カフェオーナーと崖っぷちバイト、元妻の幽霊添え

二ッ木ヨウカ

文字の大きさ
20 / 29

20 ほころびは、小さなところから

 二人が閉店作業を終えても、まだ空はわずかに明るさを残していた。二階へ引き上げていく唯人と自分の体を動かす夏子にくっついて、灯真も上階へと向かう。
 言葉少なに夕飯を終えた唯人は、ずっと上の空で何かを考えこんでいるようだった。

「灯真、久しぶりに……なんか、飲むか?」

 やがて唯人が意を決したように立ち上がったのは、そろそろ寝ようかという頃合いの夜更けだった。
 横にいたって何があるわけでもない。だが、唯人を追い、身体のない灯真もカウンターの隣に移動する。

「いいの?」

 ソファでカフェ向け雑誌のページを繰っていた灯真の体――夏子は、顔を輝かせて跳ねるように立ち上がった。カウンターチェアに座り、きらきらとした目で唯人を見る。

「嬉しい! 何作ってくれるの?」
「あー……うん……」

 生返事をしながら、唯人は板氷をアイスピックで割り、シェイカーの中に入れた。注がれたのは、山吹色のカクテルだ。
 いつか、雨に濡れて喚いていた灯真に出してくれたものと同じカクテル。だが、あの時のような爽やかな匂いは灯真には感じられなかった。どうやら、この体だと匂いも感じられないらしい。
 覗き込んだ灯真から遠ざけるように、唯人が夏子の前にグラスを動かした。そこで動きが止まる。

「……どうしたの?」
「あの、さ……灯真」

 視線をさまよわせながら、唯人が指先を引く。一度目をつぶり、覚悟を決めたように開かれた眼は、夏子の入った灯真をまっすぐに見つめていた。

「最近……無理したり、してないか」
「え? してないけど。なんで?」
「いや、なんていうか……ちょっと前から灯真の性格が変わった気がしてて……灯真の中でなにか吹っ切れた、とか、俺の思い過ごしとかなら全然いいんだけど……ここでの仕事とか、俺との暮らしとかが……灯真には辛かったんじゃないか、と、思って」

 珍しくつっかえながら話す唯人は、怯えたような表情をしていた。

「この前倒れたのだって……俺が……追い込んじゃったせいだろうし」
「えー、あれは寝不足で眩暈おこしちゃっただけだって」
「うん……それなら、何でもないんだけど」

 満足げに微笑んで首を振る灯真の顔に、唯人の表情が泣きそうに歪む。よろけるようにカウンターに手を突いた唯人は、苦しそうに息を漏らした。

「ごめん、ちょっと、今の、灯真……あまりにも……前の、妻に似てて……だから、同じように、灯真まで、俺を捨てていなくなっちゃうんじゃないかって……怖くて」

 初めて聞く、細く、折れそうなほどに弱々しい唯人の声が灯真に突き刺さる。

「……あ、っ」

 俯く唯人の横で、灯真は声を上げた。
 ずっと一緒にいてくれるか、という展望台での唯人の言葉。あれは――本当に、その通りの意味だったのではないだろうか。

 信じているから、その気持ちに応えてくれ。
 突然消えたりしないでくれ。

 だとすると、勝手に霊になってしまった灯真は、唯人の一番脆い部分を足蹴にしてしまったことになる。
 気づいた瞬間、信じていた足元が崩れ、崖下に落ちていくような感覚に灯真は襲われた。
 唯人の役に立ちたい、と思っていた。仕事ができれば価値を認められて、傍にいることを許されると思ったから。
 だが、唯人が欲していたものは、きっとそうではなかったのだ。

「……唯人。あたしは……もう、いなくなったりしないから。安心してよ」

 懐かしそうに笑みを深めた夏子が、灯真の体で唯人の頭を撫でた。カウンター越しに伸ばされた手はあまりにも自然な動きで、肉体と中に入っている魂の持ち主が別人だとは、灯真にすら思えなかった。

 自分なんか、いないほうがいい。そのはずだったのに。

 また、間違ってしまった。
 でも、もうどうしたらいいか分からない。
 灯真の焦りに反応し、シェーカーの中に残された氷がバチバチと弾けた。ハッと唯人が頭を動かし、手が外れる。

「悪い……失礼だったな。他の人と灯真を比べるなんて」
「え? 何が?」
「でも、灯真が嫌だったから、これ……」

 シェーカーを手に取り、中を覗いた唯人の目元が優しげに綻ぶ。

「いや……ごめん。ありがとう」
「うん?」

 いまいち噛みあっていない様子のまま、灯真の顔で微笑んだ夏子がグラスに手を伸ばす。一口飲み、不思議そうに首を傾げた。

「なに、これ……酸っぱ苦……アプリコットじゃないの?」
「……え?」

 灯真の皮を被った夏子の言葉に、唯人の目が驚いたように小さく見開かれる。持っていたシェーカーが机の端に当たった。

「いや……甘夏、だけど。バレンシアの……甘夏アレンジ。……覚えてない?」
「え? だって、あたしが飲むのは初めてだもん。へー、甘夏ってこういう味なんだ」
「な、夏子さん……」

 灯真に一瞬だけ視線を飛ばした夏子が、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。ないはずの灯真の心臓が、それを見て壊れたように暴れはじめる。

 夏子は、灯真の振りをするつもりなんて、さらさらない。
 最初から、分かっていたことだった。むしろ、灯真もそれを望んでいた。灯真にはいいところなんてないのだから。
 そう思っていたのに。
 うん、と呟く唯人の顔からは血の気が引いて行っている。ゆっくりと机の上に置いた指先が震え、握りこまれた。

「……どう? 味の感想は」
「うーん、個人的には微妙かな。苦みが強いのってあんまり好きじゃないし、変に甘ったるいし。もっと辛口のがいいな」
「じゃあ……辛口って言うと、ギムレットとかかな?」
「あ! 好き好き! 作れる?」

 やり取りだけ聞けば何もおかしなところはない。だが、灯真の横にいる唯人の表情は、会話を重ねるほど絶望に近づいているようだった。

「唯人? どうしたの?」

 さすがに気づいたらしい。灯真にはあり得ない満面の笑みの、だが灯真のパーツを使った顔が、蒼白になった唯人を覗き込む。
 取り返しのつかないことをしてしまった。
 夏子と――そして、唯人の表情を見て、灯真は直感的にそう思った。
感想 0

あなたにおすすめの小説

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

【完結】恋人になりたかった

ivy
BL
初めてのキスは、 すべてが始まった合図だと思っていた。 優しい大地と過ごす時間は、 律にとって特別で、 手放したくないものになっていく。 けれど……

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
世間に秘された名門男子校・平坂学園体育科 空手の名選手であった高尾雄一は、新任教師として赴任する 高潔な人格と鋼のように鍛えられた肉体 それは、学園にとって最高の生贄の候補に他ならなかった 至高の筋肉を持つ、精神を削られ意志をなくした青年を太古の神に捧げるため、“水”、“風”、“土”の信奉者達が暗躍する 意志をなくし筋肉の操り人形と化した“デク” 消える教師 山奥の男子校で繰り広げられるダークファンタジー

学校一のイケメンとひとつ屋根の下

おもちDX
BL
高校二年生の瑞は、母親の再婚で連れ子の同級生と家族になるらしい。顔合わせの時、そこにいたのはボソボソと喋る陰気な男の子。しかしよくよく名前を聞いてみれば、学校一のイケメンと名高い逢坂だった! 学校との激しいギャップに驚きつつも距離を縮めようとする瑞だが、逢坂からの印象は最悪なようで……? キラキライケメンなのに家ではジメジメ!?なギャップ男子 × 地味グループ所属の能天気な男の子 立場の全く違う二人が家族となり、やがて特別な感情が芽生えるラブストーリー。 全年齢

隣の席のイケメンに懐かれた

しょうがやき
BL
隣の席のイケメンに懐かれた平凡男子の話

冤罪で堕とされた最強騎士、狂信的な男たちに包囲される

マンスーン
BL
​王国最強の聖騎士団長から一転、冤罪で生存率0%の懲罰部隊へと叩き落とされたレオン。 泥にまみれてもなお気高く、圧倒的な強さを振るう彼に、狂った執着を抱く男たちが集結する。

俺は夜、社長の猫になる

衣草 薫
BL
冤罪で職を追われた葵は、若き社長・鷹宮に拾われる。 ただし条件は――夜は“猫”として過ごすこと。 言葉を話さず、ただ撫でられるだけの奇妙な同居生活。 タワマン高層階の部屋で、葵は距離を崩さない鷹宮に少しずつ惹かれていく。 けれど葵はまだ知らない。自分が拾われた本当の理由を。