塩と水とその器

望凪

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第二章

意外(二)

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 二人がプールから上がる。
 無言でダウンに行こうとする佐々倉さんを、迷惑女が呼び止める。

「佐々倉さん」
「……なに」

 忌々しそうに迷惑女を睨む。
 そんな佐々倉さんに対して、何を思ったのか、迷惑女は深々と頭を下げた。

「生意気言ってごめんなさい。こんな弱いクセして」

 淡々と、そう謝罪した。さっきの苛立ちはどこへやらといった具合に。

「ボクは勝負に負けた。だから約束通り、退部するよ」

 さらりと風が吹いたみたいにそう言ってのけ、佐々倉さんの横を素通りした。……陰で固く拳を握っていたのを、私は見逃さなかったが。
 スタスタと歩いて、このプールを去ろうとした。
 しかし。

「待て……」

 静止の声。もちろん佐々倉さんだ。
 聞こえているハズだが、アイツは聞く耳を持たない。

「待ちなさいってばっ!」

 発火のごとき勢いで迷惑女の後を追い、その肩をひっつかんだ。
 一週間前と同じ、一触即発の空気。それを察知したのか、硝さんが急いで駆け寄ろうとする。

「なにさ」

 迷惑女が睨み返す。いっそ、佐々倉さん以上に剣呑だった。

「このままむざむざ去るなんて、私は許さない」
「だから?負けは負けじゃんか」
「そもそも、始めから勝負になんかなっていなかったのに、負けも何もないでしょ!」
「でも勝負は勝負だから。自分で言ったなんだから、その責任は取らないと————」
「うるさい、黙れ!」

 迷惑女の声を遮るように、佐々倉さんの怒号がプール中を木霊した。

「才能見せびらかすだけ見せびらかして、私から逃げようとするんじゃないわよ!!」
「……なに言ってんの?」
「うるっさい……。自分でも変だって分かってるわよ……。でもね。アンタのその才能、軽率に捨てるなんて私が許さない!!そんな恵まれてるクセに、熱意だってあるクセに……水泳から逃げようとするなっ!!!!」
「はぁ!?逃げてないし!勝負は勝負だって言ってんじゃん!!負けたらここを去るって条件でやって、事実敗れた!!だからここから消えるって話でしょ!?」
「だからそれを私が認めないって言ってるのよ!条件を提示した、私が!」
「ああもう、るっさいな……!てか、なんでアンタがボクのこと引き留めてんの!?邪魔だって話どこいった!?」
「知らないわよ!!そんな昔のこと忘れた!!」

 見る見る間に口喧嘩に発展した。
 なんかこう、見るに堪えないというか。理解しがたいというか。私含めて皆、呆気に取られていた。

「ていうかアンタ、塩原翔を倒すんじゃないの!?アレは単なる出まかせだったワケ!?」
「そんなわけないでしょ!!大マジだっつーの!!」
「だったら何があったって喰らいつきなさいよ!!そんな腑抜けに、私の獲物は渡さないって話でしょうが!!!!」
「だれが腑抜けだよ!!つかよくわかんないけど、どうしてそんなボクに構うのさ!他人のことなんかどうでもいいでしょ!!」
「——————は?」

 途端、佐々倉さんが静まり返る。ごうごうと燃え上がっていた炎が、突如としてどこかへ消えたかのように。

「……なるほどね。天才っていうのは皆そうなんだ」

 佐々倉さんはくるりと背を向ける。さっきまでの勢いが嘘のようだ。

「ああ、もう。好きにすればいい。他人のことなんてどうでもいい……だもんね。けどね—————」

 心底悔しそうに。本当に自分が勝負に負けたかのように、苦々しくこう続けた。

「私はアンタを、邪魔だとは思わない」

 それだけ言い残して、佐々倉さんはプールに飛び込む。粛々とダウンを泳ぎ始めたのだ。
 ぽつんと取り残された迷惑女は、しばらく呆然と立ち尽くしていた。だがやげて不服そうにしながらも、こっちに戻ってくる。

「意味わかんねー……」

 迷惑女がぼそっと呟く。誠に不服ながらも、同じ感想である。
 そういえば、少し気になったことがある。

「なあ、迷惑女」
「……なにさ?」

 なんか青筋立ててるけど私は気にしない。

「さっき、他人のことなんてどうでもいいって言ってたけどさ」
「ん、あー。まあ」
「私のこと倒すとかなんとか言ってなかったっけ、お前」

 他人のことなんてどうでもいいって言うなら、私のこともどうだっていいのでは。
 なんの気なしに聞いた質問だったけど、迷惑女にとってはそうではなかった。

「翔だけは特別」

 とびきりの笑みでそんなことを言われた。もちろん友愛に満ちたソレじゃなく、抜き身の刀みたいな敵意も込みで。

「なんで……」
「今まで会った人間の中で、いっちばんムカつくから」
「なんだそれ……ホントに」
「知らんけど、佐々倉さんも似たようなもんなんじゃない?」
「…………」

 そんなわけない……と否定できないのがなんとも。佐々倉さん、ボクに対しても忘れていたのとは別に、何か怨みがあるみたいだし。

「とりあえず……なに。残当なの、お前?」
「みたいねー。納得いかないけど、翔を倒すって目標もあるし仕方ない」
「どうでもいいけど。大口は実力つけてから叩け」
「うるっさ。そんなだから友だちいないんだぞー、しょーちゃん」
「黙れ、迷惑女」
「ほいほーい」

 人を小馬鹿にしたテキトーな返事。そのままプールに入水してダウンをし始めた。
 

「…………」

 アイツと接していると、忘れそうになる。水泳は一人のスポーツだということを。
 チームメイトはいない。対戦相手もいない。必要なのは己が鍛え上げた身体と技術のみ。それだけが、結果を反映する。
 水泳というスポーツはつまり。自分自身を極限まで研ぎ澄ませた人間が勝つスポーツだ。

 だから私には、他者なんていらない。
 だっていうのに、アイツは割り込んでくる。
 視界の隅にも映らない格下が、ボクはいるぞと主張してきやがる。私に勝つだなんて絵空事が、少しずつ実態を帯びていく。

「まったく忌々しい……」

 深く息を吸い、吐き出す。
 これですっぱり切り替わるわけじゃないけど、少しは苛立ちも収まる。


 何はともあれ、騒動は過ぎ去った。
 アイツへの気の迷いも、もうこれまでだ。
 私は、夢に向かって泳ぎ続ける。私は私に専念する。そうすることでしか、頂点へはたどり着けない。
 まずはインターハイ。
 誰もかれもを置き去りにして、私が高校生で一番になる。
 言い聞かせるように、そう心の中で強く念じるのだった。
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