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縁国〜ニルヴァーナ・アーカーシャ〜

縁国〜ニルヴァーナ・アーカーシャ〜

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☕️

燃えるように熱い。

激しい痛みと同時に皮膚が焼けていく。

煉獄のマグマに飛び込んだから数秒して、徐々に意識が遠のいていくのがわかった。

もう駄目だと思ったとき、耳元で声が聞こえた。

「縁国で待ってる」

はじめて聞く声ではない。どこかで聞いたことのある声。懐かしさも感じるが意識が朦朧としていて誰かはわからない。

これは臨死体験か何かだろうか?

縁国で待っているってどういう意味だ?

くそっ、頭が回らない。

数秒後、意識を失った。

**

ここはどこだ?

俺はたしかにマグマに飛び込んだ。

変な白髪の爺さんと話して自らの意志で飛び込んだ。

あんなに熱くて皮膚が焼けていったはずなのに何ともない。

足元を見ると雲海の上に立っていた。

驚いて片足を上げたが下の景色は見えず白一色だった。

しかし体は軽い。
重力とは無関係の世界なのだろうか?

トマムの雲海か、それとも長野のソラテラス?

もしくは長い夢でも見ているのだろうか?

ただ、ここから見える景色はとても綺麗だということはわかった。

身体を包み込むかのように絶え間なく広がる空と雲。
無数に浮かぶ青い光。
遠くに見える巨大な樹。

まさかメタバース?

もしくは新しいアミューズメントパークか何かかも。

最近地元の近くでも再開発が進んでいて、新しいエンターテインメントがどんどん増えているし、何らかの拍子にやってきたのだろう。

まぁそのうちわかるっしょ。

恐怖心を消すために言い聞かせたわけではないし、一切の剣呑けんのんもない。

ひとまずあの大きな樹を目指すことにした。

徐々に近づいていくとそれはヒノキだということがわかった。

その幹は想像よりもはるかに大きく、両手を広げても幹の半分にも届かないほど太かった。

「これはハイペリオンっていうの」

声のする方を向くと、白いワンピースを着た赤く長い髪の女性が立っていた。

小麦色に焼けた肌や手首に刻まれている謎の刻印が主張してくる。

首元に見えるタトゥーとちょっとギャル風の見た目に驚きつつも、他人のことを言えない自分の見た目に1人心の中でツッコミを入れる。

「ハイペリオン?」

「えぇ。この世界のはじまりの樹とも言われているの」

まるで雲の上から生えてきたかのようなこの樹はゴールの見えない道のようにどこまでも高く聳え立っている。

それにしてもこの子大丈夫か?

はじまりの樹ってゲームの世界じゃあるまいし。

アニヲタか?
中二病か?

「きみ、病院行く?」

「失礼ね、本当のことを言っているの」

やはりヤバイ子だ。

これは関わらないでおこう。

「私は涅槃師の棠棣はねず アキレア。堅苦しいのは苦手だからアキレアでいいよ。雪落 慶永さん、今日からあなたを担当することになったのでよろしく」

頭の上にクエスチョンマークがたくさん浮かぶ。

目の前に現れたギャル風の子が涅槃師だの担当だの訳のわからないことを言っている。

俺の名前を知っていることも怖かったが、それよりもここがどこなのかが気になった。

「えっと、アキレアさんでしたっけ?ここはどういうイベントがあるの?」

「あなた何を言ってるの?アタオカなの?」

誰がアタマがオカシイんだよ。

「言っとくけど、これは夢でもなければ異世界でもなく、死後の世界だからね」

死後の世界?

なるほど、そういう設定なのか。

面白い。乗っかってやる。

「死後の世界ってことは俺は死んでしまったわけか?」

「えぇ、残念だけど」

でもちゃんと意識があるし、身体も異常はない。

やっぱり嘘だ。

もしこれが現実だったとしてもこの状況を理解するには時間がかかりそうな気がした。

人は頭の中で想像したものをベースに行動している。
だから未知なるものに対してひどく警戒し恐怖するもの。
パンデミックや幽霊などのように。

しかし、形而上けいじじょうのものはなかなか信憑性がなく証明されにくい。

だから俺は自分の見たものや感じたものを信じるようにしている。

「最初はみんなそういう顔をするよね。1つずつ説明するから」

「お、おう」

心の中を読まれたような気がしてキレの悪い返事をしてしまった。

「ここは、死ぬ直前に何かしらの未練を残して亡くなってしまった死者の魂を浄化させて天国へと送るためのニルヴァーナという世界で、別名『縁国』って言われているわ。死者の魂を浄化させることを『涅槃』と言って、私たち涅槃師が死者の魂の浄化を手伝ってるの」

なんだ、このアニメの第1話みたいな展開は。

ふと頭の中であるものが浮かぶ。

これって以前読んだ本の世界じゃ?

「あなたも煉獄の炎を浴びてきたのよね?」

「あぁ、死ぬほど熱かった」

「あの炎で未練や邪念は消えた?」

完全に消えたかどうかは正直わからない。

そもそも熱すぎてそれどころじゃなかったし。

未練や邪念は心の奥底に潜んでいる可能性もあるし、それに完全に消えるものではないと思っている。

「誰だって生前の未練や邪念はあるだろ?」

「えぇ、完全に消えることはないわ。だけど、天国に行くにはその思いは消さないと行けない。かと言って煉獄の炎だけじゃ消えない。だからそういった魂をこの縁国で浄化するってわけ」

「だったら何のためにあの炎がある?」

「あの炎はね、生前のけがれを消すためにあるんだけど、あくまで形式めいたものでしかなくて、魂が浄化されるわけではないの」

あんなに熱い思いをしたのに。

死んだら天国か地獄しかないと思われているのが一般的だが、この子の話が本当ならここは天国への階段ってことか?

でもまだ信じがたい。

それもそのはず。

死んだ後のことなんて誰にもわからないからだ。

「じゃあここは新しいアミューズメントパークじゃないの?」

「ここには死者しかいないわ」

でも身体は動く。
これは一体どういうことだ?

ちゃんと意識もあるし会話もできている。

「じゃあこの肉体は?」

「本当の身体は火葬されていてもう存在しない。その身体は天国へ送り出すまでの間に宿る仮初かりそめの姿。肉体がないと魂の浄化に支障をきたす可能性があるから、こっち側で忠実に再現させてもらったの」

「俺、本当に死んだのか?」

「信じられないのも無理はないわ。最初はみんなそうだし、死後の世界があるなんてみんな空想の話だと思ってるしね」

死んだということを理解している時点で死んでいるとは認識しがたいが、ここが悪趣味なエンターテインメントの世界ではないことを願う。

それに俺の身体。眼鏡も顎髭もあるし、深爪までも生前のままだ。
せっかくなら二重の爽やかイケメンにしてほしかったとも思うが。

ただ、このスマートウォッチだけがわからない。

こんなの持っていたっけ?

思い出そうとすると頭痛がする。

左手に刻まれた謎の数字も気になる。

こらは何を意味するのだろうか。

わからないことが多すぎる。

「素朴な疑問なんだけど、死んだら感覚もなくなるし、考えることすらできなくなるよな?だったら浄化も何もないんじゃないか?」

「人はね、死んだら終わりじゃないの。肉体が失くなっても魂は残り続ける。その魂が消えるときにどんな状態かが重要なの。白か黒か赤か青か」

空想というか幻想というか、魂に色があると言われてもいまいちピンとこなかった。

「天国へ行くときは白、地獄は黒、煉獄は赤、そして縁国ここは青。もちろん状態にのって変化するけどね。でも、人の姿をしているときは魂の色は見えないの」

魂にも意志のようなものがあるということだろうか?

だとしたら心霊現象などはどういう原理なのだろうか?

死んでいるからいまさら気にしても仕方ないのだが。

「ちなみに雪落くんのいまの色は透けそうなくらい薄い青よ」

あれ?いま見えないって言ってませんでしたっけ?

しかも透けそうなくらい薄い青って何?

「テキトーに言っただろ?」

「私ね、出会って間ない状態の魂の色が一瞬だけ見えるの」

なんだその特殊能力は?

こんな摩訶不思議な世界じゃ何でもありな気もするが、死後の世界というより異世界に来た感覚だった。

「煉獄からやってくるときってだいたい紫っぽい色をしていてそこから徐々に変わっていくんだけど、あなたはとくに『生きる』ってことに対しての執着心が強くて欲深かったみたいだから透明に近い青だったみたい。そんな人は怨念として地上に残ってしまうことがあるから、そういう魂を少しでも浄化して天国へ送るために私たちがいるの」

じゃあもしこの世界に送られていなかったら、怨念として地上で彷徨い続けていたってことか?

想像したらちょっとゾッとした。

限りなく透明な青ということは、現世の生き霊たちはきっと透明な魂なのだろう。

「きみたちも塩爺と同じように誰かに作られた存在なのか?」

「いえ、私たち涅槃師は全員元人間よ。訳あって涅槃師になっているの」

訳あって?
他人の事情をいちいち気にしていたら神経が持たないし、この疑問符だらけのベルトコンベアをすべて処理しようとしたらキリがない。

怪訝な表情を浮かべていると、

「詳しくはこの世界を案内しながら説明するわ」

アキレアは俺をいざなうように歩き出した。

「そうそう。確認だけど、雪落くんの浄化の条件だけど」

条件?

「私がもらっていたデータでは『ご両親に再会すること』ってなってるけど合ってる?」

嘘ではないが合ってもいない。

俺には恋人がいた。

結婚を考えていた人がいた。

それなのに顔も名前も声も思い出せない。

思い出そうとするとなぜか激しい頭痛がする。

感覚的なことだが、その人は会わない方が良い気がする。

会ったら後悔しそうな気がするから。

「そうだよ、死んだ両親に再会することだよ」

俺の両親は若いころに亡くなっている。

それからはずっと孤独と闘ってきた。

押し潰されて生きることに疲れてしまいそうな日もたくさんあったけれど、友達や職場の人に支えられてなんとかやってこられた。

「で、どうすれば両親に会える?」

「まず質問させて」

アキレアは左手に刻まれていたを曼荼羅まんだらの刻印に右手を翳し、何かを唱えた。

すると、その刻印からプロジェクションマッピングのようなものが現れ、それを見ながら質問してくる。

「お父様の名前は幸寧ゆきやすさん。お母様は由乃よしのさんだったよね?」

少し疑問を抱きながらも軽く頷く。

「俺のことどこまで知ってんの?」

「ほとんど知ってる」

口角を上げながらそう言うアキレアに少しの恐怖心を覚えた。

「雪落 慶永さん。東京都出身。2月生まれのA型。身長175cm、体重65kgの胃下垂会社員。お兄様がいるけど行方不明で音信不通。元野球部でちょっと中二病。趣味は読書と音楽鑑賞。カナヅチの中二病。コーヒーが好きで牡蠣が苦手。可愛い子より美人が好き」

胃下垂会社員って何だよ。それに中二病だけ2回出てきた気がするんだが。

この世界に個人情報保護法はないのか?

「浄化には例外があるの」

「例外?」

「自分自身が亡くなったことを理解しきれずに魂だけがここにやってくるパターンがあるの」

「でも本当に死んだのなら五感のほとんどが機能してないはずだよな?」

「そこは人によって差があるわ。生前と変わらずに敏感な人もいればそうでない人もいる。とくに小さな子供やシニアの人たちは自分が亡くなったってことを受け入れられてない人が多いから、五感に意識が向けられていないことがよくあるの」

日本の1日の平均死者数は約3000人と言われている。

そのうちの約8割がこの世界に送られてくるらしい。

「もちろんこの世界には死人しかいないから世には存在すら知られていないわ」

「でもほとんどの人が未練を残して亡くなっていくんじゃ?」

「案外そうでもないの。死んだことを受け入れた瞬間に消えて無くなる人もいるし」

死という感覚は生きている間はわからない。

しかし、いずれ死にゆく命。
終わりが見えた時点で割り切れる人もいるのだろう。

「ちなみに魂がこの世界に滞在していられるのは7日間だけだから」

7日間だけ?
それは長いのか短いのかわからなかった。

「7日間を過ぎても浄化されなかった場合はどうなるんだ?」

「こうなるわ」

アキレアが見ている場所と同じ方を見遣みやると、吊るされたマリオネットのように青い球体がいくつも上下にぷかぷかと浮かんでいる。

「この霊魂たちは感覚や意思、概念すらなくなり、天国にも行けずに永遠にこの世界を漂い続けるの」

「全員が般涅槃はつねはんになれるわけではないってことか」

「そうね、理想は全員そうしてあげたいんだけど、死者ごとに魂の浄化の条件が違うからね」

規則的に動く無数の青い霊魂たちたちは何か鬼哭啾々きこくしゅうしゅうとしているようにも感じられた。

「左手を見てみて」

唐突に言われたが反射的に自分の左手を見た。

手の甲には数字の“7”が刻まれていた。

煉獄にいたときはたしかになかった。

「これは?」

「あなたがここで肉体を宿せられる日数よ。この数字が“0”になったらもう浄化できる可能性はなくなるからね」

そうなれば俺もこの霊魂たちのようにただただ漂い続けるだけになる。
地獄に行くよりはマシだが、どうせなら天国へ行きたいと思うのが普通だろう。

「ちなみにきみはいつからここに?」

「いつからだろうね、よく覚えてない」

涅槃師になれば寿命とかそう言った概念はなくなるのだろうか?

一度死んでいるとはいえ、もう一度死ぬのは正直怖い。

もし涅槃師になれれば意志を持ったまま、肉体を持ったままでいられるはず。

「涅槃師になるにはどうすれば良い?」

「あなたは無理」

「なんで?」

「いい人すぎるもの」

褒められている?
それともけなされている?
いい人すぎるとはどういう意味だろう。

「浄化させるにはときに非情さも必要よ。中途半端な対応じゃみんな報われずに終わってしまう。それに、私たちには生きているときに一度『死んで』いる。あなたのように人のために生きられる人は向いていないわ」

生きている間に死ぬということの意味が理解できないまま立ちすくんでしまった。

「あなたはここでちゃんと報われるべき人だから」

報われるべき?俺が?

「ご家族以外に会わなきゃいけない人がいるんでしょ?大丈夫。私が全力で手伝うから」

家族以外に会わなきゃいけない人。
お世話になった会社の先輩や親友には別れの挨拶ができなかった。

腕にしていたスマートウォッチに目をやると激しい頭痛がした。

まただ。

大脳皮質も海馬もフル回転しているが何も思い出せないままその場に蹲る。

「ちょっと、大丈夫?」

「あ、あぁ」

死んでいるはずなのに頭痛がするって一体どうなってんだ。

しばらくすると痛みは和らぎ、ゆっくりと立ち上がる。

もう大丈夫と言って歩き出す。

程なくしてアキレアが唐突な質問をしてきた。

「雪落くんさ、何歳まで生きるつもりだった?」

そんなことわかるわけない。みんな誰だって死ぬのが怖いから長生きしたいと思って生きている。センテナリアンなんてほんの僅かしかいないし、さすがにそこまで長生きできるともみんな思っていないだろう。
死んでから気づく人生の儚さと呆気なさ。そしてメメント・モリだったということを。

両親の居場所を探しにアキレアと一緒にこの広大な空間を歩くことにした。

雲道を歩き続け、しばらくすると、

「ちょっと見せたいものがあるからこっち来て」

言われるがままアキレアについていくと、遠くの方から明るい声が聞こえてくる。

「あそこ」

アキレアが指を差した先には、何故か雲の中からいつくも水が噴き出てきている広場のような場所があり、そこで小さな子供たちが水浴びやボールなどで楽しそうに遊んでいる。

周囲に大人の姿はない。

少し離れたところで1人の女の子が隅っこでしゃがみながら泣いている。

「どうしたの?」

気になって話しかけてみると、

「ママがいないの」

洟を啜りながらそう言う。
この世界で逸れてしまったのだろうか。

「お母さんとはどこで逸れたの?」

「わかんない」

「お母さんの名前わかる?」

「ママ」

いや、そうなんだが。

この子にとってお母さんはママで、ママはお母さん。

「きみ、お名前は?」

「わたしの名前はみずたに なずなです。4歳です」

「なづなちゃんだね。俺は雪落 慶永」

読みにくいし言いづらい俺の名前は大人でも何度か聞き返される。

小さなこの子にはアラビア語並みに難しいのかもしれない。

「ゆきおち、よしひさ」

とりあえずゆっくり名乗ってみた。

すると、なづなちゃんは泪を拭い、

「ゆっくん」

元気な声でそう言った。

ゆ、ゆっくんって。まぁいいか。

生まれてはじめて、いや、死んではじめて呼ばれたあだ名に一瞬驚いたが、なんだか妹ができたような感覚だった。

「よし、お兄ちゃんと一緒にママを捜そう」

手を差し伸べながら言うと、

「ダメよ!」

後ろにいたアキレアが強く否定した。

「なんで?」

「ダメなの」

今度は少し細い声で言ってきた。

「だからなんで?」

アキレアはなづなちゃんに聞こえないように俺の耳元で囁いた。

「ここにいる子たちは自分が亡くなったことをまだ理解できずにいるの。この子たちの親はみんなまだ生きてるから会わせることはできない」

「はぁ?」

思わず感情的になってしまった。
言いたいことはわかるけれど納得はできなかった。

それを見たなづなちゃんが怯えた様子でいる。

俺はなづなちゃんの目線まで身体を屈ませた。

「驚かせてごめんね。ちょっとだけこのお姉ちゃんとお話しするから待っててくれる?」

「うん」

「ありがとう」

頭を撫でながら礼を言って再びアキレアに問いただす。

「死者の肉体を具現化できるなら地上に降りて会わせることくらい簡単だろ?」

「この世界はあくまで魂を天国へと浄化させるための場所。死者を蘇らせることはできないの」

「なんだよ、それ」

地面を蹴り飛ばす勢いで下唇を噛む。

「ここに集まっている子たちはみんな不慮の事故で亡くなってしまったんだけど、本人たちにはまだその自覚がなく、死ぬ直前の記憶から刻が止まったまま。親御さんたちの報われてほしいって強い想いが本人たちの魂に乗ってこの世界にやってきてるの」

ここにいる子供たちのほとんどが未就学児なのはそのせいか。

「だったらより会わせてやるべきじゃないのか?」

「それができたら苦労しないわよ」

怒りともどかしさを孕んだアキレアに返す言葉が浮かばなかった。

「まさか、この子の浄化の条件って」

「そう。なづなちゃんが夭折ようせつしたって事実を本人が受け入れること」

そんな、残酷すぎる。

お母さんの名前もまだ言えないのに、どうやって伝えれば良いんだろう?

「何日も話したけど理解してもらえなかった」

まだ4歳の子にもう死んじゃったなんてストレートに言っても理解してくれないだろうし、何よりなづなちゃん本人がお母さんに会いたがっている。

なづなちゃんの手には数字の“2”が刻まれていた。

この子はあと2日間で消えてしまう。

なんとかもう一度だけお母さんと会わせることはできないだろうか?

「この子をどうしてもお母さんに会わせてあげたい。何か方法はないか?」

アキレアはしばらく黙った後、

「おすすめはしないけど、1つだけあるわ」

その代償は大きかった。

「あなたの1日分を差し出すこと」

涅槃師に刻まれた曼荼羅の刻印の力を使うことで浄化に強制力をかけることができるらしいが、それには死者1人の1日分の力を分け与えないといけない。

だから涅槃師から促すことは基本しないらしい。

「じゃあ頼んだ」

「ずいぶんとあっさりしているのね」

「だって死んでるし」

「あなたがこの世界で肉体を宿っていられるのは7日間だけなのよ?日にちを延ばすことはできないし、下手したらあなたの浄化にも影響が……」

「後悔したくないんだ」

後悔とは行動しないことから生まれる感情。行動すればそれは何かしらの経験となり次につながる。
何より俺と同じ思いをしてほしくない。
当たり前にいたはずの家族という存在が急に目の前からいなくなることがどれだけ辛く苦しいことなのか。

「そう、わかったわ。目を閉じて心を無にして」

左手を俺に向けてきたので、言われた通り目を閉じて心頭滅却しんとうめっきゃくする。

その直後、劈くような眩い光が瞳の奥を襲ってきたと同時に何かを吸い取られたような気がした。

「……終わったわ。目を開けていいわよ」

一瞬のことで何が起きたのかさっぱりわからないが、目の前にあった大きな石が水晶へと変化していた。

「もう終わり?」

「えぇ。いまのでなづなちゃんとお母さんをつなぐことができるわ」

水晶を持ってなづなちゃんを静かな場所へと連れていく。

アキレアが左手で水晶を翳すと、ある人が映し出された。

この人はおそらくなづなちゃんの母親だろう。
目元がそっくりだ。

リモートのように画面に越しに対面した2人からはそれぞれ違う表情が伺える。

「あっ、ママだー!」

母親に気づいて水晶に顔を近づける。

「ママ、どこにいるの?」

顔が見えるのに触れることができないことに疑問を抱いている様子のなづなちゃん。

母親は涙目になりながら、
「なっちゃんなの?本当になっちゃんなの?」

まだ状況をつかめていないのか、驚きを隠しきれずにいる。

それもそのはず。

死んだはずの娘がいきなり現れたのだから。

「そんなはずないわ。だってあの日なづなは……」

ー保育園からの帰り道、母親と一緒に青信号の横断歩道を渡っていたなづなちゃんは、信号が点滅したため駆け足で渡ろうとしていた。そこを曲がってきたトラックに轢ひかれてそのまま亡くなったそうだ。

「ねぇママ、はやくおうちにかえってアニメみようよ」

なづなちゃんはいますぐにでも飛びつきそうな勢いで身を乗り出しながら母親に話しかけている。

一方の母親はまだ状況を理解しきれていないようで、何度も目を擦りながらなづなちゃんの顔を確認している。

「ママ、なんでしゃべらないの?ぐあいでもわるいの?」

「あのとき、ママがなづなの手を繋いでいたら……なづなを先に行かせなければ……」

母親はほぞを噛むように慟哭している。

「ママどうしたの?なんでないてるの?」

幼いなづなちゃんにはこの状況を理解するのは難しい。

落ちゆく泪を堪えながら母親が質問する。

「なっちゃん、そこはどこ?」

「ん~とね、よくわかんない。あおいおそらとしろいくもがあってきれいだよ」

それを聞いた母親はさらに泣いている。

目元は赤く腫れ上がっていた。

「ごめんね、ママもうなっちゃんには会えないの」

母親は両手で顔を隠しながら激しく泣いている。

「どうして?やだ、やだ。ママにあいたい」

首をブルブルと横に振りながら駄々をこねるその姿に俺は居ても立ってもいられなくなった。

水晶から少し離れた場所で見守っているアキレアのもとへと向かう。

「アキレア、どうしてなづなちゃんに説明しないんだ?夭折したことはいま言うのがベストだろ」

「お母さんはまだ生きてるの。この世界のことはどんな理由があっても外へ漏らしちゃいけない。だからお母さんが映っている限り私たちが介入することは許されない」

たしかに生前はこんな世界があるなんて知らなかったさは、最初は夢か何かだと思っていた。いまここで俺たちが出ていって説明したところで逆に話がややこしくなるだけ。

しかし、こんな非情なことがあっていいのか。

母親が溢れ出る泪を何度も何度も拭いながら決心した様子で、

「なっちゃん、元気でね」

その言葉と同時に、光輝いていた水晶はただの石になっていた。

急に姿が見えなくなった母親に動揺したなづなちゃんが目に大粒の泪を溜めながら、石をドンドンと叩き続ける。

「ママ、ママ、どこにいるの?ねぇ、ママー‼︎」

本当に最期の別れだとは知らずに金切声の如く泣き続ける。

泣き止むのを待ち、アキレアがなづなちゃんに優しく話しかける。

「なづなちゃん、ここは雲の上の世界なの?」

「くものうえ?」

訝げな表情のなづなちゃん。

「ここはね、特別な人だけが来られる夢の国なの」

言葉の意味を理解できない様子でいる。

「もうママにはあえないの?」

「良い子にしていればきっと会えるよ」

少しの沈黙の後、言葉を選ぶように笑顔で答えた。

「ほんと?」

「えぇ、本当よ」

「うん、わかった。なづな、いいこにしてる」

アキレアが頭を撫でてあげると、なづなちゃんは笑顔のまま静かに消えていった。

もう一度会いたいという親子の強い思いが、なづなちゃんの浄化に結びつけてくれたのかもしれない。

「なんか、ごめんね」

アキレアに急に謝られたがピンとこなかった。

「何が?」

「本当はこの世界のことを見せるだけのつもりだったの。まさか貴重な1日を差し出してくれるなんて思わなくて」

1日を差し出すという感覚が正直わからなかった。
きっと寿命のようなものなのだろうけれど、とくに身体に影響は感じていないし、あの状況で見過ごすなんて真似はできなかった。

おかげでなづなちゃんもお母さんも報われた。

俺の左手の数字は“6”になっていた。


アキレアと家族を捜しているとき、何もないところを一点に見つめている人を見つけた。

「アキレア、あの人」

俺が指を差した先にいたのは若い女性。見たところ20代前半くらいだろうか。

後ろ姿だけだがとんでもなく暗い空気が伝わってくる。

「あの子ね、担当の子も手を焼いているの」

周囲に涅槃師はいるが、その子の周りには誰もいない。

まるで避けるかのように一定の距離を保っている。

「担当はいないのか?」

「涅槃師は1人で何人もの人を見るからね、状況に応じて動き方が変わるわ。きっと先に違う人を浄化させに行ってるんでしょうね」

「かといってあのまま放置するのはどうなんだ?」

「気持ちはわかるわ。私も何回かお願いされて手伝ってみたけど、目も合わさないし会話すらしてくれないの」

一体何があった?

あのどんよりとした空気が気になった。
背中から真っ黒いオーラのようなものが見える。

その子は右斜め上をじーっと見上げながら静かに立っている。

「あの子ね、誕生日に彼氏にフラれたの」

「誕生日に?」

「そう、そのショックで住んでいたマンションから飛び降りて自殺未遂しちゃってね。その後病院に運ばれて一命は取り留めたんだけど、どうしてもフラれた理由が知りたくて、夜中に病院を抜け出して彼の家まで向かっていた途中バイクと車の衝突事故に巻き込まれて亡くなってしまったの」

そこまでするなんて、その彼のこと相当好きだったんだな。

「煉獄にいたときも地上への扉を開けようと必死だったらしいわ。ソルトーさんも相当苦労したみたいだけど、うまく説得できたみたい」

さすが塩爺。

「あの子はここに来てからどれくらい経つんだ?」

「もう4日よ。あの状態から一歩も動かずにね」

「とりあえず話を聞いてくる」

「無駄よ。4日間ずっとあのままでまともに会話もできないし」

それで放置されてるってわけか。

「だけど、あのまま放置しても浄化されないじゃないか」

「いいの?無関係な人を手助けするとまた1日を失うわよ?」

「大丈夫。話を訊くだけだから」

アキレアの言う通り、下手に関わると貴重な1日を失ってしまう。

だから話だけ訊いて終わるつもりでいた。

話しかけようと近づいていくと、

「あそこがのぶくんの部屋」

まるで俺が来ることを待っていたかのように口を開いた。

銷魂しょうこんに似たその瞳と口調には覇気が感じられなかった。

のぶくんって言うのが彼氏の名前だろう。

彼女が指を差す先には部屋なんてなかった。

見えるのは果てしない空だけ。

この子にだけ見えている何かがあるのだろうか?

彼女の左手の数字は“3”になっていた。

残り3日間ずっとこのままでいるつもりなのだろうか。

もしそうなったらこの子は浄化されずにただの霊魂となってしまう。

「のぶくんはね、私のためを想って別れたの。あの402号室、あそこで私とのぶくんはたくさん愛し合ったの」

この子に聞こえないよう後ろにいたアキレアに話しかける。

(おい、アキレア。どういうことだ?この子、クスリでもやってたのか?)

(彼氏への想いが強すぎて幻覚が見えてるのよ)

(じゃあどうやって浄化させるんだ?)

(彼に会わせる以外方法ないでしょ)

(会わせるって言ったって、彼氏はまだ生きてるんじゃないのか?)

「のぶくんとはね、結婚も考えてたの。大学卒業したら一緒に住んで、1年くらいしたら籍を入れて。でも20歳の誕生日にフラれた。付き合って2年間一度も喧嘩せずにいたのに急によ?」

彼女は俺たちの会話が聞こえているのかいないのか、独り言を続けている。

「でもね、これは何かのサプライズなの。のぶくんは優しい人だから私を裏切るようなことはしない。きっと別れたって体テイにしてるだけなの」

口元は笑っていたが、その瞳の奥は枯れていた。

「アキレア、この子の浄化の条件って彼氏と縁よりを戻すことか?」

「私にもわからないわ。対象者の情報を漏らすことは禁じられているから」

「この子の担当涅槃師はいつ帰ってくる?」

「どうだろ?」

それなら強行するしかない。

お節介かもしれないが、こんな状態のまま消えていくなんてやりきれない。

「ちょっと、雪落くん」

アキレアの言葉を無視して彼女の元へ向かう。

「きみ、彼氏に会いたい?」

「会わせてくれるの?」

真っ黒いオーラが白く輝くオーラに変わったような気がした。

「あぁ、約束する。ちょっと待っててくれ」

アキレアのもとに戻ると、話を訊いていたのかその表情は強張っていた。

「彼氏を顕現することはできるか?」

アキレアの双眸が大きく開いている。

「できるけど、正気なの?」

相手に幻覚を見せることで一時的に再会させることは可能らしい。

「このままだと彼女は浄化されずに永遠にここで彷徨い続けるってことだろ?そんなの可哀想だ」

「気持ちはわかるけど、他人のために時間を無駄に使う必要はないわ」

「アキレアって結構ドライなんだな」

「あなたのためを思って言ってるの。お人好しも過ぎると自分を見失うわよ」

そうかもしれない。

それでも納得できない状態でまた死ぬなんて俺には耐えられない。

「やってくれ」

「生者を顕現させられるのなんてせいぜい10分程度よ?そのために1日分失ってもいいの?」

「あぁ」

「仮に再会できたとしても、彼女の思い描く展開にならないと思うけど」

その可能性は大いにある。

もしそうだったとしても彼女は彼と会うことを望んでいると思う。

「頼む」

「本当に良いのね?」

「あぁ」

「わかったわ」

左手を俺の方に向けるアキレア。

すると、腕に刻まれた曼荼羅が閃光を放つ。

「目を閉じて心を無にして」

言われた通り目を閉じて心頭滅却する。

何か吸い取られたような感覚になった。

「……終わったわ。目を開けて」

目を開けると、目の前にはさっきまでなかったはずのアパートがあった。

そしてそこの402号室から彼が出てきた。

気がついた彼女は大きな声で彼の名を叫ぶ。

「のぶくん!」

しかし、その声が聞こえていないのか彼女に気がついていない様子だ。

耳にはワイヤレスイヤホンをしている。

彼女は階段を降りる彼を追いかけるようにアパートに向かって走っていった。

エントランスで待つ彼女に気がついた彼。

その表情はひどく驚いていた。
何度も目を擦っては目の前に立つ元カノの存在を確認している。

「か、栞菜かんな?どうしてここに?生きてたの?」

「私ね、のぶくんこことずっと待ってたの。ずっと、ずっと……ねぇ、これは何かのサプライズだよね?それともドッキリ?」

そうであってほしいかのような口調で彼に確認する。

「……いや、違う」

強く太く冷たい声で否定する彼の言葉には強い意志を感じた。

「じゃあどうして?」

「疲れたんだ」

「疲れたって何に?」

「栞菜といても幸せになれないし、幸せにしてあげたいって思えなくなった」

「……何よそれ」

「栞菜、付き合う前のこと覚えてる?」

「うん」

「付き合う前の栞菜は正直全然脈ないと思ってた。連絡もまばらだし、話しかけても素っ気ないし。だから同じサークルに入って栞菜のこと知りたいって思った」

「それは付き合う前だからだよ。そんな簡単な女じゃないし」

「ようやく付き合えたと思ったら別人のようになった。毎日追いLINEしてきて何をやるにしてもつぶさに説明しなきゃいけなくて、すごくほだされてる感覚になった」

「それは好きで好きで不安になったからだよ。でも誕生日にフる必要ないじゃん」

「僕だって迷ったさ、だけど栞菜は僕の誕生日に何かしてくれた?」

そう言われた彼女は言葉を失っている。

「付き合ってから2回目の誕生日、栞菜は何もしてくれなかった。普通のカップルだったら後日にずらしてでも祝わない?でも栞菜は僕から言わないと祝ってくれなかったよね」

「のぶくんのお誕生日を忘れてたことは謝るよ。でも後日ちゃんと祝ったじゃん」

「当日じゃなきゃ意味ないし」

「女々しい。そんな人だと思わなかった」

「そういうところだよ。自分の都合の悪いことは全部曖昧にしてさ、そのくせ僕には説明させる」

「いまどきの彼女はそういうものだよ。のぶくんは他の女の子知らないからわからないだけ」

「だから浮気したの?」

「えっ?」

「他に男がいたから誕生日祝わなかったんでしょ?」

その炯眼けいがんは優しそうな彼の顔からは想像もできないような強く鋭いものだった。

「何言ってるの?」

「おかしいと思ってたんだ。この1年、記念日や僕の誕生日が近づくにつれて予定が合わなくなったって言われて、クリスマスのときだってだいぶ前から約束してたはずなのに急にバイトが入ったって言ってるキャンセルされた」

「本当に忙しかったの」

「サークルの1個上の先輩とホテルから出てくるの見た」

核心をつかれたのか、栞菜は何も言い返せないでいる。

「これがお互いのためだったと思う」

「そんなの身勝手だよ」

「身勝手はどっちだよ。浮気しておいてよく会いに来れるよね」

「だって……」

「もういいかな?これからバイトなんだけど」

そう言うと彼は去っていった。
振り向こうとする様子すら見せずに。

「待って、のぶくん!のぶくん!」

彼女の声も虚しく、彼とその周りにあった建物や景色はただの空へと戻った。

どうやらタイムリミット。

はじめての喧嘩が別れの言葉になるなんて切ないというか哀しいというか。

「なぁアキレア。これってちゃんと浄化されるのか?」

「どうかしらね。彼に会うことが目的なら問題ないけど、縁を戻すってなると浄化はされないかもね」

徒労とろうに終わった感じでなんだかモヤモヤする。

それでも1日分を代償にした俺の左手は“5”になっていた。
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