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06 バイト開始、でも
九州の上端、玄界灘に面した山あいの海辺。森の中、海を見下ろす崖にぽつんと建つ、甘夏の木が目印の喫茶店「さんふるうつ」を一言で表すには、「古い」という言葉が最適だった。
レトロなのではない。ただ古いのである。
平成初期に建てられたという店は、レンガの外装の上に色褪せたタープがはためく。その下にあるショーケースには埃の積もった食品サンプルが並び、筆で書かれた値札が開店当時から変わらない価格を示す。コーヒーが400円、チーズとハムのサンドイッチが350円、目玉メニューの厚焼きパンケーキは500円。今となってはリーズナブルな価格設定と崖際というロケーションのおかげか、釣り客や観光客、地元の人で意外にもそこそこ客足がある。
「えっと……え?」
シャンデリア風の照明がぶら下がる店内で、バイト歴二か月目の灯真は立ち尽くしていた。手のトレイの上にはパフェとパンケーキが載っている。
「いや……だから、頼んでないって。コーヒーだけだよ」
「あ……あれ……?」
灯真の目の前、焦げ茶のソファに座る男性客の困惑した声に、トレイの上に一緒に乗った伝票を見る。卓番6。灯真の字でコーヒー・パンケーキ・チョコパフェと書いてある。店の奥から机の数を数える。1、2、3……6番目だ。
「す、すいません……」
ならこれはどの席の注文なんだ。嫌な汗が背中に滲む。キッチンに一度戻ろうと踵を返すと、店の入り口に女性客が立っているのが見えた。
「あっ、あー、いらっしゃい、ませ……?」
ドアベルが鳴ったのを聞き逃したのだろうか。慌てて頭を下げると、一緒に手に持っていたトレイが傾く。
あ、と思ったときには遅かった。
傾いたパフェグラスが、パンケーキを巻き添えにして床に落ちていく。
澄んだ破砕音が、店内に響いた。
「しっ、失礼、しました!」
慌てて用具入れから道具を出そうとして、トレイが邪魔なことに気づく。もたもたとカウンターに戻ると、「俺が片づけるから」と灯真の肩を唯人が叩いた。
「あっ、でも、ゆ……オーナー……」
「いいから。パンケーキ焼きなおしといて」
颯爽と歩き去る唯人と入れ替わりに、キッチンに入る。注文を受けてから生地を作るパンケーキのレシピも開店当時から同じらしいが、焼き直しには時間がかかる。
「なあ、パフェとパンケーキ頼んだのお前だよな?」
卵と牛乳を混ぜる向こうから、唯人がそう聞く声が聞こえた。オーダーが分からなくなっていたのがバレていたらしい。
「そうだよー」
カウンターの向こうを覗くと、制服姿の女子高生と唯人が話していた。何回か見たことのある制服……のような気がする。
「悪い。今作り直してるから」
「ううん、それはいいけど……」
ちらりと女子高生が視線を飛ばしてきた気がして、灯真はキッチンの奥に引っ込んだ。
「……でも唯人さん、前は『バイトなんて雇う余裕ない』って言ってなかった?」
少女の軽い疑問のような言葉の下には、灯真に対する敵意と不満が滲んでいた。
「あー……色々あんだよ」
「色々ってなによ。私がバイトさせて言ったときはダメだったのに」
「……つうか、学生は雇わねえし。昼間来れねえだろ」
「で、でも! あんなのより私の方が絶対唯人さんの役に立てるし!」
「あのなあ」
「だってそうじゃん! ミスが多いだけじゃくて、誰もいないところに挨拶したりしてて見るからに変だし。見た目だって陰気くさいし、いるだけ邪魔じゃんあいつ!」
棘のある言葉だが、全部事実だからどうしようもない。
おかしいのも、邪魔にしかなってないのも、言われなくたって分かってる。好きで失敗してるわけじゃない。
唯人だってそう思っているのだろう。だから、灯真と同じ屋根の下にいつつ、あの晩のことなんてなかったという顔をしているのだ。
分かりきっているのに、それでもここに縋ってしまうのが悔しい。灯真の感情に合わせ、ガタガタと棚の中のカップが踊る。
ホットケーキのレシピメモを探してエプロンのポケットに手を突っ込んだ灯真は、ようやく入り口にいた客をすっかり忘れていたことを思い出した。弾かれたように振り返るが、さっきの客は店内のどこにも見当たらない。
幽霊だった……のだろうか。
レトロなのではない。ただ古いのである。
平成初期に建てられたという店は、レンガの外装の上に色褪せたタープがはためく。その下にあるショーケースには埃の積もった食品サンプルが並び、筆で書かれた値札が開店当時から変わらない価格を示す。コーヒーが400円、チーズとハムのサンドイッチが350円、目玉メニューの厚焼きパンケーキは500円。今となってはリーズナブルな価格設定と崖際というロケーションのおかげか、釣り客や観光客、地元の人で意外にもそこそこ客足がある。
「えっと……え?」
シャンデリア風の照明がぶら下がる店内で、バイト歴二か月目の灯真は立ち尽くしていた。手のトレイの上にはパフェとパンケーキが載っている。
「いや……だから、頼んでないって。コーヒーだけだよ」
「あ……あれ……?」
灯真の目の前、焦げ茶のソファに座る男性客の困惑した声に、トレイの上に一緒に乗った伝票を見る。卓番6。灯真の字でコーヒー・パンケーキ・チョコパフェと書いてある。店の奥から机の数を数える。1、2、3……6番目だ。
「す、すいません……」
ならこれはどの席の注文なんだ。嫌な汗が背中に滲む。キッチンに一度戻ろうと踵を返すと、店の入り口に女性客が立っているのが見えた。
「あっ、あー、いらっしゃい、ませ……?」
ドアベルが鳴ったのを聞き逃したのだろうか。慌てて頭を下げると、一緒に手に持っていたトレイが傾く。
あ、と思ったときには遅かった。
傾いたパフェグラスが、パンケーキを巻き添えにして床に落ちていく。
澄んだ破砕音が、店内に響いた。
「しっ、失礼、しました!」
慌てて用具入れから道具を出そうとして、トレイが邪魔なことに気づく。もたもたとカウンターに戻ると、「俺が片づけるから」と灯真の肩を唯人が叩いた。
「あっ、でも、ゆ……オーナー……」
「いいから。パンケーキ焼きなおしといて」
颯爽と歩き去る唯人と入れ替わりに、キッチンに入る。注文を受けてから生地を作るパンケーキのレシピも開店当時から同じらしいが、焼き直しには時間がかかる。
「なあ、パフェとパンケーキ頼んだのお前だよな?」
卵と牛乳を混ぜる向こうから、唯人がそう聞く声が聞こえた。オーダーが分からなくなっていたのがバレていたらしい。
「そうだよー」
カウンターの向こうを覗くと、制服姿の女子高生と唯人が話していた。何回か見たことのある制服……のような気がする。
「悪い。今作り直してるから」
「ううん、それはいいけど……」
ちらりと女子高生が視線を飛ばしてきた気がして、灯真はキッチンの奥に引っ込んだ。
「……でも唯人さん、前は『バイトなんて雇う余裕ない』って言ってなかった?」
少女の軽い疑問のような言葉の下には、灯真に対する敵意と不満が滲んでいた。
「あー……色々あんだよ」
「色々ってなによ。私がバイトさせて言ったときはダメだったのに」
「……つうか、学生は雇わねえし。昼間来れねえだろ」
「で、でも! あんなのより私の方が絶対唯人さんの役に立てるし!」
「あのなあ」
「だってそうじゃん! ミスが多いだけじゃくて、誰もいないところに挨拶したりしてて見るからに変だし。見た目だって陰気くさいし、いるだけ邪魔じゃんあいつ!」
棘のある言葉だが、全部事実だからどうしようもない。
おかしいのも、邪魔にしかなってないのも、言われなくたって分かってる。好きで失敗してるわけじゃない。
唯人だってそう思っているのだろう。だから、灯真と同じ屋根の下にいつつ、あの晩のことなんてなかったという顔をしているのだ。
分かりきっているのに、それでもここに縋ってしまうのが悔しい。灯真の感情に合わせ、ガタガタと棚の中のカップが踊る。
ホットケーキのレシピメモを探してエプロンのポケットに手を突っ込んだ灯真は、ようやく入り口にいた客をすっかり忘れていたことを思い出した。弾かれたように振り返るが、さっきの客は店内のどこにも見当たらない。
幽霊だった……のだろうか。
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