カフェオーナーと崖っぷちバイト、元妻の幽霊添え

二ッ木ヨウカ

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05 朝は来ない方がいい

「おい、起きろ」
「ん……?」

 体を揺すられて目を開ける。
 窓の外に茂る葉。その向こうから室内をまだらに照らす朝陽に、古びて擦り切れかけた畳。横から自分を覗き込む美丈夫を認識したところで、昨晩の記憶が蘇ってきた。するりと頭を一撫でされ、火がついたように顔が熱くなる。

「あ、あっ……あ、お、おはよ、ござ……」
「うん、ぐっすり寝てるところ悪いんだけどさ、こっちも開店準備とかあるんだわ。そろそろ起きてもらってもいいか?」
「す、すいま、せ……」

 慌てて起き上がり、洗われていたシャツを受け取る。人の家でいぎたないとは思うが、こんなにぐっすりと寝たのは久しぶりのようで体が軽い。袖を通すと唯人の服と同じ柔軟剤の匂いがして、心まで浮足立った。

 着替えて部屋を出ると、チノパン姿の唯人と心地いいコーヒーの香りが灯真を出迎えた。席に着き、唯人と一緒に手を合わせる。机の上の蜂蜜の瓶も、トーストの上で溶けるバターも黄金色に澄んでいる。
 遠慮なく蜂蜜を追加し、トーストにかぶりつく。視線を上げると、同じようにトーストを持った唯人の瞳が柔らかく灯真を見ていた。

「それ食べ終わったら、駅まで送ってやるよ」

 その口元から聞こえてきた言葉を、灯真はすぐには理解できなかった。
 送る? なんで? 駅?

「三十分かかるけど、バス待つよりはいいだろ。電車賃くらいは貸してやるから」
「え、あ……はい」

 反射的に頷いてしまってから、ようやく理解する。

 帰れって、言われてる。
 口の中で、焼けたパンが砂利のようにざらついた。蜂蜜もバターも、ベタベタして気持ち悪い。

 嘘だろ。……嘘だよね?

 信じられない思いでコーヒーを飲み、口の中の物を押し流す。気づいた時には玄関でサンダルを借りていた。
 唯人に続いて扉をくぐり、階段を下りる。一足ごとに、心まで落ちていくようだった。
 喫茶店の表に回ると、二階よりも高い木が生えていた。昨日唯人が言っていた甘夏の木だろう。その隣にあった、これまた古そうな白いセダンの扉を唯人が開ける。

 乗りこんだら、終わりだと思った。自然と足が止まる。

「あ、あの……」
「んだよ、早く乗れよ。言っとくけどここにゃ東京みたいに電車来ねえからな、乗り遅れたら次2時間後だぞ」
「僕は……帰らなきゃ、いけないんですか」
「何言ってんだ?」

 車の扉を開けたまま、怪訝そうに唯人が目を細める。手足の先が、すうっと冷たくなっていくのが分かった。
 帰る場所なんてどこにもないって、昨日、言ったはずなのに。

 この人は——自分の話を聞いてくれていたんじゃない。受け入れてくれたんじゃない。
 ただ、聞き流していただけだったんだ。

 店の前で死なれたら邪魔だったから?
 一晩経てば落ち着くと思われていた?

 唯人にとって、灯真は、そして昨晩のことはただその程度のことだったのか。
 全身が寒いのに、動悸だけが激しくなる。

「大丈夫だよ、灯真。歳だって若いし、まだいくらだってやり直せるって」

 聞き飽きた、上っ面の慰め。
 この人にだけは、言われたくなかった。

「ほら、乗れって」

 唯人が車のキーを回す。

「も、もう……い、嫌だって、頑張りたくないって、言っただろ!」

 灯真の叫び声と、キュルキュルキュルというモーター音が重なった。

「あれ……かからな……」
「どう、せっ、僕のことなんか誰も! どこも! ひ、必要になんてしてないんだよ! じゃあもういいだろ! なんでまだ頑張んなきゃいけないんだよ!」
「えー、バッテリー……? とりあえずちょっと落ち着けって、灯真」

 眉をひそめた唯人がまたキーを回し、空回りする音だけが響く。ため息とともに車のシートに寄りかかった唯人の表情は、どこまでも冷静だ。

「そんな悲観しなくても……どっかあるって、お前にも。合う仕事とか、活躍できる場所とか、まだ見つけてないだけだと思うぞ?」

 諫めるように言われるおざなりな言葉が、灯真の神経をさらに逆なでした。

「どこだってんだよ、それは! 言ってみろよ! ゴミにはねえんだよそんな場所!」

 やっと分かってくれる人がいたと思ったのに。恨みにも似た感情を、目を見開いている唯人にぶつける。
 どうせおかしい奴って思われてるんだ。もうなんの遠慮もいらない。

「……いや、でも、探し続けていればいつかは——」
「いつかっていつだよ! 僕が何回転職したと思ってんだ! あるってんだったら今すぐ紹介しろよ! 連れて来いよ僕を雇ってもいい、活躍させてやるって奴をよ!」

 適当な理想論ばっかりどいつもこいつも垂れ流しやがって。

 自分がダメなのは、自分が一番知っている。この程度のことでキレて怒鳴り散らす奴なんか、灯真だって一緒に働きたくない。家族や恋人なんて尚更だ。でも、どうやったら自分を変えられるのかなんて灯真にも分からない。
 だから、自分に合った場所なんてもう探したくないし頑張りたくなかった。

 どうせ全部無駄に終わる。

「善人ぶりやがって! お前だって本当は僕のことなんて嫌なくせに、だから自分の店持ってるくせにそうやって無責任で適当なこと言って人のこと追い払おうと、っ……」

 息が続かなくなって、言葉が切れた。吸い込んだ空気が肺を刺すようで、目が熱い。滲んできた視界を、必死で瞬きしてごまかす。

「あー、うーん……」

 車の中で困ったように頭を掻く唯人を見ながら、冷えた指先を握りこむ。
 どんなに本気で叫んでも、自分の言葉なんか誰にも届かない。知っていたのに、なんで期待してしまったんだろう。馬鹿だ。

「……すいません、もう……いいです」

 とにかくここから灯真がいなくなればそれでいいはずだ。ご迷惑おかけしました、と軽く頭を下げ、唯人に背を向ける。
 日本は島国だ、崖なんていくらでもあるし森林だって豊富だ。唯人と関係づかないよう、もっと遠くへ行けばいい。
 ふらふらと歩きはじめると、背後から「おい、待てよ」と声が聞こえた。無視して足を速めると、もう一度「待てっつってんだろ」と声が聞こえて、灯真の足が止まる。

「……言っとくけど、最低時給しか出せねえからな」

 何かを決心したような声。
 無視したいのに、振り向いてしまう。

「どうせ、電車には間に合いそうにないしな」

 車から降りた唯人が、おどけるように小さく肩を竦めていた。

「代わりにまかないと住居付き。それでいいだろ?」

 それだけ言い残して、唯人はカフェへと戻って行く。
 しばし立ち尽くしたのち——
 灯真は、その背中を小走りで追いかけた。
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