かなしみは星と輝く

アサツミヒロイ

文字の大きさ
上 下
1 / 62
序章

異世界への入口はすぐそばに

しおりを挟む
「……よく来てくれました、救世主よ。」

 ……なんて台詞は、ずいぶんと昔にやったことのある、有名なゲームの冒頭で聞いたことがあったような気がする。
 気が付けば、それこそゲームや映画でしか見たことがないような、一目でそれとわかる王女さまが目の前に居て、広く天井の高い一室に僕は立っていた。いったいどれくらいの広さなのか、一見して数字にするのは難しい。学校のグラウンドくらいだろうか、などとぼんやり考えた。
 白を基調に金の飾りがあしらわれたドレスを纏い、高貴な存在であるとその姿が語る王女さまは、本当に人間なのかと疑いたくなるくらいキラキラと輝きを放っている。
「急なことで驚いているかもしれませんが……無理もありません」
 それでもどこか物憂げな色の浮かぶ瞳を、目の前の青年にまっすぐ向けてくる。青年は狼狽える様子もなく、ただ黙って女王の言葉を聞いていた。

「これからあなたには、この世界を救っていただきます」


序章.異世界への入口はすぐそばに


 青年、上山優人はごくごく普通の、他と何ら代わり映えのない、一般的な高校二年生だった。
 通うのは県内で中の上ランク、悪くはないが、特筆するほど良いところもない、普通の県立高校だ。自身の成績も、満点も取らないが平均点以下も取らない。特に仲の良い友人も居ないが、無視やイジメがあった訳でもなかった。部活にも所属しておらず、バイトなどもしていない。
 家族構成は父と優人だけの父子家庭であったが、それも今時珍しくないと優人は思っていた。母のことは、優人が生まれてすぐに亡くなったのでよく覚えていなかった。父は優人が中学生の頃までは同居していたが、高校に入学すると同時に海外へ単身赴任し、それからは一人で暮らしていた。元々そんなに父との会話はなかったし、出て行ったきり連絡がないことにも一人で暮らすことにもすぐに慣れた。毎月必ず決まった生活費が振り込まれ、特に贅沢も望まないため不自由は感じなかった。
 つまるところ、ごくごく平凡な十七歳だった。

「……世界を救う」
「そうです、あなたにしか出来ないことなのです」
 ……こんな状況になるまでは。

 僕はどうしてこんなことになっているのだろう?優人は少し考えを巡らせた。


 今日は学校で、最後の授業が終わったので、いつも通り帰路についた。
 最後の授業は英語。英語の教科担任の岡村先生はいつもいい加減で、授業中に寝ている生徒が居ても注意しない、あまり教育熱心とは言えない先生だ。しかし気分にムラがあり、今日はいつもよりもずいぶん授業にやる気になっているようだった。こういう日はたまにあったが、今日は本当に珍しく宿題が出た。珍しいどころではない、一年生の頃から岡村先生が教科担任だったが、宿題が出たのは初めてのことだった。
「……マジ、岡村今日はどうしたの?なんか悪いもんでも食ったんじゃね?」
「ハア~、ありえねーよ……和英どこやったかなあ」
「お前まさかなくしたとか?ハハ、あんま使わないからってそれはないっしょ」
「まあ、見つかんなかったらググればいいや……」
「言えてる」
 クラスメイトたちも、口々に岡村先生の噂や文句を言っていた。
 優人はパソコンやスマートフォンを持っていない。持っているのはなかなか鳴らないガラケーだ。鳴らないのだから、携帯を最新の機種に変えたいと思ったことはなかった。しかし、優人の携帯ではインターネットを使って調べ物をするのに、少々不便である。辞書を開いた方がはやい。ということで、普段使わない辞書が必要になった。クラスメイトのようになくしたという訳でもなく、辞書の類は書庫代わりの洋室にある。場所はわかっているが、ひとつ気が重いことがあった。
 父の仕事の本などがズラリと並ぶその部屋は、読書の趣味もない優人にはなかなか用事のない場所である。受験の時に使って以来、扉すら開けていないのではないだろうか?もしかしたら、ホコリだの虫だのがひどく出てくるかもしれない。こんなことなら、辞書も普段から部屋に置いておけば良かっただとか、もっと普段から掃除をしておけば良かっただとか、ひどい有り様の部屋を想像して後悔の念が頭の中をぐるぐる巡った。
 とはいえ、やらないことには解決しないし、こんな機会でもなければ、もしかしたらもっとひどくなってから掃除をするはめになったかもしれない。突然父が帰ってきてあの部屋を開けてガッカリするなんてこともあるかもしれない。むしろ今やれることをラッキーだと思わなければ。優人はごくごく普通の男子ではあったが、実は人一倍ポジティブだった。

 帰宅した優人は、モップと雑巾とぬるま湯を汲んだバケツを持って、マスクをつけて洋室の前に立った。ある程度ホコリを除いてから掃除機をかけようと、掃除機は廊下の隅に置いておく。
 いざ、汚れたちよ、かかってこいと、覚悟を決めて扉を開けた。


 ガチャリ、少し重い扉の音がした。


「……は?」
 開いた扉の隙間から、光が漏れ出たことには気が付いた。今はすっかり日も落ちたから、部屋の中は暗いはずだ。一瞬頭に疑問がわいても、体は扉を開けるという動作を急にやめたりは出来なかった。そのまま扉は大きく開かれた。
 見たことのない空間が広がっていた。一面真っ白だ。ホコリだらけで真っ暗だと想像していたギャップに優人は目を白黒させる。ただただ広くて、真っ白な空間。確かに壁はあるから、これは部屋だ。均等な間をあけて、金ピカの装飾がある大きな柱が並んでいる。城か何かみたいだと優人は思った。
 うちって、こんな広かったっけ。そんな冗談も、浮かんですぐに消えた。

「……なんだ、これ……」
 扉を閉めてみようかとも思ったが、何故だか体が動かなかった。後ろを振り向くことも出来なかった。
 しゃん、と金属のような音がする。優しい音だ。優人はふと何かに呼ばれているような印象を受けた。
「こっちに来いってことかな……?」
 戻れなくなるかもしれない。それは怖かったが、引き返したいとは思わなかった。不思議と、危険な目にあうとか、そういった不安や恐怖は感じなかった。しゃん、しゃらん、と優人を呼ぶ音色はただただ優しかった。
 一歩一歩足を前に進める。天井が高く、柱以外には何もないため随分と広く感じていたが、印象よりも広くはないと歩き始めて気付いた。部屋の中ほどまで来て、緊張で動かしにくかった体が軽くなったことにも気付く。ふと後ろを振り返ると、確かに扉はまだそこにあった。デザインは違うが、大きさは家の洋室と同じだ。戻るつもりはなかったので、すぐに前に向き直った。
 部屋の奥には、もっともっと大きな扉があった。材質はわからない。石のような力強さも、金属のような気高さも、木のような温もりも感じる。取手は見当たらないが、人の力で押したり引いたりできる大きさとも思えなかった。真ん中に開き目と彫られた紋様がある。何を示しているのか、何がモチーフなのかもわからなかったが、優人は自然とこれに触れれば開くのだとわかった。
 部屋を進むことも扉の開け方も迷わなかったのに、紋に触れるのは右手か左手かは迷った。その時になってふと気付く。左手には掃除用のモップを持ったままだった。
「捨てておく訳にもいかないか」
 もしかしたら何かに使えるかもしれないし、何よりチリさえないこの部屋にモップなんて放置しておくのは気が引けた。
 人間やはり、いざという時には利き手が出る。右手でそっと扉の紋に触れてみると、しゃらん、という音が一層大きくなった。そしてそれに重なって響く、低い地鳴りのような音。この扉が開こうとしているのだ。
 ふと、もう戻れないかもしれないと、優人は思った。

 扉は横にずれて、人か何人か通れるくらいに開いて止まった。大きな音は止み、またしゃらん、という音が響く。今度は、すぐ近くに聞こえた。

「よく来てくれました」
 奥には誰かが居た。優しい声だと思った。白に近い金の髪がどこからか吹く風に揺れてきらきらと眩しく光る。
「救世主よ」
 優人は、妙に落ち着いていた。


 小さな頃は確かに、突然異世界に勇者として召し出されて世界を救う、なんて物語に人並みに憧れたりもした。ただそんな夢物語は、すぐに現実には起こり得ないものだとわかるようになる。現実の世界はもっと平凡で、何かワクワクと心躍るようなことなんてなくて。友達すら満足に作れなくて、学校のテストでちょっと良い点数だったとか、今日の夕飯の魚は少し焦がしただとか、そんな普通の、取り立てて物語になるようなこともない世界だった。
 それが不満だとは思わなかった。ニュースで毎日のように流れてくる事件に巻き込まれることもなく、飢えることのない普通の生活を、健康で過ごせている。それが実は得難いものであると優人は知っていたからだ。

 ……それだけに、パッと見てわかるほど狼狽えはしていないものの、優人はめまいがしそうな気分だった。
 異質なのは目の前に広がる光景なのだと思っていた。スケール感の違う部屋はまるで城か何かに見える。いや、きっとどこかの城なのだろう。目の前で優人に語りかける女性はこの部屋の雰囲気にマッチした、ファンタジー世界の王女さまのように見える。その女性が何も語らずとも、ここはお城の一室であって、掃除をしようとしていた自宅の洋室などではないと物語っている。
 手に持っている彼女の背丈よりも少し長い杖の先についた金属の飾りが、先ほどから聞こえていたしゃらしゃらという音を立てていたのだとわかる。足元を見ると、魔法陣のような模様が描かれている。その周りには何かの儀式のように燭台が立ち並び、炎が灯っていた。
 ここまで見れば、嫌でもこの場で一番異質なのは自分だとわかる。帰宅してすぐ制服のブレザーは脱いで、ネクタイは外したが、それだけだ。現代の学生服姿で、掃除をするためにマスクをしていて、手には小さなホコリもしっかりキャッチしてくれるモップを持っている。何もかもがこの場にそぐわない。優人は妙に恥ずかしくなってきて、とりあえずマスクだけでも外した。

「……聞いてもいいですか」
「はい」
 女性の顔は、笑っているのか悲しんでいるのか、または何とも思っていないのか、いまいち表情が読み取れなかった。ぼうっと立っていたって仕方がない。幸い女性は優人に危害を加えるつもりなどなさそうなので、ひとつひとつ状況を整理していくことにした。
「ここはどこですか?」
 何から問うべきか迷ったが、一番の疑問であった現在地から問うことにした。まさかあなたの家の書庫代わりの洋室ですよという訳もないし、まずは場所だと思った。
 女性は当然の疑問だという風にひとつ頷いて、ゆっくりと話し始めた。
「ここはあなたが暮らす地球の裏側。地球のために存在する、地球の闇や災いが導かれる世界……」
「……ええと、つまり」
「地球ではない、別の場所です」
「ありがとう」
 訳がわからずに少し中断させてもらうと、わかりやすい言葉に変えてくれた。
「じゃあ、僕が救うっていうのは、ここの世界のことなんですか?」
 優人が問うと、女性は伏せがちだった目を少し開いた。
「……そうです、救世主よ。先に述べた通り、この世界は地球の闇や災い、良くないモノが次々に流れ込み、それが魔物となり人々の生活を脅かしています」
「それを倒すために、僕が来たということ?」
 魔物。いよいよファンタジーの世界だ。それと戦えっていうのか?優人は魔物はもちろん、人間との喧嘩すらしたことがなかった。
「厳密に言えば倒すのではなく、封印を。救世主が持つのは魔物の力を封印する力。武器の形こそ剣ですが、人によってはその刃で魔物を斬ることなく封印の力を発することもあると聞いております」
「……人によっては?」
「救世主はひとりではありません。代々、地球に暮らす人間が選ばれてきました。今回選ばれたのが、あなたです」
「選ぶのはあなたですか?」
「私ではありません。救世主は星の導きによって選ばれます。私は星が選んだあなたをここへ連れて来る力を持つのみです」
「……あなたは?」
 いかにも高貴ないでたちの女性は、初めて存在を問えば既に伸びていた背筋を更に整える仕草を見せ、姿勢を正して深々と頭を下げる。
「申し遅れました。私はこの世界を治める王国の王女。名をアリアンナと申します。」
 やっぱり王女さまだったか。優人はそう思うと同時にとてつもなく恐縮した。王族の人に、こんなにも深く頭を下げられるとは。
「上山優人です」
「ユウト、良い名前です」
 今度はハッキリと微笑んだのがわかった。表情がかたまったままだと少し怖い印象があったが、柔らかく笑むと母のような優しさを感じた。
 優人は母親というものを知らないが、もしも母親が居たとしたら、こんな感じだろうかと思った。


「……出来ないといったら?」
 出来ない、と思っていた。当然だ。ごく普通に生きてきた高校生が、世界を救う自信がある訳がない。だいたい、異世界なんてまだ信じられていなかった。
「……強制することは、私たちには出来ません。誰にでも選ぶ権利も、選ばない権利もあります」
「僕がやらなければどうなるんですか?」
「……魔物は今も、この世界の人々の生活を脅かし、時には命も奪っています。この世界の住人は、魔物を攻撃し力を弱めることは出来ますが封印することは出来ません。また、救世主はいつでも次々に選ばれるわけではありません。この度あなたが選ばれるまでにも三年かかりました。あなたが辞退した場合、また次に誰かが選ばれるまでどれほどの時が必要かもわかりません。人々は長い間、苦しみから解放されることがなくなります」
 ですから、と王女は小さく続けたが、その先は言葉にならなかった。表情は痛切で悲しみに満ち溢れていた。
 なるほど、一度自分の世界の常識は忘れることにして、王女の話を聞いてみると、だんだん自分の置かれてる状況が理解できてきた。魔物が暴れまわるこの世界で人々は苦しみから逃れられず、時には命を落としている…助けられるのは自分だけ、か。憂うその表情から、優人はかつて世界を救うことを選ばなかった者が居たのだろうと察した。どうして自分なんだとか、もっと強そうな奴が居ただろとか、どうやら自分を選んだ訳ではない王女に言っても仕方がなさそうだ。やるのか、やらないのか、選べと言われている。

 優人は考えた。もし自分がこの世界の住人だったら。
 もちろん助けて欲しいと願うだろう。でも救世主にだって生活があるし、いきなり魔物と戦えと言われて嫌だと思う気持ちもわかる。責めはしないかもしれない。抵抗する力があるなら、自分たちだけで何とかしようとも思うかもしれない。けれど、命懸けで戦ったところで、魔物を倒すことはできない。心が折れるのに、そう時間はいらないだろう。
 しんどいな、と思った。考えるだけでも息が詰まりそうだ。

 問題は、どうしたいかだ。普通の生活を続けていた優人に、突然訪れた異変。決断するにはテーマが重すぎた。人の命がかかっているなんて。

「……すぐには、決められないと思います。立ち話も疲れるでしょう、中に……」
「ええ、でもやります」
「…………えっ?」
 王女が初めて取り乱したように見えた。こんな顔もするのか、と優人はこの状況を他人事のように思った。
「詳しい話は聞きたいですけど、やりますよ。僕にしか出来ないんでしょう」
「それは、そうですが」
 考えは、自分でも思ったより早く決まった。

 自分にしか出来ないこと。これからの人生を生きていくうえで、そう言えることが一体いくつあるだろう。人の役に立てること、人の命を助けられることなんて、今後一度か二度でもでもあるだろうか。優人はそう考えた。
幸いと言うべきか不幸と言うべきか、優人には大切にしているものが何もなかった。家族はもう二年も声を聞いていない父だけ。母も兄弟もペットも居ない、植物すら育てていない。友達も、好きな女の子も、やりたい勉強も、叶えたい夢もなかった。けれど、いつか自分にもそんな大切なものが出来るのかもしれないと、ぼんやりと思うだけの毎日を過ごしていたのだ。失くすものがないということがこんなにも心強く思ったのは初めてだった。
何かを選ぶのに、何も捨てるものはない。なら、迷うことはないと思った。

「僕が何かの役に立つのなら、頑張ってみたいと思うんです……なんて、不純な動機かもしれないですけど」
 王女は、言葉が見つからない様子だった。何かを言おうとしては、息を飲み込む。

「……こんなにはやく決断したのは、あなたが初めてです」

 ようやく絞り出された言葉に、なんだか笑ってしまった。

しおりを挟む

処理中です...