【一章完結】魂屋 奇譚蒐集録

宇野 肇

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其の一 華の香り

1-1 土にブーツの音響き

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 帝国歴一八八七年。すなわち、黒船来航より三十余年。かつての信仰秩序は地に落ちた。
 街には人工の星々が煌めき、汽笛には昼も夜も無く、山にはいくつもの穴が開いた。
 科学。
 それが神や占星術に取って代わる、新たな秩序信仰の始まりだった。

 ――しかし、いくら神秘が紐解かれても、夜の闇が無くなったわけではない。

 どれほどのことができようとも、人が眠らずにはいられないように。
 影は存在する。すべての光の側に、必ず。


******


 小間使いたちが校内のあちこちで手持ちベルを鳴らしたのを合図に、教員たちは土曜午前の授業を終了した。
 日登千鶴ひのぼり ちづるは帰り支度をすると、咎められない程度の早足で先を急いでいた。

 十七歳になり、学年も上がって三ヶ月。土曜日の午後を社会勉強に使うことを決めて同じ時間が経っていた。
 未だ先に繋がるような縁はない。流石に焦りを感じ始めていた。
 同窓生たちの大半は嫁入りや進学が決まっているため、自然、やるべきことも分かっている。一方で千鶴は年回りや家の事情で進路を急がなくてよいということが、一層、彼女の心を急き立てていた。
 特に夏休みを前に、婚約者と家ぐるみで仲の良い者は避暑旅行で合流し、いつもより近い距離にいられることを喜んでいたり、家に外国人の女性家庭教師ガヴァネスを招いて教えを請うのだと張り切っている者の様子が嫌でも目に入ってくる。
 しかし千鶴にはそう言ったささやかなときめきも、将来のための短期的な目標もない。

 なにか、どうにかできないものか。
 漠然とした不安感を打ち消すだけの、『変化』が欲しい。

 週末になると決まって落ち着かなくなる心のまま、靴音は慌ただしいものになっていく。
 廊下を曲がり、職員室を通り過ぎようとした刹那、

「おっと」
「きゃっ」

 女学校では珍しい長身にぶつかった。
 思わず目を瞑る。不意に強い柑橘の香りを感じたと思ったら、しっかりと肩を抱かれて支えられていた。

「ご無事ですか?」
「えっ、あっ、も、申し訳ございません……ありがとうございます」

 ポマードで髪をなでつけた若い男だった。精悍な顔立ちで、空いた片手に外套を引っかけ、その手に中折れ帽を掴んだまま、危なげなく千鶴の身体も支えている。
 羽織袴姿だが、袴には細いストライプの意匠があり、首元からは襦袢の代わりに立ち襟シャツが覗く。その白さに千鶴は瞬いた。

(授業参観にいらしたのかしら)

 上流階級の人間は、学校に申し入れれば嫁探しのための参観を許可されている。この男もそうなのだろう、と思いながら、改めて頭を下げた。

「お見苦しい振る舞いを……」
「いやいや、お怪我がなくて何より。では、私はこれにて失礼」

 柔らかな笑みを湛えながら千鶴の肩からそっと手を放し、男は玄関口へ向かっていく。その背を見送ったあと、千鶴は胸元に手を添えて深呼吸をした。
 お名前も窺えなかったわ、と思う一方、千鶴を名乗らせないことで、はしたない行為に目をつぶってもらったのだと前向きに考える。
 そして今度こそ職員室の前を通り過ぎた。

 千鶴が目指していたのは校内に張り出された学校公認の求人先一覧だ。職員室を通り過ぎた先にある専用の掲示板にしか情報がない。毎週月曜日に更新され、土曜日の午後には生徒たちに持ち去られるのが常だった。
 どれも原則、将来に向けての社会勉強の場と位置づけられており、実際に就職に繋がることも少なくない。
 男にぶつかってしまったことで少々出遅れた千鶴は、既にいくつかの用紙が剥がされた掲示板を口惜しく見遣った。その前に立つ友人たちの姿を認めるとそそくさと駆け寄り、輪の中に入りこむ。

「千鶴さん、いいところは見つかった?」
「いいえ、面接には行くのだけれど……」
「そう。なにがいけないのかしらね」

 声を潜めながら、他の生徒たちが求人用紙を手にその場を離れていくのを見送る。
 千鶴はどんどんと少なくなっていく紙の字面を追いかけながら、その中に見慣れない文言を見つけた。

「噂蒐集家の魂屋たまや……?」

『流行の噂募集。女学生一名。放課後一、二時間ほど歓談。詳しくは口頭にて』

 仕事としては軽すぎる内容だった。不自然ですらある。
 しかし千鶴の目は釘付けになり、文字を追いながら「これだ」という感覚に手を伸ばしかけた瞬間、千鶴の様子を見守っていた淑乃よしのが眉をひそめた。

「あら? 変わった内容ね。けれどなんだかいかがわしくないかしら」
「ここにあるのは皆、検閲済みよ?」
「なら、縁故かもしれないわ」
「だったら、やっぱり身元は確かなはず」

 食い下がる千鶴に、淑乃は渋い顔のまま返した。

「けれど、流れはお見合いのようじゃない。詳しい情報は対面でだなんて……若い女目当てに決まっているわ」

 窘めるような淑乃の声を聞きながらも、千鶴はその求人から目が離せなかった。
 名残惜しさではない。他の求人を選ぶくらいなら、今日はもう家に帰ろうと思うほど心惹かれている。

(けれど、どんなに胡乱でも、やってみなきゃ始まらないわ。お友達は皆卒業後の進路が決まっているのに、あたしだけ立ち止まっているようで嫌なのだもの)

 そして淑乃の興味が失せた隙を見計らって、こっそりと、その『いかがわしい求人用紙』をボードから抜き取った。
 逸る胸は既に、新たな出会いに向けての期待へと変わっていた。
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