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蚊帳の外
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◇◇◇◇
「戻ったか、阿形」
人姿を取った吽形が言った。
吽形は、阿形が仄暗い炎を潜り通り道にしたカワセミを、後ろから左の腕で抱いている。もう片方の腕はいまだ宙へと伸ばし、人の手のまま猛々しい鉤爪の形を取っていた。
旦那様の邪気を裂き祓った爪が、鋭利な刀のように、澄んだ光を一度だけ見せる。
宙からゆらぎ現れ、自身の土地に四肢を着けた阿形は、その伸ばされたままの腕を見て「こわや、こわや」と呟いた。
「阿形の咆える声に来てみれば、今に至る。の話だが、ちと、説明してくれ」
そう言う吽形の腕の中で、カワセミが悪態をついた。
「いつまで抱いているつもりだ、色男。私は、どうせならふさふさな猫の背に身を預けたい」
「しばらく大人しくしてくれ、いまお前の体の邪気祓いをしている。まったく、たいした女だ。普通ならばとっくに気を失っているものだ」
「気を失う? 私はそんな女々しい真似をするつもりはない。……やっぱり、吽形、お前は気にくわない」
カワセミはそう言い放つと、右肘を吽形の胸板へと強く打ち、抱かれた腕から逃れようと暴れはじめた。
吽形は娘を逃がしまいと、伸ばしたままだった片腕も使い、抱き締めるなどという甘い体裁ではなく、遠慮なく羽交い絞めにした。
「逃げるな暴れるな。常人ならば気を失っていた所だと、カワセミを褒めている。邪気をこご持ったまま、お前を離すわけにはいけない。第一、お前があんな者に魅入られる隙を与えたのが悪いのだぞ、魔に魅入られると言う事は、こちら側にも隙が……痛っ」
カワセミが勢いをつけ顔を上げると、振り上げた後頭部で説教を始めようとした吽形の顎を強く打った。
「五月蝿い。黙って手当てでも邪気祓いでもやりやがれ」
「言われなくともそうする。だがな、お前はもう少し女らしく出来んのか」
カワセミがもう一度、裏頭突きを食らわせようとするのを、吽形がさっとかわす。
それが益々カワセミの気に障る。
カワセミは、相手を射抜く光を戻した目で、きっと吽形を振り返り見上げると、赤い唇を少し上げて見せた。
「お前、私に触れたいだけだろう」
「っ違う!」
娘は、力で勝てぬなら心をえぐろうとばかりに、凄みを増す両目に、色っぽい泣き黒子を合わせ、吽形の精悍な顔を見上げた。
「神に仕える狛犬も、しょせんは雄。女だ女だと私を落とし込み、涎を垂らす野犬とかわらん」
「カワセミ、それは断じて違う」
吽形が形の良い眉をへたりと下げ、口をまげた。人同士の悪態の突きあいを知らない神獣は、好いた人の心無い言葉を、そのまま真に受け傷付いてしまう。
自分の言葉で、あまりにも心外だと、傷付き困り果てる吽形を見て、思わずカワセミも少しバツが悪くなった。それでも吽形は真摯に説く。
「違うんだ、カワセミ。だが、お前がそう思って嫌悪しようとこの腕は離さない。……わしはお前が好きだ。お前に嫌われ厭われる事は、心底やりたくない」
人姿では見えないはずの、耳も尾もくたりと下げたように、吽形が悲し気な目をした。
「けれども、今この腕を離しお前の中に邪気が残れば、お前の心も考えも、少しづつ変わってしまう。何かを決める時、何かを選ぶ時、残った邪気が悪しき方、暗き方へとお前を呼ぶ。そんなことは、絶対にさせてはいけない」
吽形の目がひたりとカワセミを見つめる。カワセミのまなざしが弱くなる。
不意に、抱かれたままの体勢が妙に気恥ずかしくなって、カワセミは、捕えられた腕の中で、視線だけをそっと逃がした。
「別に、それでもいい。前科者の私なんか、どこにどう転ぼうと、もとから暗く悪しき人間だ」
あまりにも誠実な目で見つめてくる神獣に、貶すことも野次る言葉も浮かばない。相手をこれ以上傷つける事は出来ないと、拗ねるに変えたカワセミ。
その弱り逃げた目元へと、吽形が口を寄せ、残りの邪気を祓わず吸った。
驚いた娘の瞳が大きく開かれる。逃がしていた視線も、間近によった清涼な双眸へと、ぴたりと合わさった。
「もとから暗く悪しき人間などいない。お前は大丈夫だ。お前の本質は翡翠の如く、清く爽やかで柔らかい。それでいて、凛と鳴る音が常にお前の心と身を通し、その場を制する」
再び視線が重なったことが嬉しいのか、吽形が目を細めた。
「お前を見つけたものは皆、喜ぶわけだ。それこそ悪どい者も神獣も、こんな良い娘は放ってはおけまいよ」
「っ……」
さっと顔を赤らめるカワセミ。吽形の言葉に動かされ揺らぐ心が、そのまま柔らかく潤んだ両目へと現れる。
互いを見つめる二人。
そんな二人を見る一匹。
阿形は、裂けた口と体にまとわりつく甘い香りの邪気に、身と心をやられながら呆れたように言い放った。
「なぁ。それ、よそで出来んかったのか?」
阿形の声に、二人は勇敢に邪気元へと飛込んだ獅子を思い出し、慌てて獅子へと顔を向けた。
阿形はすこぶる神妙な具合だ。
「正直、わしが一番頑張ったし、わしが一番痛手じゃ。その上、この穢れを主に何と言われるか、断罪まちなんだ。だというに、お前達ときたら」
「っすまん阿形。すぐに纏う邪気も、穢れ傷も祓ってやる」
「猫、拗ねるな。私はお前が、一等可愛い」
「今更甘やかされても……なぁ。気遣いの二番煎じが、一番身にこたえる」
阿形は四肢を投げ出し、くたりと地に伏せた。
「戻ったか、阿形」
人姿を取った吽形が言った。
吽形は、阿形が仄暗い炎を潜り通り道にしたカワセミを、後ろから左の腕で抱いている。もう片方の腕はいまだ宙へと伸ばし、人の手のまま猛々しい鉤爪の形を取っていた。
旦那様の邪気を裂き祓った爪が、鋭利な刀のように、澄んだ光を一度だけ見せる。
宙からゆらぎ現れ、自身の土地に四肢を着けた阿形は、その伸ばされたままの腕を見て「こわや、こわや」と呟いた。
「阿形の咆える声に来てみれば、今に至る。の話だが、ちと、説明してくれ」
そう言う吽形の腕の中で、カワセミが悪態をついた。
「いつまで抱いているつもりだ、色男。私は、どうせならふさふさな猫の背に身を預けたい」
「しばらく大人しくしてくれ、いまお前の体の邪気祓いをしている。まったく、たいした女だ。普通ならばとっくに気を失っているものだ」
「気を失う? 私はそんな女々しい真似をするつもりはない。……やっぱり、吽形、お前は気にくわない」
カワセミはそう言い放つと、右肘を吽形の胸板へと強く打ち、抱かれた腕から逃れようと暴れはじめた。
吽形は娘を逃がしまいと、伸ばしたままだった片腕も使い、抱き締めるなどという甘い体裁ではなく、遠慮なく羽交い絞めにした。
「逃げるな暴れるな。常人ならば気を失っていた所だと、カワセミを褒めている。邪気をこご持ったまま、お前を離すわけにはいけない。第一、お前があんな者に魅入られる隙を与えたのが悪いのだぞ、魔に魅入られると言う事は、こちら側にも隙が……痛っ」
カワセミが勢いをつけ顔を上げると、振り上げた後頭部で説教を始めようとした吽形の顎を強く打った。
「五月蝿い。黙って手当てでも邪気祓いでもやりやがれ」
「言われなくともそうする。だがな、お前はもう少し女らしく出来んのか」
カワセミがもう一度、裏頭突きを食らわせようとするのを、吽形がさっとかわす。
それが益々カワセミの気に障る。
カワセミは、相手を射抜く光を戻した目で、きっと吽形を振り返り見上げると、赤い唇を少し上げて見せた。
「お前、私に触れたいだけだろう」
「っ違う!」
娘は、力で勝てぬなら心をえぐろうとばかりに、凄みを増す両目に、色っぽい泣き黒子を合わせ、吽形の精悍な顔を見上げた。
「神に仕える狛犬も、しょせんは雄。女だ女だと私を落とし込み、涎を垂らす野犬とかわらん」
「カワセミ、それは断じて違う」
吽形が形の良い眉をへたりと下げ、口をまげた。人同士の悪態の突きあいを知らない神獣は、好いた人の心無い言葉を、そのまま真に受け傷付いてしまう。
自分の言葉で、あまりにも心外だと、傷付き困り果てる吽形を見て、思わずカワセミも少しバツが悪くなった。それでも吽形は真摯に説く。
「違うんだ、カワセミ。だが、お前がそう思って嫌悪しようとこの腕は離さない。……わしはお前が好きだ。お前に嫌われ厭われる事は、心底やりたくない」
人姿では見えないはずの、耳も尾もくたりと下げたように、吽形が悲し気な目をした。
「けれども、今この腕を離しお前の中に邪気が残れば、お前の心も考えも、少しづつ変わってしまう。何かを決める時、何かを選ぶ時、残った邪気が悪しき方、暗き方へとお前を呼ぶ。そんなことは、絶対にさせてはいけない」
吽形の目がひたりとカワセミを見つめる。カワセミのまなざしが弱くなる。
不意に、抱かれたままの体勢が妙に気恥ずかしくなって、カワセミは、捕えられた腕の中で、視線だけをそっと逃がした。
「別に、それでもいい。前科者の私なんか、どこにどう転ぼうと、もとから暗く悪しき人間だ」
あまりにも誠実な目で見つめてくる神獣に、貶すことも野次る言葉も浮かばない。相手をこれ以上傷つける事は出来ないと、拗ねるに変えたカワセミ。
その弱り逃げた目元へと、吽形が口を寄せ、残りの邪気を祓わず吸った。
驚いた娘の瞳が大きく開かれる。逃がしていた視線も、間近によった清涼な双眸へと、ぴたりと合わさった。
「もとから暗く悪しき人間などいない。お前は大丈夫だ。お前の本質は翡翠の如く、清く爽やかで柔らかい。それでいて、凛と鳴る音が常にお前の心と身を通し、その場を制する」
再び視線が重なったことが嬉しいのか、吽形が目を細めた。
「お前を見つけたものは皆、喜ぶわけだ。それこそ悪どい者も神獣も、こんな良い娘は放ってはおけまいよ」
「っ……」
さっと顔を赤らめるカワセミ。吽形の言葉に動かされ揺らぐ心が、そのまま柔らかく潤んだ両目へと現れる。
互いを見つめる二人。
そんな二人を見る一匹。
阿形は、裂けた口と体にまとわりつく甘い香りの邪気に、身と心をやられながら呆れたように言い放った。
「なぁ。それ、よそで出来んかったのか?」
阿形の声に、二人は勇敢に邪気元へと飛込んだ獅子を思い出し、慌てて獅子へと顔を向けた。
阿形はすこぶる神妙な具合だ。
「正直、わしが一番頑張ったし、わしが一番痛手じゃ。その上、この穢れを主に何と言われるか、断罪まちなんだ。だというに、お前達ときたら」
「っすまん阿形。すぐに纏う邪気も、穢れ傷も祓ってやる」
「猫、拗ねるな。私はお前が、一等可愛い」
「今更甘やかされても……なぁ。気遣いの二番煎じが、一番身にこたえる」
阿形は四肢を投げ出し、くたりと地に伏せた。
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