夢綴

瀬戸口 大河

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調査

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調査
 Kちゃんと喫茶店で話をした日の夜、嫁が「次の土曜日に実家に泊まろうと思うの。最近全然帰ってないからお父さんも寂しがってるみたいだし」と真っ直ぐで夏の太陽を反射する川のような煌めく笑顔で俺に伝えてきた。「いいよ。気をつけて行っておいで」と俺も笑顔で伝える。この嫁の表情に不倫など微塵も匂ってこない。しかし、調べると言ったからにはやることはやっておかないとと思いKちゃんへ連絡をした。次の土曜日に店に向かうとメッセージを送るとKちゃんからすぐに返信がきた。「私、次の土曜日はクラブの仕事入ってる。何か見つけたら連絡するからね」と。
 土曜日はすぐにやってきた。俺はスーツにロングコートを着て横浜駅のクラブに向かう。クラブなど現実でも行ったことがない。本当ならセキュリティに身分証を提示してボディチェックをされるんだろうが何事もなくクラブにいた。店内の壁には水色の照明がうっすらと光っている。ほとんど足元など見えない。何か嫌な予感がした。客の入りはぼちぼちといったところか若い人たちがカウンターやテーブルを埋めている。テーブルといっても真ん中にひとつ椅子のない大きなテーブルが置かれ真ん中から天井に向け白い光を出している。慣れていない俺はその光を頼りに前に進む。カウンターで客の酒を作るKちゃんを見つけた。気の置けない状況で見知った顔を見つけ、安堵した。Kちゃんの元へと早足に向かった。客の隙間を縫って声をかける。「ジントニックをひとつください」と注文した俺の顔を見てKちゃんは笑顔で一言。「よく来たね」カウンターの後ろに並ぶ瓶の群れから慣れた手つきでジンを引きずり出しグラスに丁寧に酒を注いだ。Kちゃんは作った酒を優しく俺の前に差し出しながら「後ろのカウンター見てごらん」と指差す。俺は緊張して気づいていなかったのか、俺がいるカウンターの正反対の方向にもう一つカウンターがあることを知った。「前はあの辺りにいたよ。今日もあそこにいるかもしれない」とKちゃんは耳元で囁いた。
 背筋に電撃が走る。俺は急に怖くなった。ここで嫁を見つけてしまったら俺はもうどうすればいいのだろうと。知らない方が幸せなことは人生で多くある。ここで真実を知って地獄に落ちるより、知らぬまま天国を生きる方が絶対にいい。そう考えるが気がつくと俺はKちゃんの指差すカウンターに向けて歩いていた。その道中に俺の見知ったポーチが目に入った。肩掛けの長い持ち手が金色にあしらわれたネイビーのポーチ。ロングヘアで上下黒のパンツドレスを着た女性が真ん中のテーブルに前のめりに寄りかかり飲み物を飲んでいる。
 嫁だ。嫁を見つけてしまった。だが、まだ1人。すぐKちゃんのいるカウンターに戻る。Kちゃんは「どうしたの」と俺を心配するように尋ねるが俺は「なんでもない。もう少ししてから行くよ」とくぐもった声で返答する。Kちゃんは即座に違和感を感じ取ったのか、店内を見渡すと顔色ひとつ変えず俺に「あら。見つけちゃったのね」と静かに言った。俺は無言で頷きながら思考を巡らせる。
 嫁を見つけてしまったことで一気に不安が俺を襲う。あの嫁が男と腕を組んで歩く写真が現実味を帯びて蘇ってきた。今1人ということは前回写真が撮られた時ももともとは1人で来ていた?でも、1人で来て男を漁ってたってことか。元々2人や大人数で来ていたとして腕を組むほど親密な関係ということはもちろんキスやセックスはしているのだろう。していないとしても、時間の問題だ。俺の嫁が俺の知らない男の腹の下でひいひい言わされているなんて信じたくない。やだ。やだ。やだ。
 考えれば考えるほど頭に浮かぶ言葉が稚拙になってゆく。ドツボにハマりもう後ろ向きな考えしか出てこない。そんな俺を他所にしっかりと見張っていたKちゃんが俺にしか聞こえない小さな声で「男が来たよ」と囁いた。俺はもう頭がオーバーヒートして何も考えられなくなっていた。Kちゃんが続け様に「ほら、男と腕組んで歩いてるよ。見て」とさっきよりも少し大きな声で俺に向けて言った。俺は何も考えず、言われるがまま振り向くしかなかった。俺の視線の先には写真の男と腕を組み歩く嫁の姿があった。俺はKちゃんに視線を戻して「わかったよ。もういいんだ」と弱音を吐いた。Kちゃんは俺の手にそっと触れながら「私、もう仕事終わるから少し待ってて」と落ち着いたトーンで話すとカウンターの裏にはけていった。
 俺はKちゃんを待つ間ただただぼーっとしていた。ふと我にかえりもう一度振り返るが嫁の姿はもうない。その場には放心と傷心を同時に抱えながら慰めの酒を煽る。
 Kちゃんが戻ってくるころにはカウンターに別の店員が立っていた。俺の飲み終えたグラスを見て「お飲み物は?」と尋ねるその男は髪が綺麗にセットされ制服の白いシャツと黒いベストを着こなし丁寧で落ち着いた声を出しながらスマートに酒を作る。俺とは段違いのいい男だ。俺はその店員に「ジントニックを」と伝えながら金を渡す。俺のような負け犬が格上の男に金を払って酒をご馳走になる。自分に対する惨めさを拭うようにまた酒を煽り、似合もしない煙草を燻らせる様は他人から見れば滑稽だろう。それでもいい。ただ今は酒に溺れたい。
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