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いざ、東北の隠れキリシタンの里を目指して
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細川ガラシャ夫人、日本名では細川玉であり、織田信長を打ち取った「三日天下」の明智光秀の三女であり、激動の時代を生きてきた姫である。
が、しかし、度重なる戦乱の世の無慈悲と裏切りに満ちた武家社会、男社会に絶望と憎しみが増し、唯一つの心の拠り所でもあったキリスト教までも弾圧され、ガラシャは密かに逃亡を図ろうと目論んでいたのだった。
細川ガラシャの人柄に惹かれた数少ない信者たちによって、今回の事件を口実に使って逃亡し、東北にあるという隠れキリシタンの里に逃げ込むことを目的にし、長い年月、計画を重ねてきたのだった。
大阪から東北、今で言う宮城県までは距離として900キロ近くあり、到着までには20日間はかかる長旅になる。
ましてや軍資金として砂金や隠し金も持ち、そちらも別部隊が先回りし、各諸大名の賄賂としても活用する予定だった。
とは言え、男衆の中に女一人、それも当時37歳のガラシャは年齢的にも体力的に厳しい状態ではあった。
長年の側室生活により体力は普通の女性よりも劣っている。
谷啓蔵や侍女たちの計らいにより、精のつく食べ物や運動も行ってはいたが厳しい事には違いない。
ましてやガラシャは17世紀当時としては大女の部類で、身長が168センチとその当時の日本女性の平均身長が145センチ前後、日本男性の平均身長も155センチ前後と低く、3人の警護の武士よりも13センチは身長が高いガラシャは、やはり目立ち、だから浪人の格好として男装させられたのだ。
男装しての逃亡生活を想定し、谷啓蔵に、徹底的に男性の身ぶり振舞いを練習させられ、特に男性の歩き方、武士の歩き方を今日に至るまで稽古されたので、今ではガラシャは先頭をきるほどの速さで歩いていた。
反対に谷啓蔵の方が足早になり、ガラシャの後ろを懸命に追い掛けているのがやっとである。
「お待ちくだされ、姫・・・」
思わず口にした「姫」と言う言葉に、周りの護衛たちに注意され、谷啓蔵も思わず口に手を運んだ。
しかし、姫育ちのガラシャが、細川屋敷内で人目を憚(はばか)りながら体力作りと武士の歩き方を練習し、それだけで歩く速さが増すのであろうか?
その訳は、簡単なことであった。
ガラシャの身長が当時の日本女性の中でも実に大女の168センチと大きく、それよりも凄かったのは、ガラシャの脚が長く、と言うか、この時代としては奇跡に等しいほどの長い脚を持っていて、股下86センチと、17世紀当時の日本人としてはあり得ない体型と奇跡の脚の長さをしていたのだ。
21世紀現代でもモデルの女性でもない限り身長の半分よりも脚が長い女性は少ないのに、1600年代の日本ではまだまだ畳文化、正座文化が当たり前で、もしかしたら側室生活やお城生活が長い武家や姫ぎみが商人、百姓よりも胴長短足かもしれなかった。
ガラシャの護衛の男たちも身長は155センチを超えない者ばかりで、谷啓蔵は150センチも無かったのだ。ましてやその当時の日本男児も胴長短足。
身長が155センチとして半分で77.5センチ、そこにどう考えても20センチは脚が短いから股下57.5センチ、約58センチ。
ガラシャの脚よりも28センチ短い事になる。
150センチも無い谷啓蔵に至っては27センチ、もしかしたら31センチも脚の長さが違うのだ。
道理でガラシャが普通に歩いていても、男たちは急ぎ足で進んでいるのだ。
その事は、今現在、長い袴に隠されたガラシャの脚の長さを誰も知らず、その謎が解けるまで時間が費やされるのである。
とは言え、30代後半のガラシャは体力的には警護の武士たちには遠く及ばず、足取りもゆっくりとなってきた。
そして、その速度は反対に彼らの歩く通常の速さと同じなので、彼らも安堵した。
1600年と言う最後の戦国時代末期であり、最後の動乱の時代だからこそ、細川ガラシャ夫人は東北の地、今で言う宮城県を目指して逃亡出来たのではないかと推測する。
細川ガラシャは、今日を持って死んだ。
そう彼女は歩きながら考えていた。
だから、今日から姫でも無く、細川忠興の正室でも無く、ただのガラシャであり、明智玉に戻る訳でも無かった。
名前はタマで良いのではないか?
そう思い、歩きながら、彼ら護衛に今日から私のことを「タマ」と呼んでくれ!と指示した。
勿論「ガラシャ」も封印しなくてはならない。
あれだけの犠牲を出し、今、ここに生き伸びている自分がなんとも情けなく感じた。
自分の子供たちもいるが、もはや母親の縁も切った。
気が弱いくせに暴君になった細川忠興も、もはや今では愛情も失せていた。
今、自分が愛し信じる者は、夫や日本人では無く、西洋のイエス・キリストなのだ。
そして、キリシタンは日本では禁止の宗教であり、隠れて信仰することに、もはや限界も感じていた。
多分、この頃の細川ガラシャ夫人は、日本の中でも本当に数少ない21世紀の女性の思想と感覚を養っていて、そのことにかなり戸惑っていた事と思われる。
因みに細川忠興も当時としては身長が162センチの男前なお殿様だったが、ガラシャ夫人が自分よりも身長が高い事をかなり気にしていたようだ。
そこにきて、父親の明智光秀が謀反を犯したとして、その当時は愛してはいたが、キリシタンとなり、考え方が西洋かぶれになった彼女を最終的には忌み嫌うようになる。
細川忠興の女遊びも酷くなり、侍女たちはやはりその当時の平均日本女性身長の145センチ台の女性ばかりだった。
が、しかし、度重なる戦乱の世の無慈悲と裏切りに満ちた武家社会、男社会に絶望と憎しみが増し、唯一つの心の拠り所でもあったキリスト教までも弾圧され、ガラシャは密かに逃亡を図ろうと目論んでいたのだった。
細川ガラシャの人柄に惹かれた数少ない信者たちによって、今回の事件を口実に使って逃亡し、東北にあるという隠れキリシタンの里に逃げ込むことを目的にし、長い年月、計画を重ねてきたのだった。
大阪から東北、今で言う宮城県までは距離として900キロ近くあり、到着までには20日間はかかる長旅になる。
ましてや軍資金として砂金や隠し金も持ち、そちらも別部隊が先回りし、各諸大名の賄賂としても活用する予定だった。
とは言え、男衆の中に女一人、それも当時37歳のガラシャは年齢的にも体力的に厳しい状態ではあった。
長年の側室生活により体力は普通の女性よりも劣っている。
谷啓蔵や侍女たちの計らいにより、精のつく食べ物や運動も行ってはいたが厳しい事には違いない。
ましてやガラシャは17世紀当時としては大女の部類で、身長が168センチとその当時の日本女性の平均身長が145センチ前後、日本男性の平均身長も155センチ前後と低く、3人の警護の武士よりも13センチは身長が高いガラシャは、やはり目立ち、だから浪人の格好として男装させられたのだ。
男装しての逃亡生活を想定し、谷啓蔵に、徹底的に男性の身ぶり振舞いを練習させられ、特に男性の歩き方、武士の歩き方を今日に至るまで稽古されたので、今ではガラシャは先頭をきるほどの速さで歩いていた。
反対に谷啓蔵の方が足早になり、ガラシャの後ろを懸命に追い掛けているのがやっとである。
「お待ちくだされ、姫・・・」
思わず口にした「姫」と言う言葉に、周りの護衛たちに注意され、谷啓蔵も思わず口に手を運んだ。
しかし、姫育ちのガラシャが、細川屋敷内で人目を憚(はばか)りながら体力作りと武士の歩き方を練習し、それだけで歩く速さが増すのであろうか?
その訳は、簡単なことであった。
ガラシャの身長が当時の日本女性の中でも実に大女の168センチと大きく、それよりも凄かったのは、ガラシャの脚が長く、と言うか、この時代としては奇跡に等しいほどの長い脚を持っていて、股下86センチと、17世紀当時の日本人としてはあり得ない体型と奇跡の脚の長さをしていたのだ。
21世紀現代でもモデルの女性でもない限り身長の半分よりも脚が長い女性は少ないのに、1600年代の日本ではまだまだ畳文化、正座文化が当たり前で、もしかしたら側室生活やお城生活が長い武家や姫ぎみが商人、百姓よりも胴長短足かもしれなかった。
ガラシャの護衛の男たちも身長は155センチを超えない者ばかりで、谷啓蔵は150センチも無かったのだ。ましてやその当時の日本男児も胴長短足。
身長が155センチとして半分で77.5センチ、そこにどう考えても20センチは脚が短いから股下57.5センチ、約58センチ。
ガラシャの脚よりも28センチ短い事になる。
150センチも無い谷啓蔵に至っては27センチ、もしかしたら31センチも脚の長さが違うのだ。
道理でガラシャが普通に歩いていても、男たちは急ぎ足で進んでいるのだ。
その事は、今現在、長い袴に隠されたガラシャの脚の長さを誰も知らず、その謎が解けるまで時間が費やされるのである。
とは言え、30代後半のガラシャは体力的には警護の武士たちには遠く及ばず、足取りもゆっくりとなってきた。
そして、その速度は反対に彼らの歩く通常の速さと同じなので、彼らも安堵した。
1600年と言う最後の戦国時代末期であり、最後の動乱の時代だからこそ、細川ガラシャ夫人は東北の地、今で言う宮城県を目指して逃亡出来たのではないかと推測する。
細川ガラシャは、今日を持って死んだ。
そう彼女は歩きながら考えていた。
だから、今日から姫でも無く、細川忠興の正室でも無く、ただのガラシャであり、明智玉に戻る訳でも無かった。
名前はタマで良いのではないか?
そう思い、歩きながら、彼ら護衛に今日から私のことを「タマ」と呼んでくれ!と指示した。
勿論「ガラシャ」も封印しなくてはならない。
あれだけの犠牲を出し、今、ここに生き伸びている自分がなんとも情けなく感じた。
自分の子供たちもいるが、もはや母親の縁も切った。
気が弱いくせに暴君になった細川忠興も、もはや今では愛情も失せていた。
今、自分が愛し信じる者は、夫や日本人では無く、西洋のイエス・キリストなのだ。
そして、キリシタンは日本では禁止の宗教であり、隠れて信仰することに、もはや限界も感じていた。
多分、この頃の細川ガラシャ夫人は、日本の中でも本当に数少ない21世紀の女性の思想と感覚を養っていて、そのことにかなり戸惑っていた事と思われる。
因みに細川忠興も当時としては身長が162センチの男前なお殿様だったが、ガラシャ夫人が自分よりも身長が高い事をかなり気にしていたようだ。
そこにきて、父親の明智光秀が謀反を犯したとして、その当時は愛してはいたが、キリシタンとなり、考え方が西洋かぶれになった彼女を最終的には忌み嫌うようになる。
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