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第15章 存在するために
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菜々の告白を受けてから、2日が過ぎた。有給明けの出勤日まではまだ数日の余裕があったが、ようやく体を動かす気力が生まれた俺は、テレビを見る菜々の横で洗濯物をかき集めていた。
菜々は俺のことを好きだと言っていた。そして俺はそれを受け入れた。ならば菜々は俺の彼女ということにでもなるのだろうか。そう、それが自然な考えだ。
しかしどうしてだろう。そういうものではないような気がしてならない。彼女という感覚がしっくりこないのだ。
この菜々という女の子は、どうして俺を好きだなんて言ったのだろうか。好かれる意味がわからないのだ。普通ならば、こんなにもわけのわからない女から告白されて、それを真に受ける馬鹿はいない。
しかし俺は馬鹿になった。馬鹿になろうと決めたのだ。俺は菜々を信じ、そして大切にすると決めた。ならば菜々の言葉を疑うようなことをすべきではない。というより、疑う意味がないのだ。
重要なのは、菜々にとって俺は大切な存在で、俺にとっても菜々は大切な存在だということ。ただそれだけだ。
「私、ここに行きたい」
菜々がテレビを見つめたまま、そう呟いた。それを聞いた俺は洗濯機のスイッチを入れ、それから菜々と同じようにテレビを覗き込んだ。そこにはとある旅館が映っていた。
「……箱根?」
「うん。ここに行ってみたい」
菜々が見ているのは箱根にある温泉の特集番組のようだった。古風な旅館で、石造りの温泉を女性のリポーターが紹介していた。
「温泉か。そうだね、行ってみようか」
俺がそう言うと、菜々は目を見開きながら俺を見た。
「……本当にいいの?」
「ああ」
「温泉旅行!」
菜々はベッドに寝転び、そのままベッドをトランポリンがわりにして飛び跳ねた。
「やめろ、ほこりが立つ」
「ごめんなさい! 反省!」
そう言いつつ、菜々は飛び跳ねるのをやめなかった。しかし疲れたのか、数秒後には飛び跳ねるのをやめ、ベッドにただ寝そべった。
「来月の半ばに暇な時期がある。休みを取るからその時に行こう」
俺の提案を聞いた菜々は何かを考えているようだった。けれどもやがて口を開き。
「来月の半ば、か。うん、いいね。いいと思う」
そう言って勢いよくベッドから起き上がった。
「箱根は神奈川だけど、少し遠いな。電車で2時間はかかると思う。大丈夫か?」
「大丈夫だよ。私が行きたいんだから」
「わかった。俺の会社経由で予約しておくよ。それならいくらか安くなるし」
「うん、うん!」
にこにことしている菜々。しかし何かを思い出したようで、天井を見上げて考え始めた。
「……どうした?」
「予約なんだけどね、優樹1人分で予約してくれる?」
「どういうこと? 菜々が行かなかったら意味ないだろうに」
「ううん、私ももちろん行くし、優樹と一緒に泊まるよ。とにかくその通りにしてもらっていいかな?」
意味がわからない。しかし菜々には何か考えがあるらしい。どういうわけかはわからないが、どうもそれについて教えてくれるつもりもなさそうだ。
「……まあ、わかった。俺1人で予約しておく。それはつまり、シングルってことになるけれど」
「うん、お願い。楽しみだね!」
一緒に泊まるのに俺の分だけで予約する。いや、そんなことはできない。菜々は結局行くつもりがないということなのだろうか。しかし菜々は温泉旅行ができると嬉しそうにしている。
なるほどそうか。理由はわからないが、同じ部屋に泊まりたくないのかもしれない。
「あ、菜々が別の部屋を取るつもりなら、それも俺が予約しておこうか? その方が安くなるから」
「えっ? いや、ううん。優樹と一緒の部屋に泊まるよ。とにかく大丈夫。当日きっとわかるから」
菜々はベッドに座ったまま、再びテレビを見始めた。
だめだ、わからない。まあ本人がいいと言うならいいのだろう。今はあまりあれやこれやと考えたくもない。
旅館は『葵の花』というところらしい。見たところ料金もそれなりに高そうだ。まあこれまで特にお金を使ってこなかったから、そこそこの貯金はある。とはいえ貯める目的があったわけでもなし、だから多少高くてもどうということはないけれど。
そうか。菜々はお金のことを心配しているのかもしれない。だから俺に払わせるわけにはいかないと考えて、俺1人分だけを。いや、待て。その前にだ、そもそも菜々は。
「なあ、菜々って、仕事とかは……」
「今さら?」菜々はテレビから目を離さずにそう言った。
「すまない。ずっと俺が自分で精一杯で。いや、そもそも菜々のことなんてわからないことだらけだし」
「ふふっ、そうだね。私が悪いや」
「それで? 何か仕事はしたりしないのか?」
「しないよ。というより、できやしないもの。強いて言うなら、優樹と同じ仕事をしているよ」
「……ふざけてる?」
「ふざけてないよ。でも、そうとしか言いようがなくて」
まただ。またも訳がわからない。俺は菜々のことに関して、何も明確なことを知らない。彼女、という意識になり得ないのはこれが理由かもしれないな。俺はどうして菜々を信用しているのだろう。全くもって、正体不明なのにもかかわらず。
ああ、せっかくだ。今日はとことん質問してみようか。
「菜々って何歳なんだ?」
「わからない」
「わからない?」
「優樹と同い年かな。もしくは1歳にもなっていないかも」
「……まあ、答える気がないならいい」
「真面目に答えてるよ」
「じゃ、仕事はしていないとして、普段使うお金はどうしているんだ?」
「使わないよ、お金」
「使わないって言ったって、生活するのに絶対必要……」
そこまで言って、俺は奇妙なことに気がついた。
確かに菜々がお金を使っているのを見たことがない。財布すら見たことがないのだ。俺と菜々は一緒にご飯を食べる習慣がなく、菜々が何かを食べているところを見たことすらない。勝手に好きな時に好きなものを食べているとばかり思っていたが、そしておそらくそうなのだろうが、しかし。
そしてここにいる間は家賃も、水道代も、ガス代も、電気代すらもかからない。正確に言えば俺が払っているのだが。
「お金を使わないって、まさか」
「そうだよ。1円たりとも使わない。必要がないから」
「お前、食べ物……」
そう俺が言いかけたところで、菜々が遮った。
「お前、って言うのはやめてほしいな。私にだって名前があるんだから」
「すまない」
「うん! あ、私ちょっと出かけてくるね。夜には帰ってくるから」
菜々はすぐに立ち上がり、上着を持って玄関へと向かって歩いた。
「え? あ、ああ。気をつけて」
「傘、借りてもいい? 夜は降るみたいだから」
「どうぞ」
次の瞬間には、菜々はもう部屋を出ていた。
どうも、菜々はあれやこれやと質問されることを嫌がっているようだ。結局、わからないことが増えただけになってしまった。
何にせよ、俺は菜々を信じている。菜々は俺を必要としてくれている。そして菜々は、わけのわからない存在のままでいたいようなのだ。ならば俺はそれを受け入れるしかない。
菜々はきっと、いずれ全てを話してくれる。まだ言えない、と以前に菜々は言っていた。俺にできるのはその時を待つことだけだ。菜々が質問されることを望まないのなら、それを尊重しよう。
『使わないよ、お金』
聞いたばかりの菜々の言葉が脳裏をよぎった。
そうだ。菜々はいつぞや、夜にコンビニへ食パンを買いに行った。しかし食パンは俺が買ったばかりで部屋にあった。買う必要はない、と菜々を呼び戻したかったが、菜々の連絡先を知らずにそれができなかった。そもそも菜々が携帯を持っているのかすらわからなかった。
だからあの時、菜々は食パンを買ってきてしまったはずだ。しかし本当にそうだっただろうか。菜々が帰ってきた時、彼女は食パンを持っていただろうか。菜々が買ってきた食パンを食べた記憶が俺の中にあるだろうか。
ああ、なんだろう。気分が悪い。頭が揺れていく。
もう寝よう。だめだ、洗濯はやり直しかもしれない。
ベッドにうつ伏せで倒れ込み、瞼を閉じた。玄関に立て掛けられたままの傘はただ押し黙っている。やがて俺は意識を沈めていった。
「本当はきっと気付いているんだよね。ごめんね。でも、まだもう少しだけこの幸せの中にいさせてほしいの。どうか、どうかあと少しだけ」
誰かがどこかでそう言った。
菜々は俺のことを好きだと言っていた。そして俺はそれを受け入れた。ならば菜々は俺の彼女ということにでもなるのだろうか。そう、それが自然な考えだ。
しかしどうしてだろう。そういうものではないような気がしてならない。彼女という感覚がしっくりこないのだ。
この菜々という女の子は、どうして俺を好きだなんて言ったのだろうか。好かれる意味がわからないのだ。普通ならば、こんなにもわけのわからない女から告白されて、それを真に受ける馬鹿はいない。
しかし俺は馬鹿になった。馬鹿になろうと決めたのだ。俺は菜々を信じ、そして大切にすると決めた。ならば菜々の言葉を疑うようなことをすべきではない。というより、疑う意味がないのだ。
重要なのは、菜々にとって俺は大切な存在で、俺にとっても菜々は大切な存在だということ。ただそれだけだ。
「私、ここに行きたい」
菜々がテレビを見つめたまま、そう呟いた。それを聞いた俺は洗濯機のスイッチを入れ、それから菜々と同じようにテレビを覗き込んだ。そこにはとある旅館が映っていた。
「……箱根?」
「うん。ここに行ってみたい」
菜々が見ているのは箱根にある温泉の特集番組のようだった。古風な旅館で、石造りの温泉を女性のリポーターが紹介していた。
「温泉か。そうだね、行ってみようか」
俺がそう言うと、菜々は目を見開きながら俺を見た。
「……本当にいいの?」
「ああ」
「温泉旅行!」
菜々はベッドに寝転び、そのままベッドをトランポリンがわりにして飛び跳ねた。
「やめろ、ほこりが立つ」
「ごめんなさい! 反省!」
そう言いつつ、菜々は飛び跳ねるのをやめなかった。しかし疲れたのか、数秒後には飛び跳ねるのをやめ、ベッドにただ寝そべった。
「来月の半ばに暇な時期がある。休みを取るからその時に行こう」
俺の提案を聞いた菜々は何かを考えているようだった。けれどもやがて口を開き。
「来月の半ば、か。うん、いいね。いいと思う」
そう言って勢いよくベッドから起き上がった。
「箱根は神奈川だけど、少し遠いな。電車で2時間はかかると思う。大丈夫か?」
「大丈夫だよ。私が行きたいんだから」
「わかった。俺の会社経由で予約しておくよ。それならいくらか安くなるし」
「うん、うん!」
にこにことしている菜々。しかし何かを思い出したようで、天井を見上げて考え始めた。
「……どうした?」
「予約なんだけどね、優樹1人分で予約してくれる?」
「どういうこと? 菜々が行かなかったら意味ないだろうに」
「ううん、私ももちろん行くし、優樹と一緒に泊まるよ。とにかくその通りにしてもらっていいかな?」
意味がわからない。しかし菜々には何か考えがあるらしい。どういうわけかはわからないが、どうもそれについて教えてくれるつもりもなさそうだ。
「……まあ、わかった。俺1人で予約しておく。それはつまり、シングルってことになるけれど」
「うん、お願い。楽しみだね!」
一緒に泊まるのに俺の分だけで予約する。いや、そんなことはできない。菜々は結局行くつもりがないということなのだろうか。しかし菜々は温泉旅行ができると嬉しそうにしている。
なるほどそうか。理由はわからないが、同じ部屋に泊まりたくないのかもしれない。
「あ、菜々が別の部屋を取るつもりなら、それも俺が予約しておこうか? その方が安くなるから」
「えっ? いや、ううん。優樹と一緒の部屋に泊まるよ。とにかく大丈夫。当日きっとわかるから」
菜々はベッドに座ったまま、再びテレビを見始めた。
だめだ、わからない。まあ本人がいいと言うならいいのだろう。今はあまりあれやこれやと考えたくもない。
旅館は『葵の花』というところらしい。見たところ料金もそれなりに高そうだ。まあこれまで特にお金を使ってこなかったから、そこそこの貯金はある。とはいえ貯める目的があったわけでもなし、だから多少高くてもどうということはないけれど。
そうか。菜々はお金のことを心配しているのかもしれない。だから俺に払わせるわけにはいかないと考えて、俺1人分だけを。いや、待て。その前にだ、そもそも菜々は。
「なあ、菜々って、仕事とかは……」
「今さら?」菜々はテレビから目を離さずにそう言った。
「すまない。ずっと俺が自分で精一杯で。いや、そもそも菜々のことなんてわからないことだらけだし」
「ふふっ、そうだね。私が悪いや」
「それで? 何か仕事はしたりしないのか?」
「しないよ。というより、できやしないもの。強いて言うなら、優樹と同じ仕事をしているよ」
「……ふざけてる?」
「ふざけてないよ。でも、そうとしか言いようがなくて」
まただ。またも訳がわからない。俺は菜々のことに関して、何も明確なことを知らない。彼女、という意識になり得ないのはこれが理由かもしれないな。俺はどうして菜々を信用しているのだろう。全くもって、正体不明なのにもかかわらず。
ああ、せっかくだ。今日はとことん質問してみようか。
「菜々って何歳なんだ?」
「わからない」
「わからない?」
「優樹と同い年かな。もしくは1歳にもなっていないかも」
「……まあ、答える気がないならいい」
「真面目に答えてるよ」
「じゃ、仕事はしていないとして、普段使うお金はどうしているんだ?」
「使わないよ、お金」
「使わないって言ったって、生活するのに絶対必要……」
そこまで言って、俺は奇妙なことに気がついた。
確かに菜々がお金を使っているのを見たことがない。財布すら見たことがないのだ。俺と菜々は一緒にご飯を食べる習慣がなく、菜々が何かを食べているところを見たことすらない。勝手に好きな時に好きなものを食べているとばかり思っていたが、そしておそらくそうなのだろうが、しかし。
そしてここにいる間は家賃も、水道代も、ガス代も、電気代すらもかからない。正確に言えば俺が払っているのだが。
「お金を使わないって、まさか」
「そうだよ。1円たりとも使わない。必要がないから」
「お前、食べ物……」
そう俺が言いかけたところで、菜々が遮った。
「お前、って言うのはやめてほしいな。私にだって名前があるんだから」
「すまない」
「うん! あ、私ちょっと出かけてくるね。夜には帰ってくるから」
菜々はすぐに立ち上がり、上着を持って玄関へと向かって歩いた。
「え? あ、ああ。気をつけて」
「傘、借りてもいい? 夜は降るみたいだから」
「どうぞ」
次の瞬間には、菜々はもう部屋を出ていた。
どうも、菜々はあれやこれやと質問されることを嫌がっているようだ。結局、わからないことが増えただけになってしまった。
何にせよ、俺は菜々を信じている。菜々は俺を必要としてくれている。そして菜々は、わけのわからない存在のままでいたいようなのだ。ならば俺はそれを受け入れるしかない。
菜々はきっと、いずれ全てを話してくれる。まだ言えない、と以前に菜々は言っていた。俺にできるのはその時を待つことだけだ。菜々が質問されることを望まないのなら、それを尊重しよう。
『使わないよ、お金』
聞いたばかりの菜々の言葉が脳裏をよぎった。
そうだ。菜々はいつぞや、夜にコンビニへ食パンを買いに行った。しかし食パンは俺が買ったばかりで部屋にあった。買う必要はない、と菜々を呼び戻したかったが、菜々の連絡先を知らずにそれができなかった。そもそも菜々が携帯を持っているのかすらわからなかった。
だからあの時、菜々は食パンを買ってきてしまったはずだ。しかし本当にそうだっただろうか。菜々が帰ってきた時、彼女は食パンを持っていただろうか。菜々が買ってきた食パンを食べた記憶が俺の中にあるだろうか。
ああ、なんだろう。気分が悪い。頭が揺れていく。
もう寝よう。だめだ、洗濯はやり直しかもしれない。
ベッドにうつ伏せで倒れ込み、瞼を閉じた。玄関に立て掛けられたままの傘はただ押し黙っている。やがて俺は意識を沈めていった。
「本当はきっと気付いているんだよね。ごめんね。でも、まだもう少しだけこの幸せの中にいさせてほしいの。どうか、どうかあと少しだけ」
誰かがどこかでそう言った。
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