。だけど、もし僕がその隣にいるなら、僕の世界も変わるだろうか。
「全然似ていない。僕の方が神々しい。それに、僕は堕天なんてしない。『エル』があるからこそのルキエルだ。僕はルシファーじゃない」
絵を見て、僕は感想を述べた。技量はそれなりにあるが、僕を絵で体現しようとする時点で、その考え方が傲慢である。
「そうだね。私も実物の君の方が好きだな」
僕が好き?身の程知らずが。でも、もし七十二柱の悪魔を全部倒したら、まあ、僕の召使いとして側に置いてもいいくらいだ。
「どうせ、僕の全能の力が欲しいんだろう。残念だけど、僕は便利な道具になるつもりはない。命令されるのも大嫌いだ。予想が外れたな」
「じゃあ、三日後、私が君に勝ったら、私が全能の力じゃなく、君だけが欲しいと証明してやろう」
「いいだろう。どうせお前じゃ僕には勝てないけど」
でも、ちょっとだけ勝ってほしいという僕もいる。まあ、こいつが負けた時、僕がこいつをもらえばいいだけだ。問題ないか。
*
「あの…セリナたちもいるんですけど…」
外野のメイドの人間が手を上げて発言した。空気が読めないか。これだから女は。
「すまない、ルキエル様と話し込んでいると周囲が忘れた」
「ルーでいい。それは神にだけ許された僕の真名だ。特別に許してやる」
「わかった。ありがとう」
「素直すぎるだろ。なにを平然で男の子を口説いているんだ」
「口説く?私は普通に『ルーが欲しい』と言っただけだけど」
「そういえば、あんたはそういう奴だった。この天然ジゴロ、男たらし!」
銀髪の人間がうるさい。男同士の関係こそ、神が定められた正しい関係だ。(※これはルキエルだけの意見)
「なんだかわからないが、吾輩はなぜかドキドキするであります」
「分かります!うちもただの壁になりたいのです。いいなあ、耽美な世界、ぐへへ」
バカどもを無視して、僕は海面へと歩き出した。
「お前たち、確かリバエルを探しているんだろう?僕ならすぐに見つけられるよ」
*
僕は、静かな海の上に立っていた。足下では、僕の光を浴びた波が、ため息のように砕けている。
右手を軽く差し伸べると、虚空が微かに震えた。この世界の「理」そのものが紡がれ、集い、掌の中で形を成す。重みもなければ、装飾もない。ただ「必中」という概念が、弓という形をとっただけだ。神器アポロンは、僕の指に馴染むようにして現れた。弦は月の光で張られ、冴え冴えと冷たい感触がある。
僕はゆっくりと顔を上げた。頭上には、僕がかつて導いたはずの星々が、今も変わらず瞬いている。あの天の高みへ、かつて僕がいた場所へ――この思いは、ほんの一瞬、胸の奥を鈍くかすめた。
弓を構える。矢は必要ない。僕が「貫く」と望む意志そのものが、最も純粋な光の矢となる。弦に指をかけ、引く。張り詰めるのは僕の力ではなく、この世界の「因果」そのものだ。僕が標的を視た時点で、その結末は固定される。これが「必中」の意味。
よし。
「あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」
僕は、弓先を真上、天の頂点へと向けた。
狙いは、もう定まっている。
指を離す。
音はなかった。あるいは、世界全ての音が一瞬で吸い込まれたのかもしれない。
一条の光が、僕の指先から夜空へと逃げた。それは流星の逆行のように、まっすぐ、速く、そしてあまりに美しく天を昇っていく。
星々を縫い、雲を貫き、やがて僕の視界からさえも消え、夜空の一点に達した。
最高点。
そこで、光の矢は一瞬、ぴたりと静止した。
まるで天の頂点に、新しい、そして一番輝く星が生まれたようだ。
次の瞬間、その星は落ち始めた。
だが、落下ではない。最初から「そこ」へ向かっていたのだ。海面へまっすぐ、しかし軌道は弧を描き、まるで僕と標的を結ぶ巨大な天の弓の弦のように、見えざる曲線を描いて。
水は、その侵入を拒まなかった。光の矢は、海の闇を真っ二つに切り裂きながら進む。水圧も、深さも、暗黒も、全てが「通過」という結果の前には無意味だ。僕の「視界」は矢と共に降下し、深く、深く、そして――
そこにいた。
漆黒の水の底で、山のような巨体を持つ者。その厚い皮膚、分厚い脂肪、そして強靭な筋肉の層。
光の矢は、ためらいなく、その全てを貫いた。
ズドン、という鈍い、重たい衝撃が、水そのものを伝わって、僕の立つ海面まで震わせてくる。
僕は目を細めた。
矢は消えた。残されたのは、巨体の中央に開いた、光の通った後の真っ直ぐな穴。周囲の海水が一瞬白く沸き、そして赤く染まっていく。
苦痛と驚愕の波動が、深い水を通じて、ゆらりと伝わってきた。
これで死ぬわけがないだろう。仮にも王クラスの悪魔、傲慢の王を名乗っているのだから。
深い底で、苦悶の身悶えが始まった。鼓動は乱れ、速くなり、しかし確かにまだ強く打っている。
深い闇から、地響きのようなうなりが上がってきた。
それは最初、海底の火山が唸るような、低く重たい音だった。しかし瞬く間に大きくなり、海そのものがうなるような轟音へと変わる。傷ついた巨体が、苦痛と本能に突き動かされ、深淵の底から猛加速で浮上してくる音だ。
海面が突如、広大な範囲で膨れ上がった。
直径数百メートルにも及ぶ水面が、巨大なドームのように盛り上がり、周囲の海水が信じられない勢いで引いていく。波ではなく、海の地形そのものが変わってしまったかのようだ。
そして、その盛り上がりの頂点から、漆黒の山が現れた。
それは最早、生物とは思えないほどの巨体だった。傷ついた皮膚は暗礁のようにごつごつとし、ところどころに光の矢が貫いた真っ直ぐな穴が、ぽっかりと口を開けている。その傷穴からは、まだ油まじりの黒い血が噴き出すように流れ出し、周りの海水を不気味な赤褐色に染め広げていた。
巨体は勢いを失わず、なおも上昇する。
頭部、そして恐ろしく長い胴体が、次々と海面を破り、月光を浴びて現れる。水が滝のようにその体躯から奔り落ち、轟然と海を叩く音は、雷鳴の連続のようだ。その全容が現れるまでに、あまりに長い時間がかかる。千メートルに及ぶその体は、海上に現れた部分だけでも、小さな山脈のようであった。
最高点に達した時、その巨体は一瞬、空中に静止した。
無残に開いた傷口が、月明かりに照らし出される。深く穿たれた穴の内部には、暗く鈍く光る肉や、巨大な骨の断片すら見えた。潮吹き孔からは、血まじりの噴気が「フゴォォォォ――――!!!」という、天地を揺るがす絶叫と共に吹き上がる。それは苦痛の叫びであり、そして何よりも、自分を貫いた不可解な力への、畏怖と怒りに満ちた咆哮だった。
重力が、ようやくその巨体を捉える。
山のようなクジラは、ゆっくりと、そして確実に傾き始める。再び海へと戻るその軌道は、生き物というより、崩れ落ちる城塞のようだ。倒れ込む側面が風を切り、うなりをあげる。
そして、巨体が海面に叩きつけられる。
衝突の衝撃は想像を絶するものだった。海水が数百メートルの高さまで跳ね上がり、衝撃波が円形に海を伝わり、遠方で津波のようなうねりを起こした。水しぶきの雨が、何キロにもわたって降り注いだ。クジラが沈んだ地点には、巨大な渦が出来、血と泡で濁った海面は、やがて不気味な静寂と、広大な油膜に覆われていった。
僕は、ただ海の上に立ち、その光景を眺めていた。
毛玉やその仲間たちは、さっきから何か叫んでいるようだが、僕の耳には届かない。どうでもいいことだ。
「さて、後何発耐えられるかな」
僕は、もう一度弓を手に取った。
できれば、もっと頑張ってほしいな。でないと、僕の凄さがわからなくなってしまうじゃないか。
依頼期限まで、残り2日。
それら全てを一つに凝縮したものが、
ルキエル
その名で完結してしまう。
ミカエルも、ガブリエルも、ラファエルも、僕の劣化にすぎない。
その他大勢の天使も、ただこの世界を埋めるための量産品。
彼らは僕を恐れ、嫉妬し、関わらないようにしている。
だがそれは、彼らが未完成の存在故の僻み。僕にとってどうでもいいことだ。
ある日、ザフキエルが堕天した。
『悪魔』という概念を作り、天界の三分の一の天使を連れ、天界に抗おうとした。
神の祝福を失い、『エル』の名を失った彼は、今は『パイモン』として存在している。
ひらひらした女の服を着て、忌々しい。だから僕は『女』という概念が嫌いだ。
だが、あいつだけとは決着がつかなかった。
本気で戦えば僕の勝利は確実なのに、『全知』の力を持つパイモンは正面からの戦いを避け、あちこち逃げ回った。
むかつく。
神魔大戦が終わり、平和条約が結ばれ、天使と悪魔の戦いは終わった。
でも僕は納得できない。あの女々しい奴に完全勝利する前に、僕はその裁定を認めない。
こうして、僕は一人で地獄へ来た――パイモンを倒すために。
彼を追いかけている途中、僕は変な毛玉に出会った。
いかにも弱そうなのに、僕の討伐数より上だと言う。
あんな雑魚どもをいくら倒そうが、僕にとってどうでもいい話だけど、その数字で僕より上だと勘違いするのがむかつく。決め手に、僕に勝つという夢物語を口にした。イラッときた。その毛玉を殺した。やっぱり弱いじゃないか。
でも、それだけではこの不快が収まらなかった。
毛玉を生き返らせ、実力の差を知って己の愚かさに気づく姿が見たかった。
だけど、毛玉は折れなかった。
僕の前で全然怯まなかった。
仲間が殺され、その体は悲しみに震えた。だけど壊れなかった、狂わなかった、怯えなかった。
そんな奴は初めて見た。
全能の力で、こいつを強引に屈服させることもできる。
だが、それじゃ意味がない。僕の格が下がるだけだ。
そんな虚しい勝利は、いらない。
*
僕は毛玉と約束を交わした。彼が三日後にパイモンと決着をつけたあと、僕と一騎打ちをするというものだ。正直あんまり期待していないが、いい暇つぶしになるとは思った。僕が負けることなどあり得ない。だけど逃げられるのは興が冷める。まだパイモンを探すようなくだらない時間を浪費したくはない。だから毛玉と同行することにした。
今日の毛玉は仲間たちと何かの会議をしていた。「リバエル」という単語が聞こえたが、興味はなかった。ただ僕より下の存在。どんな姿をしていたかさえ、とっくに忘れた。
だけど――
「つまらん」
三日がそんなに長いものだったか?今まではタイムラインなど気にせず過ごしてきたから何も感じなかったが、明確な時間を提示されたせいで、それを待つことが苦痛に感じられる。それに、この僕よりリバエルやパイモン如きを優先するのもむかつく。
「ね、僕の相手をして」
毛玉が困った顔をした。ちょっと可愛いかも?
「タイムリミットまであと二日しかありません。なのに私たちはリバエルを倒すどころか、彼を見つけることすらできていない。残念ですが、今は相手をしている余裕が…」
「そんなの知らない。僕はお願いじゃなく命令しているんだ。立場を弁えろ」
毛玉は諦めたようにため息をつき、僕の隣に座った。ナチュラルすぎないか?毛玉如きが僕と同じ高みに座れると思ったか。でもそれと同時に、僕の近くまで入ってくる者に対して、ちょっとした嬉しさもあった。こいつ、僕にあれだけ殺されて、まだ怖くないのか?
「それで、君はなにがしたい」
「それはお前が考えることだ。僕は楽しむ側だから。それに、ルキエル様には敬語を使いなさい」
「はいはい。ではルキエル様、クジラ釣りはいかがでしょうか。全長千メートルを超えたクジラを釣り上げたら、きっと楽しいでしょうね」
クジラ?確かリバエルもそんな姿だった気がする。僕を都合よく使うつもりじゃないか?それに釣りでじっと座って待つだけなら、今と何も変わらない気がする。
「ダメだ。他のものを考えろ」
「あの…ここは海以外何もない阿鼻地獄です。娯楽と呼べるものは何もありません」
「知らない。どうにかして」
「では、異世界の話に興味はありますか、ルキエル様」
「へえ~異世界の?どんな話だ」
この世界とは違う他の世界も存在する。僕のような超越者はその間を自由に往復できるが、僕は一度も行ったことがない。ルキエルは神の秩序の守護者だ。神魔大戦で、ラファエルは負けた、ガブリエルは負けた、ミカエルも負けた。だけどルキエルがいる。だから天界は決して負けない。これが世界のルールだ。神が僕に課した使命。
でも、僕の心のどこかで、他の世界に憧れていたかもしれない。
「異世界の神は天使を作りました。その子は、神に創造された最も美しく賢い天使でした」
「ねえ、それ遠回しに僕のことを言ってないか?」
「違うぞ。その天使は君ほど幼くないし、どっちかというとハンサム系だ」
「なんだ、ガブリエル系か。いいよ、続けろ」
「彼は傲慢な天使でしたが、神の言葉だけにはちゃんと従おうとしていました。だけどある日、神は彼に一人の青年と合わせました。青年の名はアダム。世界で最初の人間です」
「ふん~召使いとしてその天使に仕えさせる話か?でも人間は下賤な存在だ。召し抱えるなら、せめて智天使(ケルビム)くらいの品格が欲しいところだ。まあ、異世界だからそこまで贅沢は言わないか」
「いいえ、逆です。神はその天使に、アダムに従えと命じたのです」
は?
「ふざけんな…」
僕は自分をその立場に置き換えて、苦い虫を噛み潰す思いがした。人間は翼すら持たない、最下階の天使よりも劣る存在だ。そんな奴の下で恥を晒すくらいなら、いっそ…
「彼はその命令を受け入れず、自分と同じ意見を持つ天使を率いて神に反旗を翻し、堕天しました。『エル』の名を失った彼の名は、『ルシファー』となりました」
「…バカな奴だ。神は我らの父だ。アダムが憎いなら奴を殺せばいい。神を裏切るなど、天使失格だ。僕ならそいつを撃ち、神の元へ連れて行くだけだ」
そう、神は絶対だ。神と敵に回す時点で、ルシファーに正義はない。なのに、僕はほんの一瞬だけ、彼と同じ考えを抱いたような気がする。
「戦争が始まり、ルシファーはミカエルに敗れました。天界から追放され、地獄に落とされました」
「ほら見ろ、神に刃向かうからこうなる。ミカエルに負けるという点は気になるが、所詮ルシファーはその程度の奴だ。僕なら…」
僕なら?まるで僕も神を裏切るような言い方ではないか。僕はそんなことはしない。僕は…
「『黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった』世間は、ルシファーは傲慢すぎて神に成り代わろうとしたから堕天したと思いましたが、私はそうは思いません。彼は寂しかったから堕天したのです」
「なにそれ」
「傲慢なルシファーは、神だけを愛し、神にだけ愛されていました。だから神が彼に『アダムに従え』と命じた時、下の者に尽くすことへの嫌悪感より、神に裏切られた悲しみの方が大きかったのでしょう。ほら、あるだろ?『僕が一番のはずなのに』そう信じて神に仕え、違うと気づいたから堕天したのです」
「それが何が悪い…」
だって、そうした神が悪いのだから。
「悪くないさ。彼にとって神しかいなかったのに、神にとってはルシファーだけではなかった。一番ですらなかった。ルシファーが下等と認識した人間よりも下だった。だから彼はグレた。悪い子になって、もっと神に構ってほしかった。だけど、そこまでしても、彼の前に神は来なかった。来たのはミカエル。その時、ルシファーは思ったでしょう。『神は僕を捨てた』と」
「黙れ!」
僕はルシファーじゃない。僕はルキエルだ。神に最も愛される明けの明星だ。なのに、僕の不安はぬぐえない。今、神に愛されているほど、その愛を失うことが怖くなる。だから、僕は神にとって有用であることを証明しようとしてきた。神は僕を捨てないよね…
「全能の君なら、モリアを見つけ出すのも、やりたいなら簡単にできるでしょう。でも君は迷っている。この地獄のことではなく、モリアを倒した後、君の居場所がどこにあるのかを迷っている。もう明けの明星の出る幕はない。神はそれでも君を愛し続けてくれるか、君は確信を持てない」
「…戯言だ。僕は完璧な存在だ。完成された僕に、他の者など必要ない。それはお前たち未完成なものだけの劣等性だ。不完全であるが故に、足りないものを他の者から補おうとする。だけど、僕は違う。たとえ神に愛されなくても…」
たとえ誰にも愛されなくても、僕はこの永遠の時を生きていける。だって、僕は最強だから。
「でも、他の者と世界を繋ぐのも楽しいよ。それは私はこの一か月で学んだ。私は君と同じく、モリアがいれば大丈夫、他は何もいらないと思っていた。だけど、この旅で、私は満たされた。この殺風景な地獄も輝いて見えた。それに、こんなものまで出会えた」
毛玉は荷物から一枚の絵を取り出した。そこには、金髪の少年の天使が空から落ち、翼がだんだんと黒くなっていく絵が描かれている。翼は十二枚。…僕?
「いや、結構苦労してバラムからこの絵を買い取ったんだ。『堕ちた明星』。私はこの絵で君を知った。そして思った。この子を手に入れたいと」
胸がチクっとした。僕は何を期待していた?あれはただの毛玉だ。僕と到底釣り合わない。だけど、もし僕がその隣にいるなら、僕の世界も変わるだろうか。
「全然似ていない。僕の方が神々しい。それに、僕は堕天なんてしない。『エル』があるからこそのルキエルだ。僕はルシファーじゃない」
絵を見て、僕は感想を述べた。技量はそれなりにあるが、僕を絵で体現しようとする時点で、その考え方が傲慢である。
「そうだね。私も実物の君の方が好きだな」
僕が好き?身の程知らずが。でも、もし七十二柱の悪魔を全部倒したら、まあ、僕の召使いとして側に置いてもいいくらいだ。
「どうせ、僕の全能の力が欲しいんだろう。残念だけど、僕は便利な道具になるつもりはない。命令されるのも大嫌いだ。予想が外れたな」
「じゃあ、三日後、私が君に勝ったら、私が全能の力じゃなく、君だけが欲しいと証明してやろう」
「いいだろう。どうせお前じゃ僕には勝てないけど」
でも、ちょっとだけ勝ってほしいという僕もいる。まあ、こいつが負けた時、僕がこいつをもらえばいいだけだ。問題ないか。
*
「あの…セリナたちもいるんですけど…」
外野のメイドの人間が手を上げて発言した。空気が読めないか。これだから女は。
「すまない、ルキエル様と話し込んでいると周囲が忘れた」
「ルーでいい。それは神にだけ許された僕の真名だ。特別に許してやる」
「わかった。ありがとう」
「素直すぎるだろ。なにを平然で男の子を口説いているんだ」
「口説く?私は普通に『ルーが欲しい』と言っただけだけど」
「そういえば、あんたはそういう奴だった。この天然ジゴロ、男たらし!」
銀髪の人間がうるさい。男同士の関係こそ、神が定められた正しい関係だ。(※これはルキエルだけの意見)
「なんだかわからないが、吾輩はなぜかドキドキするであります」
「分かります!うちもただの壁になりたいのです。いいなあ、耽美な世界、ぐへへ」
バカどもを無視して、僕は海面へと歩き出した。
「お前たち、確かリバエルを探しているんだろう?僕ならすぐに見つけられるよ」
*
僕は、静かな海の上に立っていた。足下では、僕の光を浴びた波が、ため息のように砕けている。
右手を軽く差し伸べると、虚空が微かに震えた。この世界の「理」そのものが紡がれ、集い、掌の中で形を成す。重みもなければ、装飾もない。ただ「必中」という概念が、弓という形をとっただけだ。神器アポロンは、僕の指に馴染むようにして現れた。弦は月の光で張られ、冴え冴えと冷たい感触がある。
僕はゆっくりと顔を上げた。頭上には、僕がかつて導いたはずの星々が、今も変わらず瞬いている。あの天の高みへ、かつて僕がいた場所へ――この思いは、ほんの一瞬、胸の奥を鈍くかすめた。
弓を構える。矢は必要ない。僕が「貫く」と望む意志そのものが、最も純粋な光の矢となる。弦に指をかけ、引く。張り詰めるのは僕の力ではなく、この世界の「因果」そのものだ。僕が標的を視た時点で、その結末は固定される。これが「必中」の意味。
よし。
「あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」
僕は、弓先を真上、天の頂点へと向けた。
狙いは、もう定まっている。
指を離す。
音はなかった。あるいは、世界全ての音が一瞬で吸い込まれたのかもしれない。
一条の光が、僕の指先から夜空へと逃げた。それは流星の逆行のように、まっすぐ、速く、そしてあまりに美しく天を昇っていく。
星々を縫い、雲を貫き、やがて僕の視界からさえも消え、夜空の一点に達した。
最高点。
そこで、光の矢は一瞬、ぴたりと静止した。
まるで天の頂点に、新しい、そして一番輝く星が生まれたようだ。
次の瞬間、その星は落ち始めた。
だが、落下ではない。最初から「そこ」へ向かっていたのだ。海面へまっすぐ、しかし軌道は弧を描き、まるで僕と標的を結ぶ巨大な天の弓の弦のように、見えざる曲線を描いて。
水は、その侵入を拒まなかった。光の矢は、海の闇を真っ二つに切り裂きながら進む。水圧も、深さも、暗黒も、全てが「通過」という結果の前には無意味だ。僕の「視界」は矢と共に降下し、深く、深く、そして――
そこにいた。
漆黒の水の底で、山のような巨体を持つ者。その厚い皮膚、分厚い脂肪、そして強靭な筋肉の層。
光の矢は、ためらいなく、その全てを貫いた。
ズドン、という鈍い、重たい衝撃が、水そのものを伝わって、僕の立つ海面まで震わせてくる。
僕は目を細めた。
矢は消えた。残されたのは、巨体の中央に開いた、光の通った後の真っ直ぐな穴。周囲の海水が一瞬白く沸き、そして赤く染まっていく。
苦痛と驚愕の波動が、深い水を通じて、ゆらりと伝わってきた。
これで死ぬわけがないだろう。仮にも王クラスの悪魔、傲慢の王を名乗っているのだから。
深い底で、苦悶の身悶えが始まった。鼓動は乱れ、速くなり、しかし確かにまだ強く打っている。
深い闇から、地響きのようなうなりが上がってきた。
それは最初、海底の火山が唸るような、低く重たい音だった。しかし瞬く間に大きくなり、海そのものがうなるような轟音へと変わる。傷ついた巨体が、苦痛と本能に突き動かされ、深淵の底から猛加速で浮上してくる音だ。
海面が突如、広大な範囲で膨れ上がった。
直径数百メートルにも及ぶ水面が、巨大なドームのように盛り上がり、周囲の海水が信じられない勢いで引いていく。波ではなく、海の地形そのものが変わってしまったかのようだ。
そして、その盛り上がりの頂点から、漆黒の山が現れた。
それは最早、生物とは思えないほどの巨体だった。傷ついた皮膚は暗礁のようにごつごつとし、ところどころに光の矢が貫いた真っ直ぐな穴が、ぽっかりと口を開けている。その傷穴からは、まだ油まじりの黒い血が噴き出すように流れ出し、周りの海水を不気味な赤褐色に染め広げていた。
巨体は勢いを失わず、なおも上昇する。
頭部、そして恐ろしく長い胴体が、次々と海面を破り、月光を浴びて現れる。水が滝のようにその体躯から奔り落ち、轟然と海を叩く音は、雷鳴の連続のようだ。その全容が現れるまでに、あまりに長い時間がかかる。千メートルに及ぶその体は、海上に現れた部分だけでも、小さな山脈のようであった。
最高点に達した時、その巨体は一瞬、空中に静止した。
無残に開いた傷口が、月明かりに照らし出される。深く穿たれた穴の内部には、暗く鈍く光る肉や、巨大な骨の断片すら見えた。潮吹き孔からは、血まじりの噴気が「フゴォォォォ――――!!!」という、天地を揺るがす絶叫と共に吹き上がる。それは苦痛の叫びであり、そして何よりも、自分を貫いた不可解な力への、畏怖と怒りに満ちた咆哮だった。
重力が、ようやくその巨体を捉える。
山のようなクジラは、ゆっくりと、そして確実に傾き始める。再び海へと戻るその軌道は、生き物というより、崩れ落ちる城塞のようだ。倒れ込む側面が風を切り、うなりをあげる。
そして、巨体が海面に叩きつけられる。
衝突の衝撃は想像を絶するものだった。海水が数百メートルの高さまで跳ね上がり、衝撃波が円形に海を伝わり、遠方で津波のようなうねりを起こした。水しぶきの雨が、何キロにもわたって降り注いだ。クジラが沈んだ地点には、巨大な渦が出来、血と泡で濁った海面は、やがて不気味な静寂と、広大な油膜に覆われていった。
僕は、ただ海の上に立ち、その光景を眺めていた。
毛玉やその仲間たちは、さっきから何か叫んでいるようだが、僕の耳には届かない。どうでもいいことだ。
「さて、後何発耐えられるかな」
僕は、もう一度弓を手に取った。
できれば、もっと頑張ってほしいな。でないと、僕の凄さがわからなくなってしまうじゃないか。
依頼期限まで、残り2日。
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