アキ

おふとん

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 車を走らせる道中、アキは口を開かなかった。「どこ行くん?」と一言だけ聞いてきたが、「まぁ黙って座っとけ」とだけ返事をし、山道を走り続けた。


 車のライトを消して、エンジンを止め、おれは車を降りた。アキもおれに連られて車を降りる。まだ外の暗さに目が馴染んでいないから、真っ暗い闇の中にフワフワと浮かんでいる様で、足元がおぼつかない。恐る恐る歩くアキの手を引き、崖の傍のおれの指定席の岩まで行くと、途端にアキが、わぁ!と声を上げた。
「すごい!綺麗!」
 目に飛び込んできた夜景の灯りが、一気にアキの心を照らしたであろうことが、その声の調子から分かる。崖の下から、周りの山を避けながら遥か向こうまで伸びている光の川に、アキはすっかり見入っている。
 少し目が慣れてきた頃、空一面に広がる星の存在にも気付いた様だ。まるで、粉々に砕いたガラスを無数に散りばめたかのような星の海。
「星ってこんなにあるんやね!こんな数初めて見た!」
 今日は月が出ていないから余計に、星達が夜空に際立って見えている。澄み切った空の闇は星の光だけを乗せて、その輝きをここまで届けてくれている。
 アキは、さっきまでの沈んだ声がまるで嘘の様にはしゃいでおり、おれは傍の岩に腰掛けタバコに火を付けた。
「おれもな、何か嫌なことがあったらここに来るんや。こっから街の光とか星とか眺めよったらさ、何となく気持ちがスーっとするけんな」
 忙しそうに上へ下へと顔をやっているアキの目はキラキラしている。新しいおもちゃでも買い与えられた子どもの様だ。
「こんだけの景色見よったらさ、自分の考えとることなんか小さいなって思えてくるしな」
「なんか、分かるよ!」
 頬に涙がつたうのが見えた。でも、その声は透き通っている。いつものアキだった。
「お前にやるわ、この場所。何か辛かったり寂しかったりしたらさ、お前もここに来たらええよ」
「ハルさんってさ、そんなロマンチックな人やったん?」
 涙を流しながらアキは笑っている。ロマンチックと言われると、くすぐられた様な心持ちになった。
「ってかさ、前に電話した時、ハルさんが言いよった場所ってここ?」
 そういえばそんな事もあった。
「連れてってくれるって約束守ってくれたんやね!ありがとう!」
 そんな約束、今の今まですっかり忘れていた。そうだなと、気の無い返事をすると、「本当は忘れとったんやろ?」と追及しきた。結果、約束は果たせたのだから、この際どちらでも良いだろう。

 しばらくこの場所で過ごした。何者にも干渉されない穏やかなこの場所で、静かに時が流れて行くのを二人で噛み締めた。
 アキは思い出した様に、さっき渡したカフェオレの冷たい方をおれに寄越してきた。寒いから飲む気にならないと一度は断ったが、どうせ暖かい方も時間が経って冷めてきている様子だったから、どちらでも良いかとやっぱり貰っておいた。
 口の中の切れた傷が染みるようで、アキはなかなか飲みづらそうにしている。口元のまだ少し腫れた所をさすりながら、「美人が台無しやでホンマに!」というから、さらに別嬪になったなと軽口を叩いておいたら、また頬を膨らませていた。
 殴られた理由は聞かなかった。アキから言おうとしないのだから、もうおれは、これ以上はこいつの心には触れまいと、冷たいカフェオレと一緒に飲み込んでおいた。
「じゃあ、元気貰ったし、そろそろ帰ろ!」
 アキの言葉でふと現実に帰ったおれは、果たしてこのまま、家にすんなりアキを返して良いのだろうかという疑問が浮かんだ。帰るや否や、こんな時間にどこをほっつき歩いていたんだと、また殴られる可能性が全く無いという訳では無いのだから。
「どうせ家になんか誰もおらんけん大丈夫よ!三人だけで出掛けて行くんなんかしょっちゅうやけん!」
 やや迷いはあったが、アキがそう言うならと、迎えに行ったコンビニまで送り届けた。見送った後、家に帰ったアキから連絡が来るまでと、しばらくコンビニで待っていた。
「やっぱり誰もおらん!逆に安心したわ!ハルさん、今日はありがとね!」
 その連絡を受けてから、おれも家に帰った。

 おれは帰ってからも、アキのことが頭から離れなかった。こんな事態に直面しても、何も出来ない自分の無力さに、そしていつからか、大人としての、教師としての常識をすり込まれつつある自分に、何だか嫌気がさした。昔のおれならアキの家にすぐさま乗り込んで、父親の顔面に一発お見舞いしていたのかもしれない。てめぇ、血は繋がっていようがなかろうが、それが親の姿かこの野郎!てめぇも、それで母親のつもりかこの野郎!、と。
 しかし、それはそれでおかしな話だ。アキが、相手が、生徒だからという話ではない。おれがしゃしゃり出てどうにかしようとした所で、結局は本人が、アキ自身が、どうにか向き合って、自分の足で生きていくしかないのだから。しかし、あの時のアキの心は、確かに誰かへと救いを求めていた様に感じる。
――つくづく思う。教師とは、教育とは何なのだ。こんな見たくも知りたくも無い、人の暗い部分まで目にしてしまい、そしてそれでも何もできない自分に、限界を感じた。少なくとも、この仕事をしているうちはこんな日々が続いていく。もう充分だ。任期を終えたら、おれはキッパリ教師を辞めよう。
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