神よりも人間らしく

猫パンチ三世

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第五章 見えない隣人

二十九話 畳上の語らい

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「けっこう似合ってるじゃない、馬子にもなんとやらね」

「そりゃどうも」

 一体何がどうしてこうなったのか、洋平にもよく分かっていない。
 突然の提案、断る間もなく洋平は道着を渡され更衣室に押し込まれてしまった。仕方なく道着に着替えると、思っていたよりも肌触りが良く、とても軽い。しっかりと洗濯されていたのだろう、道着からは優しい柔軟剤の香りがした。

 帯を締めると、身も心も引き締しまり自然と洋平は背筋が伸びる。
 更衣室から出ると、一輝は道場の中央に座り洋平を待っていた。道場内に敷かれた畳の上をそろそろと歩き、洋平は一輝の前まで来た。
 目をつむっていた一輝は、静かに目を開き洋平を見る。

「似合ってるじゃないか」

「そうか? 俺ほど道着が似合わない奴はいないと思ったけどな」

 その言葉に小さく笑い、一輝は洋平に自分の前に座るよう促した。
 それに従い、洋平は一輝の前に正座で座る。どういう風に座れとはっきりと指示があったわけでは無いが、目の前の一輝が正座しているならと洋平は正座の形をとった。

「すまない、祖父は悪い人じゃないが強引な所があるんだ。すぐに終わらせるから安心してくれ」

「別にいいさ、俺もテスト勉強ばっかりだったから気分転換したかったし」

 深々と頭を下げた一輝を見て、洋平はやんわりと気遣う言葉を掛けた。確かに想定外の出来事ではあったが、テスト勉強と最近あった戦いのいい気分転換になるだろうと洋平は考えていた。そしてもう一つ彼がこの突然の稽古を受け入れる事のできた理由として、一輝の強さの秘密を知りたいという思いがあった。

 普通の人間でありながら、強大な力を持つ選択者を圧倒する技術。それを少しでも吸収したい、そんな思いが洋平の中にはある。

「でさ、稽古っていっても何をやるんだ? 一応言っとくけど、俺こういう武道の経験無いからな?」

「大丈夫、特別な事をするわけじゃない。こうしてゆったりと座るのも稽古なんだ」

 洋平にはその言葉の意味がよく分からない、もっと技術的な稽古をするとばかり考えていたため、少し拍子抜けしながら洋平は言われるがまま座っていた。
 静かに時は流れる、二人は目を閉じその過ぎていく時間を感じていた。マガズミとサグキオナは、道場の隅で暇そうにその様子を見ている。こちらの二人、特にマガズミにはこのゆったりとした時間が退屈だった。

「……なあ宇佐美、悪いんだけどこれの意味を教えてくれないか? いまいちピンとこなくてさ」

「……すまない、そうだったな」

 洋平はこの時間が退屈という訳ではなかった、だがどうすればいいのかが分からなかった。ただ二人で黙って向き合って終わりというのはあまりにも味気ない、これが一輝の強さに繋がるとも思えなかった。

 一輝は洋平に稽古の目的や意味を、しっかり説明しなかった事を猛省していた。自分がいつもしている事だったため、つい彼は洋平に対する説明を怠ってしまっていたのだ。
 加えて彼は、誰かに稽古をつけるのは初めてだった。

「俺たちが今やっているのは、基礎中の基礎。自然との融和、そして自分との対話だ」

 洋平は首をかしげる、やはり言葉の意味がよく分からない。彼はとりあえず一輝の次の言葉を待つ、もしかしたらもっと分かりやすく噛み砕いて教えてくれるかもしれないと期待を込めて。

「心静かに自分の内面と向き合い、自らを世界の一部として考える事で……」

 そこから一輝は丁寧に合気道という武道の本質を洋平に教えてくれた、本当に丁寧に教えてくれた。だが洋平は一部を除いて一輝の言葉のほとんどを理解できなかった、間違った事を言っているようにも思えないがそれが正しいのか、自分にどう生かせばいいのか洋平にはさっぱり分からない。
 残念な事に一輝には、物事を分かりやすく噛み砕いて教える才能が無かった。


 無の境地に至りそうな洋平と話を続ける一輝の二人を見ながら、マガズミは大きくあくびをした。

「だいぶ宗教じみてきたんじゃない? 見てよあの顔、多分一ミリくらいしか話を理解してないわね」

「そうですね、洋平の合気道に対する理解度はかなり低いと思われます」

 礼儀正しく正座しているサグキオナとは違い、マガズミは畳の上にだらしなく横になって二人を見ていた。
 マガズミは合気道を高く評価している、だがそれは合理的に体を動かす事により体格、体力で勝る相手を制する事を可能とする技術としての評価だ。合気道の本質である『分かり合う事』や『全ての存在を等しく愛する事』といった考え方をマガズミは評価していない。

「ですが私にも理解する事はできません、先輩は理解できているのですか?」

「できるわけないでしょ、そもそもアタシは夢物語に興味は無いのよ」

 そう言って笑い、マガズミは視線を二人に戻した。



「つまり和合、万有愛護というのが合気道の本質だ。他者と分かり合い、全ての存在を等しく愛する為にはまず自分を知る必要がある。そのためにこうして座り、静かに自分と向き合う事が大事なんだ」

「……なるほど、よく分かった」

 合気道の歴史云々はよく分からなかったが、合気道はあくまで人を傷つけるためのものでは無く身を守るための技術だという事、そして先ほど一輝が言った分かり合う事、愛する事を理念としている事は理解できた。

「正直に言えばそこまで硬く考える必要は無い、合気道は健康法としての側面もある。それこそさっき言っていた、気分転換ぐらいに考えていたほうがいいだろうな」

 一輝の言う通り合気道は健康法としても親しまれており、激しい稽古などを必要としない点から老若男女問わず誰でも気軽に始める事ができる。 
 それを聞いた洋平は、少し肩の荷が下りたような気がした。

「そうするよ、どれだけ練習してもさっきの宇佐美みたいになれるとは思えないしな」

「そんな事は無い、練習すればあれくらいはできるようになる」

「そうは思えねえけどなあ……」

 先ほど見た一輝の無駄のない動き、膨大な時間を掛けて辿り着いたのは間違いない。だが同じだけの時間を掛けたとしても、宇佐美と同じレベルにはなれないという確信が洋平にはある。彼をそこまで卑屈にさせるほど、一輝の動きには才能がほとばしっていた。

 だが洋平の言葉を聞き、一輝は首を横に振った。

「できるさ、武の才が無い俺にもできたんだ」

「さすがに謙遜しすぎだろ、どう見たってあれは……」

「沢田、本当なんだ。俺には才能が無い、そう言われ続けてきたし俺自身もそれを曲げるつもりは無い」

「そう……なのか?」

 一輝は今まで硬いながらも、どこか親しみのある様子で話していた。だが才能の話になった時の彼の言葉からは、明確な否定と徹底した拒絶が感じられた。
 思いがけない一面を見せた一輝に洋平は思わず口を紡ぐ、まずい事を言ったのかと彼は不安に思っていた。
 
 一輝は静かに立ち上がると、窓際に置いてあった一枚の写真を持ってきた。写真には、道着を着た小さな少年と警察官の制服を着た厳格そうな男が映っている。

「これは?」

「五歳の時の俺と親父だ、親父は警察官だったんだ」

 一輝の父、宇佐美渉《うさみわたる》は警察官であり合気道はもちろん柔道、剣道といったあらゆる武道で結果を残した優秀な男だった。
 そんな男の息子という事もあり、幼い一輝には周りから期待の目が向けられていた。父と並ぶ、もしくはそれ以上の才があると。

「親父は俺が五歳の時に母が死んだのを境に、俺に武道を教え始めた。柔道や剣道はもちろん空手や、合気道まで何でもな」

 一輝は自分の手を見る、度重なる練習による突き指や脱臼によって普通の手よりも、醜く歪に形を変えた自分の手を。
 思い出すのは辛い日々、怒鳴られ叩かれ罵倒されながら過ごした日々。

「でも俺に武道の才能は無かった、何一つ親父の期待に答えられなかった。沢田は俺に合気の才能があると?」

「あ……ああ」

「俺に合気の才能があったわけじゃない、これしかできなかったんだ。何とか人並みにできたのが合気道だけだった、だからこれをひたすらに練習するしかなかったんだ」

 父親の期待に答えようと、一輝は狂ったように合気道に打ち込んだ。寝る間も惜しみ、足の裏が擦れてボロボロになるまで練習した。
 以前いた家にも練習スペースがあり、そこで彼はひたすら練習した。だが父親はすでに彼を見切っており、才能が無いと言い放ち練習も見ず、大会で結果を出して家に帰っても一瞥もくれなかった。

「でも親父からすればそれでは足りなかったんだろうな、たまに家に帰ってきても一言も喋ってはくれなかった。親父の中で俺はもう息子じゃ無かったんだ」

「じゃあこっちに引っ越してきたのは、父親が原因なのか?」

「原因……と言っていいのか分からないが、関係してる。沢田は少し前に起きた警察官殺害事件を知ってるか?」

「知ってる、確かニュースで結構騒がれてたな」

「あれの被害者……殺されたのは俺の親父だ」

「え!?」

 一週間ほど前に起きた警察官殺害事件、あの時の洋平はクラスメイトの悪意に晒されていた真っ最中だったため、事件の事は知っていたが詳細までは知らなかった。
 まさかその被害者の息子が、自分のクラスに転校してくるなど誰が予想できるだろうか。洋平はあまりの事に、言葉を失った。

「親父が殺されて、俺の身寄りは祖父しかいなくなった。だからこっちに来たんだ」

「そうだったのか……犯人は?」

「まだ捕まっていない」

「早く捕まるといいな」

 一輝はその言葉と共に、写真を洋平から受け取った。
 そして元あった窓際に写真を置いた、だが彼は洋平の方に振り向かず暗くなり始めた外を眺めている。少し間を置いて、彼は口を開いた。

「……そうだな」

 そう言った一輝の声は、ようやく聞き取れるほど小さく頼りなかった。
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