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忌み仏 8
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穂高川《ほたかがわ》は、長野県安曇野市を流れる信濃水系の一級河川である。
安曇野市明科川手にて、犀川《さいかわ》と合流する。合流地点付近は扇状地の末端で、様々な場所から湧水が噴出し、日本国内有数のワサビの産地となっている。
安曇野怪奇譚『燃える女』の出典に記されていた、永徳寺はこの穂高川沿いに位置している。
「廻、大丈夫かい? 顔色が悪いよ」
永徳寺を目指し、車を走らせる廻の体調は万全とは程遠いものだった。
どちらかと言えば色黒な彼の顔は、不健康そうに青ざめている。妙に肩は重く、アクセルを踏む足にも力が入っていないせいで二人の乗った車は、周りの車と比べると亀のようだ。
「大丈夫じゃねえよ……まともに寝れてねえんだから」
廻は義時の質問に力無く答える、今の彼には言葉一つ発するのも億劫で仕方がない。
彼の体調不良の原因は、ご存知の通りあの女のせいだ。
昨晩も例に漏れず部屋に現れ、彼の睡眠の質を著しく低下させたのだ。
女の事を考えれば眠れず、ようやく眠れたと思えば暗い部屋の中で女はすすり泣く。
そんな状況では、運転などの疲れがまともに取れるはずもない。
はっきり言って、この状況下で彼に運転させる事は自殺行為に他ならない。
「少し休もうか、何か食べるかい?」
「飯はいらねえ……何か飲み物でも買ってきてくれ」
コンビニエンスストアに車を止めると、義時は車を出て行った。
一人残された廻は、ため息を吐いてからシートベルトを外し席を倒す。僅かな時間でも構わない、少しでも目を閉じて体と神経を休ませたかったのだ。
「くそ……ふざけんなよ。一体何だって俺なんだ……?」
彼の疑問は、もっともだった。
なぜ自分なのか? 別に義時が苦しめばいいといった感情は彼の中には無い、だがただただ疑問なのだ。
あの仏像に見入られる条件は不明だが、廻も義時もあの仏像の姿を見て触れもしたはずだ。所有者を不幸にするというのなら、彼ら二人が所有者として判定されてもおかしくはない。
だが義時は女の声も姿も見ていない、彼と廻の仏像に対するアクションに差は無いはずだというのに。
どれだけ考えても答えは出ない、とにかく今は少しでも体を休ませるべきだ。
そう判断した廻は、目を閉じて休もうとしたその時だ。
どん、と音がして車が揺れた。
重さを持った何かが、助手席側の扉にぶつかったような音と衝撃。
一体なんだと廻は目を開く、まさか隣の車が扉でもぶつけたのか? あの音と衝撃では、かなりの傷になっているに違いない。
不幸ってのは続くもんだな、と彼は助手席側に顔を向けた。
『う……うう』
女だ、女がいる。
顔を覆った両手を助手席側の窓に押し付けて、すすり泣いている。
廻を襲った恐怖は、これまでのものとは比べものにならないものだった。
昨日、一昨日と女を見たのは夜だ。もちろん夜の闇の中で見る女の姿も、恐ろしいものだった。
だが『夜に出る』という規則性さえ知っていれば、ある程度の心構えのようなものはできる。だが今回はどうだ、昼間の太陽の下で女は現れた。
規則性を無視し、夜の闇から這い出し、温かな太陽の下でさえ、うめきと恐怖をまき散らすその姿は、周囲の明るさと相まって余計におぞましく見えた。
昨晩まともに寝れなかったせいで、ついに幻覚でも見始めてしまったのかと廻は自分を馬鹿にした、小さな笑みを浮かべる。
だがそんな彼の抵抗は、すぐに潰された。
女は顔を覆ったまま後ろに少しのけぞると、どん! と窓に手を叩きつけた。
少し止まってから、また離れまたぶつける。女はそれを、一定のリズムで繰り返し始めた。
「おい……! おい! ふざけんなよ! くそ! くそが! 何で……何で俺なんだよ!」
半狂乱になって叫ぶ廻の言葉に、女が答える事は無い。
ただ泣きなながら、窓にぶつかり続けている。
『ううう……うう』
廻は目をぎゅっと閉じると、運転席で体を丸めた。
もう少しすれば義時も戻ってくる、少しだけ耐えれば状況は変わるはずだ。
重さを持った肉が車体にぶつかる音が響き、車体は激しく大きく揺れ続ける。
もう少し、もう少しと彼は心の中で叫び続けた。永遠に続くような女の奇行は、突然ピタリと止んだ。
しんと静まり返った車内で体を丸めていた廻は、ゆっくりと瞼を放す。
助手席の窓に、女はいなかった。
「消え……た?」
まばたきを繰り返すが、やはり窓から女は消えている。
体から力が抜け、廻は重苦しいため息を吐き、横になったまま天井を見上げた。疲れていたのだろう、まともに寝れていないせいだ、やっと彼は自分を馬鹿にできた。
「……疲れてんだな」
はは、と小さく笑った彼の座っている運転席の窓に、べたりと女が張り付いた。
『うう……ううううう……』
「う、うわああああ!」
尾を引くような絶叫が、彼の口から漏れた。
「おーい、大丈夫かい?」
「……っは!?」
体を揺さぶられ、廻は目を開いた。
水の中から出た時のように、彼は早く浅い呼吸をする。隣を見ると、ビニール袋を持った義時が覗き込んでいた。
廻は体中に嫌な汗をかいており、額を拭った手の甲にはそれがべったりと付いていた。
「ずいぶんうなされていたね、悪い夢でも見たのかい?」
「……見て分かんねえのかよ」
「悪いね、そういうのには疎くてさ」
半笑いの義時は、廻にお茶を差し出した。
それを一気に飲み干した廻を見て、義時は少し訝し気な表情で彼を見る。
「多分だけど、あんまり状況は良くないね」
「ああ、どんどん悪くなってる。俺がおかしくなるのが早いか、あの仏像の謎が解けるのか先かのチキンレースさ」
「じゃあ急いだほうがいいね、早速出発しようか」
安曇野市明科川手にて、犀川《さいかわ》と合流する。合流地点付近は扇状地の末端で、様々な場所から湧水が噴出し、日本国内有数のワサビの産地となっている。
安曇野怪奇譚『燃える女』の出典に記されていた、永徳寺はこの穂高川沿いに位置している。
「廻、大丈夫かい? 顔色が悪いよ」
永徳寺を目指し、車を走らせる廻の体調は万全とは程遠いものだった。
どちらかと言えば色黒な彼の顔は、不健康そうに青ざめている。妙に肩は重く、アクセルを踏む足にも力が入っていないせいで二人の乗った車は、周りの車と比べると亀のようだ。
「大丈夫じゃねえよ……まともに寝れてねえんだから」
廻は義時の質問に力無く答える、今の彼には言葉一つ発するのも億劫で仕方がない。
彼の体調不良の原因は、ご存知の通りあの女のせいだ。
昨晩も例に漏れず部屋に現れ、彼の睡眠の質を著しく低下させたのだ。
女の事を考えれば眠れず、ようやく眠れたと思えば暗い部屋の中で女はすすり泣く。
そんな状況では、運転などの疲れがまともに取れるはずもない。
はっきり言って、この状況下で彼に運転させる事は自殺行為に他ならない。
「少し休もうか、何か食べるかい?」
「飯はいらねえ……何か飲み物でも買ってきてくれ」
コンビニエンスストアに車を止めると、義時は車を出て行った。
一人残された廻は、ため息を吐いてからシートベルトを外し席を倒す。僅かな時間でも構わない、少しでも目を閉じて体と神経を休ませたかったのだ。
「くそ……ふざけんなよ。一体何だって俺なんだ……?」
彼の疑問は、もっともだった。
なぜ自分なのか? 別に義時が苦しめばいいといった感情は彼の中には無い、だがただただ疑問なのだ。
あの仏像に見入られる条件は不明だが、廻も義時もあの仏像の姿を見て触れもしたはずだ。所有者を不幸にするというのなら、彼ら二人が所有者として判定されてもおかしくはない。
だが義時は女の声も姿も見ていない、彼と廻の仏像に対するアクションに差は無いはずだというのに。
どれだけ考えても答えは出ない、とにかく今は少しでも体を休ませるべきだ。
そう判断した廻は、目を閉じて休もうとしたその時だ。
どん、と音がして車が揺れた。
重さを持った何かが、助手席側の扉にぶつかったような音と衝撃。
一体なんだと廻は目を開く、まさか隣の車が扉でもぶつけたのか? あの音と衝撃では、かなりの傷になっているに違いない。
不幸ってのは続くもんだな、と彼は助手席側に顔を向けた。
『う……うう』
女だ、女がいる。
顔を覆った両手を助手席側の窓に押し付けて、すすり泣いている。
廻を襲った恐怖は、これまでのものとは比べものにならないものだった。
昨日、一昨日と女を見たのは夜だ。もちろん夜の闇の中で見る女の姿も、恐ろしいものだった。
だが『夜に出る』という規則性さえ知っていれば、ある程度の心構えのようなものはできる。だが今回はどうだ、昼間の太陽の下で女は現れた。
規則性を無視し、夜の闇から這い出し、温かな太陽の下でさえ、うめきと恐怖をまき散らすその姿は、周囲の明るさと相まって余計におぞましく見えた。
昨晩まともに寝れなかったせいで、ついに幻覚でも見始めてしまったのかと廻は自分を馬鹿にした、小さな笑みを浮かべる。
だがそんな彼の抵抗は、すぐに潰された。
女は顔を覆ったまま後ろに少しのけぞると、どん! と窓に手を叩きつけた。
少し止まってから、また離れまたぶつける。女はそれを、一定のリズムで繰り返し始めた。
「おい……! おい! ふざけんなよ! くそ! くそが! 何で……何で俺なんだよ!」
半狂乱になって叫ぶ廻の言葉に、女が答える事は無い。
ただ泣きなながら、窓にぶつかり続けている。
『ううう……うう』
廻は目をぎゅっと閉じると、運転席で体を丸めた。
もう少しすれば義時も戻ってくる、少しだけ耐えれば状況は変わるはずだ。
重さを持った肉が車体にぶつかる音が響き、車体は激しく大きく揺れ続ける。
もう少し、もう少しと彼は心の中で叫び続けた。永遠に続くような女の奇行は、突然ピタリと止んだ。
しんと静まり返った車内で体を丸めていた廻は、ゆっくりと瞼を放す。
助手席の窓に、女はいなかった。
「消え……た?」
まばたきを繰り返すが、やはり窓から女は消えている。
体から力が抜け、廻は重苦しいため息を吐き、横になったまま天井を見上げた。疲れていたのだろう、まともに寝れていないせいだ、やっと彼は自分を馬鹿にできた。
「……疲れてんだな」
はは、と小さく笑った彼の座っている運転席の窓に、べたりと女が張り付いた。
『うう……ううううう……』
「う、うわああああ!」
尾を引くような絶叫が、彼の口から漏れた。
「おーい、大丈夫かい?」
「……っは!?」
体を揺さぶられ、廻は目を開いた。
水の中から出た時のように、彼は早く浅い呼吸をする。隣を見ると、ビニール袋を持った義時が覗き込んでいた。
廻は体中に嫌な汗をかいており、額を拭った手の甲にはそれがべったりと付いていた。
「ずいぶんうなされていたね、悪い夢でも見たのかい?」
「……見て分かんねえのかよ」
「悪いね、そういうのには疎くてさ」
半笑いの義時は、廻にお茶を差し出した。
それを一気に飲み干した廻を見て、義時は少し訝し気な表情で彼を見る。
「多分だけど、あんまり状況は良くないね」
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