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成長は緩やかに
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どれだけ辛かろうが時間は止まらない。止まったら止まったで何時まで経っても変わらないからありがたいことなのかもしれない。いつかこの気持ちも消えていくのかと思うと寂しいものがあったが、今はそれを願うしかなかった。
この三日ほどまともに眠れて居らず、ぼうっとすることが増えていた。普段の行いが良いせいか、少々調子が悪くなっても先生たちからは咎められることもなくたくさん心配されるだけで済んだが、ユーゴには眉を顰められた。
「お前最近ちゃんと眠れてるか? 必要なら保健医から薬を処方してもらった方が良いぞ」
トピアスとのことは何も言ってないものの、何かあったらしいということは多分伝わっているだろう。俺は払えない気だるさのまま目を細めて口角に少し力を込めた。
「んー、そうだな。まあ、その内戻ると思うからさ」
ただ小遣い稼ぎも今週は出来ないかも、と漏らすと、あまり無理はするなと言われてしまった。まるで俺が今無理をしているような言い方に苦笑いが零れた。だが、ユーゴにそう見えてると言うことは多分、そうなんだろう。
部屋に戻ると湿っぽくなるからと学習棟を何をするでもなくぶらぶらしていると、アベルに呼び止められた。彼も俺を心配してくれるうちの一人だ。あの翌日から急に落ち込んだ俺のことを気にかけてくれていた。
「明日の朝に発つことになった。……大丈夫か? 昨日より顔色が悪い」
あまりにも何かにつけ声をかけてくれるから、俺は渋々ながら少し上手く行ってないことがあって、とだけ伝えていた。漠然としている俺の言葉に、アベルはそれ以上は追及してこないものの、もどかしく思ってくれているようだった。でも、こればっかりは人の手を借りたところでどうしようもない。
「そんなに心配しなくても大丈夫だって。俺ももう七年だぜ」
「いくつになろうが関係ない。口で言えないなら手紙でもいい。必ず寄越せよ」
眉尻を下げるアベルは深刻そうに見えた。肩を掴まれて、目を合わせられる。
そこまで心配をかけていることが申し訳ないが、鬱陶しいとは思わない。かと言って嬉しさが大きいわけでもなく、ただ気にかけてもらえる分だけどうしてもその原因が思い出されて、それが息苦しかった。
「ん」
「いいか、絶対だからな? お前、目を離すと直ぐなんでも自分でやろうとするから」
「そんなことはないけどさ」
「あるんだよ。辛い時くらいなにも考えずに甘えておけ」
柔らかな笑みは無いのに、声はどこまでもまっすぐで暖かだった。寝不足で下がりがちな瞼を持ち上げてアベルを見上げると目が合って、そこでようやく、少しだけ彼の顔に笑みが浮かんだ。俺の好きな、優しくて甘い顔だった。
それを、そっと突き放そうとした時、だった。
「キャロ」
聞きたかったような、聞きたくなかったような声が耳に届いた。少し顔を動かせばすぐに、予想通りの姿が目に入る。トピアス、だった。
「あ……」
彼の方から声を掛けられることも殆どなくなっていて、珍しい、と思った。それから険しいその表情が向けられていることに悲しくなりつつ、ふと違和感を覚える。……トピアスは俺ではなくて、アベルにその視線を注いでいた。
「少し彼と話があるのですが」
ねめつける様な目のままで、トピアスがアベルへ、鋭い声を投げた。俺は困惑したまま二人を交互に見やった。アベルが俺を見て、それから俺の肩を掴んでいた手を離した。掴まれていたのは少しの間だったのに、そこに生まれた熱が消えていくと、元々あった俺の体温さえ冷えて行くようだった。
「悪かったな。こっちの話は終わった」
「そうですか。それでは失礼します」
アベルの言葉にトピアスは軽く頭を下げたが、冷淡な声はどうにも敵意に満ちているようで、俺は丁寧な態度との落差に戸惑った。その内にトピアスに手を掴まれて、そのまま力任せに引っ張られる。
「あっ ちょ、と、トピアス……っ?」
一瞬名前を呼んでいいのか迷ったが、トピアスは振り返ることなく歩いていく。踏ん張るにも理由が足りず、俺はまだずっと小さな背丈の彼に引きずられるようにしてその場を後にした。
縋るように咄嗟に振り返り見たアベルは、安心するような優しい笑顔で俺に手を振っていた。
トピアスに連れられるまま廊下を移動していたが、最上階である三階への踊り場で彼は足を止めた。手の分だけ距離があったが、そこからさらに手を引かれて一歩踏み出す。久しぶりに近くなったことで、胸が跳ねた。それは、痛みを伴っていたが。
トピアスは俯いていて、俺からではそのつむじしか見えなかった。その分突きつけるようにして俺の目に飛び込んでくるふわふわの耳が懐かしくて、そっと顔を寄せたくなるのを耐えた。
「……トピアス? 話ってなんのこ」
「キャロが」
沈黙に耐え切れず詰まる喉を叱咤しながら用件を尋ねると、はっきりと名前を呼ばれてそれを遮られた。遮られたはずなのに力強く名前を呼ばれたことが嬉しくて、まだ強く掴まれたままの手の感触が切なくて、言葉はあっさりと流れを止めた。
「あの文官に迫られて、嫌がってるように見えたから」
押し殺したような声も、他に人気のないこの場所では聞き取るのは難しくない。だが、俺は耳を疑った。
だって、それはまるで、助けようとしてくれたみたいで。そうしてくれる程度にはまだ、トピアスの中に俺がいるようで。
嫌という程嫌がってはいなかったが、こみ上げてくる嬉しさはどうしようもなかった。
強張っていた体から力が抜け、自然とありがとうと言葉が零れた。瞬間、トピアスが俺を見上げた。どうしてか、彼は辛そうに顔をゆがませていた。
「……三日前の放課後、空き教室の時も……あの文官と同じ匂いがあなたからしました。シャツのボタンも外れていて、だから……あの時はユーゴさん以外の人とそういうことをしたんだと思いました。でも、さっき見かけた時……あの日、もしかして無理矢理あの人に、と」
「え……」
彼の口から漏れた予想外の言葉に、俺は思い瞼を持ち上げ、目を見開いた。慌ててそれは違う、と否定する。
「アベルは……あの人は、そんなことはしない。確かに、一番可愛がってもらった人だからそれなりに近くにはいたけど……」
疑うように俺を見てくるトピアスを見下ろしていると、少しだけ心に余裕が出てくるのを感じた。心配そうな、俺を気遣う空気に満ちていたそれは、俺を拒絶するものではなかったから。それに安心すると、急に瞼が重くなった。
「じゃあ、あの日から具合が悪そうなのはどうしてですか」
伏し目がちになったからか、トピアスは俺の顔を覗き込んだ。更に体が近くなり、同時に、彼の言葉から彼の視界の中に入っていたのを意識して、体の奥が熱くなった。
「ちょっと寝不足なだけだよ……大丈夫。アベルも、心配してくれてただけだ」
どこか必死さのある彼を落ち着かせようと、どうにか笑みを浮かべる。けど、体は重く、限界を知らせていた。
今、大事な時なのに。せっかくトピアスがこんな近くで、じっと俺を見てくれてるのに。
「……それは、ぼくに話があると言ってたことと、関係あることですか」
踏ん張れ、踏ん張れ。部屋に帰れば、いくらでも眠れる。倒れてもいい。だから、まだ耐えろ。
言い聞かせながらも、トピアスの疑問に体の奥まったところにあった熱が喉元までせり上がった。
ふわ、と視界が揺れる。
それが俺の目の焦点が合わず、目が忙しなく動いているからだと気付くものの、どうにもコントロールできない。
「っキャロ? 言ってください、ぼくに何かできるならぼくは……っ」
トピアスの声だ。
だがその内容を把握するより先に、俺の頭はぐるぐる、ふわふわと揺れ回り、そしてそのまま、体は廊下の冷たい床に崩れ落ちた。
「キャロ!」
意識があるおかげで頭を強くぶつけるのはどうにか避けられたものの、それでも力が入らず、その場に這いつくばる。トピアスが俺を呼んでいるのはわかったが、返事ができなかった。頭は回ってるようなのにさっぱり回ってない。開けた目から真っ直ぐに伸びる廊下だとか、外の明るさ、トピアスが俺の体を揺さぶっているのは分かるのに、言葉が組み立てられない。胸がムカムカして気持ちが悪い。
「キャロ、キャロ!」
何度も心配そうに俺を呼ぶ声に応えたくて、少し力の戻った目で彼を見る。言葉が出ない分笑顔を見せようとしたが、また視界が歪んで、直後、黒く塗り潰されるようにしてその場から遠ざかるような感覚に襲われていた。
夢のようだと思った。心地が良くて、暖かくて、優しいものに包まれているようで、俺はそれに対して、ひどく小さくて。
何度も俺を呼ぶトピアスの声が頭の中に浮かんでは消えていく。その声が小さくなって消えた、と思った時、ふと体が沈んだ。
驚いて瞼を開ける。目に飛び込んできたのは天井と、カーテン。それから、薬の匂いがした。あまり馴染みのない場所だが、知らないわけじゃない。学習棟の医務室だ。
瞬きを繰り返して、ゆっくりと起き上がる。ぐう、と腹から音がして空腹を知った。妙に頭がスッキリしている。
ベッドから降りて靴を履き、カーテンを開けると、白衣を来た保健医と目があった。
昨日の放課後に担ぎ込まれてから夜通し眠り続け、今は午後一番の授業が始まったところだと教えてもらう。腹が減ったから食べに行ってもいいかと尋ねると、もちろんだと笑顔が返ってきた。
「睡眠も食事もきちんと取りなさい。君を心配して何度もお見舞いに来てくれた獣人の子がいたけど、彼には僕から伝えておこう」
「よろしくお願いします」
多分ユーゴだな。もしかするとトピアスという可能性もなくはないが、期待するとあとでまた調子を落とすかもしれないからユーゴということにしておこう。
お世話になりましたと医務室を出て、授業中のため静かな棟内を歩く。手持ちの金を確認して減っていないことに安堵して息をついた。
カフェの中でドリアとサラダ、スープを頼んで、窓側の席へ着く。足りなければポテトでも追加しよう。
カフェは中庭に面していて、窓側に座ると中庭とその向こう側の教室が見える。トピアスは今どうしているだろうかと思うと、胸が甘く痛んだ。迷惑をかけた。俺の力なら俺よりも体躯の大きなやつでも運ぶのは苦労しないが、トピアスの能力は俺とは違うだろうし、多分時間もたくさん取らせてしまっただろう。――……心配、してくれていたらいいなと少しだけ思った。
注文したメニューはぼんやりと中庭を眺めている間にやってきた。かなり長い間寝ていたのに、体は軽いし気分も随分良かったのは幸いだ。食事は滞りなく済んで、若干物足りなかった俺は奮発してもう一品、フライドポテトを頼んだ。今日の授業は昼一番で終わりだから実質もう放課後だ。次に授業の終わる鐘がなれば生徒は夕飯まで自由時間となる。
今日休んでしまった分はユーゴに頼んで最低限のことは教えてもらい、残りは先生たちに聞きに行くしかない。明日は休日だ。今日の放課後のうちに掛け合うしかない。体は回復したが、予定通り小遣い稼ぎは出来そうにない。
体は資本だと思って、追加で頼んだフライドポテトをつまむ。夕飯もきっちり腹に収めることを考えても、腹に余裕はあった。塩が美味いが、喉が渇く。
そのうちに鐘が鳴り、さて先生方を順番に捕まえて行かねばと感じながらも、今から移動しても相手も教室から移動している最中で捕まえにくいだろうと思うと腰が上がらなかった。
しかしそれも、そう言えば一度部屋に帰って今日の科目の教科書とレポートを取ってこなければということに気づき、軽くなる。今持っているものは昨日の科目であって、今日は必要ないものばかりだ。
もう少しさっさと食べればよかったと思いながらも余ったフライドポテトを持ち帰ろうと紙に包んでいると、カフェのドアがけたたましく開け放たれた。
「キャロ!」
飛び込んできたのはトピアスだった。走ったのだろう、大きく荒い息もそのままに、ふらふらと俺の座るテーブルまでやってくる。
思わず飲みかけでよければと水を前に置くと、彼は苦い表情で首を横に振った。……そうかもしれないとは思っていたが、やはり改めて現実を目の当たりにすると胸が痛い。
俺は何かもの言いたげにするトピアスを待っていたが、彼はもどかしそうに口を開閉した後、急に俺に抱きついた。
「はっ? え、……トピアス?」
抱きしめ返すのも躊躇われて、座っているせいで逃げられない分されるがままになりながら、俺は今ばかりは逆になった高低差から覆い被さるようにして俺の首に腕を回してしがみつくその小さな背を軽く叩いた。
「……どうした?」
まだ荒い息が首にかかってこそばゆい。ぞわぞわとしたものが背中を這う。トピアスの唇が酷く肌の近い場所にあることを自覚して、どうしようもなく顔が熱くなった。
「すみませんでした」
宥めるように背中を叩いていると、トピアスのくぐもった声が体に響いた。
「こっちこそ、昨日は悪かったな。大変だったろ?」
徐々に整って行く息。トピアスは俺に頭を押し付けながら首を振った。
外から、喧騒が聞こえてくる。俺は直にここにも大勢やってくるだろうからと椅子から立ち上がった。が、トピアスは離れる気配はない。
胸がくすぐったくて、笑みがこぼれた。放すように頼んでも彼は首を横に振るばかりで、俺は仕方なくそのまま力を使って彼を抱き上げた。
「っ?!」
息を飲んで、トピアスが少しだけ顔を上げる。抱っこはマズイだろうと横抱きにしたけど、嫌がる様子はない。
微笑ましいものでも見るかのような顔をする店員に笑って勘定を済ませ、カフェを後にした。俺と彼の荷物はついでに浮かせていたが、荷物、と呟いたトピアスの腹元へ落ち着いた。フライドポテトの包みも近くに寄せて食べて良いよと言うと、トピアスは俺にしがみつく腕に一層力を込めた。なんだか、初めて会った時みたいに幼くなっている気がする。
何があったのかと聞くためにも、静かな場所へ行きたかった。
「さて、どこ行こうか。俺の部屋でもいい?」
他の生徒がいないわけじゃないが、特に気にせず歩く。俺の言葉にトピアスは頷きだけを。黙りなのに両腕はしっかりと俺の首に回っていて、そのことがすごく嬉しい。
浮かれながら西寮へ向かい、わざとロビーを避けて外へ向かう。三階にある部屋の窓の下まで来ると、俺は辺りを見渡して人気がないことを確認した。不思議そうに、どこか不安そうに俺を窺ってくるトピアスに今度こそ笑いかけて、俺は体を浮かせた。
音もなく自室の窓の鍵を持ち上げて開け放ち、中へ入る。驚いた様子のトピアスに、ナイショな、と笑いかけた。
窓を閉め、トピアスを抱えたままベッドへ座る。フライドポテトと昨日使った教科書類はテーブルへ。
トピアスは黙ったまま俺の首筋に顔を埋めて、そのまま肌と肌を擦り合わせてきた。長い耳が頬に触れて、そこから暖かさが伝わってくる。甘えるような仕草だったが、そこにどきりとするのは胸だけじゃないから、少し困ってしまった。
「トピアス?」
名前を呼ぶと、恐々とした様子で俺を見上げてくる。べったりとくっつかれて、そこからは前までの拒絶は感じられなくて、俺はトピアスの背中を支えていた左手を移動させて、頭を撫でた。大きな黒い目が下がり、またぎゅっと抱きつかれて顔が見えなくなる。
「……キャロが倒れた時、怖かった。病気かと思って。ぼくに話したいって言ってたことは、そのことなんじゃないのかと思って」
呟かれた言葉に、嘘は言ってないぞ、と返す。だがトピアスは人を呼んで運ばれた先の医務室で、保健医から寝不足と食欲不振によるもので病気ではないと聞かされても安心できなかったと漏らした。そっと腕の力が緩められ、うるんだ目が俺を見上げてくる。
「早くキャロに追いつきたくて、でも出来なくてずっと悔しかった。キャロが走って行ったあの日、凄く寂しくなって……後悔した。ごめんなさい」
ぽと、とその眼から涙が零れる。彼が鼻をひくひくさせながら瞬きを繰り返し、睫毛が涙で濡れるのを見つめ、俺はようやく彼に嫌われていなかったらしいことを覚った。
泣かなくていい、怒ってないと繰り返しても彼の涙は止まらなくて、かといって指だの袖だので拭うのも肌を痛めてしまう気がして、俺はそっとその目尻に唇を寄せた。
触れる間際、少しだけ舌を伸ばしてその涙を舐めた。直ぐに唇で吸い付くと、ちゅ、と控えめな音が響いた。
腕の中で小さな体が跳ねる。顔を離すと驚きに染まった表情が見えたものの、俺のシャツを掴んでいた彼の手は離れるどころがより一層力を込めていて、俺はそれに勇気づけられるようにして昨日の続きを紡いだ。
「……あの日、俺が言いたかったのは、トピアスが好きだってことだったんだ」
言えた。言ってしまった。
そう思うのに、あの時ほど怖くはなかった。自分の言葉が彼に届くこと、どんな返事でも、きっと今のトピアスなら、あの鋭く冷たいもので俺を刺したりはしないだろうと。それは期待ではなくて確信だった。
「もちろん、ただの好きじゃない。友達でも、弟分でもない。もっともっと特別な好き、だ」
誤解されないように言葉を重ねると、トピアスの呆けたようだった顔がじわじわと赤くなり始めた。唇はわななき、だがまだそこから声は出てこない。とっくに皺になっているだろう俺のシャツを掴む手は少し震えているのが伝わってくる。でも、彼が俺から離れることは無かった。だから待てた。
「……返事が欲しい。俺と、キス、できるか?」
最終的に真っ赤になった彼は、折角引っ込んだ涙を再び目に溜めて、それから勢いよく俺にしがみ付くと、そのまま顔を近づけた。
「っつ!」
「いたっ」
……初めてのトピアスとのキスは歯がぶつかって折れるかと思ったものの、確かに、彼の意志で唇同士が合わさったのは間違いなかった。
この三日ほどまともに眠れて居らず、ぼうっとすることが増えていた。普段の行いが良いせいか、少々調子が悪くなっても先生たちからは咎められることもなくたくさん心配されるだけで済んだが、ユーゴには眉を顰められた。
「お前最近ちゃんと眠れてるか? 必要なら保健医から薬を処方してもらった方が良いぞ」
トピアスとのことは何も言ってないものの、何かあったらしいということは多分伝わっているだろう。俺は払えない気だるさのまま目を細めて口角に少し力を込めた。
「んー、そうだな。まあ、その内戻ると思うからさ」
ただ小遣い稼ぎも今週は出来ないかも、と漏らすと、あまり無理はするなと言われてしまった。まるで俺が今無理をしているような言い方に苦笑いが零れた。だが、ユーゴにそう見えてると言うことは多分、そうなんだろう。
部屋に戻ると湿っぽくなるからと学習棟を何をするでもなくぶらぶらしていると、アベルに呼び止められた。彼も俺を心配してくれるうちの一人だ。あの翌日から急に落ち込んだ俺のことを気にかけてくれていた。
「明日の朝に発つことになった。……大丈夫か? 昨日より顔色が悪い」
あまりにも何かにつけ声をかけてくれるから、俺は渋々ながら少し上手く行ってないことがあって、とだけ伝えていた。漠然としている俺の言葉に、アベルはそれ以上は追及してこないものの、もどかしく思ってくれているようだった。でも、こればっかりは人の手を借りたところでどうしようもない。
「そんなに心配しなくても大丈夫だって。俺ももう七年だぜ」
「いくつになろうが関係ない。口で言えないなら手紙でもいい。必ず寄越せよ」
眉尻を下げるアベルは深刻そうに見えた。肩を掴まれて、目を合わせられる。
そこまで心配をかけていることが申し訳ないが、鬱陶しいとは思わない。かと言って嬉しさが大きいわけでもなく、ただ気にかけてもらえる分だけどうしてもその原因が思い出されて、それが息苦しかった。
「ん」
「いいか、絶対だからな? お前、目を離すと直ぐなんでも自分でやろうとするから」
「そんなことはないけどさ」
「あるんだよ。辛い時くらいなにも考えずに甘えておけ」
柔らかな笑みは無いのに、声はどこまでもまっすぐで暖かだった。寝不足で下がりがちな瞼を持ち上げてアベルを見上げると目が合って、そこでようやく、少しだけ彼の顔に笑みが浮かんだ。俺の好きな、優しくて甘い顔だった。
それを、そっと突き放そうとした時、だった。
「キャロ」
聞きたかったような、聞きたくなかったような声が耳に届いた。少し顔を動かせばすぐに、予想通りの姿が目に入る。トピアス、だった。
「あ……」
彼の方から声を掛けられることも殆どなくなっていて、珍しい、と思った。それから険しいその表情が向けられていることに悲しくなりつつ、ふと違和感を覚える。……トピアスは俺ではなくて、アベルにその視線を注いでいた。
「少し彼と話があるのですが」
ねめつける様な目のままで、トピアスがアベルへ、鋭い声を投げた。俺は困惑したまま二人を交互に見やった。アベルが俺を見て、それから俺の肩を掴んでいた手を離した。掴まれていたのは少しの間だったのに、そこに生まれた熱が消えていくと、元々あった俺の体温さえ冷えて行くようだった。
「悪かったな。こっちの話は終わった」
「そうですか。それでは失礼します」
アベルの言葉にトピアスは軽く頭を下げたが、冷淡な声はどうにも敵意に満ちているようで、俺は丁寧な態度との落差に戸惑った。その内にトピアスに手を掴まれて、そのまま力任せに引っ張られる。
「あっ ちょ、と、トピアス……っ?」
一瞬名前を呼んでいいのか迷ったが、トピアスは振り返ることなく歩いていく。踏ん張るにも理由が足りず、俺はまだずっと小さな背丈の彼に引きずられるようにしてその場を後にした。
縋るように咄嗟に振り返り見たアベルは、安心するような優しい笑顔で俺に手を振っていた。
トピアスに連れられるまま廊下を移動していたが、最上階である三階への踊り場で彼は足を止めた。手の分だけ距離があったが、そこからさらに手を引かれて一歩踏み出す。久しぶりに近くなったことで、胸が跳ねた。それは、痛みを伴っていたが。
トピアスは俯いていて、俺からではそのつむじしか見えなかった。その分突きつけるようにして俺の目に飛び込んでくるふわふわの耳が懐かしくて、そっと顔を寄せたくなるのを耐えた。
「……トピアス? 話ってなんのこ」
「キャロが」
沈黙に耐え切れず詰まる喉を叱咤しながら用件を尋ねると、はっきりと名前を呼ばれてそれを遮られた。遮られたはずなのに力強く名前を呼ばれたことが嬉しくて、まだ強く掴まれたままの手の感触が切なくて、言葉はあっさりと流れを止めた。
「あの文官に迫られて、嫌がってるように見えたから」
押し殺したような声も、他に人気のないこの場所では聞き取るのは難しくない。だが、俺は耳を疑った。
だって、それはまるで、助けようとしてくれたみたいで。そうしてくれる程度にはまだ、トピアスの中に俺がいるようで。
嫌という程嫌がってはいなかったが、こみ上げてくる嬉しさはどうしようもなかった。
強張っていた体から力が抜け、自然とありがとうと言葉が零れた。瞬間、トピアスが俺を見上げた。どうしてか、彼は辛そうに顔をゆがませていた。
「……三日前の放課後、空き教室の時も……あの文官と同じ匂いがあなたからしました。シャツのボタンも外れていて、だから……あの時はユーゴさん以外の人とそういうことをしたんだと思いました。でも、さっき見かけた時……あの日、もしかして無理矢理あの人に、と」
「え……」
彼の口から漏れた予想外の言葉に、俺は思い瞼を持ち上げ、目を見開いた。慌ててそれは違う、と否定する。
「アベルは……あの人は、そんなことはしない。確かに、一番可愛がってもらった人だからそれなりに近くにはいたけど……」
疑うように俺を見てくるトピアスを見下ろしていると、少しだけ心に余裕が出てくるのを感じた。心配そうな、俺を気遣う空気に満ちていたそれは、俺を拒絶するものではなかったから。それに安心すると、急に瞼が重くなった。
「じゃあ、あの日から具合が悪そうなのはどうしてですか」
伏し目がちになったからか、トピアスは俺の顔を覗き込んだ。更に体が近くなり、同時に、彼の言葉から彼の視界の中に入っていたのを意識して、体の奥が熱くなった。
「ちょっと寝不足なだけだよ……大丈夫。アベルも、心配してくれてただけだ」
どこか必死さのある彼を落ち着かせようと、どうにか笑みを浮かべる。けど、体は重く、限界を知らせていた。
今、大事な時なのに。せっかくトピアスがこんな近くで、じっと俺を見てくれてるのに。
「……それは、ぼくに話があると言ってたことと、関係あることですか」
踏ん張れ、踏ん張れ。部屋に帰れば、いくらでも眠れる。倒れてもいい。だから、まだ耐えろ。
言い聞かせながらも、トピアスの疑問に体の奥まったところにあった熱が喉元までせり上がった。
ふわ、と視界が揺れる。
それが俺の目の焦点が合わず、目が忙しなく動いているからだと気付くものの、どうにもコントロールできない。
「っキャロ? 言ってください、ぼくに何かできるならぼくは……っ」
トピアスの声だ。
だがその内容を把握するより先に、俺の頭はぐるぐる、ふわふわと揺れ回り、そしてそのまま、体は廊下の冷たい床に崩れ落ちた。
「キャロ!」
意識があるおかげで頭を強くぶつけるのはどうにか避けられたものの、それでも力が入らず、その場に這いつくばる。トピアスが俺を呼んでいるのはわかったが、返事ができなかった。頭は回ってるようなのにさっぱり回ってない。開けた目から真っ直ぐに伸びる廊下だとか、外の明るさ、トピアスが俺の体を揺さぶっているのは分かるのに、言葉が組み立てられない。胸がムカムカして気持ちが悪い。
「キャロ、キャロ!」
何度も心配そうに俺を呼ぶ声に応えたくて、少し力の戻った目で彼を見る。言葉が出ない分笑顔を見せようとしたが、また視界が歪んで、直後、黒く塗り潰されるようにしてその場から遠ざかるような感覚に襲われていた。
夢のようだと思った。心地が良くて、暖かくて、優しいものに包まれているようで、俺はそれに対して、ひどく小さくて。
何度も俺を呼ぶトピアスの声が頭の中に浮かんでは消えていく。その声が小さくなって消えた、と思った時、ふと体が沈んだ。
驚いて瞼を開ける。目に飛び込んできたのは天井と、カーテン。それから、薬の匂いがした。あまり馴染みのない場所だが、知らないわけじゃない。学習棟の医務室だ。
瞬きを繰り返して、ゆっくりと起き上がる。ぐう、と腹から音がして空腹を知った。妙に頭がスッキリしている。
ベッドから降りて靴を履き、カーテンを開けると、白衣を来た保健医と目があった。
昨日の放課後に担ぎ込まれてから夜通し眠り続け、今は午後一番の授業が始まったところだと教えてもらう。腹が減ったから食べに行ってもいいかと尋ねると、もちろんだと笑顔が返ってきた。
「睡眠も食事もきちんと取りなさい。君を心配して何度もお見舞いに来てくれた獣人の子がいたけど、彼には僕から伝えておこう」
「よろしくお願いします」
多分ユーゴだな。もしかするとトピアスという可能性もなくはないが、期待するとあとでまた調子を落とすかもしれないからユーゴということにしておこう。
お世話になりましたと医務室を出て、授業中のため静かな棟内を歩く。手持ちの金を確認して減っていないことに安堵して息をついた。
カフェの中でドリアとサラダ、スープを頼んで、窓側の席へ着く。足りなければポテトでも追加しよう。
カフェは中庭に面していて、窓側に座ると中庭とその向こう側の教室が見える。トピアスは今どうしているだろうかと思うと、胸が甘く痛んだ。迷惑をかけた。俺の力なら俺よりも体躯の大きなやつでも運ぶのは苦労しないが、トピアスの能力は俺とは違うだろうし、多分時間もたくさん取らせてしまっただろう。――……心配、してくれていたらいいなと少しだけ思った。
注文したメニューはぼんやりと中庭を眺めている間にやってきた。かなり長い間寝ていたのに、体は軽いし気分も随分良かったのは幸いだ。食事は滞りなく済んで、若干物足りなかった俺は奮発してもう一品、フライドポテトを頼んだ。今日の授業は昼一番で終わりだから実質もう放課後だ。次に授業の終わる鐘がなれば生徒は夕飯まで自由時間となる。
今日休んでしまった分はユーゴに頼んで最低限のことは教えてもらい、残りは先生たちに聞きに行くしかない。明日は休日だ。今日の放課後のうちに掛け合うしかない。体は回復したが、予定通り小遣い稼ぎは出来そうにない。
体は資本だと思って、追加で頼んだフライドポテトをつまむ。夕飯もきっちり腹に収めることを考えても、腹に余裕はあった。塩が美味いが、喉が渇く。
そのうちに鐘が鳴り、さて先生方を順番に捕まえて行かねばと感じながらも、今から移動しても相手も教室から移動している最中で捕まえにくいだろうと思うと腰が上がらなかった。
しかしそれも、そう言えば一度部屋に帰って今日の科目の教科書とレポートを取ってこなければということに気づき、軽くなる。今持っているものは昨日の科目であって、今日は必要ないものばかりだ。
もう少しさっさと食べればよかったと思いながらも余ったフライドポテトを持ち帰ろうと紙に包んでいると、カフェのドアがけたたましく開け放たれた。
「キャロ!」
飛び込んできたのはトピアスだった。走ったのだろう、大きく荒い息もそのままに、ふらふらと俺の座るテーブルまでやってくる。
思わず飲みかけでよければと水を前に置くと、彼は苦い表情で首を横に振った。……そうかもしれないとは思っていたが、やはり改めて現実を目の当たりにすると胸が痛い。
俺は何かもの言いたげにするトピアスを待っていたが、彼はもどかしそうに口を開閉した後、急に俺に抱きついた。
「はっ? え、……トピアス?」
抱きしめ返すのも躊躇われて、座っているせいで逃げられない分されるがままになりながら、俺は今ばかりは逆になった高低差から覆い被さるようにして俺の首に腕を回してしがみつくその小さな背を軽く叩いた。
「……どうした?」
まだ荒い息が首にかかってこそばゆい。ぞわぞわとしたものが背中を這う。トピアスの唇が酷く肌の近い場所にあることを自覚して、どうしようもなく顔が熱くなった。
「すみませんでした」
宥めるように背中を叩いていると、トピアスのくぐもった声が体に響いた。
「こっちこそ、昨日は悪かったな。大変だったろ?」
徐々に整って行く息。トピアスは俺に頭を押し付けながら首を振った。
外から、喧騒が聞こえてくる。俺は直にここにも大勢やってくるだろうからと椅子から立ち上がった。が、トピアスは離れる気配はない。
胸がくすぐったくて、笑みがこぼれた。放すように頼んでも彼は首を横に振るばかりで、俺は仕方なくそのまま力を使って彼を抱き上げた。
「っ?!」
息を飲んで、トピアスが少しだけ顔を上げる。抱っこはマズイだろうと横抱きにしたけど、嫌がる様子はない。
微笑ましいものでも見るかのような顔をする店員に笑って勘定を済ませ、カフェを後にした。俺と彼の荷物はついでに浮かせていたが、荷物、と呟いたトピアスの腹元へ落ち着いた。フライドポテトの包みも近くに寄せて食べて良いよと言うと、トピアスは俺にしがみつく腕に一層力を込めた。なんだか、初めて会った時みたいに幼くなっている気がする。
何があったのかと聞くためにも、静かな場所へ行きたかった。
「さて、どこ行こうか。俺の部屋でもいい?」
他の生徒がいないわけじゃないが、特に気にせず歩く。俺の言葉にトピアスは頷きだけを。黙りなのに両腕はしっかりと俺の首に回っていて、そのことがすごく嬉しい。
浮かれながら西寮へ向かい、わざとロビーを避けて外へ向かう。三階にある部屋の窓の下まで来ると、俺は辺りを見渡して人気がないことを確認した。不思議そうに、どこか不安そうに俺を窺ってくるトピアスに今度こそ笑いかけて、俺は体を浮かせた。
音もなく自室の窓の鍵を持ち上げて開け放ち、中へ入る。驚いた様子のトピアスに、ナイショな、と笑いかけた。
窓を閉め、トピアスを抱えたままベッドへ座る。フライドポテトと昨日使った教科書類はテーブルへ。
トピアスは黙ったまま俺の首筋に顔を埋めて、そのまま肌と肌を擦り合わせてきた。長い耳が頬に触れて、そこから暖かさが伝わってくる。甘えるような仕草だったが、そこにどきりとするのは胸だけじゃないから、少し困ってしまった。
「トピアス?」
名前を呼ぶと、恐々とした様子で俺を見上げてくる。べったりとくっつかれて、そこからは前までの拒絶は感じられなくて、俺はトピアスの背中を支えていた左手を移動させて、頭を撫でた。大きな黒い目が下がり、またぎゅっと抱きつかれて顔が見えなくなる。
「……キャロが倒れた時、怖かった。病気かと思って。ぼくに話したいって言ってたことは、そのことなんじゃないのかと思って」
呟かれた言葉に、嘘は言ってないぞ、と返す。だがトピアスは人を呼んで運ばれた先の医務室で、保健医から寝不足と食欲不振によるもので病気ではないと聞かされても安心できなかったと漏らした。そっと腕の力が緩められ、うるんだ目が俺を見上げてくる。
「早くキャロに追いつきたくて、でも出来なくてずっと悔しかった。キャロが走って行ったあの日、凄く寂しくなって……後悔した。ごめんなさい」
ぽと、とその眼から涙が零れる。彼が鼻をひくひくさせながら瞬きを繰り返し、睫毛が涙で濡れるのを見つめ、俺はようやく彼に嫌われていなかったらしいことを覚った。
泣かなくていい、怒ってないと繰り返しても彼の涙は止まらなくて、かといって指だの袖だので拭うのも肌を痛めてしまう気がして、俺はそっとその目尻に唇を寄せた。
触れる間際、少しだけ舌を伸ばしてその涙を舐めた。直ぐに唇で吸い付くと、ちゅ、と控えめな音が響いた。
腕の中で小さな体が跳ねる。顔を離すと驚きに染まった表情が見えたものの、俺のシャツを掴んでいた彼の手は離れるどころがより一層力を込めていて、俺はそれに勇気づけられるようにして昨日の続きを紡いだ。
「……あの日、俺が言いたかったのは、トピアスが好きだってことだったんだ」
言えた。言ってしまった。
そう思うのに、あの時ほど怖くはなかった。自分の言葉が彼に届くこと、どんな返事でも、きっと今のトピアスなら、あの鋭く冷たいもので俺を刺したりはしないだろうと。それは期待ではなくて確信だった。
「もちろん、ただの好きじゃない。友達でも、弟分でもない。もっともっと特別な好き、だ」
誤解されないように言葉を重ねると、トピアスの呆けたようだった顔がじわじわと赤くなり始めた。唇はわななき、だがまだそこから声は出てこない。とっくに皺になっているだろう俺のシャツを掴む手は少し震えているのが伝わってくる。でも、彼が俺から離れることは無かった。だから待てた。
「……返事が欲しい。俺と、キス、できるか?」
最終的に真っ赤になった彼は、折角引っ込んだ涙を再び目に溜めて、それから勢いよく俺にしがみ付くと、そのまま顔を近づけた。
「っつ!」
「いたっ」
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