Fraterー育まれた歪みー

槇木 五泉(Maki Izumi)

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 窓の外では、しとしとと雨が降っていた。

 六月の曇り空の下、花嫁が最も幸せになれるという季節、窓の外に広がる世界は一面に雨で滲み、人も、建物も、緑も、全ての物体を形作る色彩が交じり合ってひとつになろうとしている、そんな風にも見える景色が展開されていた。


 マンションの十階にある一室からそんな風景を眺め、雅臣まさおみは緩やかに眼を瞑った。
 もう直ぐ、この部屋に『彼』がやって来る。


 程なくして、予測は現実となった。
 慌しくキーを回す不器用な音と共に、重たい鉄のドアが乱暴に閉ざされる音が聞こえた。靴を脱ぐのももどかしい、といった風情で慌しい足音がリビングルームに近付いて来る。

 「雅臣…!」
 

 六月は、幸せな花嫁が誕生するという麗しい季節。
 雨に溶ける景色が大好きだという風変わりな趣向を持つ雅臣と彼にとって、最も好ましい筈の季節。

 それなのに、何ゆえ彼はこんな酷い剣幕で佇んでいるのだろう?

 きちんと着込んだスーツを濡らし、雨水の滴る髪を乱し、白蝋の様な顔色で、唇を震わせて。
 少しだけ焦茶の強い穏やかな双眸に、かつて目にしたこともない怒りと絶望とを湛えて、わなわなと震える拳に雨を吸い込んだ紙切れ一枚、無造作に握り締めて。

 雅臣が佇んでいるリビングの入口に佇み、彼はそんな鬼気迫る形相で雅臣を睨み付けていた。

 「お帰り、文哉ふみや。」

 彼、文哉の尋常ならぬ様子を綺麗さっぱり無視して雅臣は穏やかに笑う。

 「傘、忘れて出たのか?お前らしくもないな。」
 「そんなことどうだっていい!…雅臣、お前、知っていたんだろう…?なあ!」

 動じない雅臣の様子は、文哉の中にとある確信を結んだらしい。強張った表情でつま先が弾かれたように床を蹴り、大股で雅臣に詰め寄ってくる。

 こんな文哉の様子を見たのは、これが初めてだった。日頃から負の感情を表に出すのを嫌い、口許に微笑を絶やさない物静かな雰囲気を纏った文哉は、六歳年下の男恋人である雅臣に対して怒りという感情を示したことがほとんど無い。

 五年前、雅臣が二十五歳の時に運命の出会いを果たしてから恋人として正式に付き合い始め、互いの性別ゆえに正式な結婚が出来ない代わりに、養子縁組という手続きをしようという今に至るまで、文哉は年下の恋人には甘く、大概の我儘は笑って受け止めてくれていた。
 一人っ子の家庭に寂しく育ったという文哉は、かねてからずっと弟が欲しいと思っていたのだという。もし自分に弟がいれば、一緒に遊び、何でも教え、思いきり可愛がっていたものを、と。

 であるから、出会いの時はストレート嗜好だった文哉を半ば強引に口説き落として恋人という位置に据えた雅臣の、その向こう側に弟という存在の影を見て、年上の威厳を保ちながらも目一杯に甘やかし、彼なりに庇護してきたのだろう。


 そんな文哉の初めての激昂を目の当たりにして、雅臣は薄く口の端を引いて冷然と微笑った。

 「何のこと?」
 「とぼけるな!何なんだよ、これは…!」

 絶望と困惑、そして怒りに彩られた文哉の目は微かに潤みを帯びていた。やや低い位置から長身の雅臣を見上げ、唇を震わせて言葉を探している。
 
 その拳が胸倉を掴んで引き据えた時、遂に雅臣は眉間に皺を寄せ、その手首を握り込んで緩めようとした。

 「だから、何のことを言っているんだよ。」
 「ふざけるなよ…!…お前、これを知っていたんだろう?知っていて、それで俺を役所に行くように仕向けたんだろう…?いっそ見なけりゃそれで幸せだったんだ、こんなモノ!」

 片手に握り締められ、原形を留めない程くしゃくしゃに濡れて歪んだ一枚の紙切れ。それを雅臣に突き出しながら、文哉は尚も声を張り上げる。片手の拳で雅臣のシャツを握り締めたまま、その紙切れを力任せに床に叩き付けた。
 半ば泣き声に近い、絶望まみれの怒声が部屋中に反響する。


 「お前と俺は、兄弟じゃないか!…血を分けた、実の兄弟なんじゃないか!」


 床の上には、握り潰された戸籍謄本が無残に絡まって打ち棄てられていた。
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