21g

花桜

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プロローグ

シオン

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 5年前の今日、親友であるTが死んだ。高校卒業を目前としたある日のことだった。
 原因となったのはバイクの事故。緩やかなコーナーがあるトンネルにて、タイヤが側溝にはまり、壁と衝突したようだ。そうなってしまうだけあって、かなりスピードを出していて曲がりきれなかったらしい。
 僕はその時のことを何も知らない。事故の全貌は全て人伝に聞いた。なんて言ってみるけれど、Tが事故に遭った時のことなんて誰も見ていないのだ。
 Tはヘルメットこそしていたが、それは使い物になんてならなかった。壁に頭を強く打ちつけた衝撃で、首の骨がポキリと折れたらしい。本来なら命を守るはずのヘルメットが、仇となってしまったのだ。こんな皮肉なことがあろうことか。
 Tは延命措置により一命は取り留めていたが、身体は︎不随になった。そして事故の後、Tは一度も目を覚ますことがなかった。
 僕が話しかけると、ときおりTの目からはときおり涙が溢れた。「Tは僕の声を聞いてるよ」なんて報告する度に「感情のない生理的なもの」と医師に聞かされた。そんなことをわざわざ僕に伝えなくても良いことだけれど、諦めのつかない僕を諦めさせるために言っていたのだと思う。
 Tは事故から4ヶ月後に呆気なく他界した。死因は唾液を上手く嚥下できずに生じた、誤嚥性肺炎だった。

 Tの眠る墓石を見て、本当に見る影もなくなったのだと、ぼんやりと思う。
 墓石に供えた薄紫色の花が、冷たい風に合わせてそよそよと揺れた。
 この花の名前は店員さんに教えてもらったが、ここに来るまでにすっかりと忘れてしまった。「この時期に開花するのは珍しい」なんて言っていたと思う。調べる気もおきなかったから分からないが、こんな寒い冬に花を咲かせるのだから植物の中でもこの子ははぐれ者なのだろう。
 僕はその花から目が離せなかった。あまりにも綺麗な花だったから、Tの眠る墓石に供えようと買ってきたのだ。花の似合うTは、僕からのささやかなプレゼントをきっと喜んでいる。そのことを思うと自慢気に笑いたくもなった。
 何分そうしていただろうか。冬の冷たい風に耐えきれず、僕は煙草を口に咥えた。白を基調としたパッケージに、無数の星がアクセントもなっているものだ。非喫煙者の僕にでも分かる、煙草の銘柄。銘柄の名はそのままで、なんの面白みもない。これはTの父親が吸っていた煙草だ。
 Tは真面目な性格をしていて、制服も着崩さないような子だった。ときおり自分の年齢を無視して火のついた煙草を咥えることがあったくらい。煙草を咥えるTの横顔は、いつも物憂げだった。きっと早くに亡くした父親のことをその視線の先に思い描いていたのだろう。
 僕は煙草に火をつけて墓前に供えた。その荒々しい煙の慣れなさに咳が出てくるが、誰も心配してくれるような人は周りにいない。悲しいことだが、なんでか気にもならなかった。
 ときおり煙草の匂いを纏っていたTと、ヘビースモーカーだったTの父が眠るお墓に添える、線香の代わりだ。二人は喜んでくれるだろうか。
「墓前にて、供えた線香、青白く、燻る煙に、君の影あり」
 声を出すたびに口から白い息が漏れる。なんだか恥ずかしくなって首を横に振った。短歌なんて慣れないことなんてするものじゃあない。
 それに、Tはどこにも居ないじゃないか。
 僕は苦笑いしながら手を合わせた。そのまま目を瞑ると、薄紫色の花がさわさわと揺れる音が聞こえてきた。心地がいい。燻る煙の匂いで、不思議とTの笑っている顔が思い出される。
 Tはいつも綺麗な顔をして笑っていた。
 
 僕が中学生の時は、周りの子と同じように反抗期がきたものだ。反抗したくて反抗していたわけではないが、気持ちが色々と複雑だった。自分ひとりだけが悩んで、苦しんで、雁字搦めになって、相手をとことん嫌った後に、結局は自分のことが嫌になってしまう。誰にでもあるその感情が、幼い僕にとってはとにかく苦しかった。それはまるで抜けられない迷宮のように感じたが、今はきっと、その外にいる。時の流れと共に追い出されてしまった。そんな悲しい人間だ。
 当時の僕にはまるで味方がいなかった。と、今になって思う。今の僕は、誰が何と言おうと当時の僕の味方になってあげられる。今の僕がもし、過去に戻れるのならば「あなたはそこに居ても良い」と言って、幼い僕のことを抱きしめるだろう。
 幼かった僕が救われるのなんて、そんなどこにでもあるような有り触れた言葉と、有り触れた温もりで十分だったのだ。しかしこんな哀れな僕には、そんな有り触れた物すら与えられなかった。僕は一体なんなのだろう、世の中に必要とされているのか、なんて馬鹿げたことをよく考えていたものだ。
 中学時代の僕は、いろいろと複雑な環境に身を置いていた。
 というのも、親友であったTが、唯一の家族であった父親を亡くして僕の家に引き取られたのだ。親友でもあり弟でもあるTの存在を、僕はどうしても受け入れられることができなかった。
 これはその時の話。

 Tと僕が初めて出会った、というより初めて認知をしたのは、小学五年生の夏休みの終わり頃。僕が転校した小学校に、Tは居た。
 その頃のTは極めて明るく活発な少年だった。成績が優秀で眉目秀麗。それだけでも十分すぎるくらいだけれど、学級委員長までやっていた。
 周りにいくら褒められても自分の与えられている環境に驕ることはしない。クラスメイトはもちろん、先生からも好かれている、絵にかいたような優等生。Tは誰から見ても、どの目が見ても、人気者だった。月並みな表現だけれど、輝いていた。
 そんなTが一番仲良くしてくれていたのが、紛れもないこの僕だ。性格は似ても似つかなかったが、そんなところも気にならないくらい気が合っていた。僕は人気者のTの隣に居られるのが誇らしかったし、転校先で初めてできた友達がTだったのが何よりも嬉しかった。
 放課後になると、Tと僕はよく音楽室で遊んでいた。当時の僕は重い喘息を患っていて、校庭で駆け回るみんなとは遊べなかった。そんな僕のために、Tが得意のピアノを演奏してくれたのだ。僕はその時間が大好きだった。「人気者のTを独り占めできる僕は特別なのだ」とすら思っていた。

 その関係に亀裂が生じ始めたのは中学一年生の時。先ほども言ったが、Tの父親が亡くなったのがキッカケだった。
 車同士の衝突事故。父親が即死というその惨憺たる現場に、Tは居合わせていたらしい。父親が亡くなる瞬間をTが目撃していたかは、今となっては分からない。
 しかし、たった一人の家族を喪ったというその現実は、時間をかけながら確実にTを蝕んだ。そしてTは次第に精神を病むようになった。 
 感情の出力の仕方が滅茶苦茶で、うまく笑えない。加えて思春期なのもあってか、感情のままに怒り狂うことが増えた。荒れきったTから一人、また一人と友人が離れていき、学校で話しかけるのはとうとう僕一人だけとなった。Tはそんな僕すらも拒絶していた。時には怒鳴られ、時には殴られた。それでも僕はTにお返しがしたくて、なるたけ傍にいたのだ。
 Tの父親という存在を欠き、僕たちをとりまく世界を作っていた歯車が、ゆっくりと時間をかけて噛み合わなくなっていった。あの地獄のような日々のことは正直、思い出したくない。
 そんなこんなで、Tの様子を見兼ねた僕の両親が、Tのことを引き取った。その頃のTには身寄りがいなかったし、両家ともに親同士が仲良かったのもあってか、トントン拍子にその話が進んだ。
 つまり、僕の心の準備もないまま、Tは我が家へとやってきたのだ。
 
 僕の父は、Tのことをとにかく可愛がった。
 根からの仕事人間の父は、誰に対しても厳しく接するような人だ。もちろん自分の子であろうと可愛がるようなことはしない。しかし彼の中では、世界中の子どもの中でTだけが特別であった。
 その事にも理由がある。真面目が故に、仕事以外で人との交流が少なかった父の、唯一とも言える友人。その人こそがTの本当の父親だったのだ。
 父はお酒に酔う度に、Tの父親のことを話に挙げては「本当に仕様もないヤツなんだ」と得意気に言って笑っていた。生真面目を絵に書いたような彼は普段、そんな朗らかには笑わない。悪口に近い言葉に思われるかもしれないが、その言葉の端々にTの父親に対しての尊敬が伝わってきた。二人は親友だったのだ。
 父はきっと、親友を喪った悲しみをTで埋めていたのだと思う。彼から漂う哀愁がまた、幼い僕にでも勘づくことのできるような稚拙なもので、僕はそんな父を見るのが嫌だった。子どもじみている、と子どもながらに思っていたのだ。
 一方で僕の母は、僕たちを万遍なく可愛がるように心掛けていた、らしい。
 彼女の信仰している宗教の教えだったのかもしれない。その宗教の敬虔な信者という訳でもないが、どんなに仕事が忙しくても「主」なる人物に対して、祈りを欠かさないようなマメな人。
 ただ少し不器用なようで、一つのことに夢中になるとそればかりになって、空回りばかりの仕様もない人間と化す。彼女の場合はとにかくいい人であることを心がけるあまり、善人が行きすぎた。
 母はとにかく、聖母には成れなかった、マリアさまもどきのような人だった。

 ある日のことだ。
 その日のTは、朝から泣いていた。話を聞くところによると、実父のことを夢で見たらしい。僕の両親はTを見て、ひどく悲しそうな表情を浮かべていた。母は「主」なる人物に祈るためだけにあるような繊細な手指を、Tの指に絡ませなにかを言っていた。父はなにを言うわけでもなかったが、自身の中にある優しさを精一杯かき集めたかのような少し荒い手つきでTの背中を撫で、寄り添っていた。
 その様子を見て、僕の胸の中に湧いて出てきたモヤモヤ。幼い僕はそのモヤモヤを飼いならすことができなかった。三人の中に割って入り、適当な言葉を並べて両親の気を引こう。そう思った。やってはいけないこととは分かっていたが、嫉妬に狂った僕は止められない。増して幼さもあいまってか、気が付けばその願望を行動にうつしていた。
 残念なことに、両親は僕のことを見てくれなかった。握ってもらいたくて差し出した手を、両親は鬱陶しがった。父に「後で話を聞くから、今は向こうに行ってなさい」と冷たく言われ、母に手を払われたのを今でも思い出す。悔しくて憎らしくて仕方がなかった。
 どうしてTだけが与えられて、僕は与えられないのだろう。
 泣きながらその場を去っていく僕を、誰も見てはくれなかった。まるで透明人間だ。
 
 その後に、気を取り戻したTと話をした。Tは「ごめん」と申し訳なさそうに言った。何について謝っているのか。考える間もなくすぐに分かった。僕は感情のままに「いい歳のくせに甘えすぎだよ。恥ずかしくないの」と言っていた気がする。自分のことを棚に上げて。いま思えば滑稽な話だ。Tは「そうだよな」と下手くそに笑ってきたが、父親譲りのその綺麗な顔はまるで崩れなかった。
 その日から僕は両親に甘えるのをやめた。
 謝られた日に「オレは他所の子だから」と言われたからである。確かに僕の胸のモヤモヤのままに言葉を吐いたのは事実であったが、Tにそんな言葉を言わせたくなかった。Tは愛されて然るべきだと心のどこかで確かに感じていたのだ。それはTと常に一緒にいた僕が一番わかっていた。
 僕は両親から距離をとり、Tも両親に甘えなくなった。しかし僕がいないところで、両親に甘えているところを何度か目撃している。
 Tは実の父を亡くしてから笑わなくなったが、両親と三人でいるときはとても朗らかに笑っていた。その姿は本当の親子のようで、僕は見ていられずすぐに目を背けた。
 僕の心は常に、ナイフで刺されているような、縄でグルグルと巻き付けられているような、そんな不快なものが纏わりついていた。それが寂しさだと気がつくのに随分と時間がかかったものだ。
 寂しさには慣れている。一人でも大丈夫。僕はそう言って胸のモヤモヤを誤魔化した。

 それから月日が流れたある日。紆余曲折はあったが、僕たちも中学三年生にあがっていた。
 その頃のTは、周りの支援もあってかクラスに溶け込めるようになっていた。何もかもが元通り。とまでは行かないが、クラスに馴染むTを見て、心の底から安心したのを覚えている。Tは多くの友人に囲まれていた方が、それらしいのだ。それは僕がいちばん知っている。
 秋になり、音楽祭の練習が始まった。
 ピアノの伴奏を任されたTはとても張り切っていた。元よりピアノを弾くのが得意だったのだ。大役を任されたのが、さぞ嬉しかったのだろう
 Tは家に置いてあるグランドピアノで、毎日飽くことなく何時間も練習に励んだ。
 僕の家にあるピアノは、定期的に行われる調律以外は誰も触れていない。汚いわけでも古いわけでもなかったが、ただ「そこに在る」だけ。いつも寂しそうに佇んでいて、不憫だった。そんなピアノも、Tが触れてくれるからかご機嫌そうに音を出す。そんなTとピアノのやり取りが愛おしかった。
 当時の僕の家は、どこに居ても綺麗な旋律が鳴り止むことはない。穏やかで軽やかな時間が流れる、平和な空間。
 浮かれる彼らとは違い、僕は憂鬱だった。僕は歌を歌うのが下手なのだ。頭数合わせに無理やり詰め込まれたテノールに、ピアノの伴奏ほどの役割はない。僕一人が居なくたって、音楽祭は機能して回るのだ。分かっていたことだが、認めたくはなかった。
 
 ある日の夕餉の時間、父が「音楽祭でやる曲はなんだ」と聞いてきた。なにも言おうとしない僕の代わりに、Tが曲名を短く答える。それは風に葉が擦れたときのような微かな声だった。
 そんな声も母の耳にはちゃんと届いたようで、彼女は目を輝かせた。子どものように「素敵じゃない」「お母さんの大好きな曲だわ」と捲し立てる母に、嫌気がさしたのを覚えている。
「宗教くさくて嫌だよ」
 僕が吐き捨てるように言うと、母ではなくなぜかTが僕のことを睨んだ。切れ長の美しい瞳が、僕の胸に突き刺さった。
 食事の手を止めた僕に目もくれず、三人は楽しそうに会話を進めた。家族が揃うと僕はいつも蚊帳の外。
 途端に現実が遠いものに思え、映画を見ているような気持ちになった。破れない膜の内で藻掻く僕にも気づかず、三人は相も変わらず会話を弾ませていた。
「見に行っても良いかしら」
「ご都合があえば」
 恥ずかしそうに俯いていたTの横顔は、どことなく嬉しそうだった。父も母も顔を見合わせてからTのことを愛おしそうに見つめた。
「今すぐにでも休みを取っておこうかな」
 父は屈託なく笑う。普段は見ないその表情。お酒に酔って「アイツは仕様もないヤツなんだ」と言うときの表情。Tに亡き親友の姿を重ねていたのだ。それがあまりにも気味が悪くて、背筋が凍った。
 僕の両親は、学校行事に積極的に顔を出したことはない。仕事を言い訳にして顔を出す努力すらしなかった。
 きっと両親の目的はTであり、僕ではない。
 そのことを知っていたからか、僕はいつしか歌うのをやめていた。
 
 音楽祭前日にTはまた泣いていた。
 それでも真面目なTはピアノを弾き続けた。僕からすれば完璧な演奏も、Tからしたら気に食わないところがあったらしい。僕は横に腰をかけ、綺麗な音色と「これじゃあダメだ」と嘆くTの声を、交互に聞いていた。
 Tが泣いていること以外は、何もかもが順調に進んでいたのだけれど、Tは唐突にピアノを弾くのを辞め、おもむろに鍵盤に頭を押し付けた。色々な音が混ざった、美しくも醜い音が部屋中に響いた。再現しようとしてもできない音だろう。
 僕が理由を聞いたわけでもなかったが、Tは「本当は父さんに聞いてもらいたかった」と消え入りそうな声で一言。「父さん」とは紛れもないTの本当の父親のことだろう。なんて無駄なことを察した。
 僕はまたモヤモヤとしていた。
 父と母に見てもらえるのに、どうしてそれ以上のことを望んでいるのか。血の繋がりはなくても愛されているのに、なぜ本当の父親を望んでいるのか。まるで理解ができなかった。本当に無駄な察しだったようだが、僕の頭の中でTが醜く歪んで見えた。
 ともあれTの気持ちは痛いほど伝わっていたし、僕は何も言わなかった。それに、本当の親のほうが良いに決まっている。それもこれも全部わかっていたことだ。
 
 次の日の朝。
 Tは学生服を着たまま庭に出て、火のついた煙草を口に咥えていた。左手には例の星柄が並べられたタバコの箱を握りしめ、ぼんやりと空を眺めていた。
 両親は煙草を咥えるTを目撃していたが、止めることはない。僕も止めようとは思わなかった。ムリして止めてしまうと、Tが煙とともに消えてしまいそうだったのだ。それほどまでにTは儚げに佇んでいた。
 Tは時々目を擦りながら、煙の行先を見ていた。単に泣いていたのか、煙が目にしみていたのかは分からない。きっと煙の行先に亡き父親を思い浮かべていたのだろう。
 何食わぬ顔で戻ってきたTは、いつものように綺麗な顔のまま笑っていた。上手く気持ちに区切りをつけていたようで、僕も両親もその姿を見て安心したものだ。煙とともに消えてなくならないで良かったと心の底から思った。
 しかし、発表直前になってからTはまた一人で泣いていた。指定されていた座席から離れ、薄暗い廊下の隅で一人、何度も「父さん」と言って泣く姿は見ても居られない。
 目を背けたかったが、それでもTが変な気を起こしてしまいそうで近くにいた。そんな僕の支えも、すぐに必要ではなくなった。Tの湿っぽい背中を摩ったが「嫌だ」と言わんばかりに蹲ったのだ。微かに震えているそれが「欲しいのはお前じゃない」と告げているようだった。
 Tは腕の中に顔を埋め、学生服に纏った煙草のにおいに縋っていた。「父さんに会いたい」と泣く姿に、勝手にしておけ、と思ったものだ。酷くどす黒い感情が僕の中に湧いては消えていた。
 しばらくして両親がやってきた。彼らは呆然と立ち尽くす僕に目もくれず、Tに寄った。
 三人はいつものように何かを話していた。また映画を見ているような気分になった。血の繋がりのない家族が手を取り歩むなんて、素敵な素敵なヒューマンドラマだ。意地の悪い僕は鼻で笑った。
 僕はしばらくその様子を眺めていたが、やがてその場に必要のない存在なのだと悟った。三人は見せ物ではないのだから、観客は必要ない。
 僕は三人を残したまま、指定されていた座席に戻った。そしてぼんやりとしながら、別のクラスの発表の様子を眺める。視界が湿っぽくボヤけていたが、退屈のあまり欠伸をしたからだ、なんて自分に言い聞かせていた。
 僕たちのクラスの順番が回ってくるころにはTは戻ってきていて、いくらか吹っ切れた表情をしていた。目は充血していたが、それすらもTの持つ美しさに不思議なくらい溶け込んでいた。Tは世界中のありとあらゆるものを味方にしてしまう。それこそがTの生まれ持った才能だ。
 発表前になり、僕は席を外した。何故だかその場に居られなかったのだ。居ても良い場から立ち去ったTを、僕が追いかけたように、誰かが僕を探しに来てくれるかも。なんて思っていたのかもしれない。そんな淡い期待を背負って僕は席を外したのだ。
 けれど、誰も迎えには来なかった。頭数合わせのテノールはやっぱり必要とされてなかったのだ。
 僕は少し離れた適当な椅子に腰を掛けて、Tやクラスメイトがステージに上がっていく様子をただ眺めていた。僕はそこにいていいはずなのに、そこにいたくなかった。いられなかった。
 本当は、どこかで見ているであろう父と母の視線の先に、僕が映っていないことを無意識に想像し、拒んだのだ。愛の偏りを、痛感したくはなかった。

 ステージ上で照明の当たったTの顔は、この上なく美しかった。やや強めの光に当たり、Tの鳶色の瞳が透き通って見えたのを覚えている。世の中の暗いことなど知らないような純粋で真っ直ぐな瞳だった。
 Tはピアノの前に腰をかけると鍵盤を愛おしそうに撫でた。なにを考えているのかは分からなかったが、ジンクスのようなものがあったのだろう。Tはピアノを弾く前はいつもそうしていた。
 10秒ほどそうした後、Tは指揮者の方を見た。Tが微かに頷くと、指揮者が大きく腕を上げる。そうしてTの演奏が始まったのだ。
 色々な思いを乗せたTの放つピアノの音色は、いま思い出しても鳥肌が立つ程のものだった。まるでプロのピアニストの演奏を聴いているように感じるのだ。それくらい秀でたものだった。
 Tの伴奏が始まると、会場全体が息をのむのが分かった。誰もがきっと、Tの美麗な横顔に目を、Tの放つ流麗な音色に耳を、奪われたことだろう。
「あのピアノの子、すごいね」
 しばらくしてから背後にいる誰かが小声で言った。たくさん練習したクラスの合唱よりも、Tの演奏を褒めるのだ。
 僕はその場に居場所を失った気がした。ここに居ては、折角築いた居場所をまたTにとられる。そう思った。
 僕はこの世のすべてを拒むように、目を瞑り、耳を覆った。たった数分程度の発表も、僕にとっては永遠に感じられた。その場から離れたくても、どういうわけだか身体が上手く動かずに離れられない。僕はどこにも行けない自分を呪った。
 
 合唱が終わると、呆気なく呪いは解け、僕は立ち上がった。ステージにいるTと同時に、だ。
 Tは僕の方を見ると、その長いまつ毛を伏せて口角を上げた。その端正な顔で、僕に向かって微笑んでいるのだ。滴った汗すら、光を乱反射させて目を見張るほどに美しかった。全身がビリビリと痺れ、背筋が凍った。
 Tが僕に向けて控えめに手を振ると、その場が一気に湧きあがった。今までの発表にはなかったほどの音量。Tを褒め称えると言わんばかりの、割れんばかりの拍手喝采。
 耳を塞ぎたくなるほどの音の中で、僕は上手く回らない思考を巡らせた。
 この場を統治しているのは、紛れもないTだ。たった数分で、この場にいる人間を虜にしてしまった。何度も繰り返されていた「Hallelujah」という歌詞はきっと、Tを褒め称えるためだけに存在していたのだ。
 きっと、そうだ……。
 その思想は当時の僕にとって、地獄に落ちるよりも恐ろしいことだった。
 僕は拍手の音から逃げるようにして、その場を後にした。そして家まで走って帰った。とにかく誰とも顔を合わせたくはない。街ゆく人がみんな敵に見えた。
 玄関の階段を駆け上がり、鍵を開け、靴を脱ぐ。何気ない動作の一つ一つが、ひどく辛いものだった。
 僕は泣きながら、誰もいない家の中で「どうしてアイツなんだ!」と叫んだ。Tのことを「アイツ」と言ったのは後にも先にもこれが最初で最後な気がする。
 それほど感情が抑えきれなかったのだ。
 心を切り刻むナイフで、心をグルグルと縛りつける縄で、Tを殺めてしまおうと思った。Tも亡くなった父親を望んでいたのだ。僕がTを助けるんだ。それが出来るのはずっとずっと近くに居た僕しかいない。……違う。僕には、世界から祝福されたTを殺すことなんてできない。そんな権利もない。触れ得る権利すら与えられなかった。でも、僕が死んでも、悲しまないでしょう。気が付かないでしょう。ねぇ、父さん。ねぇ、母さん。
 幼い僕は泣きながらそんなことを思っていた。

 楽しそうな会話が外から聞こえてきたのは、それから暫くしてからだった。近づいてくる声は一旦止まり、玄関のドアが開けられてから、より鮮明になる。
 僕はTに名前を呼ばれ、重い足取りで玄関まで行った。
 顔を出した僕に、Tは「良かった。家に居たんだね」と笑いながら言った。社交辞令で言った「おかえり」の言葉に、Tは「ただいま」と返す。Tは紛れもなくこの家の子になっていた。それがまた気に食わなかった。
 Tは両手に大きな花束を抱えていた。何も聞いていないのに「金賞だった」と言って、はにかむ。僕は「おめでとう」の言葉すら言えずにその場に立ち尽くしていた。花の似合うTに、魅入っていたのかもしれない。Tは僕の様子にも気が付かず、花束の説明をしていた。
 急にTは顔を上げて「大丈夫?」と言った。Tは大事そうに抱えていた花束を床に置いて、僕の頬に触れた。
 Tの冷たい手指に、僕の熱いくらいの体温。玄関の匂いと、微かに残るタバコの香り。そして今にも泣き出しそうな僕に向けられた、Tの柔らかな表情。色々なものがグチャグチャに混ざって吐き気がした。「触らないで!」という僕の幼い声が、玄関に空しく散る。
 Tは手を引っ込め、視線を下げた。僕の言葉に怯えながら謝るTの姿を見て、気分が良くなったのを覚えている。最低だ。
 僕たちの会話を黙っていた母が、僕の頬に触れた。仲裁に入ろうとしていたのだろう。「疲れているのよね。ゆっくり休みましょう」と言い、僕の背中を優しく押した。
 今度は僕を見てくれている。母を独り占めできるのが嬉しい。と、はっきり感じていた。僕はいまにも泣き出しそうなTに一瞥をくれ、母に身を委ねた。
 母の隣を、勝ち取った。
 それだけの事実が、当時の僕にとっては跳ね上がりそうなほど嬉しかった。甘い香りのする母に甘えられるのが誇らしかった。自分は幸せだと思った。今までここまで甘えたことはなかったから、歳不相応にそう思っていたのだ。
「あの子のピアノを聞いていました?」
 母が唐突にそう口にした。あの子、というのは紛れもないTのことだろう。上機嫌の僕を蹴落とすような、そんな言葉。唐突なTの話題にうんざりした。
 僕が黙っていても、母はお構いなしだった。
「凄かったのよ。あの子が褒められる度に、お母さん、鼻が高くて」
 僕は話題を切り上げたかった。隣で母が何かを言っていたが、ちゃんとは聞いていない。聞いたらいけないと思っていたからだ。どうやって気を引けば僕の話題になるのだろう、なんて考えていた。
 しかし、Tのことを「あの子」と頻りに繰り返していた母が初めて彼の名を言った瞬間、僕の中で何かが弾ける音がした。
「ここに居るのは僕だ!」
 僕は感情のままに叫んでいた。あわよくば、Tに届けばいいな。なんて、そう思って叫んでいた。叫んで、叫んで「僕はここにいるぞ」と当たり前のことを伝えたかった。とにかくTに支配されない、僕だけの居場所が欲しかった。
 今思えば、母からしたら何の脈略の無い言葉だろう。驚いた表情を浮かべる母の顔が忘れられない。驚いたのは一瞬だけだったようで、母の表情はみるみる変わっていった。
 母の悲しそうな顔が、ある日のTと重なった。「オレは他所の子だから」と言っていたあの時の顔。
「Tは他所の子だろ!」
 僕の気持ちは止められなかった。最低な言葉を口にしているのは、今では十分に分かっている。しかし、当時の僕にはそう思う間もなかった。叫んで、叫んで、ただただ楽になりたかった。
 Tが僕から奪っていく母の温もりを、少しくらいは与えてもらいたかった。
 けれども、現実はそう上手くいかない。僕が母から与えられたのは、冷ややかな視線だけだった。
「もう一度おっしゃってみなさい。その時はあなたを打つわ」
 僕は周りも見えないほど感情的になっていたが、母の放つ静かな言葉が、怒りにひどく震えているのは確かに分かった。母の言葉はそれほどまでに冷たかったのだ。
「Tは他所の子だ!」
 母を怒らせたことを振り払いたくて、僕を見てもらいたくて、僕はもう一度その最低な言葉を吐いた。幼い子供のように地団駄すら踏んでいたと思う。
 母は泣きじゃくる僕に一切の同情することもなく、僕の左頬を宣言通り打った。「主」なるものに祈りを捧げていたその手で、愛おしそうにTの手指に絡めていたその手で、僕を力一杯に打ったのだ。
 衝撃で横によろめき、打たれた方の耳からは、耳鳴りがした。
「一生そうしてなさい」
 母はそう言うと、僕を残してその場を去っていった。伸ばした手は、誰も見てくれてはいなかった。
 ふと、廊下の影から誰かが姿を現した。「そんなに叫ばなくても」なんて、僕の気も知らないでそんな言葉を言っていたと思う。涙を拭った先には、Tが立っていた。
 Tはその一連のやりとりを近くで聞いていたらしい。廊下で蹲って泣く僕に手を差し出すと、大人びた笑みを向けた。僕は掴めるのなら誰の手でも良かった。Tの冷たい手を掴むと、Tは笑顔のまま僕を立たせてくれたのだ。
 僕にはTしか居ないと、その時に強く思った。
 
 僕は合わせていた手を解くと、目を開く。煙草の火はいつの間にか燃え尽き、冬の寒さで手はすっかり赤くなっていた。僕はまた慣れない手つきで煙草に火をつけ、墓前に供える。
 Tの葬儀の後、彼の部屋である物を発見した。机の引き出しの中に丁寧に仕舞われた二通の手紙。一つは両親に宛てたもの、もう一つは僕宛てに書かれた手紙だった。
 ところどころ文字は掠れていたが、読めないことはなかった。きっと泣きながら書いたのだろう。僕は夢中になってその文を読んだ。「ごめん」と繰り返されるその手紙は、遺書だったようで、僕はその現実を受け入れきれずに破って捨てた。
 思えば、真面目だったTがスピード超過なんてするはずがない。Tは単なるバイクの事故に見せかけて、自ら命を絶ったのだ。皮肉なことに、大好きだったバイクでは死ねず、自らの唾液でゆっくりと命を絶つことになったのだが。
 ともあれ、事故の直前までTに思い悩んでいるような素振りは全くなかった。いつものように「気分転換にバイクに乗ってくる」と言って、家を出たきりだった。その時のTからは煙草のにおいが微かにしていた。僕はTが発する「助けて」を見逃していたのだ。
 
 中学生の頃の僕は、Tのことが嫌いだった。それは拭えない事実だ。けれど、僕の過ちを許してくれた。一番言われたくなかったであろう「他所の子だ」という言葉を許してくれた。
 居場所のない僕の寂しさを汲んでくれたのだ。そのTの持つ優しさが、心地良かった。僕はあの日からTのことが大好きになった。しかしそれは、音楽祭があったあの日から、Tがずっと本心を隠していたからだ。甘えていたのだ。
 そしてそれに耐えきれなくなって、僕の前から居なくなった。今度は僕が、悪意なくTから居場所を奪っていた。あんなに笑いかけてくれていたTは、僕のことが嫌いだったはずだろう。僕はなにも気がつけなかった。
「キミが居ないと生きていけない」
 震えた声が誰にも拾われずに消えていく。身勝手で仕様もない言葉だから、誰にも聞かれずに済んで良かった。
 僕の言葉に応えるように、薄紫色の花がそよそよと揺らぐ。「こっちに来い」と手招きしているかのように。
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