春霞のニンジン

宇野 肇

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種は蒔かれた

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 気付いたのは偶々だった。年末年始の休暇が始まって直ぐの、まだ肌寒い時期。ちょっと提出用のレポートがまとまらなくて、気位が高いけど面倒見のいい、狐の耳と尻尾を持つ友人の部屋に行く途中だった。
 俺と彼の部屋は離れていて、それぞれ共通の玄関ロビーと談話室から東西二棟へ分かれている寮の一階、最奥に位置している為、お互いの部屋を訪ねようと思うと部屋を出て長い廊下を歩き、談話室を経由して別棟の廊下を最後まで歩かねばならない。結構遠いが、仕方がない。それに、まあまずこの時間、相手は部屋にいるだろうと踏んでいたから迷いはなかった。

 談話室は結構広く、衝立を利用することもでき、グループで固まって話をしたりする。そしてそこへ行くまでに共有トイレがあるのだが、そこから人の声が聞こえた。
「おい暴れんな!」
 間違ってもトイレから聞こえてくるような言葉ではなく、俺はそれを看過することが出来ずに静かに、少しだけトイレへのドアを開けた。
「殴らねえと大人しくできねえか? それとも、そういうのが好きか」
 言い逃れできない一連の言葉に眉を顰め、それからトイレの中へと身を滑らせる。幸い、ドアが軋むことは無かった。
 音が立たないようにしまったのを確認し、トイレ内を確認する。ぱっと見て誰もいないように見えるが、まさか個室のドアを開けっ放しで事に及ぼうとしていたのかと内心で驚いた。まあ、いろんな嗜好の奴がいるからそこは目を瞑るとしても、合意ではなさそうな状況からして急いだ方が良かろうとトイレブースの壁をノックした。
「誰だ!」
 声が響いた位置は奥の方で、俺は迷わずそこを覗き込んだ。
「ちょっと通りがかったらえらく物騒な声が聞こえたもんでな」
 俺の姿を確認すると、中にいた内の一人は一瞬怯んだようだった。背が高いということの他に、俺が現寮長ってのを知っているからだろう。俺も見覚えがある顔に目を細めた。
 記憶が正しければ、襲っている側は二つ下の学年のロミオだ。プラチナブロンドの髪とスカイブルーの瞳が目を引く。成績は悪くないが、少し血の気が多いらしいという話を思い出した。少し視線を逸らすと、便座の上で震える小さな姿が目に入った。
 恐怖からか出来る限り身を丸めて、縋るような、しかし俺が敵なのか味方なのか図るような黒い目をこちらへ向けている。髪の毛は根元は黒く、毛先に行くほど亜麻色へ変わっていて、その頭から生えた長い耳も黒く艶めいていた。その形状から兎の獣人であることが分かる。床には、教科書や筆記用具を仕舞う為の鞄が捨てたように置いてあった。インク壺が出ているが、幸い中身まではぶちまけていない。
「な……んだよ、あんたも談話室のルール知ってんだろ。こいつはそこにいたんだ」
 ロミオの言葉に、俺は一つ頷いた。
 学生寮、談話室のルール。
 談話室にある、暖炉から一番遠い隅の一角に座るというのは、セックスの相手を探しているということ。もっとあからさまに狙った相手にアピールをする奴は多くいるが、その席に座るのは自分が『女側』を請け負い、かつ相手は問わないという意思表示なのだ。場合によっては複数だったりするが、兎に角、やりたくて仕方がない奴がそこへ座る。そして、それを見て他の人間が誘いをかけ、交渉が成立すれば場所を移す。
「だが、それを知らない場合は無効だったな。そいつ、まだ小さいじゃないか」
 暗に一年生じゃないのか、そうであれば知らなくてもおかしくはない、と言うと、俺の意図はそのままロミオに伝わってくれた。言葉に詰まったのは、ロミオも薄々そうではないかと思っていたのだろう。
「兎は大体ちいせえだろ」
 だが、返ってきた言葉はつっけんどんで、俺は苦笑した。
「まあ、とにかくだ。そいつの声を返してやれ。そっちの口からちゃんと確認しておく」
「……」
「後で問題になって懲罰房行きになりたくないだろ」
 ロミオの能力は『声を奪う』ことだ。兎の獣人の能力は分からないが、抵抗するのに適した能力でない場合、単純に力の差で負ければ相手にされるがままになってしまう。それに基本的に生徒はここでの暮らしの中でそれぞれの能力を伸ばし、制御することを覚えていくため、一年生だとするとまだ入学したばかりで、仮に強い能力を持っていたとしても使えないことも十分に考えられた。
 
 俺のいる王立異能研究所付属学校であるギムナジウムは、普通ならあり得ないような力、『異能』を持つ子どもらが集められ、十一歳からの八年間を過ごす。自分の能力について知り、人々の生活に役立てられるように学ぶのが目的で、入学条件は異能を持っていることのみ。それさえ認められれば身分も種族も関係ないというのが特徴だ。
 異能者は皆等しく国へ奉仕すべしという国王様の名により、強制的に公務員としてそれぞれの能力に合う機関に属することが義務付けられている。貴族の嫡男である場合は、貴族としての仕事の他に公務員としての仕事も担うことになる。
 さて、その異能だが、最近になって遺伝はしないらしいことが王立異能研究所から正式に発表された。しかしその数は能力の内容こそ千差万別なものの、以前と比べると増加傾向にあるそうだ。それも、それまでの時代に異能者が差別されて迫害、処刑されてきた所為であって、元々はもっと多くの異能者がいたのではということも明かされた。つまり異能者の数と言うのはそれぞれ、世代に偏ることもなくほぼ一定である、ということだ。
 だが、このギムナジウムが出来た当初、生徒数はもっと少なかったそうだ。獣人総奴隷時代ってのがあって、生まれ落ちた時から奴隷を宿命づけられた時代には獣人の所為とは皆無だったらしい。彼らの人権が認められていくにつれて獣人からも異能持ちが入学し始めて生徒数が増えた。幸いにも教師として教壇に立つ人材も育っていたため、上手い具合に発展している。ちなみに生徒数の増加に合わせて寮も増え、当初は一棟だったものが今は二つに増えた。生徒用の寮は教室のある学習棟の東側に。職員用の寮は学習棟の北側にある。南には円形競技場があり、西側は街に面している。
 長らくの歴史的背景ってのがあって、まだ獣の特徴を残す『獣人』たちへの目は厳しいものがあるが、世間的に見ればまだまだ残る差別の目も、この学習院内においてはかなり少ないほうだろう。理由は、八年も一緒に居れば大半が慣れるからだ。異能のもとに平等な扱いを受けていれば、徐々にその価値観に順応する。寮も人間と獣人を区別しないし、余程洗脳されていない限りこのギムナジウムに居れば価値観はかなり変わってくる。それに獣人の方が基本的に身体能力は上だし、職員たちから俺達は『異能者』としての括りで一纏めに扱われるため、そこにある種の一体感さえ持つようになる。
 と、まあ小難しいことを並べ立てたが、上級生たちがそこそこ仲良くやってるのを見ていたりすると子どもってのは結構簡単に順応していくもんだ。職員側にも獣人は少なくないし。
 寮の部屋は大体が縦割り式で、ルームメイトの年齢を敢えて崩してある。一年から五年まではそれぞれ一人ずつの五人部屋で過ごす。寮長は二棟ある寮から五年生の内一人が選ばれ、その寮長と六年以上の生徒は個室が与えられる。八年になれば進路に合わせて大半が退寮する。新しい住居を探したりするのは七年の後期から行えることになっているが、引っ越し自体は八年に上がってからだからだ。とはいえ、卒業式を終えるまではまだ異能者として半人前だが。
 あと、ここの生徒には女がいない。遺伝結果の発表へ至る過程で、女には異能は発現しないことも分かっているからだ。ただ、どうやらその『資質』があって、それが男児に受け継がれた場合に初めて出てくる可能性がある為、全く異能を持たないかと言うとそうとも言い難いらしい。
 このギムナジウムは異能発現者であれば誰でも入れるが、しかし誰も逃げられない場所でもある。そもそも入学手続きをせず異能を隠して生きるという手段もなくはないが、能力によっては一生隠し続けて生きるのが難しい場合もあるし、バレた場合は最悪テロリスト扱いをされたりもするから入った方が無難だ。そして入ったら国の監視下に置かれる。これは国を渡っても同じことで、異能者を戦争に加えることも国際的に禁止されている。
 各国で異能者の待遇も異なってくるからそれを理由に他の国の学校へ行くことはあっても、どこであっても余程のことがない限り、異能者は国に尽くすように定められている。生活や身分は保障されるからまだ立場の弱い獣人なんかは積極的に入学しているし、貴族に至っては元よりそのためにいるわけで、職業の自由がなかなかないことを思えば、俺達は恵まれているのかもしれない。
 ちなみに学費等は生涯を国に捧げることになるのだから税金から賄われているため、もし国から去ると言うのであれば相応のものを返さなければならない。
 ――前振りが長くなったが、つまり、このギムナジウムに入った以上は辞められないのだ。例えどんなに辛いことがあったとしても。

 俺の言葉に、ロミオはため息をつきながらも最終的には従ってくれた。怯える獣人の喉元に触れ、手を離す。
「これで喋れる」
 不満げな口ぶりだが、俺はロミオの肩を軽く叩いて兎の獣人に目を遣った。
「どうだ? 喋れるか?」
 出来るだけ優しく声をかけると、小さな体は震えながら声を出した。
「……はい……あ、」
 本当に喋れることに驚いたのだろう。自分の喉元に手をやって、目線も下がっている。……そのシャツが大きく肌蹴ているのは、この際言わないことにしよう。
「で、今の俺達の話を聞いてたら分かったかもしれないけど、どうだ? 誰かから聞いたことがあったか」
「……すみま、せん。ぼく、な、なにも、知ら、なくて……」
 自分を守るように両手を胸の前で固く握りしめている姿は痛ましく、俺は分かった、と頷いた。同時に、舌打ちをしたロミオに目を遣ると、どこか気まずそうにしているのが分かった。悪い奴じゃないんだ、こいつも。
 俺はロミオの頭をくしゃくしゃと髪を乱して撫でた。
「……初めて見る顔だったから、それでビビってるんだと思ったんだよ。手ぇ引いたら、ついてきたし」
「ま、今回は別のヤツを探しな。次からはちゃんと言質はとっとけよ」
「分かったよ。……悪かったな」
 幸い、その口から出てきたのは謝罪で、ロミオの背を押して行っていいぞと合図をすると、兎の獣人を気にしながらも大人しく出て行った。
 基本的に寮内のことは生徒同士で解決しなくてはいけない。談話室のルールも暗黙の了解となっているがれっきとした自治にあたる。
 俺は獣人に向き直った。
「さて」
「ぴゃう!」
 俺が声をかけると、そいつはこっちが驚くほど体を跳ねさせて奇声をあげた。怯えさせてしまったようだ。
 俺は改めてそいつの顔色を伺った。やっぱりびくびくしながら俺を窺い見てくるそいつは、大きくくりくりとした黒い目にいっぱいの涙を浮かべていた。庇護欲をそそられる姿とでも言えばいいのか、おざなりにし難いものがあった。
「……大丈夫か? どこか怪我したか?」
 しゃがみこんで目線を合わせると、顔を真っ赤にしたそいつは呻くような声を出した。できる限り優しい気持ちで笑みを作り、安心させるように目で先を促す。怯えたような目が徐々に落ち着きを取り戻し、俺をじっと見つめ返すまで十数秒。
「……け、けがは、してないです……」
 体も小さいし声変わりもまだくさい。俺はそっか、と取り敢えず安心してみせた。
「俺はキャロ。見ての通り獣人じゃなくて、普通の人間。西寮の五年生で、一応、寮長。今日は東寮の友達ダチの所に行くところだったんだけど……お前の名前は?」
 あまりにビクつかれていて流石にこっちも少し緊張するものの、目の前の兎の怯えようにこりゃ大丈夫かと心配が勝る。どんなにショックなことがあっても、ここを辞することは基本的には出来ないのだ。そして自分の身は自分で守れるようにならねばならない。

 獣人だの人間だのなくたって落ちこぼれだの馬鹿だのと何かの折に言われることも少なくない。獣人のみであれば単純に力の弱い者は馬鹿にされたりするとも聞く。このギムナジウム内にあっても自然、強者と弱者と言うのは出てくる。ある意味それは身分にとらわれない分、世間よりも厳しいものかも知れない。異能者の集まりであるから、喧嘩が行き過ぎて結構な重傷を負うこともある。
 もし今目の前で震えている奴がそう言うヒエラルキーの中で今後上手く立ち回れそうにないほどなら、対処しなければならない。俺は西寮生でこいつは西じゃ見かけたことがないから東寮生だろうけど、今から向かおうとしてた狐の友達っていうのも東寮の寮長だからまあ俺が話を聞いて連れて行けばいいだろう。
 そう考えていると、兎のそいつは耳をピンと立てて、うるんだ目で俺を見返したまま声を出した。
「……ぼく、……ぼくは、トピアス、です。東寮の……一年生、です」
「やっぱ新入生か。まだ体小っちゃいもんなあ。どうだ、立てそうか?」
 訊ねると、トピアスは抱えていた膝に目を落とした。ぽとりと、目から涙が零れ、追いきれなかった分がふっくらした頬を伝い落ちた。俺はそれを見て、ポケットに突っこんでいたハンカチを取り出し、その目元に出来るだけ優しく押しつけた。それからそれをトピアスに持つようにそっと手に握らせて、出来るだけゆっくりとその乱れたシャツのボタンを留めた。
「……えっと」
 困惑した様子で俺を見上げてくるが、俺が右手でその小さな頭を撫でると、咄嗟に目を閉じた。手のひらから震えているのが伝わってくる。怯えられているのを感じるが、敵意がないことを伝えるためにも今更止めるわけにもいかない。
 耳があるから真ん中の辺りをうなじに向かって滑らせる程度の撫で方しかできなかったが、トピアスにはそれで十分だったらしい。落ち着いてきたのか、撫でるのをやめないでいる俺の手を受け入れ、ぽつりとつぶやいた。
「あの、ありがとう、ございます」
「いーえ、どういたしまして」
「……あの、ぼくのことはいいので、おともだちのところに……」
「いいのいいの。約束があったわけじゃねーからさ」
 俺は本当のことを言いながらもさてどうしたものかと逡巡した。
 トピアスの体は俺よりずっと小さくて、手足も細かった。無理矢理襲われそうになっていたところに遭遇したからか、酷く頼りなく思える。俺も一年の頃はこんなだったっけ?
「トピアス。こういうことは今日が初めて、だな?」
 俺がそう聞くと、トピアスは黙ってうなずいた。よかった。既に何度目かになるとかじゃなくて。ロミオも初めて見る顔だと言っていたし、嘘じゃないだろう。
 頭に手を置いたまま次はどういうべきかと考えていると、手のひらからトピアスの頭が動く気配がしてそっと手を離した。黒い目が俺を見上げてくる。心細そうな表情の下で俺のハンカチを握りしめる手は白く、力が込められていた。
「えっと、ぼく、あんまり……しっかりできなくて……。ちゃんとやろうとは思ってるんです。でも早くなにかをするっていうのが苦手と言うか……それで、ちょっと落ち込んでいて、少しでもみんなにおいつきたくて、勉強しようと思って、それで」
「ふうん?」
 ちらちらと俺の顔色を窺ってくるトピアスに、少しだけ笑みを乗せて先を促す。トピアスはまた目を潤ませて、鼻をすすった。
「お、同じ寮の、ルームメイトに……ジャマって言われたんです。その子は……なんでも一番に出来る子で……ぼくよりずっとしっかりしてて……だから、そう言われて、談話室に行ったんですけど……空いてるテーブルが、そこしかなくて」
 ふむ、話を聞いた限りではロミオにされたこともさることながらこっちの方も看過しにくいかもしれない。とはいえ、段取りが悪いなら早め早めに行動するとか、寮での生活において時間をひねり出すことも勉強の内だ。
 トピアスがやろうとしていたことはいいことだ。必要以上に持ち上げなくてもいいが、自分なりに生活しやすいように、場所に適応しようと工夫することは大切だし、頑張ろうという気概は褒めてやりたくなる。まだ一年だし。
「トピアスは失敗するタイプか?」
「……えっと、時間があればできるんですけど……でも、いつも他の子にやってもらうことになっちゃって……自分で最後まで何かが出来たことは、あんまりないです」
 ドジじゃないけど周りとペースが合わせられないってヤツかな。周りの子からすると焦れったくてついトピアスのしていることを奪ってしまうんだろう。奪うという感覚はないだろうけど、本人からすると仕事の遅いのを『やってあげた』感覚が強くて結果、出来なかったトピアスに『トピアスは出来ない奴』という印象を抱いてしまう悪循環が起こることもある。というか、既に起こってそうだ。集団生活においては難しいところではある。
「じゃ、そんな気にすることねえよ」
「え?」
「人より時間がかかっちまうだけで、そのことで周りに迷惑になる以外のことは、きちんと自分で出来るんだろ。練習すりゃあ慣れてくる。大丈夫、まだこの先八年もあるんだぜ。一年が終わる頃にはすいすい出来るようになってるって」
 俺はその辺で苦労したことはないが、似たような奴なら大体学年に一人くらいはいるし、こういうことは毎年起こっている。同じくらい、せっかちなやつもいる。トピアスはそいつと同室って不運も重なったんだろう。相手の子にとってもある意味では不運だったか。
「一回、自分一人でもできるって言ってみるのも手かもな。勇気は結構いるけど」
 言うと、トピアスは俯いてしまった。他人事だと思って、と思われているかもしれないけど、客観的に見てもこのままずるずる行くと生徒内での上下関係にもかかわってくる。上手く立ち回れる器用さがあれば別だが、トピアスの場合は今、ノロマ……はともかく、落ちこぼれだとかグズとかの印象がべったりついてしまう前に、周囲に改めさせる必要があるように思えた。
「よし、言うか言わないかは兎も角、一緒に勉強すっか」
「え?」
 俺の提案に、トピアスは不安そうな顔をした。
「元々勉強するつもりだったんだろ? 分からないところがあれば教えられると思うし、……ああ、部屋から追い出されたんだっけ? じゃ、俺今から東寮の寮長の所行くし、そいつの部屋でやろうぜ。個室だから変な邪魔は入らない。お前と一緒で獣人だし、ちょーっと言葉はキツいかも知れないけどイイ奴だから。ちょっと目つきは鋭いかもだけど」
 立ち上がってトピアスの腕をつかむと、体を縮こめるようにしての抵抗を受けた。仕方がないから、無理に立たせずにもう一回しゃがんで、膝に顔を埋めるようにして俺から逃げるトピアスの頬をそっと包んだ。根気よく撫でて、怯えを払う。
「トピアス……まだここから動きたくないか?」
 俺への怯えは大分少なくなってきたのか、トピアスはそっと顔を持ち上げた。真っ赤な顔に、ぐずぐずの目。でも俺のハンカチをしっかり握りしめて俺を見る視線は弱弱しくもまっすぐで、俺はゆっくり彼の頬と頭を撫でた。
「今回のことは、運が悪かった。一年だと、この時期談話室で勉強する奴はほぼいないんだ。……普通は出来るだけ早いうちにルームメイトの上級生から教えられるんだけどな、タイミングが合わなかったっぽいな。そういう、微妙なこともちゃんと説明する」
 ゆっくり、出来るだけ優しい声色を心がけて言葉を放つ。トピアスは小さく頷いた。
「大丈夫。さっきのロミオも悪い奴じゃない。怖かっただろうけど、ねちねち絡んでくるような奴じゃないから。それか、俺もまだ怖いか?」
 今度はその頭が横に振られる。そのことにほっとした。
「……いっしょ、に?」
「そうだよ」
 震えながらもはっきりした声に嗚咽はなく、俺はゆっくりと自分で立ち上がったトピアスの服を整えるのを手伝った。一応制服はあるものの、大抵はお下がりで、トピアスは小さいせいかぶかぶかだった。腰紐をしっかりとしめてやって、床に散乱気味になっているトピアスの鞄を自分のと合わせてまとめて持って、背を伸ばす。きゅっと俺の服の袖を掴む手をそっと包んで、俺の手と握り直させた。トピアスは俺を見上げて、俺がしっかりとその手を握ると、嬉しそうにはにかんだ。笑ってくれて何よりだ。
「じゃ、行こうな」
「はい」



 トピアスは小さく、俺はちょっとばかりヒョロ長く。足の長さで大分ゆったりとした速度ながらようやく目的地へ歩き出した。と言ってもそう距離は長くないのだが。
「獣人でも種族によっては毛並で格付けってのがあるらしいけど、俺も赤毛だからって馬鹿にされたり、名前と、この通り身長ばっか高いせいでニンジンって言われたりするんだぜ。見てくれのこと言ってくるとかズリィと思わねえ? 悔しいからダチとすげー勉強して寮長になってやった。中身は自分次第でどうにかなるしな」
 そんなことを話しながらトピアスを励ましつつ談話室に差し掛かると、目的の相手は既にそこに座っていた。
 長い足を優雅に組み、ふさふさの尻尾を一人掛けのソファから垂らして、眼鏡をかけて本に目を落としている姿は様になっていて、我が友人ながら住む世界が違うように思えた。耳ばかりはどうしても音に反応するせいかしきりに動いていたが、それもプラスに働いている。怯えきって緊張しているトピアスの耳と比べると、彼の耳はなんというか、貫録に溢れていた。人によっちゃ、ふてぶてしい、とも言える。
「よっ」
 談話室と言う空間に居ながら一人の世界に浸るそいつに声をかけると、東寮長・ユーゴは直ぐに本から目を上げた。少しツリ目がちの切れ長の目が俺と、トピアスに向けられる。ぱっと見られた感じ睨まれたと思ったのか、トピアスが俺の後ろに隠れてしまった。
「大丈夫だよ」
 頭を撫でて笑い、ソファに近寄る。トピアスは落ち着かない様子で俺とユーゴを見比べていて、俺はトピアスを引き寄せてそいつに紹介した。
「知ってるかもしれねーけど、一年のトピアスだ。さっきいろいろあって保護した。で、トピアスも知ってるかもだけど、こっちが俺のダチで東寮長のユーゴ」
「はっ……初めまして、トピアスです」
 頭を下げるトピアスに、友人、ユーゴは名乗ってからすぐに足を正して、本にしおりを挟み、閉じた。
「……場所を移すか」
 全く我が友人は察しが良い。素早く立ち上がったユーゴにトピアスは慌てたようだったが、目を合わせて大丈夫だよと言うと少し落ち着いた。勿論、移動するのはユーゴの部屋だ。長い廊下を歩いた末部屋に入った俺は、席に着くなり事のあらましを説明した。勿論、当事者であるトピアスからかなり補足を貰ったが。その際に、談話室のルールについてもトピアスに一つ一つ教えることになった。

 説明し終えると、ユーゴは眼鏡の位置を直して息をついた。
「事情は分かった。授業内でのことは兎も角、寮内では他の一年共にそれとなく注意を払うようにしよう。まあ、ロミオならば大丈夫だと思うが……それはそうとトピアスもそうだが、キャロ。お前、課題はもう終わったのか」
「……! ああ! そうだった、俺、天文学のレポートがどうしてもまとまらなくってさあ! お前に聞こうと思ってたんだよ」
 トピアスの方が学生生活的に考えて死活問題だったから二の次にしてたが、そもそも東寮まで来た目的を思い出して、俺は膝を打った。トピアスは目を丸くしてたが、ユーゴはと言えばやれやれと盛大なため息をついた。
「全く……で、トピアスはどうだ? 課題はいくつか出ただろう?」
「あ、はい。算学の問題を解こうと思っていました」
 おろおろと俺とユーゴを見比べるトピアスと目を合わせると、嬉しそうに顔が緩んだ。俺も緩んだ。ユーゴはまだ怖いようだが、だいぶ心を開いてくれたようで嬉しい。この調子で少しずつ精神的に回復していってくれるといいんだが。
「全く呑気なもんだ」
 そんな俺達を見たユーゴが息をつく。トピアスがビビるけど、俺に向けて言ってるだけだからトピアスは気にすることはないんだぞ。
「そういうユーゴはどうなんだよ。もうレポートできたのか?」
 まさかそんなわけはないよなと思いつつも訊ねると、ユーゴは肩をすくめて片眉を吊り上げてから、にんまりと笑った。
「俺が用もないのに談話室で本など読むわけないだろう。まとまらない時は他のヤツと意見を交わすに限る」



 さて、そこから天文学のレポートの範囲を参考書からひっくり返してあーでもないこーでもないと唸りながら仕上げるのに一時間かかった。同時にトピアスの持っていた教科書を開いて、分からないらしい算学の問題を教えていったが、一年で習う範囲は知れているから並行してできたのは幸いだった。
 それに、どの教授の授業は面白いから楽しみにしてるといいだとか、食堂のメニューは学年が上がってくると量的に物足りなくなるだとか、その分を売店やカフェで補おうと、学内での手伝いをして賃金を得ることに積極的になれるだとか、出来るだけ楽しい話をしたからかトピアスの学内での心の居場所づくりには大いに貢献できたようだ。
 最終的にトピアスの口から「がんばります」という前向きな言葉を聞き、俺とユーゴは取り敢えず今日はここまでだろうとキリを付けることにした。結局外野があれこれと気を揉んだところで事態が変わるわけでもない。本人次第なのだ。
 一度首を突っ込んだ手前何かあったら気軽に言えよと頭を撫でると、いくらか緊張の取れた様子のトピアスは「はい」としっかり返事をした。俺はそれに満足して、トピアスを部屋の前まで送って部屋に戻った。見送ってくれたトピアスはしきりに礼を言っていたが、最初とは打って変わって明るい表情を見せる姿にむず痒くなって、半ば逃げるような速度になったのは俺だけが知っていればいい話だ。

 そんな風だったから、後日トピアスが学習棟で顔を真っ赤にしながら俺に声をかけてくるまで、俺は彼にハンカチを握らせていたことなんてすっかり忘れていたのだった。
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