カフェオーナーと崖っぷちバイト、元妻の幽霊添え

二ッ木ヨウカ

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18 僕らが彼の、役に立つ方法

 狸か、狐か、猫か兎か。

 とにかく、「飛び出してきた動物を避けようとしてハンドル操作を誤った」と、そういうことになった。
 そうするしかなかった。

「夜道に出現した幽霊を人と間違えました」なんて、言えるはずもない。
「っ……」

 きりきりと痛んでくる胃をエプロンの上から押さえ、灯真は浅く息をした。視界が揺れた気がして、後ろの作業台に手をつく。
 店の前、甘夏の木の横に停められた代車は、違和感という形で存在を主張しては一週間前のことを思い出させてくる。

「灯真さあ、そんなに気にしなくてもよくない? 二人とも無傷だったんだし、むしろ喜んでいいところなんじゃないの?」

 慰めのつもりであろう夏子の言葉に小さく首を振り、灯真は視線だけで店内を見回した。テーブルの片付けをする唯人が背を向けているのを確かめてから、低く小さな声で返す。

「……そんなの、たまたまじゃないですか」

 ボンネットは凹んだし、車のフレームも歪んだが、エアバッグすら発動していない。終わってみれば、それくらいの事故だった。

 だが、それは単に幸運だっただけだ。

 回避は間に合っていなかった。幽霊じゃなくて人だったら――いや生身の人間だったらいきなり道路の真ん中に現れることもなかったのだけれど――完全に轢き潰していた。木があの場所に生えていなかったら、あるいはもう少し車がずれていたら、十メートル以上ある急勾配を車ごと転がり落ちていた。対向車がいたら、傷ついていたのは車と木だけではなかったはずだ。

 何かが一つ違っていたら、今頃唯人は――最悪の想像が頭をかすめ、全身が震える。

「次気を付ければいいだけの話じゃん」
「いや……僕が……余計なこと、しようとしなければよかったんです」

 運転していたのが灯真でなければ、事故なんて起きようがなかった。灯真のせいで、最後に全てをぶち壊してしまった。
 唯人の役に立ちたい。そう思ってしまったばっかりに。

「灯真! ほらレジ!」

 いつの間にか俯いてしまっていた頭を上げると、目の前に男性客が立っていた。

「う、あ……っ、すいませ……えと……」
「凹むのは勝手だけどさあ、仕事中なんだからちゃんと切り替えなよ」

 できたらそうしている。苛立ちながら置かれた伝票とレジ横に貼ってもらった値段表を見比べ、メロンソーダの価格を手打ちで入力していく。4500円。

「あ」

 修正しなきゃ、と思った結果指が滑り、現計、即ち会計終了ボタンを押してしまう。

「っ、た、あ……」
「あんたねえ、今更レジミスるとか何なん?」

 間違えた。どうしたらいいんだっけ、とメモを広げるが、目が滑って文字が読めない。がちゃん、と背後の棚の中から音が響いた。

「ほら、いいからもう一回入力しなさい!」
「え、え」

 夏子の声がするが、何をどこに入力しろというのか分からない。
 ただメモを繰っていると、不意に肩に手が置かれた。軽く後ろに押される。

「お待たせしてすみませんね」

 灯真とレジの間に割って入ってきた唯人が、軽い手つきでレジを打ち直す。客を見送ってから修正操作をした指先が、レシートをドロワーの中に収めた。
 無言のまま振り向いた唯人から、つい視線をそらしてしまう。

「す、すいません……」
「灯真、ちゃんと寝てるか?」
「いや、あの」

 伸びてきた唯人の手が、灯真の顔を強引に上向かせる。避けようのない距離から覗き込んでくる唯人には、灯真の返答など必要なさそうだった。

「だ、大丈夫ですよ、慣れてますし……」

 それでも唯人の白目の辺りを見ながら答えると、眉間に皺が寄るのが見えた。
 灯真の目の下を、唯人の指先が撫でていく。深いため息が聞こえ、突き飛ばされるように手を離された。

「……今日はもういいから。部屋戻って寝な」

 いつもより冷たく聞こえた声に、心まで突き飛ばされた気がした。

「い、いや、本当に平気なんで」
「大丈夫だったらレジ間違えないし、間違えたところでフリーズしないだろ。仕込んでたコーヒーゼリーをバットごと落としたりもしないし」 
「で、でもそれは……あ、や、き、えと、気をつけます、から」

 朝からやらかしていたことまで引き合いに出され、灯真は指先を組んだ。半袖から出た腕が冷房に吹かれて心細い。

「灯真」

 厳しい調子の声に、身体が固まる。
 頭を上げられずにいると、唯人が腰に手を当てるのが見えた。左手の薬指、その付け根だけが少し細い。

「あのな、今更だけどここでは包丁も火も使うし、出してるのは人が口に入れるものなんだよ」
「は、い……」
「怪我するか、割れた皿の入ったコーヒー出す前に一回休め」
「で、でも……っ」

 指先を握りこむ。腕の冷たさが全身に広がっていく気がした。
 休んだりなんかしたら、本当に何もしていないことになってしまう。
 白くなった灯真の指先を包むように、唯人の手が置かれる。

「体調管理も仕事のうち、っていうだろ。灯真がそんなんだったら客も心配する」
「いや、僕のことなんか、誰も」

 灯真が言葉を続けようとすると、入り口のドアベルの音が聞こえた。
 灯真が反応するより前に、いらっしゃいませ、と愛想よく唯人が声を上げた。続いて顔を上げた時には、メニュー表と水を持った唯人が客を席に案内している。

「あ……」

 いつ水を準備したんだろう。小さな驚きとともに、今まで唯人一人で店を回していたこと、バイトはいらないと言っていたらしいことを思い出す。
 ただでさえ不必要な存在なのに、今の灯真は役に立つどころか迷惑しかかけていない。
 いつもこうだ、と思う。他の人にできることが、灯真にだけできない。なんで、どうして、なんて、灯真だってずっと思っている。
 ここでも、駄目なんだ。
 部屋の温度が、急激に下がった気がした。それなのに、全身から汗が噴き出してくる。
 視界が白黒になり、端から暗くなっていく。
 体から力が抜け、暗い世界の中で頭がどこかにぶつかった。

「と、灯真!」

 これ以上、邪魔になりたくない。
 ひっくり返っている場合ではない。
 動かなきゃ。働くんだ。

「あっ、いや、ちょっと転んだだけです!」

 慌てて体を起こすと、キッチンの床に倒れた灯真と、その肩を叩く唯人が見えた。

「え、ちょっ、あれ……?」

 なんで自分が見えるんだ。伸ばした手が、灯真の体を突き抜ける。何度か同じことを繰り返し、その向こうで唖然としている夏子と視線が合った。
 幽体離脱。四字熟語が頭に浮かぶ。
 体に戻らなきゃ。唯人に運ばれていく体の後を追おうとして、足が止まった。
 戻って、それで、何になる?
 灯真なんて、起きて動くほど迷惑をかけるだけだ。それなら、いっそのことこのままの方がよいのではないだろうか。

「え、何それ……灯真、見えるだけじゃなくて幽霊にもなれる、の……?」

 隣に来た夏子が、恐る恐る灯真の指先をつついた。どちらも生身ではないからか、冷たくぶよぶよとした感触が触れ合う。
 灯真は役に立てない――なら、灯真でなければ、どうだろうか。
 小さなひらめきが灯真の中に産まれた。うまくいくかどうかは分からなかったが、試してみる価値はありそうな気がする。

「あの、夏子さん」
「え、何」

 気味悪そうに後退ろうとする夏子の腕を握る。「痛っ」と小さく夏子が眉をしかめた。

「僕の体、使ってくれませんか」
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