夜明け待ち

霞たなびく

彼女の話 Ⅱ

私は気がつくとバスに乗り込んでいた。何も考えられず乗っていると、いつの間にか皐月公園前バス停に着いた。
「…また、乗り過ごした」
だけど家にも帰りたくない。何もしたくない。私はぼんやりと前に訪れた『黎明堂』という名の雑貨店を思い出した。魔法の、雑貨屋さん。

ふらふらとした足取りで木の階段を上る。相変わらず生えている可愛いキノコ。屈んで指で突っつくとやわやわと揺れる。
「かわいい、なぁ」
そのキノコがどうしようもなく愛しく思えて、また泣けてしまいそうになる。ぐっと唇を噛み頭を振る。私はそのまま階段を上っていった。
前と変わらない、一見無機質なコンクリートの外壁。窓から漏れるオレンジの光。扉には「open」の札がかかっていた。ノブに手をかけ、ゆっくり開ける。
「いらっしゃいませ。…あ」
店内には前と変わらないあのイケメン店員さんがいた。彼は何か作業をしたまま半身でこちらを振り向き、僅かに目を見開いた。そのオリーブ色の瞳は相変わらず綺麗だ。
「こんにちは。この前ぶりですね」
低く紡がれたその言葉に、心臓が脈打った。
「えっ…私を覚えててくれてたんですか。…それは、お茶でしょうか？」
私は、続いて彼の手元のポットに目を向けた。店に入ったときから花のように甘い良い香りが漂っており、とても美味しそうだったのだ。
「はい。今日は、カスミ草を混ぜた紅茶です」
思いがけず現われた自分の名前に驚き、間抜けな声が出てしまう。
「どうかしましたか？」
「あ、すみません。私の名前が『かすみ』なので、驚いてしまって…」
すると彼は、あぁといった具合に頷いた。
「なるほど。…そういえばそうだったかもな…」
「えっ？」
「…いや。何でもないですよ。良ければ席に座ってください。この紅茶とクッキーでもお出ししますよ」
「ありがとうございます！…いくらですか？」
「別にお金はいらない。普通にお茶していってください」
やっぱり不思議な人だ。私は素直に頷き椅子に座った。柔らかくて座り心地がいい。間もなくカウンターから、ティーカップとクッキーが差し出された。うさぎの形のクッキーが可愛らしくて笑みが浮かぶ。口に含むと不思議な感覚に囚われた。胸がじんわりと熱い。その熱は喉までせり上がってくる。
「これ…」
すると、目の前に白いハンカチが差し出されていた。訳が分からず、差し出した張本人である店員さんを見返す。
「大丈夫ですか？」
柔らかい低い声。頬に触れて気がついた。ぐしょぐしょだったのだ。私の目からは絶え間なく涙が流れ落ちていた。
「あれ、？すみ、すみません。私…」
慌てて目をこすろうとすると、少し冷たい大きな手が私の手首を優しく掴んでいた。
「こするのは駄目だ。ハンカチ、使った方がいい」
されるがままにハンカチで目を押さえた。でも、止まらない。それどころかせり上がる熱はどんどん質量を増し、嗚咽が漏れ出した。最早これは大号泣だ。
「私っ…ごめんなさい…ごめんなさい、あの」
「謝らなくても良いですよ。ちゃんと出し切った方が楽になる」
敬語とタメ口を混ぜて話す不思議な店員さん。魔法道具ばかりを売る不思議な店。私はそんな奇妙な状況に何故か安心してしまった。もう我慢できなかった。全部を吐き出すように泣き喚く。
「違うんです。皆の、友達をとる気なんて無かったんです！気を遣って貰おうなんて思ってないんです！で、でもっ…結局私のせいでまた人を傷つけてしまった。私はっ…人との距離が分からない欠陥品だから。もうあんな思いをさせたくなかったのに…！」
支離滅裂な言葉が汚濁のように漏れ出す。そんな私を店員さんはオリーブ色の瞳でじっと見つめていた。優しい手つきで手首に触れたまま。
「…かすみ」
不意に低い声がゆっくり呟いた。そっと顔を上げる
「この黎明堂は、魔法に満ちた雑貨店。悩みを持つ者や傷ついた者がたどり着く場所」
つらつらと紡がれる言葉。
「君の悩みを解決しよう。1匙の魔法を添えて」
くすんだ緑の瞳が淡く光った気がした。


〈黎明堂　雑貨メモ〉
『あ（ったか）に（っこり）ま（っすぐ）る（んるん）クッキー』：
　　あにまるクッキー。食べた人の心にプラスの影響を与える

『カスミ草のハーブティー』：店主オリジナルメニュー。人の気持ちをほぐしたり、適切にストレスを洗い流させたりするリラックス効果とデトックス効果を含む