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20 ほころびは、小さなところから
二人が閉店作業を終えても、まだ空はわずかに明るさを残していた。二階へ引き上げていく唯人と自分の体を動かす夏子にくっついて、灯真も上階へと向かう。
言葉少なに夕飯を終えた唯人は、ずっと上の空で何かを考えこんでいるようだった。
「灯真、久しぶりに……なんか、飲むか?」
やがて唯人が意を決したように立ち上がったのは、そろそろ寝ようかという頃合いの夜更けだった。
横にいたって何があるわけでもない。だが、唯人を追い、身体のない灯真もカウンターの隣に移動する。
「いいの?」
ソファでカフェ向け雑誌のページを繰っていた灯真の体――夏子は、顔を輝かせて跳ねるように立ち上がった。カウンターチェアに座り、きらきらとした目で唯人を見る。
「嬉しい! 何作ってくれるの?」
「あー……うん……」
生返事をしながら、唯人は板氷をアイスピックで割り、シェイカーの中に入れた。注がれたのは、山吹色のカクテルだ。
いつか、雨に濡れて喚いていた灯真に出してくれたものと同じカクテル。だが、あの時のような爽やかな匂いは灯真には感じられなかった。どうやら、この体だと匂いも感じられないらしい。
覗き込んだ灯真から遠ざけるように、唯人が夏子の前にグラスを動かした。そこで動きが止まる。
「……どうしたの?」
「あの、さ……灯真」
視線をさまよわせながら、唯人が指先を引く。一度目をつぶり、覚悟を決めたように開かれた眼は、夏子の入った灯真をまっすぐに見つめていた。
「最近……無理したり、してないか」
「え? してないけど。なんで?」
「いや、なんていうか……ちょっと前から灯真の性格が変わった気がしてて……灯真の中でなにか吹っ切れた、とか、俺の思い過ごしとかなら全然いいんだけど……ここでの仕事とか、俺との暮らしとかが……灯真には辛かったんじゃないか、と、思って」
珍しくつっかえながら話す唯人は、怯えたような表情をしていた。
「この前倒れたのだって……俺が……追い込んじゃったせいだろうし」
「えー、あれは寝不足で眩暈おこしちゃっただけだって」
「うん……それなら、何でもないんだけど」
満足げに微笑んで首を振る灯真の顔に、唯人の表情が泣きそうに歪む。よろけるようにカウンターに手を突いた唯人は、苦しそうに息を漏らした。
「ごめん、ちょっと、今の、灯真……あまりにも……前の、妻に似てて……だから、同じように、灯真まで、俺を捨てていなくなっちゃうんじゃないかって……怖くて」
初めて聞く、細く、折れそうなほどに弱々しい唯人の声が灯真に突き刺さる。
「……あ、っ」
俯く唯人の横で、灯真は声を上げた。
ずっと一緒にいてくれるか、という展望台での唯人の言葉。あれは――本当に、その通りの意味だったのではないだろうか。
信じているから、その気持ちに応えてくれ。
突然消えたりしないでくれ。
だとすると、勝手に霊になってしまった灯真は、唯人の一番脆い部分を足蹴にしてしまったことになる。
気づいた瞬間、信じていた足元が崩れ、崖下に落ちていくような感覚に灯真は襲われた。
唯人の役に立ちたい、と思っていた。仕事ができれば価値を認められて、傍にいることを許されると思ったから。
だが、唯人が欲していたものは、きっとそうではなかったのだ。
「……唯人。あたしは……もう、いなくなったりしないから。安心してよ」
懐かしそうに笑みを深めた夏子が、灯真の体で唯人の頭を撫でた。カウンター越しに伸ばされた手はあまりにも自然な動きで、肉体と中に入っている魂の持ち主が別人だとは、灯真にすら思えなかった。
自分なんか、いないほうがいい。そのはずだったのに。
また、間違ってしまった。
でも、もうどうしたらいいか分からない。
灯真の焦りに反応し、シェーカーの中に残された氷がバチバチと弾けた。ハッと唯人が頭を動かし、手が外れる。
「悪い……失礼だったな。他の人と灯真を比べるなんて」
「え? 何が?」
「でも、灯真が嫌だったから、これ……」
シェーカーを手に取り、中を覗いた唯人の目元が優しげに綻ぶ。
「いや……ごめん。ありがとう」
「うん?」
いまいち噛みあっていない様子のまま、灯真の顔で微笑んだ夏子がグラスに手を伸ばす。一口飲み、不思議そうに首を傾げた。
「なに、これ……酸っぱ苦……アプリコットじゃないの?」
「……え?」
灯真の皮を被った夏子の言葉に、唯人の目が驚いたように小さく見開かれる。持っていたシェーカーが机の端に当たった。
「いや……甘夏、だけど。バレンシアの……甘夏アレンジ。……覚えてない?」
「え? だって、あたしが飲むのは初めてだもん。へー、甘夏ってこういう味なんだ」
「な、夏子さん……」
灯真に一瞬だけ視線を飛ばした夏子が、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。ないはずの灯真の心臓が、それを見て壊れたように暴れはじめる。
夏子は、灯真の振りをするつもりなんて、さらさらない。
最初から、分かっていたことだった。むしろ、灯真もそれを望んでいた。灯真にはいいところなんてないのだから。
そう思っていたのに。
うん、と呟く唯人の顔からは血の気が引いて行っている。ゆっくりと机の上に置いた指先が震え、握りこまれた。
「……どう? 味の感想は」
「うーん、個人的には微妙かな。苦みが強いのってあんまり好きじゃないし、変に甘ったるいし。もっと辛口のがいいな」
「じゃあ……辛口って言うと、ギムレットとかかな?」
「あ! 好き好き! 作れる?」
やり取りだけ聞けば何もおかしなところはない。だが、灯真の横にいる唯人の表情は、会話を重ねるほど絶望に近づいているようだった。
「唯人? どうしたの?」
さすがに気づいたらしい。灯真にはあり得ない満面の笑みの、だが灯真のパーツを使った顔が、蒼白になった唯人を覗き込む。
取り返しのつかないことをしてしまった。
夏子と――そして、唯人の表情を見て、灯真は直感的にそう思った。
言葉少なに夕飯を終えた唯人は、ずっと上の空で何かを考えこんでいるようだった。
「灯真、久しぶりに……なんか、飲むか?」
やがて唯人が意を決したように立ち上がったのは、そろそろ寝ようかという頃合いの夜更けだった。
横にいたって何があるわけでもない。だが、唯人を追い、身体のない灯真もカウンターの隣に移動する。
「いいの?」
ソファでカフェ向け雑誌のページを繰っていた灯真の体――夏子は、顔を輝かせて跳ねるように立ち上がった。カウンターチェアに座り、きらきらとした目で唯人を見る。
「嬉しい! 何作ってくれるの?」
「あー……うん……」
生返事をしながら、唯人は板氷をアイスピックで割り、シェイカーの中に入れた。注がれたのは、山吹色のカクテルだ。
いつか、雨に濡れて喚いていた灯真に出してくれたものと同じカクテル。だが、あの時のような爽やかな匂いは灯真には感じられなかった。どうやら、この体だと匂いも感じられないらしい。
覗き込んだ灯真から遠ざけるように、唯人が夏子の前にグラスを動かした。そこで動きが止まる。
「……どうしたの?」
「あの、さ……灯真」
視線をさまよわせながら、唯人が指先を引く。一度目をつぶり、覚悟を決めたように開かれた眼は、夏子の入った灯真をまっすぐに見つめていた。
「最近……無理したり、してないか」
「え? してないけど。なんで?」
「いや、なんていうか……ちょっと前から灯真の性格が変わった気がしてて……灯真の中でなにか吹っ切れた、とか、俺の思い過ごしとかなら全然いいんだけど……ここでの仕事とか、俺との暮らしとかが……灯真には辛かったんじゃないか、と、思って」
珍しくつっかえながら話す唯人は、怯えたような表情をしていた。
「この前倒れたのだって……俺が……追い込んじゃったせいだろうし」
「えー、あれは寝不足で眩暈おこしちゃっただけだって」
「うん……それなら、何でもないんだけど」
満足げに微笑んで首を振る灯真の顔に、唯人の表情が泣きそうに歪む。よろけるようにカウンターに手を突いた唯人は、苦しそうに息を漏らした。
「ごめん、ちょっと、今の、灯真……あまりにも……前の、妻に似てて……だから、同じように、灯真まで、俺を捨てていなくなっちゃうんじゃないかって……怖くて」
初めて聞く、細く、折れそうなほどに弱々しい唯人の声が灯真に突き刺さる。
「……あ、っ」
俯く唯人の横で、灯真は声を上げた。
ずっと一緒にいてくれるか、という展望台での唯人の言葉。あれは――本当に、その通りの意味だったのではないだろうか。
信じているから、その気持ちに応えてくれ。
突然消えたりしないでくれ。
だとすると、勝手に霊になってしまった灯真は、唯人の一番脆い部分を足蹴にしてしまったことになる。
気づいた瞬間、信じていた足元が崩れ、崖下に落ちていくような感覚に灯真は襲われた。
唯人の役に立ちたい、と思っていた。仕事ができれば価値を認められて、傍にいることを許されると思ったから。
だが、唯人が欲していたものは、きっとそうではなかったのだ。
「……唯人。あたしは……もう、いなくなったりしないから。安心してよ」
懐かしそうに笑みを深めた夏子が、灯真の体で唯人の頭を撫でた。カウンター越しに伸ばされた手はあまりにも自然な動きで、肉体と中に入っている魂の持ち主が別人だとは、灯真にすら思えなかった。
自分なんか、いないほうがいい。そのはずだったのに。
また、間違ってしまった。
でも、もうどうしたらいいか分からない。
灯真の焦りに反応し、シェーカーの中に残された氷がバチバチと弾けた。ハッと唯人が頭を動かし、手が外れる。
「悪い……失礼だったな。他の人と灯真を比べるなんて」
「え? 何が?」
「でも、灯真が嫌だったから、これ……」
シェーカーを手に取り、中を覗いた唯人の目元が優しげに綻ぶ。
「いや……ごめん。ありがとう」
「うん?」
いまいち噛みあっていない様子のまま、灯真の顔で微笑んだ夏子がグラスに手を伸ばす。一口飲み、不思議そうに首を傾げた。
「なに、これ……酸っぱ苦……アプリコットじゃないの?」
「……え?」
灯真の皮を被った夏子の言葉に、唯人の目が驚いたように小さく見開かれる。持っていたシェーカーが机の端に当たった。
「いや……甘夏、だけど。バレンシアの……甘夏アレンジ。……覚えてない?」
「え? だって、あたしが飲むのは初めてだもん。へー、甘夏ってこういう味なんだ」
「な、夏子さん……」
灯真に一瞬だけ視線を飛ばした夏子が、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。ないはずの灯真の心臓が、それを見て壊れたように暴れはじめる。
夏子は、灯真の振りをするつもりなんて、さらさらない。
最初から、分かっていたことだった。むしろ、灯真もそれを望んでいた。灯真にはいいところなんてないのだから。
そう思っていたのに。
うん、と呟く唯人の顔からは血の気が引いて行っている。ゆっくりと机の上に置いた指先が震え、握りこまれた。
「……どう? 味の感想は」
「うーん、個人的には微妙かな。苦みが強いのってあんまり好きじゃないし、変に甘ったるいし。もっと辛口のがいいな」
「じゃあ……辛口って言うと、ギムレットとかかな?」
「あ! 好き好き! 作れる?」
やり取りだけ聞けば何もおかしなところはない。だが、灯真の横にいる唯人の表情は、会話を重ねるほど絶望に近づいているようだった。
「唯人? どうしたの?」
さすがに気づいたらしい。灯真にはあり得ない満面の笑みの、だが灯真のパーツを使った顔が、蒼白になった唯人を覗き込む。
取り返しのつかないことをしてしまった。
夏子と――そして、唯人の表情を見て、灯真は直感的にそう思った。
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