9 / 9
アドルフィーナのお兄様
しおりを挟む
友と呼んでも差し支えない相手に、非礼を詫びて怒られに行くというのはなかなか勇気が要るものだ。
実際、クラウスはゲルハルトへの個人的制裁について
「やりすぎだ、馬鹿」
そう言ってアルベルトから一発、手痛い拳を見舞われた。
無論それを行ったのも、甘んじて受けたのも、双方が遺恨を残さないようにするための形式的なものに過ぎなかったのだが、お互いが抱いた怒りを消化するためにも必要な通過儀礼でもあった。
ヘーフェヴァイツェン家で手当を受けたものの、少々赤く腫れた頬で外出するのは憚られる。
そこで、クラウスは商業区よりもやや外れた位置にある平民向けの貸本屋まで馬車で向かうことにした。
『書く』ことに特化したその場所は殆ど工房と呼んでも差し支えなく、正面からではなく裏口に馬車を止め、ひっそりと裏門をくぐる。ノッカーを品良く叩くと、涼やかなドアベルを揺らしながら扉が開かれた。
「はいはい~……って、クラウス様じゃないですか。ご無沙汰して……って、え?! な、なんかお顔が……???」
「ああ、ちょっとな」
「お貴族様がお顔を腫らして『ちょっとな』で済むことあります? と、取り敢えずお入りくださいな」
豊かなブロンドヘアをひっつめた女性がクラウスを招き入れる。クラウスにとって同窓生にあたる彼女は、クラウスが卒業を目前に控えた時期に「卒業した後もどうかそのままで」と頼んだのを受け入れ、学生時代のまま気安い態度を貫いてくれていた。クラウスがなんの駆け引きもなく頼み事をしたのは、後にも先にもそれ一度きりだ。
男爵家の庶子である彼女は、母親の教育だけで読み書きを覚え、平民としての生活の中で計算も身につけた努力の人である。
彼女はリビングにクラウスを通すと、テキパキとティーセットを用意し、もてなした。彼女の作業場は紙が傷まないよう、別で設けてある。
卒業後、彼女がここに居を構え仕事をするようになってから、クラウスは不定期にこの場所を訪れていた。
ただでさえこぢんまりとしたリビングルームの中、彼女一人の体に合わせたテーブルにクラウスの長い足が収まるはずもなく、椅子を斜めにして腰掛けるのも既に見慣れた光景だった。
「それで、今日はそんなお身体で、一体どうなさったんです? 何か火急のご用事でも?」
「なに、大した用事じゃない。オリアナ、君の顔を見にな」
「……本当に、何があったんですか? わたしの顔を見ないといけないほどの何かが?」
オリアナは眉をひそめた。クラウスの顔に残る暴力の痕に、自分が関わっているのかと思ってのことだった。
クラウスは首を振った。
「いや、友人に怒られに行った帰りだ。気持ちが落ち込んだ」
「はあ……。つまり、わたしの顔を見て気分を上げたい……上げられるって事ですか。変わってますね」
「私が書いた論文の感想を、わざわざ対面で言いに来た君ほどではない」
「もうっ。その話はいいでしょう? あの時はあんなものを書いたのが同世代の人だってことに衝撃を受けて、実際に一度どんな人なのか知りたかったんです。それだけ浮かれてたというか……熱が出てるのにはしゃぐ子どもと同じですよ」
二人の出会いは学園でのことだった。
ある日クラウスがテラスの端で読書に勤しんでいた折、突然声を掛けられた。その相手がオリアナだった。
彼女は上気した頬もそのままに、酷く緊張した様子でクラウスがクラウス・ユスティーツブルクであることを確認すると、深く息を吸い込んだあと一気に一本の論文について語り出したのだ。
なんでも、平民向けの講義で論文の書き方の例として見せられたのがクラウスが課題で書いたものだったらしいのだが、彼女は目をきらきらと輝かせてクラウスに自分がそれを読んで何を思ったのかをつらつらと語った。
そして
「わたし、あなたのような立派なことができるような人になりたいです!」
そう言って、周囲の度肝を抜いた。
クラウスはといえば、彼女があまりにも気後れすることなく楽しそうに語って聞かせるので、その表情の一つ一つから目が離せなくなっていた。
知識を貪欲に取り込み、自分の血肉とする。彼女は飢えた獣のようだった。否、獣でも必要以上に食べることはない。『知ること』の快感に支配された中毒者といった方が適切だろう。彼女はよく寝食を疎かにしたので、クラウスは他の女生徒から指導を受けている彼女の姿をよく見かけたものだ。
その後、程なくして『お叱り』を受けている時間さえ惜しいと思ったのか、身だしなみもマナーも良くなったが、クラウスにとってどれほど彼女が磨かれていっても、やはり思い起こされるのは初対面のことだった。
今でも鮮明に思い出せるほど、彼女の瞳の苛烈さと美しさは常軌を逸していた。
オリアナはいつでも楽しそうに学んだ。それを時に遠目に、時に指導を頼まれて直ぐ隣で見てきたのがクラウスだ。
まるで「息をすることってこんなに素晴らしいことなんだ!」と言いたげな彼女の様子は、いつ見てもクラウスの目を惹いた。その顔が曇る事のないよう、男爵家からの口出しを制するため、後見人まがいのことをして静かに手を回したことを、彼女は知らない。
ただ自立心の強い彼女が、文字を、本を、もっと多くの人に届けられたらと、平民向けの言葉や平易な表現に直した本を一冊一冊作ろうとするその背を押した。
彼女が最もやりたいことに関しては表立って手を差し伸べられないが、副業として代筆業を勧め、貴族階級や富裕層の平民から資金を作れるよう計らった。
学生時代だけでなく、卒業後も彼女と親交があることを仄めかせば、中途半端に彼女へ手を出そうとする輩を牽制できる。クラウスが唯一、女性の中で親交を深めたのは彼女だけ。その意味を勝手に推測させた。
今日も、彼女がいつも通りの様子であることがクラウスにとって何よりも重要だった。その姿を少しの間目に留めるだけで、不思議と平静を保つことができたからだ。
腐らずにただ前を見て歩き続ける彼女を、眩しいと思ったのはいつ頃だっただろう。正面から彼女の顔を見ることが躊躇われ始めたのは。
「君は変わらないな」
安堵から出た言葉だったが、オリアナは困ったように眉尻を下げた。
「そうですか? もうおばさんです。そろそろ、母を待たせることもできなくなってきました」
「ご母堂になにかあったのか?」
クラウスの声のトーンは変わらなかったが、その目はつぶさに彼女の変化を見逃すまいとしていた。
そんなクラウスにオリアナは笑い、肩をすくめる。そして僅かに視線を落とした。
「お見合いをすることになりまして。一応、めぼしい方が何人かいるみたいで……。安心させて欲しいって言われちゃいました。今まで好きにさせて貰いましたから、今度はわたしが返していく番だなって……思って……。わたしのやり方で恩返しができなかったのは、心残りですけど」
「その言い方からすると、ここは閉めてしまうのか」
「わかりません。まだ、なにも……。でも、赤ちゃんができて、子育てをして……ってなったら、やっていく余裕はなくなりますね。……そうだ、クラウス様、ここの経営を引き継いでくださるような方にお心当たりはありませんか? クラウス様の思う方なら、悔いなく引き渡せるんですが」
「……そうだな、声を掛けてみることにしよう」
「……」
沈黙が落ちた。ティーカップから立ちのぼる湯気だけが、時間が止まるはずがないことを二人に突きつける。
こんなとき、先に口を開くのはいつもオリアナだった。
「……クラウス様、いい加減、はっきりしましょう」
「なにをだ」
「わたし、平民で、クラウス様の隣に立つなんて、夢を見ることさえできませんでした」
「……」
「でも、クラウス様は今も、誰とも婚約してないって。
それを聞いて、わたし……。わたし、ちゃんとお別れできてない気持ちに気づいてしまったんです」
クラウスの知るオリアナらしからぬ、やや落ち着いた声に、クラウスはじっと聞き入った。
彼女の顔を見ても問題ないはずなのに、どうしてだか、紳士としてみてはいけないような気がして、クラウスは自分の膝に目を落とす。
だが、オリアナの声は真っ直ぐだった。
「どうか、お願いします。クラウス様が今でもお一人なのは、別にわたしのことを望んでいるわけじゃないって言ってください。じゃないと……わたし、いつまでもあなたを探してしまう。
貴族の、それも王様に近い人の側にいる覚悟なんて、どうやってするのか見当もつきません。でも、あなたが望んでくれるなら、わたし、どんな形でもいい。側にいたいって思ったんです。
その気持ちを卒業の時までに捨てることができなくて……お見合いの話が母の口から出たとき、あなたのことが過りました。……それで、わたし、あの頃のまま自分の気持ちが変わってないって気づいてしまったんです」
オリアナは声を震わせた。それ以上は感情が高ぶり、言葉にできない様子だった。
クラウスが盗み見るように確認した彼女は、俯き、硬く瞳を閉ざしていた。まるで罪人が判決を待つかのようだった。異なるのは、その肌がうっすらと赤く染まっていたことくらいのもので。
「……私は、あの時、目を輝かせて論文について語りに来た君から目が離せなかった」
その言葉は、クラウスの口から静かにこぼれ落ちた。
最近は感情を表に出す機会が多いな、と頭の片隅で感じながら、オリアナの笑顔を絶やさないためにできることは何かを考え、行動に移していく。
「今もそうだ。いつも、君の目が輝く瞬間を見逃したくないと思っている。それが私の手が届かない場所であろうとも、君が笑顔でいられるというのなら大体のことはする」
言葉とともに、オリアナは強張った身体をゆるゆると解き、信じられないものを見るような目でクラウスを見た。
「……クラウス様、それ、ほとんどプロポーズですよ」
「君の言葉も似たようなものだっただろう」
「いやでも、クラウス様のは愛の告白……」
「君もな」
呆けたようなオリアナに、クラウスは彼女の淹れた紅茶に口をつける。
オリアナにとっては学生時代から見慣れた姿だった。
しかし、不意にこの場所で毎回、毒味もなく必ずそうするのが何を思ってのことなのか、そのことに思い至ると、彼女は首筋まで真っ赤にして視線を彷徨わせた。
「も、もっとご自分を大事にしてください……」
何よりも雄弁に、分かりやすく彼は示していた。あとは彼女がその胸の中に飛び込む勇気を持つだけだったのだ。
後日、クラウスが当主である父親に手紙で彼女を迎える旨を伝えると、『遅い、この馬鹿者。お前以外の準備は全てできている。式の日取りを決めてから連絡を寄越しなさい。逆算して予定を組む』と速達で返事を寄越され、執務室で目を瞬いた。
「……まだ、妻としてとも、恋人としてとも言ってないはずだが……?」
温かな日差しが庭を照らす、気分の良い午後のことだった。
実際、クラウスはゲルハルトへの個人的制裁について
「やりすぎだ、馬鹿」
そう言ってアルベルトから一発、手痛い拳を見舞われた。
無論それを行ったのも、甘んじて受けたのも、双方が遺恨を残さないようにするための形式的なものに過ぎなかったのだが、お互いが抱いた怒りを消化するためにも必要な通過儀礼でもあった。
ヘーフェヴァイツェン家で手当を受けたものの、少々赤く腫れた頬で外出するのは憚られる。
そこで、クラウスは商業区よりもやや外れた位置にある平民向けの貸本屋まで馬車で向かうことにした。
『書く』ことに特化したその場所は殆ど工房と呼んでも差し支えなく、正面からではなく裏口に馬車を止め、ひっそりと裏門をくぐる。ノッカーを品良く叩くと、涼やかなドアベルを揺らしながら扉が開かれた。
「はいはい~……って、クラウス様じゃないですか。ご無沙汰して……って、え?! な、なんかお顔が……???」
「ああ、ちょっとな」
「お貴族様がお顔を腫らして『ちょっとな』で済むことあります? と、取り敢えずお入りくださいな」
豊かなブロンドヘアをひっつめた女性がクラウスを招き入れる。クラウスにとって同窓生にあたる彼女は、クラウスが卒業を目前に控えた時期に「卒業した後もどうかそのままで」と頼んだのを受け入れ、学生時代のまま気安い態度を貫いてくれていた。クラウスがなんの駆け引きもなく頼み事をしたのは、後にも先にもそれ一度きりだ。
男爵家の庶子である彼女は、母親の教育だけで読み書きを覚え、平民としての生活の中で計算も身につけた努力の人である。
彼女はリビングにクラウスを通すと、テキパキとティーセットを用意し、もてなした。彼女の作業場は紙が傷まないよう、別で設けてある。
卒業後、彼女がここに居を構え仕事をするようになってから、クラウスは不定期にこの場所を訪れていた。
ただでさえこぢんまりとしたリビングルームの中、彼女一人の体に合わせたテーブルにクラウスの長い足が収まるはずもなく、椅子を斜めにして腰掛けるのも既に見慣れた光景だった。
「それで、今日はそんなお身体で、一体どうなさったんです? 何か火急のご用事でも?」
「なに、大した用事じゃない。オリアナ、君の顔を見にな」
「……本当に、何があったんですか? わたしの顔を見ないといけないほどの何かが?」
オリアナは眉をひそめた。クラウスの顔に残る暴力の痕に、自分が関わっているのかと思ってのことだった。
クラウスは首を振った。
「いや、友人に怒られに行った帰りだ。気持ちが落ち込んだ」
「はあ……。つまり、わたしの顔を見て気分を上げたい……上げられるって事ですか。変わってますね」
「私が書いた論文の感想を、わざわざ対面で言いに来た君ほどではない」
「もうっ。その話はいいでしょう? あの時はあんなものを書いたのが同世代の人だってことに衝撃を受けて、実際に一度どんな人なのか知りたかったんです。それだけ浮かれてたというか……熱が出てるのにはしゃぐ子どもと同じですよ」
二人の出会いは学園でのことだった。
ある日クラウスがテラスの端で読書に勤しんでいた折、突然声を掛けられた。その相手がオリアナだった。
彼女は上気した頬もそのままに、酷く緊張した様子でクラウスがクラウス・ユスティーツブルクであることを確認すると、深く息を吸い込んだあと一気に一本の論文について語り出したのだ。
なんでも、平民向けの講義で論文の書き方の例として見せられたのがクラウスが課題で書いたものだったらしいのだが、彼女は目をきらきらと輝かせてクラウスに自分がそれを読んで何を思ったのかをつらつらと語った。
そして
「わたし、あなたのような立派なことができるような人になりたいです!」
そう言って、周囲の度肝を抜いた。
クラウスはといえば、彼女があまりにも気後れすることなく楽しそうに語って聞かせるので、その表情の一つ一つから目が離せなくなっていた。
知識を貪欲に取り込み、自分の血肉とする。彼女は飢えた獣のようだった。否、獣でも必要以上に食べることはない。『知ること』の快感に支配された中毒者といった方が適切だろう。彼女はよく寝食を疎かにしたので、クラウスは他の女生徒から指導を受けている彼女の姿をよく見かけたものだ。
その後、程なくして『お叱り』を受けている時間さえ惜しいと思ったのか、身だしなみもマナーも良くなったが、クラウスにとってどれほど彼女が磨かれていっても、やはり思い起こされるのは初対面のことだった。
今でも鮮明に思い出せるほど、彼女の瞳の苛烈さと美しさは常軌を逸していた。
オリアナはいつでも楽しそうに学んだ。それを時に遠目に、時に指導を頼まれて直ぐ隣で見てきたのがクラウスだ。
まるで「息をすることってこんなに素晴らしいことなんだ!」と言いたげな彼女の様子は、いつ見てもクラウスの目を惹いた。その顔が曇る事のないよう、男爵家からの口出しを制するため、後見人まがいのことをして静かに手を回したことを、彼女は知らない。
ただ自立心の強い彼女が、文字を、本を、もっと多くの人に届けられたらと、平民向けの言葉や平易な表現に直した本を一冊一冊作ろうとするその背を押した。
彼女が最もやりたいことに関しては表立って手を差し伸べられないが、副業として代筆業を勧め、貴族階級や富裕層の平民から資金を作れるよう計らった。
学生時代だけでなく、卒業後も彼女と親交があることを仄めかせば、中途半端に彼女へ手を出そうとする輩を牽制できる。クラウスが唯一、女性の中で親交を深めたのは彼女だけ。その意味を勝手に推測させた。
今日も、彼女がいつも通りの様子であることがクラウスにとって何よりも重要だった。その姿を少しの間目に留めるだけで、不思議と平静を保つことができたからだ。
腐らずにただ前を見て歩き続ける彼女を、眩しいと思ったのはいつ頃だっただろう。正面から彼女の顔を見ることが躊躇われ始めたのは。
「君は変わらないな」
安堵から出た言葉だったが、オリアナは困ったように眉尻を下げた。
「そうですか? もうおばさんです。そろそろ、母を待たせることもできなくなってきました」
「ご母堂になにかあったのか?」
クラウスの声のトーンは変わらなかったが、その目はつぶさに彼女の変化を見逃すまいとしていた。
そんなクラウスにオリアナは笑い、肩をすくめる。そして僅かに視線を落とした。
「お見合いをすることになりまして。一応、めぼしい方が何人かいるみたいで……。安心させて欲しいって言われちゃいました。今まで好きにさせて貰いましたから、今度はわたしが返していく番だなって……思って……。わたしのやり方で恩返しができなかったのは、心残りですけど」
「その言い方からすると、ここは閉めてしまうのか」
「わかりません。まだ、なにも……。でも、赤ちゃんができて、子育てをして……ってなったら、やっていく余裕はなくなりますね。……そうだ、クラウス様、ここの経営を引き継いでくださるような方にお心当たりはありませんか? クラウス様の思う方なら、悔いなく引き渡せるんですが」
「……そうだな、声を掛けてみることにしよう」
「……」
沈黙が落ちた。ティーカップから立ちのぼる湯気だけが、時間が止まるはずがないことを二人に突きつける。
こんなとき、先に口を開くのはいつもオリアナだった。
「……クラウス様、いい加減、はっきりしましょう」
「なにをだ」
「わたし、平民で、クラウス様の隣に立つなんて、夢を見ることさえできませんでした」
「……」
「でも、クラウス様は今も、誰とも婚約してないって。
それを聞いて、わたし……。わたし、ちゃんとお別れできてない気持ちに気づいてしまったんです」
クラウスの知るオリアナらしからぬ、やや落ち着いた声に、クラウスはじっと聞き入った。
彼女の顔を見ても問題ないはずなのに、どうしてだか、紳士としてみてはいけないような気がして、クラウスは自分の膝に目を落とす。
だが、オリアナの声は真っ直ぐだった。
「どうか、お願いします。クラウス様が今でもお一人なのは、別にわたしのことを望んでいるわけじゃないって言ってください。じゃないと……わたし、いつまでもあなたを探してしまう。
貴族の、それも王様に近い人の側にいる覚悟なんて、どうやってするのか見当もつきません。でも、あなたが望んでくれるなら、わたし、どんな形でもいい。側にいたいって思ったんです。
その気持ちを卒業の時までに捨てることができなくて……お見合いの話が母の口から出たとき、あなたのことが過りました。……それで、わたし、あの頃のまま自分の気持ちが変わってないって気づいてしまったんです」
オリアナは声を震わせた。それ以上は感情が高ぶり、言葉にできない様子だった。
クラウスが盗み見るように確認した彼女は、俯き、硬く瞳を閉ざしていた。まるで罪人が判決を待つかのようだった。異なるのは、その肌がうっすらと赤く染まっていたことくらいのもので。
「……私は、あの時、目を輝かせて論文について語りに来た君から目が離せなかった」
その言葉は、クラウスの口から静かにこぼれ落ちた。
最近は感情を表に出す機会が多いな、と頭の片隅で感じながら、オリアナの笑顔を絶やさないためにできることは何かを考え、行動に移していく。
「今もそうだ。いつも、君の目が輝く瞬間を見逃したくないと思っている。それが私の手が届かない場所であろうとも、君が笑顔でいられるというのなら大体のことはする」
言葉とともに、オリアナは強張った身体をゆるゆると解き、信じられないものを見るような目でクラウスを見た。
「……クラウス様、それ、ほとんどプロポーズですよ」
「君の言葉も似たようなものだっただろう」
「いやでも、クラウス様のは愛の告白……」
「君もな」
呆けたようなオリアナに、クラウスは彼女の淹れた紅茶に口をつける。
オリアナにとっては学生時代から見慣れた姿だった。
しかし、不意にこの場所で毎回、毒味もなく必ずそうするのが何を思ってのことなのか、そのことに思い至ると、彼女は首筋まで真っ赤にして視線を彷徨わせた。
「も、もっとご自分を大事にしてください……」
何よりも雄弁に、分かりやすく彼は示していた。あとは彼女がその胸の中に飛び込む勇気を持つだけだったのだ。
後日、クラウスが当主である父親に手紙で彼女を迎える旨を伝えると、『遅い、この馬鹿者。お前以外の準備は全てできている。式の日取りを決めてから連絡を寄越しなさい。逆算して予定を組む』と速達で返事を寄越され、執務室で目を瞬いた。
「……まだ、妻としてとも、恋人としてとも言ってないはずだが……?」
温かな日差しが庭を照らす、気分の良い午後のことだった。
280
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
白い結婚を捨てた王妃は、もう二度と振り向かない ――愛さぬと言った王子が全てを失うまで』
鍛高譚
恋愛
「私は王妃を愛さない。彼女とは白い結婚を誓う」
華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。
王子アルフォンスの婚姻相手として選ばれたレイチェル・ウィンザー。しかし彼女は、王妃としての立場を与えられながらも、夫からも宮廷からも冷遇され、孤独な日々を強いられる。王の寵愛はすべて聖女ミレイユに注がれ、王宮の権力は彼女の手に落ちていった。侮蔑と屈辱に耐える中、レイチェルは誇りを失わず、密かに反撃の機会をうかがう。
そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。
レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。
「お願いだ……戻ってきてくれ……」
王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。
「もう遅いわ」
愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。
裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。
これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。
遊び人の令嬢が目を付けたのは、私の真面目な婚約者でした
おいどん
恋愛
子爵家の令嬢エリーネと伯爵家の次男のノルトが婚約を結んだのは、半年前だった。
真面目で優秀なノルトに相応しい婚約者であろうとするものの、エリーネには自信がなかった。
ある日、遊び人と噂の令嬢べルティーナとノルトが共にいるところを見てしまう。
「真面目クンは壁さえ破っちゃえばこっちのもんだからね〜」
「きっと、彼女の美しさに嫉妬しているのだわ…」
「…今度は、ちゃんと言葉にするから」
転生皇女セラフィナ
秋月真鳥
恋愛
公爵家のメイド・クラリッサは、幼い主君アルベルトを庇って十五歳で命を落とした。
目覚めたとき、彼女は皇女セラフィナとして生まれ変わっていた——死の、わずか翌日に。
赤ん坊の身体に十五歳の記憶を持ったまま、セラフィナは新しい人生を歩み始める。
皇帝に溺愛され、優しい母に抱かれ、兄に慈しまれる日々。
前世で冷遇されていた彼女にとって、家族の愛は眩しすぎるほどだった。
しかし、セラフィナの心は前世の主・アルベルトへの想いに揺れ続ける。
一歳のお披露目で再会した彼は、痩せ細り、クラリッサの死を今も引きずっていた。
「わたしは生涯結婚もしなければ子どもを持つこともない。わたしにはそんな幸福は許されない」
そう語るアルベルトの姿に、セラフィナは決意する。
言葉も満足に話せない。自由に動くこともできない。前世の記憶を明かすこともできない。
それでも、彼を救いたい。彼に幸せになってほしい。
転生した皇女が、小さな身体で挑む、長い長い物語が始まる。
※ノベルアップ+、小説家になろうでも掲載しています。
死に物狂いで支えた公爵家から捨てられたので、回帰後は全財産を盗んで消えてあげます 〜今さら「戻れ」と言われても、私は隣国の皇太子妃ですので〜
しょくぱん
恋愛
「お前のような無能、我が公爵家の恥だ!」
公爵家の長女エルゼは、放蕩者の父や無能な弟に代わり、寝る間も惜しんで領地経営と外交を支えてきた。しかし家族は彼女の功績を奪った挙句、政治犯の濡れ衣を着せて彼女を処刑した。
死の間際、エルゼは誓う。 「もし次があるのなら――二度と、あいつらのために働かない」
目覚めると、そこは処刑の二年前。 再び「仕事」を押し付けようとする厚顔無恥な家族に対し、エルゼは優雅に微笑んだ。
「ええ、承知いたしました。ただし、これからは**『代金』**をいただきますわ」
隠し金庫の鍵、領地の権利書、優秀な人材、そして莫大な隠し資産――。 エルゼは公爵家のすべてを自分名義に書き換え、着々と「もぬけの殻」にしていく。
そんな彼女の前に、隣国の冷徹な皇太子シオンが現れ、驚くべき提案を持ちかけてきて……?
「君のような恐ろしい女性を、独り占めしたくなった」
資産を奪い尽くして亡命した令嬢と、彼女を溺愛する皇太子。 一方、すべてを失った公爵家が泣きついてくるが、もう遅い。 あなたの家の金庫も、土地も、働く人間も――すべて私のものですから。
義務ですもの。
あんど もあ
ファンタジー
貴族令嬢の義務として親の決めた相手に嫁いだが、夫には愛する人がいた。夫にないがしろにされても、妻として母として嫁としての義務を果たして誠実に生きたヒロインの掴んだ、ちょっと歪んだ幸せとは。
元王太子妃候補、現王宮の番犬(仮)
モンドール
恋愛
伯爵令嬢ルイーザは、幼い頃から王太子妃を目指し血の滲む努力をしてきた。勉学に励み、作法を学び、社交での人脈も作った。しかし、肝心の王太子の心は射止められず。
そんな中、何者かの手によって大型犬に姿を変えられてしまったルイーザは、暫く王宮で飼われる番犬の振りをすることになり──!?
「わん!」(なんでよ!)
(『小説家になろう』にも同一名義で投稿しています。)
『悪役令嬢は、二度目の人生で無言を貫く。~処刑回避のために黙っていただけなのに、なぜか冷徹宰相様から「君こそ運命の人だ」と溺愛さています~』
放浪人
恋愛
「もう、余計なことは喋りません(処刑されたくないので!)」
王太子の婚約者エリスは、無実の罪を着せられた際、必死に弁解しようと叫び散らした結果「見苦しい」と断罪され、処刑されてしまった。 死に戻った彼女は悟る。「口は災いの元。二度目の人生は、何があっても口を閉ざして生き延びよう」と。
しかし、断罪の場で恐怖のあまり沈黙を貫いた結果、その姿は「弁解せず耐え忍ぶ高潔な令嬢」として称賛されてしまう。 さらに、人間嫌いの冷徹宰相クラウスに「私の静寂を理解する唯一の女性」と盛大な勘違いをされ、求婚されてしまい……!?
「君の沈黙は、愛の肯定だね?」(違います、怖くて固まっているだけです!) 「この国の危機を、一目で見抜くとは」(ただ臭かったから鼻を押さえただけです!)
怯えて黙っているだけの元悪役令嬢と、彼女の沈黙を「深遠な知性」と解釈して溺愛する最強宰相。 転生ヒロインの妨害も、隣国の陰謀も、全て「無言」で解決(?)していく、すれ違いロマンティック・コメディ! 最後はちゃんと言葉で愛を伝えて、最高のハッピーエンドを迎えます。
捨てられ侯爵令嬢ですが、逃亡先で息子と幸せに過ごしていますので、邪魔しないでください。
蒼月柚希
恋愛
公爵様の呪いは解かれました。
これで、貴方も私も自由です。
……だから、もういいですよね?
私も、自由にして……。
5年後。
私は、ある事情から生まれ育った祖国を離れ、
親切な冒険者パーティーと、その地を治める辺境伯様のご家族に守られながら、
今日も幸せに子育てをしています。
だから貴方も勝手に、お幸せになってくださいね。
私のことは忘れて……。
これは、お互いの思いがこじれ、離れ離れになってしまった一組の夫婦の物語。
はたして、夫婦は無事に、離婚を回避することができるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる