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神子の限界。魔王の困惑。

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 エミリアは冷や汗を拭った。

 封印の神子であること以外なんの特技も趣味もないエミリアは、神子らしさこそが己を保つ術であり、他に夢や目標など持ったことはない。
 日々、頭のてっぺんからつま先まで神子を追求してきた。いつなんどきでも凛と澄まし、表情、言動、立ち居振る舞いに気を付けた。

 それでも、自分は神に選ばれた神子だと、自信を持って名乗れたことはない。突如与えられた使命は重く、常にそれらしくあるよう意識しなければならなかった。

 すべては魔王を封印するため。

 エミリアは拳を握りしめた。

 空の上へ浮上した魔王城へと乗り込んだエミリアたち勇者一行は、あと少しで魔王が居る玉座の間へ到達する。

 あと。少し。

 とはいえ、辿り着いて終わりではない。勇者たちが魔王を極限まで弱らせた後、エミリアが長い封印の詩を詠んで魔王を封印。
 その後、魔王の力で浮いていた城がどうにかなる前に入口へ戻り、飛行龍の背にのって地上へ帰る。
 
 どう見積もっても一時間なんかじゃすまない。

 エミリアは
 エミリアはもう限界だった
 エミリアはもう随分前から……

 トイレへ行きたかった。

 まさかこんなときにトイレへ行きたくなるとは、想定外すぎる事態にエミリアの頭の中はパニックだ。

 原因はわかっている。

 魔力回復薬の飲みすぎ。

 一行が予想外に怪我をしたものだから、回復役であるエミリアは魔力を消耗して、そのたびに飲んだ、もうかれこれ六本ほど。

 化け物だらけの城の中に、まさかのトイレがありはしないかと視線を動かしつつ移動していたが、例え見つけたとしても、こんなところで一人きりになるわけにはいかない。どこに敵が居るかもわからないのに、必要ないドアを開けるなどもってのほか。

 トイレに行きたいから一度帰りたい。

 そう言うしかない。もしくはそこらでしてしまうか。

 …………。

 エミリアにはどちらも出来なかった。
 人生をかけて守り抜いてきた神子らしさが、今日、今、大事なときに、エミリアの口に鍵をかけた。

 我慢が限界を突破したのは随分前のこと。
 色んな意味での終わりを前に、ここまでの苦労が走馬灯のごとくエミリアの脳を駆け抜ける。

 封印の技を磨く辛い訓練の日々、エミリアには弱音を吐く相手など居なかった。両親は早くに亡くした。神子という立場を守るため、友人も恋人もいなかった。

 育ての親である司祭様はこう言った。

『エミリアはこの世界に生きるすべての子女の手本とならなければならない』

 力を持つものの定めだと。

 エミリアは頑張った。美女ではなく。運動神経も平凡。特別勉強が出来るということもない。親も居ない。何もない自分に、なぜか神が与えてくれた封印の力。

 これを使えるのは世界で自分だけ。どう使うか選べるのは自分だけ。

 誰よりも広くものを見て。誰よりも知識豊富に。
 そうしなければきっと間違った判断をくだしてしまう。

 常にそう戒めていても、エミリアは何度か、魔王封印以外に力を使いそうになった。魔王以外にもこの世界に悪人はごまんといる、裁かれない悪意が人を死に追い遣ることもある。

 いくら神の力であろうと人を裁くなどそんな恐ろしいこと……出来ない。

 個人的な怒りに支配されないよう、エミリアはすべての悩みを己で飲み込んだ。今日この日のため。魔王が生み出す化け物から人々を守るため。

 なのに……。

 エミリアは、いっそ泣きたかった。泣いて少しでも水分を出した方がマシな気さえした。
 もしかしたら限界を察知した脳が危険信号を出して、今まで起きたたくさんの悲しいことを全部全部思い出させ、涙を出そうとしているのでは、と期待した……が。

 泣けなかった。下も上も限界ギリギリなのに。

 どちらかを緩めるなどそんな恐ろしいこと……出来ない。

 エミリアは、自分の不器用さが悔しかった。神子らしくあろうとすればするほど、そういう悔しさには何度もぶち当たって来たが、これほど悔しかったことはない。

「ここだっ」
 
 男の声でエミリアの思考がパツンと切れた。

 イベリアの皇子、一行のリーダー、フィフサ・イベリアが振り返って嬉しそうに笑った。
 ピンチで狭くなったエミリアの視界にチラっと入る彼の笑顔……ではなく彼の後ろにある大きな扉。

 あぁとうとう。玉座の間に辿り着いた。準備しなければ。

 切り替えようとしたら、エミリアの我慢に津波がきた。

 危ないっ。

 慌てた脳が再び走馬灯タイムに入る。

 エミリアは、苦し紛れにフィフサと出会った日のことを思い出した。

 輝く金の髪。爽やかな笑顔の王子様。
 彼がこれから神子の護衛につく、偉大なる剣に選ばれし勇者だと、司祭様から告げられたその日の夜、エミリアは夢を見た。

 朝を起きると、フィフサが笑顔でベッドの横に居て、紅茶を差し出す。

『おはよう。おねぼうさん。朝ごはん出来てるから一緒に食べよう』

 そう言って、額にキスを落とす。夢。

 エミリアは人生ではじめて、一目ぼれというのをしてしまったわけだが、それはもうあっさりと……

 終わった。

 途中までは誰が見ても良い感じだった。皇子は何か良いことがあるときや、エミリアが疲れているとき、頭を撫でたり抱きしめるなどして、あからさまにエミリアを気にかけていた。

 まさにエミリアの夢の皇子そのものだった。

 しかし、旅の途中、隣国の城へ寄った際に、フィフサ皇子はそこの姫と恋仲になった。何がどうなってそうなったのか、エミリアは知らない。
 たった一晩の出来事だったので、再び皇子の気持ちをこちらへ向かせようと努力したり、姫とライバル関係になることもなく。

 さっぱりいつの間にか終わったエミリアの初恋。

「よし。さっさと終わらせようぜっ」

 ついに魔王戦。激しい戦いが予測される玉座の扉を前にフィフサが嬉しそうにハイテンションでいるのは。
 もうすぐ姫のもとへ帰れるからだということを、エミリアは知っている。

 これに関しては辛いというより、モヤモヤするという方が正しいとエミリアは自己分析しているのだが、勇者一行はエミリアが未だに大層傷ついており、更には皇子を想っていると思っている。
 その証拠に、皇子は姫のことを考えたり言葉に出したりしたあといつも、申し訳なさそうな顔をする。

 今も、笑顔を消して、エミリアを憐れんだ顔で見ている。

 そんなときはいつも

「よし。準備はいいね?」

 ミンの出番だ。

 エミリアの横で強気に笑う東方の弓使いミン。長身で男勝り。スタイル抜群の美女ミンに、エミリアは何度も皇子関係のことで励まされた。

 あのときも。

『いやもう。なんというか。俺ここに残りたいと思うんだ。俺が本当に守りたいのは彼女だってわかったから。世界なんてどうでもいい。彼女だけを守れる俺になりたいんだ』

 なんて駄々をこねだした皇子を、双剣使いの元盗賊シドックが、こういうのは同性の方がいいんだ、と宥めている間。エミリアも同性のミンに連れ出され言われた。

『アンタ神子だろ。恋だなんだにうつつ抜かしてる場合かい? あたしは女である自分なんて幼い頃に捨てたよ。魔王討伐のためにね』

 ミンは故郷に旦那と子供が居る。
 それに日焼け止めがなくなると、どこに居ようと街へ寄りたいと不機嫌になったりする。

 エミリアはいろいろと喉の奥で留め、頷いた。彼女の望む返事をと、自分も頑張ります宣言だってした。

 それだけでは足りなかったようだが。

『そりゃ姫様の方がいいさ。料理だって上手いし。歌声も美しい。頭も良い。あんた一体神子以外のこと何が出来んだい?』

『女子力磨きもせず皇子の気を引こうなんて、フィフサが今までアンタを気にかけてたのは、アンタが神子だからってだけさ』

『ほら。こう考えたらどうだい。これからの長い旅の中で神子以外の何かを見つける。目標が出来て良かったじゃないか』
 
 女を捨てればいいのか磨けばいいのか。エミリアはただ口をポカンと開けているしか出来なかった。
そのせいで 『ア』 と一音だけ漏れてしまったが、ミンには聞こえてなかった。恐らく自分の話声で、人の話など一切。

 聞く気がない。
 
『一応言っといたげるけど、外見磨くのは無駄だよ。あんな美人にはアンタがどうやったってかなわないさ。ははっ。なんでも正直にいっちまう性分で悪いね。でもアンタのためにここまで言ってやってんだよ。あたしだって憎まれ役なんて買いたくないさ』

 エミリアはもういろいろと疑問だらけの頭を抱えながら、ミンの言う、何かを見つける旅とやらを、ミンの前では続けるしかなかった。
 ミンはことあるごとに、エミリアにアレをしてみろコレをしてみろと、主に化粧や服などについて口出してきた。

 そんなときエミリアは、神子らしく神子らしく神子らしく、と呪いのように頭の中で唱えながら、お礼の言葉を言った。

 そしたらいつしか十円ハゲが出来た。

 励まされて禿げた。なんて少しも笑えなかったが、ミンは笑っていた。笑い飛ばした方が治るだろう。と言われたエミリアの心の中は、一時間ほど真っ黒だった。

「疲れてんなら抱えて行ってやろうか神子さん」

 シドックが走馬灯中のエミリアの肩にぬめりと手を置いたので、エミリアは動きたくないのに、持っていた杖でその手を退けなければならなかった。

 今口を開いたらたぶん。

 とんでもない罵詈雑言が飛び出しそうだとエミリアは思った。

「なんだいつれねぇな。緊張ほぐしてやろうってのに」

 シドックの顔を、エミリアは見ない。出来れば二度と見たくないが、声をかけられたことで彼のことを思い出してしまった。
 
 フィフサが姫の元に残りたいとごねた数日後のことだ。
 なんとかかんとか説得して、ようやく旅を再開することが出来た日の夜。
 シドックは何を思ったのか突然、エミリアの寝ている安宿の部屋へノックもせず入って来た。

『神子さん。あんな奴のこと俺のテクで忘れさせてやるぜ』

 そう言ってベッドに突進してきたシドックを、エミリアは光速魔法で眠らせた。光速魔法なんて言葉はないが、そのくらいの速さで眠らせた。

 エミリアは、シドックが仲間になったとき、自分がかけた言葉を取り消したいと今も思っている。

 身分や過去など関係ない。偉大なる双剣に選ばれし者は清らかな心を持っている。これからは共に正しき道を探す仲間です。

 取り消したい。取り消したいけれど。そんなのは神子らしくない。

 エミリアはその日から常に結界魔法を張って寝るようになった。おかげで気苦労が絶えなかった。

 生理不順、胃痛、食欲不振、寝不足、諸々と戦いながらなんとか。

 なんとかかんとかここまで辿り着いたエミリアへの仕打ちが。

 トイレ我慢。

 最初のうちは助けて神様と願っていたエミリアだったが、もうここまで来て思うのは。思うのは……神なんてのろ……。

 エミリアは思考を振りきった。

 先を急ぐ皇子の手により、大きな扉が音をたてて開いてしまった。もうこれ以上何をどうしようと無駄だ。

 玉座の間へ。

 勇者たちが警戒しながら先に中へ入り、エミリアも足を踏みいれる。

 高い天井にユラユラ揺れる緑の灯り。広い空間に黒い絨毯。
 ここへ来るまで腐るほどいた化け物は一匹もおらず。玉座に堂々と座る軽装の男が一人きり。
 今まで戦ってきた化け物とは違う。どうみても普通の男。いや、激しく美しい容姿は少しばかり人間ばなれしている、燃えるような赤毛を逆立てた黄金の瞳の男が、笑顔でエミリアたちを出迎えた。

「よぉ。待ってた。さっさと終わらせよう」

 妙に胸に響く低音。
 彼の周りがざわりと揺れて寒気のする気配が濃く大きく玉座の間に広がっていく。

 彼が魔王なのだと。否応なく全員が理解した。体が勝手に警戒して、ビクリと身構える。

 ヤバイ。気を張り過ぎると駄目だ。緩めてもだめ。

 エミリアは、前かがみになり、内股で杖を構え直した。

 その瞬間、金色の瞳が訝し気に細められた気はしたが、エミリアは見なかったことにした。が、ものすごく気になった。

 あれが魔王だなんて。人にしか見えない。

「なんだい。人っぽいし……えらくイケメンだね」

 ミンがそう呟いたくらいで、男二人は人の姿であることなどどうでもいい……というより、プレッシャーに耐えきれず剣を抜いて向かっていった。

 戦いが始まった。

 響く金属音。エミリアは、気力と根性でトイレ我慢と戦いながらみんなをサポートした。
 もう限界の限界を超えて、この場で下半身を切り落として欲しいと願いながら。

 フィフサ、隙をついて魔王に斬りかかり、ミン矢を射る。シドック避けられる。フィフサ斬るミン射る。トイレ。シドック斬られる。トイレ。ミン回復。トイレ。フィフサ回復。トイレ回復。

 エミリアの脳内は、もう単語しかない。
 魔王の動きも仲間の動きも、単純にしか受け止められず、冷や汗を拭いながら動いていると。

「っは……」

 二重に苛烈な戦いは、思いのほか早く決着がついた。

 血まみれになった魔王が、がくりと膝をつく。
 魔王の生み出した化け物を倒すことで、魔王の力は大分削られているはず、となんらかの有識者が言っていたが、本当だったようだ。

「よし。エミリアっ! 今だ! 封印を!」

 フィフサがそう言った。
 瞬間、ミンとシドックがエミリアの背中を無遠慮に前へ押した。

「っ……」

 エミリアはタタラ踏み……前へ出て……エミリアはもう……。

 すん。と振り返った。

「みなさまここまでありがとうございました。ここからはわたくしの出番。なので、どうぞ部屋の外へ。飛行龍のところまでお戻りください」

 突然の宣言に3人共首を傾げる。

 ミンが何やら口を開こうとしたので、エミリアは片手で制した。ミンはイラッとしたようだが、いつもと違って黙った。

「封印とは危険なもの。神の御力は神子であるわたくししか守ってはくれないのです。ですから……万が一ということもありえます」

「万が一?」

 フィフサが、目を瞬いた。
 その瞬間、なぜかエミリアには、フィフサがとっても馬鹿な男に見えた。

「みなさまのことも封印してしまう可能性があります。対象は空間で定めるので。魔王のみに絞る努力はしますが、なにせ彼は魔王なので、その強大な力を封じ込めようとするとどうしても……ね」

 エミリアは神子として生きて来た中で最大級と言ってもいい笑顔を出した。鏡の前で何度も何度も練習した。集大成を今。
 微笑み。すべてを安心させる。余裕たっぷりの笑み。もうあとは私にまかせてもいいだろうと思わせるほどの。

 数秒が数時間にも思えた。

「あ。じゃあ」

 といって一番に部屋を出たのはフィフサで。ミンも舌打ちしつつそれに続き、シドックは笑顔を保つことでいっぱいのエミリアに近づいて、コレが終わったらどうのこうのと、ピー音満載の耳打ちをしていった。
 
 程なく玉座の間は、エミリアと魔王のみになった。

「よし」

 エミリアは、変な歩き方で魔王の元へ近づいた。
 なぜか大人しく事の成り行きを見守っていた魔王に、無防備に近づいて近づいて、結構な距離まで詰めて周りを見渡し。

 満身創痍の魔王よりも苦し気に息を吸い込んで。

「あなた。何を食べて生きてらっしゃるのかしら?」

 聞いた。

 魔王は、綺麗な顔を一瞬呆けさせ。

「普通のもん」

 つい。と言った感じで答えた。
 エミリアは、僅かな希望に胸を躍らせた。

「ということはその体。人と同じですのね?」

「……まあ。魔力が別格ってだけで基本は」

「でしたら。3大欲求。例えば睡眠なんかも必要ですのね」

「そりゃね」

 エミリアの希望は更に膨らんだ。
 しかしまだ気を緩めるわけにはいかない。ここが正念場。

 そーっとしゃがんで魔王の耳元に顔を寄せる。

「でしたらその……この城にもありますかしら。その……」

 血まみれの魔王は、エミリアが口ごもっている隙に、床に落ちた剣に手を伸ばした。
 エミリアはそれに気付いている。魔王も勿論、わかっている。

 緊張が走る。痛い程に。

 気を抜いてはいけない。
 油断するな。
 今安心したらすべてが終わる。

 エミリアは自分の心臓に落ち着けと命じた。

 大丈夫。出来る。聞ける。聞くしかない。それ以外に道などない。

 神子らしさという分厚い壁が、エミリアの中でピシピシと音をたてて割れた。
 
「……ト……トイレ……はどこかしら」

 魔王はピタリと動きと止めて、一呼吸。
 俯きがちなエミリアにすいっと顔を近づけて、耳をよせた。

「何? なんて?」

「だからっトイレっ! トイレはどこかしらっ」

 パっと至近距離で顔をあげたエミリアの瞳は、涙が溜まってキラキラと輝いていた。魔王は驚いて尻もちをつきかけ、後ろに手をつく。

 丁度剣の柄の上に。

「ト……イレ?」

 しかし魔王はそのことに気付いていないのか、剣を握らず。

「そうトイレっ。行きたいんです。もうずっと前からっ限界なんです! どこですか!!」

 切羽つまりすぎの声に、魔王の頭の中は大混乱となった。



 魔王は、エミリアが近づいてきたとき、命を失うのだと。そう覚悟した。
 生まれたときからずっと覚悟……いや、諦めていたのかもしれない。

 溢れ出る魔力と共に生きて行くのは不可能だと。

 親から村から国から弾かれ、人を恨み、強くなろうとしたが、どうしても諦めは消えなかった。
 諦めた方が楽だと思った。

 しかし

 世界中に溜まった魔を一つ所に集める者。それを封じる者。

 二つが機能してこそ、世界は救われるのだと、魔王城の奥底に封じてあった古い文献に印してあるのを読んでから、魔王は……。

 こんな世界など救うものか、救ってたまるか。

 強く激しく世界を壊す……魔王らしくなろうとした。

 本気で。魔王になるつもりだった。
 けれど勇者一行と戦ったことで……本気などではなかったのだと、自覚した。

 勇者たちは思いの外弱かった。この世界の……人々の切り札がこんなにも脆弱だったとは。

 本気ならもっと早く世界を壊せただろうに。今まで自分は一体なにをしていたのだろうか。

 人を憎んでいる。激しく。女子供であろうと容赦なく殺せるほど。それなのにときおりチリリと胸を過る罪の意識。

 魔王はいくら頑張っても、人である部分を消せなかった。とうとう魔王らしく出来なかった。

 玉座で神子を待つ間。

 もしも明日があれば、暖かいご飯を食べて、一日眠りたい。

 そんなことを考えてしまうくらい。人であった。
 だから己の諦めに加担して膝をついた。

 はず。なのに。隙あらば再び剣に手を伸ばしてしまうとは。

 情けなさで一杯になった魔王の心は……

「えっ? えっ? 限界っ?」
 
 神子の言葉で全部吹っ飛んだ。

「っもう動けないんです一歩もっ。動くと……もっ漏れっ……」

「いや最期がそれはちょっ」

 魔王は、エミリアを抱き上げて走った。
 血まみれの体は、エミリアを抱き上げた途端軽く……。

「何っ魔王に回復かけてんだ神子っ!」

 話しかけてもエミリアは答えない。
 魔王は察して、玉座の間の裏にある廊下の突き当り、ドアを蹴っ飛ばして、エミリアを降ろし、ドアを閉めた。

 エミリアは中で慌てた様子でガサゴソ。

 魔王は、一応少し離れ。

 一端落ち着いた。ように見えて、魔王は……混乱状態のまま。胸をなでおろし、間に合って良かった、なんて呟いた。

 やがてトイレのドアが静かに開き、エミリアが顔を出す。

 スッキリして気分爽快だろう。と魔王は思ったが……。

「ううっ」

 エミリアは……ボロボロに泣いていた。

「ど……どした? 失敗した? ズボン貸す?」

 その泣き方がもう。どうにも憐れすぎた。ひっくひっくと子供のように涙を流して、鼻水もたらして、袖口で顔を擦る姿に、さすがの魔王も魔王らしい行動なんて出来ず。
 ハンカチ替わりに、破れかけた服の袖を破ってエミリアに渡した。

 素直に受け取ったエミリアは、それでゴシゴシ顔を拭うも、次々溢れる涙で袖はすぐに使い物にならなくなる。

「どうしたんだよ」

 困り果てて再び聞くと、エミリアは、えぐえぐやりながら口を開いた。

「っトイレに……行きたいすらっ。わたっわたし……旅の仲間にっ……誰にもっずっとっ……言えないままでしたっひっく……わたっコレしかないっ封印するしかないのにっ…………このあとっ何もないっ誰も待ってないっだっ……トイレっっ私っ」

 魔王は、腰を曲げて、泣きじゃくるエミリアの顔を覗き込んだ。

 自分を殺しに来た者。世界を救う者。もう一人の……。

 重荷を背負うには弱すぎる小さな体。それなの彼女はここまで辿り着いた。自分と違って、ここまで……耐え抜いてきた。

 トイレを我慢して……。

「えっと。何が言いたいのか、何があったのかさっぱりだけどまあ。泣けばいいよ。んで気が済んだら封印すりゃいい。アンタの自由にし……」

「アンタって言わないでください。エミリアです」

「え……あ……ああエミリアの自由にしたらいいんじゃないか?」

 優しい言葉など使ったためしがない魔王だったが、自然と……穏やかな声でそう言って……またさらに混乱した。


 エミリアは、もう自分で自分を制御出来なかった。
 トイレで何もかも流してきてしまったのかもしれない。己を抑えきれず、目の前にあった逞しい体に思いっきり飛びついた。

「っちょおい……えぇぇ……」
 
 飽きれたような声はしたけれど、それでも突き放されることはなく。
 エミリアは、縋りついて泣いた。泣いて泣いて泣き続け。目も頭も痛くて、気持ち悪くなってきた。

 頭の中をしめていたトイレが消え。
 神様なんぞクソくらえという世にも汚い、世にも神子らしくない言葉が浮かんで来て、今までの仲間たちの行動や言動にぐらぐらと沸くものがあり。

 その中で。
 ふと。掴んだ。

 魔王の服の裾。

 エミリアは顔を上げ、困った顔の魔王と目を合わせた。

「あなたの名前はなんですか?」

「名前? なんだったか…………ク……なんとかだったかな」

「クーさんとお呼びしても?」

「……はぁどうぞ」

 この人を封印しなければならない。

 神子として。

 エミリアは杖をどこへ置いてきたのか、今からどう動けば封印出来るのか、考え……ようとした。
 けれど。
 魔王の服の裾から手が離れない。

「で? どうする?」

 気だるげな声で問われて、エミリアは……初めて……神子ではない、自分自身の声の方が大きいことに気付いた。
 今まで一度だって勝ったことはない。神子らしさに自分が勝てたことはない。
 
 それがなぜ。今。一番の正念場に。

「…………」

 葛藤は、ほんの数秒だった。
 
「保留じゃ駄目でしょうか」

「……保留とは?」

 なぜ保留と言ったのか、エミリアは声にしてから考えた。
 先延ばしにしたい。封印を。その理由は……。

 神なんぞクソくらえだから? 仲間との絆なんてゴミだから? こんな世界好きでもなんでも……。

 エミリアは首を振った。
 そして、手元を見た。クーさんの服の裾を握る自分の手。
 
「あなたと……もう少し話しをしたいというか。お礼もまだですし。あの……ちょっと考えをまとめたいので。今日はここに泊めて頂いてよろしいかしら?」

 魔王は、驚いた顔をして。
 暫しエミリアと睨めっこしていたが。

 突然、さも悪人という表情を作り、ククっと喉を鳴らした。

「今のやり取りで俺を人間だと思ったなら間違いだ。俺は大勢殺してる。今後もそうする」

「はい……そうですよね。そのへんの諸々を含めてちょっと。考えたいので。泊めてください」

 エミリアは不器用だ。二つのことを同時には考えられない。
 それに、神子らしい笑顔のベテランであるエミリアの本能が、今の悪そうな顔は全然なってないと言っている。

「あ。宿代と言ってはなんですが。何かお食事を作ります。缶詰と保存食しか持ってませんが。暖かいスープ程度ならできます。なんならお風呂の用意などもします。朝食も作ります」

 必死な様子のエミリアを前に、魔王は……
 間抜け顔で……こくりと頷いた。

 エミリアは、それを可愛らしいなと思ってしまい、なんとか胸にしまい込んで、よしっと、神子らしくないガッツポーズをした。

 その日の夜。
 割と上等な部屋を与えられたエミリアは考えて考えて。もう神子とかそんなの抜きに考えて。いるうちに疲れて眠り、朝起きて慌てて考えた結果。

「クーさんではなく、その力だけを封印する練習をしたいと思います。殺されたくなくば、もう少し待って下さい」

「……殺され……それ見込みあるのか? その間この世界へ魔が与える影響は? 例え俺が何もしなくても居るだけで魔物が発生するぞ」

 魔王。世界のため神子に助言する。

「えっと……じゃあ。この城を人里離れた場所の上空に飛ばしてください。移動し続ければ影響も薄めでしょう。長いこと魔と戦ってきたので少しくらいの魔は対処できます。さすがに。人間だって進化します。私もそうです。見込みあります。やってみせますっ。この世界のためじゃなくて私のためなので。やる気は今までの倍です」

 神子。世界を救うために全力尽くさなかった宣言。

「あ……そう」

「はいっ」

 魔王は、頭痛と胸の奥に生まれた固いもの……喉が詰まりそうな何かに苛まれて、胸と頭両方おさえた。

「それ。期間は?」

「生きてる限り」

 気持ちのいい即答だった。


 魔王は……一瞬エミリアから顔を背けた。
 そして肩にぐっと力を入れて、正面を向きなおした。その場所にはエミリアが……恐れも憐れみもない瞳で、凛と立っている。

「えっと。待ってくれるなら。その間ご飯作ります。朝起こしますし。掃除も洗濯もします」

「家事は分担で」

 魔王がつげると、エミリアはぱぁっと明るく笑った。

 それは魔王が今まで見た何よりも美しく輝いて、胸の中の固いものをカァーンと響かせ、心を覆っていた諦めを……永遠に封じた。

 
 その後の話。

「クーさん。家事は分担って言いましたよね」

 エミリアは、テーブルを叩いた。
 木の温かみのあるとっても素敵なテーブル。魔王城の何もなかった空間が、今や立派なリビングと化している。
 フカフカしたソファもあって、どれもこれも暖かい色をしている。

「あ……ああ。言った。何? 俺何か足りなかった?」

 相変わらず美しい顔だが、随分と、髪は寝癖、服はよれっており、くつろいでます感満載なのが逆にエミリアの心をくすぐるクーさんが、困った顔で首を傾げる。

「いえ違います」

「じゃあ」

「やりすぎですクーさん」

 クーさんは再び首を傾げた。

「私のこと起こしてくれて、朝ごはん作ってくれて」

「ああ」

「掃除も洗濯も私が起きる前にやっちゃってます」

「ああ……まあ」

「この間……私が寝ぼけてリビングでぼーとしてる間に……私の……私の髪を結いましたっ」

「ああ。手が空いてたから。どうせ結い上げるんだろ?」

「そうですけど。でも。夜だって」

「一緒に作ってるだろ」

「ほぼクーさんがやってて。私は一個の作業で終わります」

「手の速さはしょうがない」

「でも……でもこれじゃあ。分担じゃないです。夜は全部私に任せてくれれば……」

「エミリアは修行があるだろ」

「それは……家事とは関係ないですし。クーさんが魔を抑え込む修行してくれてるの知ってます」

「手が空いたときしかやらないけど」

 クーさんはフっと笑い。
 スタスタとエミリアの傍に来て、そろそろ寝るか? と聞きながらエミリアを抱き上げようと。

「この間はっ疲れてうたた寝してたからっベッドまで運んでいただいて申し訳なかったけど、普通のときは……っていうかそんなことまでして貰わなくてもいいんです! 困ります! 修行に集中できません! フワッフワしてしまって駄目になります!」

「ああ……そう。フワッフワ」

「はい」

 見つめ合う二人。
 エミリアはほんのり頬を染めて、クーさんは固い表情で何やら堪えている。

「でもな。俺別にわざとやってるわけじゃないし。苦でもないし。いつの間にかやってるわけだから。精神的には分担出来てる」

「いえ分担してません。精神ってなんですか。私何もしてません。だから半分譲ってください。早く出来るようにします。ちゃんとします」

「いや早くしなくてもいいんだけど。でもな。俺もこれがルーティーンだし」

「……じゃあ私なにすればいいですか? 何かあります? あなたの役にたつこと」

「役に立つこと……」

 クーさんは考えた。
 いろいろ考えた。
 結構考えた。
 そして。

「息……とか?」

「は?」

「息だな。うん。それ以外ない」

「……私……出来ます。息以外も……そこまで無能では……」

「いやそういうんじゃなく。いき……ててくれればそれで。俺は……俺のしている以上のことしてもらってるなって」

 思うよ。

 という言葉は心の中で言った。
 クーさんは、完全不意打ちで、エミリアの唇に吸い込まれた。

 ってのは言い訳で、自分を見上げるエミリアの顔がもう、真っ赤で、瞳もキラキラで、可愛らしくて。

 どうしようもない気持ちでエミリアにキスした。

「そっそこまでやってもらったら私っ何返せば……おやすみなさい!」

 結局、エミリアの思う分担は出来ず、けれど……自分の想いと彼の想いが同等かそれ以上であることは。

 数日後。

 悩みに悩んだ末。

 わかった。

 エミリアはもう

 我慢はしなかった。


 ちなみに。
 勇者一行は、魔王が城の外へ追い出した。修行に必死なエミリアは、すっかり忘れている。
 神子1人を置いて、帰ってきた勇者たちは、世間から白い目で見られ、あっさり解散。
 皇子は、中身のすかすか具合がバレて、姫に捨てられ。
 ミンは、世間の目に耐えきれず家から出なくなり、封印に失敗したエミリアを恨んでいる。
 シドックは、なんらかの犯罪で投獄。なんらかの。


 その後、世界への魔王の脅威が薄くなり、神子が1人で封印したのだと噂がたち。
 数年たつと、魔王の話も神子の話も誰もしなくなった。
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