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第31話:探してしまう自分
しおりを挟む――もう、あの店には行かない。
朝、歯を磨きながら鏡にむかってそう言った。
口いっぱいにミントの泡を抱えたまま、二度、三度、心の中で繰り返す。
言い切った瞬間は少しだけ勝った気がしたのに、うがいをして顔を上げると、鏡の中の俺はたいして強そうには見えなかった。
(どうせ嘘だ、って言ってろ)
念押しのために、スマホからレオンのトーク画面を一番下のフォルダに放り込んで、通知も切った。
連絡なんて、もう来るはずないのに、来ないことを先に作っておかないと落ち着かない。
俺はため息を吐きながら、スマホを自室の机の上に置いて、家を出た。
大学でも、敢えていつもと違う動線を選んだ。
いつも使う中央の階段を避けて、理工棟と文系棟の間を抜ける細い渡り廊下に回り込む。
手すりの金属が冷たく、風が通る。
遠くでサッカー部のかけ声が響いている。
知らない景色のはずなのに、胸の奥のざわめきはついてくる。
(……店には行かない。行かないんだ)
そう言い聞かせるたび、耳の奥で「覚えておいて、陸」という声が、勝手に再生される。
やめろ。
そういうのがいちばんタチ悪い。
図書館も、いつもの自習席を外した。
今日は三階の奥、雑誌のバックナンバー棚の陰に腰を下ろす。
机の黄ばんだランプをつけると、紙の匂いが立ち上る。
視界の端で歩く影が動くたび、顔を上げそうになるのを、わざと意識して抑え込む。
(探すな。探すなって)
意識した瞬間、もう手遅れだ。
雑誌棚のガラスに反射した廊下の向こう、白いシャツの影が横切る。
喉の奥がひゅっと鳴る。
思わず立ち上がりかけて、椅子の脚がぎ、と床をひっかいた。
息を潜めて様子を窺えば……なんてことない。見間違いだった。
全然違う背丈、違う歩幅。知らない誰か。
昼、学食には行かなかった。
人目がうるさいと、余計な視線に神経が擦れてしまうから。
生協のパンを二つ買って、講義棟の屋上近く、解放廊のベンチに腰掛ける。
春の名残りみたいな風が吹き抜け、雲の影がグラウンドを大きく横切った。
(ほら、ひとりで食ってる。平気だろ)
心を空にしてパンにかぶりついた瞬間、風に混じってどこからか柑橘の匂いがした。
胸の奥が反射的にきゅっと縮む。
馬鹿みたいに辺りを見回す。どこにもいない。
誰かが似た香りの香水をつけていたのだろう。
そうだ、それだけのことだ。
午後のゼミは席を一番前にした。
前の方に座れば目の前に先生、横にレポート、視界が忙しくて気が紛れる。
後ろに座れば全員の背中が目に入る。
なのにどうしてわざわざ後ろを選んだかといえば――自分で自分に嫌になるけれど、逃げ道を用意しているのだ。
入って来るか、来ないか。来たらどこに座るか。誰と話すか。
探してしまう自分を、どうにか「監視」するために。
ドアが開くたびに、心臓が鳴る。
入って来ない。もう一度。別の学生。講義資料の束が配られる。
先生が冗談を言って、周囲が笑う。
二十回目のドアの開閉で、やっとあいつが入ってきた。
眼鏡、白シャツ、ノート。
まっすぐ、空いた真ん中の席に座る。顔を上げない。
周囲と短く会釈を交わす。
わかってる。視界の端でも、そういう「温度」は伝わる。
(……来たからって、なんだよ)
あいつがノートを開く音と同時に、俺は視線を落とした。
手元のペン先が紙を引っ掻く。
字が妙にとんがる。
先生の声は遠く、ホワイトボードの文字はにじんでいる。
ふと、正面の窓に、室内の反対側の景色が薄く映っているのに気づく。
反転した人々の動きの中に一人、背筋をすっと伸ばした影――
(──見るな)
心の中で叫んだ時には、もう見ていた。
視線がぶつかってしまったのかどうか、判然としない。
反射像は曖昧で、目の動きまでは読めない。
けれど、たぶんこちらを見た。見た気がした。
体温が一度上がる。耳の内側が熱い。
(なんで、なんで探すんだよ、俺……)
自嘲が喉の奥で笑いにもならず、胃のあたりに沈む。
授業が終わるベルが鳴って、椅子がいっせいに引かれる音に現実へ引き戻された。
廊下に出る前に、わざと違う出口から出る。
偶然会わないように、階段ではなく遠回りのスロープ。
窓ガラスの向こうで吹奏楽部が音合わせをしている。
金管の音が上ずって、耳に刺さる。
帰り道も、変えた。駅に向かわず、商店街を迂回して家まで歩くコース。
アーケードの天井に吊られた提灯が、風もないのにゆらゆら揺れる。
たこ焼きの匂い、古本屋の紙の匂い、揚げ油の匂い。
柑橘ではない。安心している自分が、嫌だ。
(店には行かない)
無意識のうちに、あの通りに曲がる足を自分で止めた。
いつもの角の信号を渡れば、五分も歩けば例の看板がある。
渡らない。青になっても、渡らない。
スマホがポケットにないのが、こんなに心もとないとは思わなかった。
信号がまた赤に戻る。背中を風が押す。踏み出さない。
その足でバイト先のカフェに顔を出した。
今日はシフトじゃないけれど、閉店前の片付けを手伝えば、少しはましな気分になれると思ったから。
マネージャーに「珍しいな」と笑われつつ、カウンター内でマシンのステンレスを拭く。スチームの湯気、挽きたての豆の香り。
これなら匂いの記憶に引きずられない。ここは俺の匂いで満ちている。
それでも、ドアベルが鳴るたびに、顔を上げる。
違う客。違う客。違う――当たり前だ。
あいつがこんな時間に、こんな場所に、来るわけない。
何を期待しているんだ。違う、期待なんてしていない。
なのに、ドアの音に反応する反射神経だけが勝手に育っていく。
閉店後、モップを洗いながら、バックヤードの小さな鏡を覗き込む。
ぼやけた蛍光灯の下で、頬が思ったより痩せて見える。
目の下に小さな隈。
口元の色が薄い。
鏡の上に置かれた一枚の付箋に「ゴミは分別して!」って注意書きがしてあったが、その丸文字がやけに遠い。
(結局、店に行かなくても――探してる)
声に出さなかったのに、鏡の中の俺が口の形だけでそう言った気がした。
……嫌になる。
両手で顔を覆って、深く息を吐く。
掌の内側に自分の体温が渦巻く。息苦しい。
帰り道、商店街のシャッターはほとんど降りていた。
街灯の下を通るたびに、影が伸びたり縮んだりする。
自動販売機の白い光。缶コーヒーを買って、プルタブを引く音がやけに大きく響いた。
泡の弾ける音に、あの夜のシャンパンが重なる。
やめろ。こんなところで、そんな回想はいらない。
マンションのエレベーターは点検中で、階段を四階まで上る。
踊り場の小窓から、遠くに駅前のネオンが滲んで見えた。
あの通りの、一本向こう側。見ないふりをして、足を速める。
部屋に入って、靴を脱ぐ。そのまま洗面所に直行して、蛇口をひねった。冷たい水を頬に当てる。滴る水の音だけになる。顔を上げる。鏡の中の俺が、疲れた目で俺を見る。
「……なんで思い出すんだよ、俺は……」
声が小さすぎて、自分にも聞こえなかった。
もう一度、口の中だけで言ってから、ゆっくりと目を閉じる。
瞼の裏に、また同じ輪郭が浮かぶ。
眼鏡を外した顔。低い声。耳に残る熱。
(……店には行かない)
そう繰り返しながら、俺は鏡の前から動けなかった。
言い聞かせる言葉が増えるほどに、探してしまう自分だけが、鮮やかに輪郭を強めていった。
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