もう殺されるのはゴメンなので婚約破棄します!

めがねあざらし

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54、リセルの歌

ラディウスの指先が、僕へ伸びた。
その動きは、凪いだ海のように静かで、恋人の頬へ触れる直前のためらいのようにさえ見えるのに、その実態は、精神を引き裂き、核心だけを奪い取ろうとする絶対の支配だった。

空気が、ゆっくりと押し潰されていく。
肺の奥から熱が吸い出され、心臓がひとつ鼓動するたびに、
僕自身の輪郭が、内側からほどけていく錯覚に陥った。

「……っ」

その瞬間、ラディウスの術が僕の中に届くより先に、脳の奥の、もっと静かな場所が揺れた。
喉の奥で、名前のわからない震えが出る。

(ああ、そうだ……歌わなきゃ)

理由はわからなかった。
ただ、胸の最も深いところ――僕と誰かの境界の薄い場所から、心を撫でるような声が響いてきた。

“歌って”

とてもやわらかい声だった。
リセルの声だ。

ラディウスがもう一歩踏み込む。
アルバートの剣先が揺れ、僕を後ろへ押し戻そうとする。

「イリィ、後ろへ……!」

その声が届かない。
僕は一歩も動けず、代わりに喉に触れた小さな震えだけが、自分の意思よりも先に溢れだした。

「……あ」

声にならない声。
その破片が空気を震わせる。

ラディウスの指が、もう僕の頬に触れようとしていた。
精神の束が、皮膚の上に無数の冷たい手を置きかけていた。

その刹那――僕は歌った。

歌わされたのかもしれない。
僕自身が歌ったのかもしれない。
その境界が曖昧なまま、
喉が勝手に動いた。

夜気に溶ける声は、どこかゆがみ、どこか澄み、僕に馴染みのない旋律を辿っていた。

「……どうして……」

ラディウスが小さく呟く。
彼の声が遠くで波のように揺れる。

部屋の空気が変わった。
魔力が沈む。
ラディウスの足が止まる。

僕は歌いながら、自分の意識が、ゆっくりとどこかへ引き込まれていくのを感じた。

視界が滲む。
部屋の輪郭が、薄膜の向こうへ透けていく。

(――イライアス)

名前を呼ぶ声。
僕の中で誰かがそっと息をする。

(……イライアス、ごめんね)

ごめんね、という響きが、胸の奥に直接触れた。

(少しだけ、借りるよ)

それは僕の声ではなく、僕の奥にかすかに残っていた声だった。

リセル。

そう呼ぶ前に、その名の気配が、僕の全身をそっと包んだ。

ラディウスの顔から、静かに血の気が引いていく。
驚愕と、懐かしさと、すがるような愛の残滓が、表情の上でゆっくりと混ざりあっていく。

その目が、僕ではなく、
僕の中の誰かを見つめているのがはっきりわかった。

「……リセル……?」

声が震えた。
あの冷たく残酷だった男の声が、まるで迷子の子供のそれみたいに。

僕の喉から溢れる歌は、それに答えるように続いていく。

高くも、低くもなく。
泣いているような、笑っているような音。

ラディウスが足を踏み出しかけて、ふらりと揺れた。
その目は濁っていて、けれどその奥にある渇望は、僕の胸を刺した。

(……ああ、これは……)

理解した。

リセルは、自分の歌がラディウスにどんな意味を持つか知っていた。
そして、その歌が唯一、彼の「支配」ではなく「記憶」を揺らせるのだと。

だから――
僕に残したのだ。

歌を。
声を。
思考のひだの奥に、そっと隠すようにして。

(イライアス)

リセルの声が、僕の意識の裏側で震えた。

(怖がらないで。君の身体を壊したりしない……ただ、少しだけ。
あの人を、止めなきゃいけない)

ラディウスが小さく息を呑む。

「……リセル、なのか……?」

僕の身体が、ゆっくりと彼の方へ向く。
意識の舵が奪われているというより、二人分の視線が同じ先を見ているような奇妙な重なり。

アルバートの声が背中から聞こえる。

「イリィ……?」

その声音は傷ついたようで、でも否定よりも不安の方が濃かった。

(アルバート……ごめん。でも、大丈夫だから……待ってて)

心の中でそう呟いたのは、僕か、リセルか。

区別がつかない。
結界の外から、リーゼンの震える声が聞こえた。

「……あれは、術じゃない。精神の層が二重に……いや、これは……」

理解を超えたものを前に、呟きが途切れる。

ラディウスは一歩、また一歩、
まるで夢中で引き寄せられるように僕へ近づいた。

「リセル……やっと……」

その手が伸びる。
指先が震えている。
奪うためではなく、触れることすら恐れているように。

僕の身体は――自分のものなのに、僕の意志では動かない。
それでも、不思議と怖くはなかった。

(イライアス。大丈夫、すぐ返すから。君の大事な人も、守るよ)

そのささやきは、ひどく優しかった。

そして僕は、僕の声なのに僕ではない声を、もう一度歌った。

ラディウスの瞳がひらく。
絶望と救済のまんなかで、彼が名を呼ぶ。

「……リセル……」

世界が、その一言で揺れた。




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