55 / 62
54、リセルの歌
ラディウスの指先が、僕へ伸びた。
その動きは、凪いだ海のように静かで、恋人の頬へ触れる直前のためらいのようにさえ見えるのに、その実態は、精神を引き裂き、核心だけを奪い取ろうとする絶対の支配だった。
空気が、ゆっくりと押し潰されていく。
肺の奥から熱が吸い出され、心臓がひとつ鼓動するたびに、
僕自身の輪郭が、内側からほどけていく錯覚に陥った。
「……っ」
その瞬間、ラディウスの術が僕の中に届くより先に、脳の奥の、もっと静かな場所が揺れた。
喉の奥で、名前のわからない震えが出る。
(ああ、そうだ……歌わなきゃ)
理由はわからなかった。
ただ、胸の最も深いところ――僕と誰かの境界の薄い場所から、心を撫でるような声が響いてきた。
“歌って”
とてもやわらかい声だった。
リセルの声だ。
ラディウスがもう一歩踏み込む。
アルバートの剣先が揺れ、僕を後ろへ押し戻そうとする。
「イリィ、後ろへ……!」
その声が届かない。
僕は一歩も動けず、代わりに喉に触れた小さな震えだけが、自分の意思よりも先に溢れだした。
「……あ」
声にならない声。
その破片が空気を震わせる。
ラディウスの指が、もう僕の頬に触れようとしていた。
精神の束が、皮膚の上に無数の冷たい手を置きかけていた。
その刹那――僕は歌った。
歌わされたのかもしれない。
僕自身が歌ったのかもしれない。
その境界が曖昧なまま、
喉が勝手に動いた。
夜気に溶ける声は、どこかゆがみ、どこか澄み、僕に馴染みのない旋律を辿っていた。
「……どうして……」
ラディウスが小さく呟く。
彼の声が遠くで波のように揺れる。
部屋の空気が変わった。
魔力が沈む。
ラディウスの足が止まる。
僕は歌いながら、自分の意識が、ゆっくりとどこかへ引き込まれていくのを感じた。
視界が滲む。
部屋の輪郭が、薄膜の向こうへ透けていく。
(――イライアス)
名前を呼ぶ声。
僕の中で誰かがそっと息をする。
(……イライアス、ごめんね)
ごめんね、という響きが、胸の奥に直接触れた。
(少しだけ、借りるよ)
それは僕の声ではなく、僕の奥にかすかに残っていた声だった。
リセル。
そう呼ぶ前に、その名の気配が、僕の全身をそっと包んだ。
ラディウスの顔から、静かに血の気が引いていく。
驚愕と、懐かしさと、すがるような愛の残滓が、表情の上でゆっくりと混ざりあっていく。
その目が、僕ではなく、
僕の中の誰かを見つめているのがはっきりわかった。
「……リセル……?」
声が震えた。
あの冷たく残酷だった男の声が、まるで迷子の子供のそれみたいに。
僕の喉から溢れる歌は、それに答えるように続いていく。
高くも、低くもなく。
泣いているような、笑っているような音。
ラディウスが足を踏み出しかけて、ふらりと揺れた。
その目は濁っていて、けれどその奥にある渇望は、僕の胸を刺した。
(……ああ、これは……)
理解した。
リセルは、自分の歌がラディウスにどんな意味を持つか知っていた。
そして、その歌が唯一、彼の「支配」ではなく「記憶」を揺らせるのだと。
だから――
僕に残したのだ。
歌を。
声を。
思考のひだの奥に、そっと隠すようにして。
(イライアス)
リセルの声が、僕の意識の裏側で震えた。
(怖がらないで。君の身体を壊したりしない……ただ、少しだけ。
あの人を、止めなきゃいけない)
ラディウスが小さく息を呑む。
「……リセル、なのか……?」
僕の身体が、ゆっくりと彼の方へ向く。
意識の舵が奪われているというより、二人分の視線が同じ先を見ているような奇妙な重なり。
アルバートの声が背中から聞こえる。
「イリィ……?」
その声音は傷ついたようで、でも否定よりも不安の方が濃かった。
(アルバート……ごめん。でも、大丈夫だから……待ってて)
心の中でそう呟いたのは、僕か、リセルか。
区別がつかない。
結界の外から、リーゼンの震える声が聞こえた。
「……あれは、術じゃない。精神の層が二重に……いや、これは……」
理解を超えたものを前に、呟きが途切れる。
ラディウスは一歩、また一歩、
まるで夢中で引き寄せられるように僕へ近づいた。
「リセル……やっと……」
その手が伸びる。
指先が震えている。
奪うためではなく、触れることすら恐れているように。
僕の身体は――自分のものなのに、僕の意志では動かない。
それでも、不思議と怖くはなかった。
(イライアス。大丈夫、すぐ返すから。君の大事な人も、守るよ)
そのささやきは、ひどく優しかった。
そして僕は、僕の声なのに僕ではない声を、もう一度歌った。
ラディウスの瞳がひらく。
絶望と救済のまんなかで、彼が名を呼ぶ。
「……リセル……」
世界が、その一言で揺れた。
———————
投稿は毎日21:30です。
リアクションやコメントいただけると嬉しいです♪
-——————
その動きは、凪いだ海のように静かで、恋人の頬へ触れる直前のためらいのようにさえ見えるのに、その実態は、精神を引き裂き、核心だけを奪い取ろうとする絶対の支配だった。
空気が、ゆっくりと押し潰されていく。
肺の奥から熱が吸い出され、心臓がひとつ鼓動するたびに、
僕自身の輪郭が、内側からほどけていく錯覚に陥った。
「……っ」
その瞬間、ラディウスの術が僕の中に届くより先に、脳の奥の、もっと静かな場所が揺れた。
喉の奥で、名前のわからない震えが出る。
(ああ、そうだ……歌わなきゃ)
理由はわからなかった。
ただ、胸の最も深いところ――僕と誰かの境界の薄い場所から、心を撫でるような声が響いてきた。
“歌って”
とてもやわらかい声だった。
リセルの声だ。
ラディウスがもう一歩踏み込む。
アルバートの剣先が揺れ、僕を後ろへ押し戻そうとする。
「イリィ、後ろへ……!」
その声が届かない。
僕は一歩も動けず、代わりに喉に触れた小さな震えだけが、自分の意思よりも先に溢れだした。
「……あ」
声にならない声。
その破片が空気を震わせる。
ラディウスの指が、もう僕の頬に触れようとしていた。
精神の束が、皮膚の上に無数の冷たい手を置きかけていた。
その刹那――僕は歌った。
歌わされたのかもしれない。
僕自身が歌ったのかもしれない。
その境界が曖昧なまま、
喉が勝手に動いた。
夜気に溶ける声は、どこかゆがみ、どこか澄み、僕に馴染みのない旋律を辿っていた。
「……どうして……」
ラディウスが小さく呟く。
彼の声が遠くで波のように揺れる。
部屋の空気が変わった。
魔力が沈む。
ラディウスの足が止まる。
僕は歌いながら、自分の意識が、ゆっくりとどこかへ引き込まれていくのを感じた。
視界が滲む。
部屋の輪郭が、薄膜の向こうへ透けていく。
(――イライアス)
名前を呼ぶ声。
僕の中で誰かがそっと息をする。
(……イライアス、ごめんね)
ごめんね、という響きが、胸の奥に直接触れた。
(少しだけ、借りるよ)
それは僕の声ではなく、僕の奥にかすかに残っていた声だった。
リセル。
そう呼ぶ前に、その名の気配が、僕の全身をそっと包んだ。
ラディウスの顔から、静かに血の気が引いていく。
驚愕と、懐かしさと、すがるような愛の残滓が、表情の上でゆっくりと混ざりあっていく。
その目が、僕ではなく、
僕の中の誰かを見つめているのがはっきりわかった。
「……リセル……?」
声が震えた。
あの冷たく残酷だった男の声が、まるで迷子の子供のそれみたいに。
僕の喉から溢れる歌は、それに答えるように続いていく。
高くも、低くもなく。
泣いているような、笑っているような音。
ラディウスが足を踏み出しかけて、ふらりと揺れた。
その目は濁っていて、けれどその奥にある渇望は、僕の胸を刺した。
(……ああ、これは……)
理解した。
リセルは、自分の歌がラディウスにどんな意味を持つか知っていた。
そして、その歌が唯一、彼の「支配」ではなく「記憶」を揺らせるのだと。
だから――
僕に残したのだ。
歌を。
声を。
思考のひだの奥に、そっと隠すようにして。
(イライアス)
リセルの声が、僕の意識の裏側で震えた。
(怖がらないで。君の身体を壊したりしない……ただ、少しだけ。
あの人を、止めなきゃいけない)
ラディウスが小さく息を呑む。
「……リセル、なのか……?」
僕の身体が、ゆっくりと彼の方へ向く。
意識の舵が奪われているというより、二人分の視線が同じ先を見ているような奇妙な重なり。
アルバートの声が背中から聞こえる。
「イリィ……?」
その声音は傷ついたようで、でも否定よりも不安の方が濃かった。
(アルバート……ごめん。でも、大丈夫だから……待ってて)
心の中でそう呟いたのは、僕か、リセルか。
区別がつかない。
結界の外から、リーゼンの震える声が聞こえた。
「……あれは、術じゃない。精神の層が二重に……いや、これは……」
理解を超えたものを前に、呟きが途切れる。
ラディウスは一歩、また一歩、
まるで夢中で引き寄せられるように僕へ近づいた。
「リセル……やっと……」
その手が伸びる。
指先が震えている。
奪うためではなく、触れることすら恐れているように。
僕の身体は――自分のものなのに、僕の意志では動かない。
それでも、不思議と怖くはなかった。
(イライアス。大丈夫、すぐ返すから。君の大事な人も、守るよ)
そのささやきは、ひどく優しかった。
そして僕は、僕の声なのに僕ではない声を、もう一度歌った。
ラディウスの瞳がひらく。
絶望と救済のまんなかで、彼が名を呼ぶ。
「……リセル……」
世界が、その一言で揺れた。
———————
投稿は毎日21:30です。
リアクションやコメントいただけると嬉しいです♪
-——————
あなたにおすすめの小説
BL世界に転生したけど主人公の弟で悪役だったのでほっといてください
わさび
BL
前世、妹から聞いていたBL世界に転生してしまった主人公。
まだ転生したのはいいとして、何故よりにもよって悪役である弟に転生してしまったのか…!?
悪役の弟が抱えていたであろう嫉妬に抗いつつ転生生活を過ごす物語。
悪役令息に転生した俺は推しの為に舞台から退場する
スノウマン(ユッキー)
BL
前世の記憶を思い出したアレクシスは悪役令息に転生したことに気づく。このままでは推しである義弟ノアが世界を救った後も幸せになれない未来を迎えてしまう。それを回避する為に、俺は舞台から退場することを選んだ。全てを燃やし尽くす事で。
そんな俺の行動によってノアが俺に執着することになるとも知らずに。
繋ぎの婚約を契約通り解消しようとしたら、王宮に溺愛軟禁されました
こたま
BL
エレンは子爵家のオメガ令息として産まれた。年上のアルファの王子殿下と年齢が釣り合うオメガ令息が少なく、他国との縁組も纏まらないため家格は低いが繋ぎとして一応婚約をしている。王子のことは兄のように慕っており、初恋の人ではあるけれど、契約終了時期か王子に想い人が現れた時には解消されるものと考えていた。ところが婚約解消時期の直前に王子宮に軟禁された。結婚を承諾するまでここから出さないと王子から溢れるほどの愛を与えられる。ハッピーエンドオメガバースBLです。
悪役令息ですが破滅回避で主人公を無視したら、高潔な態度だと勘違いされて聖人認定。なぜか溺愛ルートに入りました
水凪しおん
BL
BL小説『銀の瞳の聖者』の悪役令息ルシアンに転生してしまった俺。
原作通りなら、主人公ノエルをいじめ抜き、最後は断罪されて野垂れ死ぬ運命だ。
「そんなの絶対にお断りだ! 俺は平和に長生きしたい!」
破滅フラグを回避するため、俺は決意した。
主人公ノエルを徹底的に避け、関わらず、空気のように生きることを。
しかし、俺の「無視」や「無関心」は、なぜかノエルにポジティブに変換されていく。
「他の人のように欲望の目で見ないなんて、なんて高潔な方なんだ……!」
いじめっ子を視線だけで追い払えば「影から守ってくれた」、雨の日に「臭いから近寄るな」と上着を投げつければ「不器用な優しさ」!?
全力で嫌われようとすればするほど、主人公からの好感度が爆上がりして、聖人認定されてしまう勘違いラブコメディ!
小心者の悪役令息×健気なポジティブ主人公の、すれ違い溺愛ファンタジー、ここに開幕!
婚約者の王子様に愛人がいるらしいが、ペットを探すのに忙しいので放っておいてくれ。
フジミサヤ
BL
「君を愛することはできない」
可愛らしい平民の愛人を膝の上に抱え上げたこの国の第二王子サミュエルに宣言され、王子の婚約者だった公爵令息ノア・オルコットは、傷心のあまり学園を飛び出してしまった……というのが学園の生徒たちの認識である。
だがノアの本当の目的は、行方不明の自分のペット(魔王の側近だったらしい)の捜索だった。通りすがりの魔族に道を尋ねて目的地へ向かう途中、ノアは完璧な変装をしていたにも関わらず、何故かノアを追ってきたらしい王子サミュエルに捕まってしまう。
◇拙作「僕が勇者に殺された件。」に出てきたノアの話ですが、一応単体でも読めます。
◇テキトー設定。細かいツッコミはご容赦ください。見切り発車なので不定期更新となります。
なぜ処刑予定の悪役子息の俺が溺愛されている?
詩河とんぼ
BL
前世では過労死し、バース性があるBLゲームに転生した俺は、なる方が珍しいバットエンド以外は全て処刑されるというの世界の悪役子息・カイラントになっていた。処刑されるのはもちろん嫌だし、知識を付けてそれなりのところで働くか婿入りできたらいいな……と思っていたのだが、攻略対象者で王太子のアルスタから猛アプローチを受ける。……どうしてこうなった?
結婚しても別居して私は楽しくくらしたいので、どうぞ好きな女性を作ってください
シンさん
ファンタジー
サナス伯爵の娘、ニーナは隣国のアルデーテ王国の王太子との婚約が決まる。
国に行ったはいいけど、王都から程遠い別邸に放置され、1度も会いに来る事はない。
溺愛する女性がいるとの噂も!
それって最高!好きでもない男の子供をつくらなくていいかもしれないし。
それに私は、最初から別居して楽しく暮らしたかったんだから!
そんな別居願望たっぷりの伯爵令嬢と王子の恋愛ストーリー
最後まで書きあがっていますので、随時更新します。
表紙はエブリスタでBeeさんに描いて頂きました!綺麗なイラストが沢山ございます。リンク貼らせていただきました。
嫌われ魔術師の俺は元夫への恋心を消去する
SKYTRICK
BL
旧題:恋愛感情抹消魔法で元夫への恋を消去する
☆11/28完結しました。
☆第11回BL小説大賞奨励賞受賞しました。ありがとうございます!
冷酷大元帥×元娼夫の忘れられた夫
——「また俺を好きになるって言ったのに、嘘つき」
元娼夫で現魔術師であるエディことサラは五年ぶりに祖国・ファルンに帰国した。しかし暫しの帰郷を味わう間も無く、直後、ファルン王国軍の大元帥であるロイ・オークランスの使者が元帥命令を掲げてサラの元へやってくる。
ロイ・オークランスの名を知らぬ者は世界でもそうそういない。魔族の血を引くロイは人間から畏怖を大いに集めながらも、大将として国防戦争に打ち勝ち、たった二十九歳で大元帥として全軍のトップに立っている。
その元帥命令の内容というのは、五年前に最愛の妻を亡くしたロイを、魔族への本能的な恐怖を感じないサラが慰めろというものだった。
ロイは妻であるリネ・オークランスを亡くし、悲しみに苛まれている。あまりの辛さで『奥様』に関する記憶すら忘却してしまったらしい。半ば強引にロイの元へ連れていかれるサラは、彼に己を『サラ』と名乗る。だが、
——「失せろ。お前のような娼夫など必要としていない」
噂通り冷酷なロイの口からは罵詈雑言が放たれた。ロイは穢らわしい娼夫を睨みつけ去ってしまう。使者らは最愛の妻を亡くしたロイを憐れむばかりで、まるでサラの様子を気にしていない。
誰も、サラこそが五年前に亡くなった『奥様』であり、最愛のその人であるとは気付いていないようだった。
しかし、最大の問題は元夫に存在を忘れられていることではない。
サラが未だにロイを愛しているという事実だ。
仕方なく、『恋愛感情抹消魔法』を己にかけることにするサラだが——……
☆お読みくださりありがとうございます。良ければ感想などいただけるとパワーになります!