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宵の商町2
しおりを挟む呑み屋前で足を止めた獅子は、目の前の弟分と、その後ろで縁台に座ったままの植木屋と菓子屋を、千里眼で見比べた。
「……」
獅子は、たすっ、とやや愛らしい足音で前へ出ると、固まったままの弟分の目前で、『あ』と大きく口を開けた。
きらりと、真珠色の牙が灯りを返す。
まわりに集まった町人達が息をのんだ。
「……え、待って、獅子って、人を食べるんだっけ?」
突然の大口に弟分ががたりと震え、植木屋と菓子屋が立ち上がる。しかし、弟分を鼻先にした獅子の方が早い。
後ろ足でひょいと立ち上がると、前足を少年の肩に置き、開けたその口で弟分の頭を優しく包むように、噛む真似をした。
「ひっ……、あれ?」
弟分は思わず硬く瞑った目を恐る恐る開く。
優しく牙が当たったが、なんてことはない。
口を離してくれた、目の前の獅子をまじまじと見ると、まるい目の目尻だけが笑ったように下がっていて、なんだか愛嬌がある。牙のある口元はきゅっと上がり、いまにも機嫌よく鳴き声を上げそうなほどだ。
獅子が前足を戻し、人懐っこい目で弟分の顔を伺っている。見事な尻尾が、注意を引きたがる猫のように、ぶんっと大きく振るわれる。
仕草一つひとつが、親愛を示していた。
獅子に慕われる、ましてや、噛み脅される筋合いなんて――、と胸の内で吐いた軽口に、弟分ははっとした。
「あぁ! そうか。脅しているんじゃなくて『噛み付く』、『神付く』の獅子舞かぁ。ったく、驚かさないでくだせぇ……百の字の所の、石像の獅子さま」
「ふん」
頭の回転が早い弟分が、涙目をしばたかせてそう言うと、植木屋と菓子屋も合点がついた。
「百石階段神社の獅子か」
「昼間の盛り塩が効いたんだな!」
カワセミを助けた獅子。神罰を受けて弱った為に、石工の親方の盛り塩を必要としていた石像の獅子。その名は阿形。
先ほどの『獅子の噛み付き』は、縁起物ならではの感謝の仕方だったのだ。
菓子屋が泣き上戸のまま、感極まったように拳で涙を拭った。
「元気になったんだな! いやぁ、よかった。本当に。……で、カワセミは? お前ぇ様一匹のお礼参りかい? ちくしょうっ!」
最後は叫ぶような菓子屋の勢いに、獅子は一寸だけきょとんとした後、目を滑らせた。
次いで鞠の目が、腕組みをして立つ植木屋を捕えた。
植木屋も、その鋭い目を和らげ、宵の中で燃えるような赤毛を波立たせる獅子を、じっと見た。
「うちのが世話になったな。これからも、あれを頼む」
「ふん」
そう言う植木屋の目の中に、親方と同じ隠れた世話好きの性分を見つけると、阿形は親しげに尾を一振りした。
植木屋は何かを見抜かれたと悟り、「獅子の礼儀は知らないが」と、振れぬ尾の代わりに、片手をひらりと上げてみせた。
「……ふん」
阿形は一行に頭を下げお辞儀した。そして身を返し、集まり始めた野次馬の上を悠々と飛び越えて、再び駆けだした。
わっと弾ける人々の歓声を受け、通りを駆け抜け、大橋を鼓のように打ち渡り、旅籠が連なる商町の口までやって来た。
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