philophilia

宇野 肇

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Hello.

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 僕は犬です。奴隷をしています。
 ご主人様には夕焼けに染まる雲のようだと言っていただいた朱金色の髪の毛には半立ち耳セミ・プリック・イヤーが、そしてお尻の上には同じ色の尻尾がついています。ぼくの目は片青眼バイアイといって片方だけ青白い色をしているのですが、それも別段珍しくはなく、僕の価値というと本当に特にないのです。そんなごくごく普通の、面白みのない僕ですが、ご主人様は僕の頭の弱いところも含めて可愛がってくださいます。

 僕のご主人様はたいそう美しい人で、髪の色はきらきらとして眩しく、月のような白銀色で、瞳はいつか連れて行っていただいた時に見た海の色とそっくりなのです。
 身長は僕と同じくらいです。年は僕の方がいくらか下でしたが、僕の体は貧相なので背だけがひょろひょろと長いのが不気味で、鏡のような姿の映り込むものが苦手でしたが、それもご主人様がしゃんと背を伸ばすようおっしゃられて、姿勢を褒められて以降はさほど気にならなくなりました。――そう、ご主人様の話でした。
 ご主人様の肌は大変きめ細かくて、剣を持つ手のひらこそ豆が潰れて硬くなっておられましたが、それでも全体的に、そして細部に至るまでスラリとした方です。僕はあの人以上に美しい人を知りません。

 僕がご主人様に拾われたのは、何処かのお屋敷でした。そこで僕はひたすら殴られ、蹴られ、斬りつけられといった日々を送っていました。今ではもうそこまで鮮明に思い出すこともなくなりましたが、まさに尻尾を切り落とされんとしたところにけたたましい音とともに踏み込んできたその人こそが、今の僕のご主人様なのでした。
 ご主人様は不思議な方でした。僕を折檻していた人をあっという間に組み伏せると、僕の姿を見て、それから黙って、暖かい毛布で体をくるんでくださいました。
「辛かったろう」
「?」
 ご主人様は柔らかな声で僕に話しかけられましたが、その時の僕は『辛い』ということがよく分からずにただぽかんとして、ご主人様のお顔を見上げるしかできなかったのでした。
 ご主人様はよく分かってない僕のことをきちんと分かっていらっしゃるようでした。あるいは単に、言葉を聞き取れなかったか、喋れないと思われたのかもしれません。耳や尻尾は無意識に動いてしまうものですから、僕の耳は音を拾おうとピクピク動いていたでしょう。僕の耳がおかしくないこともすぐに気づいておられるようでした。
 僕を毛布で包んだご主人様は、やすやすと僕を抱き上げました。華奢に見えて、ご主人様は当時から力持ちでした。ご主人様は「普通だ、お前が軽すぎたんだ」とおっしゃりましたが、僕は普段移動する時は蹴り飛ばされたりしていましたし、普通というものを知らなかったので、とにかくご主人様のことをすごいと思いました。
 僕はそのまま屋敷を出ることになりました。これを『保護』というらしいです。保護された僕は、ご主人様の元で身を清め、傷を癒し、腹を満たしました。
 触れたことのない肌を温めるお湯、いい香りのする白い『石鹸』、尻尾に至るまでボサボサで縮れていた髪の毛は短く切られ、その後丁寧に櫛を入れられ、香油を塗られました。
 傷はご主人様の不思議な力ですぐに治ってしまいました。ご主人様が「このことは誰にも言ってはいけない」とおっしゃったので、僕はそれを守りました。後になってこの不思議な力は誰もが恐れる異端の証だと知りましたが、その頃には僕はすっかりご主人様に懐いていましたから、特に思うところはありませんでした。僕にとっては痛いのを終わらせてくれた優しい力です。慕いこそすれ、怖がるなんてあり得ませんでした。
 振舞われた料理は今まで見たことのないご馳走で、僕はいつも腹を空かせていましたが、それから漂う匂いを嗅ぐと、不思議と腹がきゅうう、と縮こまり、尚一層空腹を感じてしまうことに驚きました。僕の髪と同じような色のお湯からはふっくらと暖かな湯気が出ていて、中には野菜が入っていました。ご主人様は「こんなものは病人食だぞ」となにやら渋い顔をされましたが、僕はそっとそのお湯を舐めると、衝撃に打ち震えました。暖かなそれは、飲み下すとそのまま僕の腹の中に溶けてゆくようでした。床に這いつくばって、カビの生えた固いパンを濁った水で柔らかくして、どうにか食べていた僕には、過ぎたもののようにも思えました。僕は美味しいということを知らなかったので、ひたすらすごい、すごいと言いながら透き通った綺麗なお湯と中に入っていた野菜を飲み干しました。野菜は全く硬くなく、口の中に入れるとほろろと崩れてゆきました。ポトフというらしいです。あと、こういう時は『美味しい』というのだと教えてもらいました。その後に出されたリゾットという料理ですが、どろどろとしていました。僕は何も知らなかったので、この時冷ますということも全く知りませんでした。だからスプーンの使い方を教わり、ぎこちなく口に入れた時に口の中を火傷したのは当然と言えました。ご主人様はびっくりして暴れてしまった僕を抱きしめてくれ、傷を治して、「こうやって食べるんだ」と手ずからスプーンを取って、ふうふうと息を吹きかけて冷まし、僕の口に入れてくださいました。今度のリゾットは柔らかく、適度に暖かくて、こちらも大して噛まなくてもよかったので、僕はほとんど飲むようにしながら、馬鹿のように(実際のところその通りなのです)一口食べては美味しいと何度も繰り返しご主人様に報告しながら、それもペロリと平らげました。

「さて」
 と、ご主人様は僕の食事が終わる頃、僕に話しかけられました。僕は難しいことはよく分からなかったのですが、ご主人様のおっしゃった言葉は今でも忘れていません。
「お前を痛めつけていた奴は俺との賭けに負けた。ヤツは他にも負けが込んでいて、俺は他の奴らと一緒に金目のものを差し押さえていただいて行くために踏み込んだ。そこでお前を見つけた。調べさせたが、お前、奴隷登録はまだのようだな。奴隷が孕んで産んだ子と言ったところだろうが……お前のことは俺の奴隷として申請しておいた。獣人が自由に徘徊しているところが見つかればその場で射殺もあり得る。それに、お前はヤツの『財産』の一部だ。俺が頂いたところで文句は言わせん。ヤツからしても、借金するよりマシだろうよ」
 この時僕が理解できたことといえば、僕は奴隷だということと、ご主人様がご主人様がであるということでした。
「名前はあるか?」
「なまえ?」
「お前を呼ぶ時の言葉だ」
 訊ねられ、僕は少し考えてから答えました。
「おい」
「ん?」
「おい、と、呼ばれてました」
 何度も呼ばれたのでそれは間違いありませんでした。
 ご主人様は僕の答えを聞くと、くしゃりと顔をしかめました。それでもご主人様の美しさはそのままで、僕はやっぱり綺麗な人だと思ったのです。
「それは名前じゃないな。……俺がつけるとしよう。そうだな……フィロン。フィロンというのがお前のことだ。呼ばれたら返事をするように」
「はい」
 そして、僕はフィロンという名前の奴隷になりました。奴隷というものがどういうものなのかは、身をもって知っていました。僕は生まれつき奴隷で、だから殴られたりすることは当然なのだと言われていましたから。
 ご主人様は今までの人よりも随分と雰囲気も表情も、全てが違っておられました。荒々しいと思われたのは僕が拾われた屋敷の扉を開く時くらいのもので、それ以降はすっかり静かで、落ち着いていらっしゃいました。
「俺の名前はアトリだ。俺を呼ぶ時はアトリと言えばいい」
「はい、アトリ」
 言われた通りにすると、ご主人様は目を丸くして、それからくすっと笑われました。……この時の僕は本当に、今よりもずっとずっとものを知らなかったのです。名前の後に『様』をつけるか、『ご主人様』と言うことは知っておりました。ですが、ご主人様は『アトリ』と呼ぶようにと仰られたものですから、僕は本当にそのままでお呼びしてしまったのです。
「俺はそれでも構わんが、人の目がある時は角が立つ。アトリ様、に訂正しよう」
 ご主人様は僕の粗相にも態度を変えられることはありませんでした。ただ静かに微笑みながらそうおっしゃって、僕はその通りにしました。
 その後も自分のことを『フィロンさま』と言ってしまい、これもまたご主人様に正しく教えていただくことになりました。けれどもご主人様は僕に折檻することはなく、それどころかやはりくすくすと笑い「フィロンはかわいいな」と仰り、そして僕の頭や耳の後ろを撫でてくださるものですから、僕はあまり頭が良くならなくてもいいやと思ったものです。
 僕は粗相をしてしまった時のご主人様の少し可愛らしく見える笑顔も、その後に僕の頭を撫でてくださる手の温もりも大好きになりました。けれどわざと馬鹿になるほどの賢さもありませんでしたので、その笑顔を見ることはなかなかできませんでしたけど。

 ご主人様のされることはほとんど全て、僕にとって初めてのことばかりでした。食事や入浴は勿論、眠る時も。
「さあ眠ろう」
 そう言われた時、僕はどこへ行けばよいのかわかりませんでしたので、そのように訊ねました。するとご主人様は「ふむ」と言ったきり黙りこまれました。
「じゃあ、一緒に寝るか。寝方は分かるか?」
 そして、僕はベッドへと連れてゆかれました。僕は初めてふかふかするものの上に乗り、ご主人様がされるように見よう見まねで身を横たえました。仰向けになると尻尾が気持ち悪かったのでそう言うと、「横向けかうつ伏せになればいい」とおっしゃられ、手本を見せてくださるご主人様の動きを見て、ご主人様の方を向きました。今までは膝を抱えてうつらうつらとすることが眠ることだと思っていたので、それもまた不思議なことのように思えました。
「……落ち着かないか? 大丈夫だ、ここにはお前を……フィロンを傷つける輩はいない」
 一向に寝付かなかった僕を心配してくださったのでしょう。ご主人様は僕の頭を優しく撫でてくださいました。手のひらは僕の頭にぴっとりとくっつけて、耳の裏を指先で軽く引っ掻くようにして。僕はそれがとても気持ちのよいことだと知りました。そしてご主人様が僕の頭を撫でるために近寄られた分だけ、僕はご主人様の呼吸や体温を感じることが出来ました。それらは暖かく、僕は真似をするようにご主人様の呼吸と自分のそれを重ねました。すると不思議なことに、なんだかとても、身体がぐったりと重くなりました。目をぱちぱちとするのも億劫なほどなのです。僕が目を擦る様子を見て、ご主人様はおっしゃいました。
「そのまま眠れ」
 その声はやっぱり落ち着いていて、僕の耳はぴくぴく動きながらご主人様の声を受け取りました。ご主人様の声も、息も、耳から僕の中に入って、僕の内側を溶かしてゆくようでした。そして同時にその温もりの中でとろりと、瞼が溶けるように閉じてゆくのを勿体なく思いました。

 これが、僕とご主人様が出会った日のことの全てです。
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