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よい便り

006

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 真珠君に背中を押された時、終わったと思った。
 けれど、正直、そんなに悪い気持ちではなかった。真珠君のことは好きではないが、彼は僕よりも価値がある。無価値な自分の命で役に立つ誰かを生かせるのなら上々な最期であるし、何より、こんなに綺麗な女の子の腕の中で死ねる。見かけだけで僕を受け入れる気持ちは全くないのだろうけれど、それでも嬉しかった。
 重力に従うまま、ぽすりと温かな体に抱き止められる。
 膨らんだ胸には少女特有の柔らかさがあり、奥から緩い心臓の音が伝わる。そっと背中に回された両腕は細いが、母性に溢れ包み込まれるようだ。
 少女の唇が近付く。濡れて光る淡い桜色からは人体を破裂させる凶悪さは微塵も感じられない。寧ろ、この世の苦痛から解放する天からの施しにさえ思えてしまう。
 見た目以上に厚く柔らかなそれを押し当てられても、感想は変わらない。僕のに当たって柔軟に形を変える彼女の唇は弾力に富み、覗き込んでくる黒曜石のような瞳は底の見えない深い色をしている。
 美少女は柔和に目尻を和らげ、緊張で固く結ばれた僕の唇をそっと開く。歯の隙間から、乾燥した口内を潤す生温い舌が差し込まれた。ぬるりと淫靡に蠢き、頬肉の裏に沿ってじっくりと舐め上げる。口蓋に舌先が到達し、慣れない感触に驚いて音のない声を上げようと喉が開いた隙に、より深く彼女が入り込む。
 甘い唾液が身体中を満たしていく。僕の体温が彼女の体温に近づき混ざり、いよいよ境目が曖昧になる。
 同化するような感覚。
 少女の足が絡み付き、回された腕は後頭部に移動した。頭を支え、引き寄せられて一層と密着する。息苦しさを感じないのか少女の勢いは増すばかりで、気がつくと僕は壁際まで押されていた。
 茹だる脳では膝に力を送れず、壁伝いにずるずると身体が落ちる。少女は器用にしがみついたままで、崩れる僕にしなだれかかるように一緒に体を沈める。完全にへたり込んだ僕の腰の上に向き合うように座り、更なる同化を求めてくる。
 どこまでも深く、長い口づけ。
 いや。
 長過ぎないか。
 先生は一瞬で破裂した。玻璃さんの推測によれば破裂の引き鉄は体液の摂取であり、僕は致死量と言っていいほどの唾液を流し込まれている。
 にも関わらず、体に異常は感じない。いや、心臓の音はあり得ないくらい大きいし、耳たぶの先まで燃えるように熱いが、あくまでも生理現象の範囲内だ。内側から膨張し肉片を撒き散らす、などという派手な死に方をする予兆はない。
 おかしい。既に二、三分は経過している。
 鼻息を荒くして熱烈なキスを求める少女とは対照的に、僕の頭は冷静さを取り戻していく。
 もしかして、この娘には感染力がないのか。
 人間を作り変えるという仮説が正しいとすれば、美少女は鼠算的に増えていく。何の手立てもなければ近い未来、世界は美少女で埋め尽くされるだろう。しかし、世界には七十六億近い人間がいる。感染拡大の最中、他と違う個体が生まれても不思議はない。
 そうであるなら、感染の危険がない彼女は貴重な研究対象になるかもしれない。この娘を連れていれば連れる側も評価され、事態の収束に向けて動く大きな組織に保護してもらう期待も持てる。
 僕はここで死んでも構わなかった。杉石君達に出会うことはもう二度とないと思っていた。けれど、彼女がいるなら話は別だ。
 助けてもらった恩を返せるかもしれない。
 少女の肩をそっと押し、つぷりと唇が離れる。少女は嫌がって体を揺するが、僕の方から抱き締めるとふわりと力を抜いて体重を預けてきた。
「取り敢えず合流しないと」
 方針は決まった。杉石君達と合流するため、まずは予定していたコンビニに向かおう。
 少女の髪を撫でながら、僕は二人で救助袋を使う方法を考えていた。



 少女はやはりと言うべきか、言葉での意思疎通はできなかった。そも、言語を話すことができないらしく、喃語しか発しない。身振り手振りで少女に意図を伝え、何とか校舎の外に降り立つことはできたものの、コミュニケーション能力に乏しい僕には非常に疲れる時間だった。
 腕を絡ませてべったりと体を寄せる少女にも、先程キスを交わした時のような高鳴りは感じない。段々と懐っこい大型犬に思えてきた。
「裸足で痛くない?」
 返事はない。少女はじっとこちらを見つめると、何を勘違いしたか目を瞑って顔を寄せてくる。
 感染拡大に基づいた行動だとしても、好意的に接してもらえるのは嬉しい。しかし、無知な女の子を騙してエッチなことをしているような罪悪感があり、応えるのは気が引ける。それとなく顔をずらして彼女の体を抱き締めると不満げに唇を震わせたが、すぐに機嫌を良くして頬を擦り合わせてきた。
 少女の肩に顎を乗せながら、彼女の足元を確かめる。怪我はしていないが土で汚れている。アスファルトの上を歩くには心許ない。一先ず僕の上靴を履かせると、一応は気に入ってくれたようでぱたぱたと歩き回った後、またひっついてきた。
 外靴を回収しに行こうか迷ったが、玄関はおそらく美少女で溢れ返っている。靴下だけでも防護にはなるので、このまま杉石君達のもとへ向かうことを決めた。
「行こう」
 意味は理解していないのだろうが少女は嬉しそうに笑い、背中にしがみつく。裸に靴だけのその姿は幾ら可愛らしい見た目をしていても変態的で、それを連れる僕も同罪である。せめてもとワイシャツを羽織らせてみたが、効果は芳しくない。
 少女の体を隠しながら、こそこそと壁沿いを移動する。
 異常事態の最中にあるというのに、町はいつも通り沈黙を保っている。日中は仕事で隣町に出ている人が多く、人が集まる場所は学校くらいだから、この町に限っては大きな被害は出ていないのかもしれない。
 数分、歩いただろうか。学校の敷地を出て程近い路地の陰で人の声がした。正確には聞き取れないが、男の声が何かを必死に訴えている。
 暴動か。近寄るべきではないが、僕達の存在は気付かれていない。安全なうちに危険を把握したい気持ちが勝る。
 少女が背中に張り付いているのを確認して、顔だけ出してこっそり様子を伺う。
「あっ」
 杉石君達だ。傍で蹲っている人は誰か分からないが、同じ制服を着ている。
 思った以上に早く合流できたので、心の準備ができていない。勝手にはぐれた手前、どんな顔で会えばいいか戸惑っていると、金剛さんがこちらに気がついてくれた。
「お、遅れて、ごめんなさい」
 杉石君と玻璃さんが驚いた表情で僕を見る。都合良く切り捨てられたお荷物が仲間面して戻ってきたから気分を悪くしたのだろうか、と自分の判断を後悔したが、幸いにも杞憂に終わった。
「無事で、よかった」
 杉石君が泣き笑うような表情で言って、走り寄ってくる。他人に無事を喜ばれるのは随分久し振りで求められた抱擁に応えそうになったが、後ろに隠した少女を思い出して咄嗟に後退る。
 勘違いをさせてしまったのか、杉石君の顔がくしゃりと歪んだ。
「あっ、違くて。その、僕に近寄らない方がいいと思う」
 弁明しようと必死に口を動かすが、急げば急ぐほど僕の頭は機能しない。上手い説明が浮かばず、向けられる暖かな視線は疑惑へと変わっていく。
「後ろに何かあるの?」
 金剛さんが淡々と問うてくる。
 今更になって少女を連れてきたことが本当に正しかったのか不安になるが、後悔するには遅すぎる。拒絶されたとしても、また一人に戻るだけだと後ろ向きな覚悟を決めて一歩、横に体をずらす。
「は」
 空気の漏れる声がした。誰のものかは分からないが、おそらくはみんなのものだと思う。蹲る一人を除いた全員がぽかんと口を開け、かっぴらいた目で呆然と少女を見ていた。
「なんか、懐いちゃって」
 突然前に出された少女は恥ずかしがってか僕の腕に巻きつく。出会ってから時間は経っていないが、ずっと引っ付いていたから燃えるような高ぶりはもうない。頭を撫でてみると嬉しそうに目を細めた。
「んむっ」
 またキスされた。廊下で交わした深いそれとは違う、触れるだけのこそばゆい接吻が繰り返される。子供の挨拶みたいだと油断していると急に舌を入れられて、多量の唾液を流し込まれた。
 溺れそうになりながら僕は、どんどん冷めていく皆の視線を感じ、ただ申し訳なく思った。
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