冷たい唇

紀雪

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伝説の男

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ただ、ただ前だけを向いて。

そう言われて、彼は走った。
私の前から逃げるように、泣きながら…

あの光景は、いつの物だったか。
すぐに私は夢を見ているのだと、理解した。
いつもそうだ。長い事寝ていると記憶の混濁が激しい。
主の顔も声も忘れて、その時、その時代の1番印象が強かった時の思い出ばかり思い出してしまう。
それがいい思い出であれば、いいのだけれども。
大抵は、私が"死ぬ時"の情景だ。
後味が悪い事、この上ない。

確か、この時は味方の援護が来ず、救援も間に合わないと無線で知らせがあった時だ。
主の絶望は、火を見るよりも明らかだった。
玉のような脂汗をかいて、下を向いて、うなだれてしまった。
瞳の焦点もあっていない。
主は、裏切られたのだ。

「主…」
私は直様言葉を濁し、慰めの言葉を言わなかった。ただ、往けと行った。

「ここで、待っていても仕方ありません。ここから別々の道を行きましょう。その方が、また勝機が見えます。」


「何を言ってる、お前まで…」

「主、ここにいたら恰好の的です。相手の武器に狙われたらひとたまりもありません。私とて何尺も離れた場所からの鉛の弾に受け切れる自信はありません。情けない話ですが…。
一先ず、ここは離れ次の手を打ちましょう。
離れ山の本陣に向かって下さい。あそこなら人も食料もありますから。」

「なら、お前も一緒に!」

「いえ、一緒では敵に見つかりやすくなります。お互い別々に足跡を残し、敵を錯乱させるのです。
お早く!迷ってる時間はありません!私もすぐに向かいますから!」

「お前…」

「主、ただ前を向いて。振り返ってはなりません。ただ、ただ前を向いて走って。」

彼は走った。
私の主の中で、誰よりも若く二十歳で戦に出た。共に駆けた戦場は十あまり。あまりに少なかった。
彼が生き残って本陣にたどり着いた話は、それから200年後の歴史書で知った。
その時、どれほど安堵した事か。
彼の人生は、簡単な文章でしか読み取れなかったが無事長寿を全うしたようだ。その人生も平穏と行かなかったようだが。

ただの歴史書を指でなぞる。
自然と頬が緩んだ。
私が安心した表情を浮かべていると、それを不思議そうに眺める今の主殿の顔があった。
まるで、子供の安否を確認したような親のような顔だったと言われて、私は驚きつつも、ストンと納得してしまった。
確かに、私は多くの主を見送り、多くの主に仕えてきた。
全てが私の親であり、友であり、子供たちだ。

そして、ここに新たな主がいて、彼もまた、私の親となり、友人となり、子供となる。

「そういえば、お前の名前聞いてなかったな。なんて呼べばいい?」

「なんなりと、貴方が呼びたいように。私は、貴方の手足でございます。
ご命令を、主殿。」

私は、彼の刀であり、彼の盾となる。
付喪神、人びとは私をそう呼んだ。長年、人に使われた道具が命を授かって呼ばれる者たちの名称だが、私は違う。
人として生まれ、火の神に呪われて刀となった。主人に仕えてこそ、その姿を取り戻せる呪いだ。
私は、主人を転々とし時代を見つめてきた。
今は、刀など必要ない時代でむしろ時代遅れと言われる。
刀に代わり、銃と呼ばれる火縄銃の進化したものが主流らしい。
この新しい主が、私にすぐ飽きなければいいが…。

「手足…うん、嫌だな。」

「…嫌、とは?」

「俺は、お前に俺の相棒になって欲しいんだ!俺が右を向いたら、右を向くんじゃなくて。左を見て、俺の敵を倒せ。俺も、お前の背中を守る!...意味分かるか?」

意外な提案だった。
驚きの余り、何度も瞬きをしてしまった。
相棒…不思議な響きだった。
主が私の両手を握る。

「俺の名前は、陽太。お前は、お前自身で名乗れ。そんで、俺と来い!世界を変えるぞ!」

満面の笑みで、私に語りかける男は、主人ではなくなった。
私は、うつむき頬を伝う雨を隠した。

「かつて、私は…✖️✖️と呼ばれていた。それが、気に入っています。」
「そうか、✖️✖️!よろしくな!」

✖️✖️の姿は、よろしくと伝え終わると刀の姿に戻った。
刀には、一筋の水滴が滑る。
陽太は、満足げに刀身に映る自分の顔を見つめた後、鞘に刀を仕舞った。

「2×××年、○月△日、木曜日!
俺の伝説が、今、始まる!」
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