1 / 172
Ⅰ.ネザリア・エセルの使命
書物庫の娘
しおりを挟む
城内の書物庫に若い男女二人きりである。
貴族のデートと言えば庭を散策するのが定番だが、彼女が本を読みたいと言うから書物庫にいる。
男の名はバルと言う。この国の王子である。
女の方はエセル。生まれはここから山を二つほど越えた先の国で、先日バル王子の妻となった。
二人の結婚は祝福されたものではなく、よくある政治のための結婚であった。またスムーズに成約するために、当日まで当人同士を会わせないという高貴である上の方々の常套手段を取られた。
だから俺とエセルは契約書を交わしたその日に「始めまして」と「よろしく」を伝え合ったのだ。
* * *
暖かな日差しを体に受けていて、いよいよ居眠りをしてしまっていたらしい。まるで春かと思うような暖かさに抱かれ、ここ最近の仕事疲れのせいもあって思いがけずぐっすり眠ってしまった。
寝ぼけ眼でいると、視界にふわふわと白いものが飛んでいる。目がかすんでいるのか、それともまだ夢の続きなのか。いいや、だんだん目が冴えてきて、これはただの埃なのだとわかった。
書物庫とは古臭いただの倉庫である。俺は誰かが置きっぱなしにした丸椅子には座らず、出窓のふちに座っていた。背が暖かく気持ちよく眠れた。しかしそのせいで現実では背中と尻がひどく痛んでいて驚いていた。
傍には三冊ほど古書が置いてあった。置いてあったというのも、自分で選び取ったものであるが。俺は椅子にじっと座って本を読むのが大嫌いであり、その古書もほとんど内容に触れていない。ただ窓を見やって、風にさわさわ揺れる木々を妬む目で眺めていただけだ。
……非常に無価値な時間を過ごしていると思っていた。
ふと視線を部屋の中央に戻すと、そこには華奢な女性がいるのである。先日籍を入れたエセルという娘だ。いや、本当は”姫”と呼ばなければならないのだが、俺は心の中であえて”娘”と呼んでおく。
彼女は、文句もこぼさず埃まみれの部屋に入り、そこの丸椅子に座って足も組まない。茶も菓子も欲しがらず、ただじっと本を読みふけっていた。
それだけで彼女は、他の皇族令嬢と違うのだと分かる。
身なりも清楚なワンピース一枚で、髪もだらりと下ろしている。俺は女性に関してあれやこれはよく分からないが、分かる範囲での感想は、やけに化粧っ気が無く身だしなみに関心が無いのだろうか、とぼんやり思っているくらいだ。
それが”姫”らしくないというところに繋がっている。
……とても変な話、彼女が”姫”であるならばだ、フリフリのドレスを着て髪も結われているだろうし、派手目な化粧も施している。百歩譲って古書を読みたがる変人だったとしても、こんな埃まみれの個室に入るのは少しぐらい躊躇し、丸椅子などには座りたがらない。それに姫と茶と菓子はセットなはずなのだ。
エセルはただそこにじっと座っており、両手で持った本に向かっていた。俺が眺めているのも気にしないで、エセルはずっとその本に没頭していた。
それが一体どんな内容のものなのだろうと気になり、出来る限り覗こうとしたがダメだった。この位置からは遠くて見えない。
少しばかり咳払いをして喉を整える。
「その本、そんなに面白いことが書いてあるのか」
彫刻のように動かないエセルに、ついに話しかけてみた。
「よくもそんな細かい活字をじっと見ていられるのだな。内容はつまらんし、文章もくどいし、結局のところ作者の自己満足を綴っているだけにしか思えん」
言いながら俺はようやく傍の本に触れた。
題名と表紙だけで選んだが、内容はどこかの偉人が書いた論文である。適当なページに指を挟み、そこからパラパラとページを捲っていく。やっぱり読む気にならんので、あくまでページを送っているだけだ。
「死んだ人間の自伝が何の為になる。こんな古書など読むより、外に出た方が何倍も世界は広いぞ。それとも”お姫様”は日光の下には出んのか?」
手元の古書がパタンと音を立てて閉じられた。結局これは何の本だったのだろう。興味もないから他の二冊の上に適当に置いた。
返事が無いなと思いながら顔を上げると、相変わらずエセルは本と向き合っている。べらべら悪態ついていた俺の声は、なんにも届いていなかったようだ。
「おーい」
「……」
呼びかけたってピクリとも動かない。居眠りの間に本当に彫刻とすり替わったのではないか。
やや大ぶりに手も振ってみる。別に彼女に背を向けられているわけでもないので、その横顔にある真剣な眼差しの隅で、俺がいるのが見えているはずなのだが。しかしそれでも全く動じなかった。
「……エセル殿」
いくら読書好きでも、これでは半ば呆れてしまう。
俺はとにかく体が痛むし、ここに居ても時間が無駄に過ぎるだけであるから、とっとと退出しようと思っていた。負けじとここは何度か呼びかけた。
するとようやくエセルが名を呼ばれていたことに気付いてくれた。静かに俺の方を見たが、窓の光が眩しかったのか目を細めていた。俺はやけに薄化粧なその顔をじっと見つめている。
「王子? どうかされましたか?」
俺はエセルの持っている本を指して言う。
「それ、面白いのか?」
「あ、これ」
目線を落としたその本を俺に見せてくれるのかと思っていたら、何故かエセルはその本をパタリと閉じる。そのまま膝の上に置いて、そっと両手で隠すみたいに覆っていた。
「少し読んでみると興味深くて」
「何の本なんだ?」
エセルは口を閉ざしたままで目を泳がせている。何か訳がありそうだ。しかしまあ別に、俺もそこまで興味があるわけではない。彼女の読んでいる本にも、彼女にも。
「言いにくいなら別に良い。ただ気になっただけだ」
はあ。とエセルにも聞こえるくらいの溜息を吐き、俺は首をコリコリ鳴らして回した。何か気に病んだのだろうか、やがてエセルがポツリと言うのが耳に届く。
「私たちは上手くやれるでしょうか」
「上手く?」
指の腹で首元の心地よい場所を探りながら返した。言わずともこの政略結婚が成功するかと尋ねられているのは分かっている。しかしエセルはその後はだんまりだ。
「そうだなあ」と俺の意見を伝えておくとしよう。
「残念ながら俺は皇族女性が嫌いだ。理由は特にない。毛嫌いというやつだな。この結婚も政略的なものだとこっちは割り切っている。不自由にはさせないつもりだ。本ならいくらでもあるから読み尽くすと良い」
俺はそのまま立ち上がり傍の本をかっさらって適当な棚に戻した。
「次からは一人で来て良い。俺は仕事に戻る。じゃあな」
三言告げて書物庫を出ていく。エセルは何も言わず俺を目で追っていただけだ。俺はすんなりと扉を閉めて書斎へと歩き出した。
残念ながら俺たちは上手く行かない。これであの娘と会うことも当分は無いだろうと思っている。
貴族のデートと言えば庭を散策するのが定番だが、彼女が本を読みたいと言うから書物庫にいる。
男の名はバルと言う。この国の王子である。
女の方はエセル。生まれはここから山を二つほど越えた先の国で、先日バル王子の妻となった。
二人の結婚は祝福されたものではなく、よくある政治のための結婚であった。またスムーズに成約するために、当日まで当人同士を会わせないという高貴である上の方々の常套手段を取られた。
だから俺とエセルは契約書を交わしたその日に「始めまして」と「よろしく」を伝え合ったのだ。
* * *
暖かな日差しを体に受けていて、いよいよ居眠りをしてしまっていたらしい。まるで春かと思うような暖かさに抱かれ、ここ最近の仕事疲れのせいもあって思いがけずぐっすり眠ってしまった。
寝ぼけ眼でいると、視界にふわふわと白いものが飛んでいる。目がかすんでいるのか、それともまだ夢の続きなのか。いいや、だんだん目が冴えてきて、これはただの埃なのだとわかった。
書物庫とは古臭いただの倉庫である。俺は誰かが置きっぱなしにした丸椅子には座らず、出窓のふちに座っていた。背が暖かく気持ちよく眠れた。しかしそのせいで現実では背中と尻がひどく痛んでいて驚いていた。
傍には三冊ほど古書が置いてあった。置いてあったというのも、自分で選び取ったものであるが。俺は椅子にじっと座って本を読むのが大嫌いであり、その古書もほとんど内容に触れていない。ただ窓を見やって、風にさわさわ揺れる木々を妬む目で眺めていただけだ。
……非常に無価値な時間を過ごしていると思っていた。
ふと視線を部屋の中央に戻すと、そこには華奢な女性がいるのである。先日籍を入れたエセルという娘だ。いや、本当は”姫”と呼ばなければならないのだが、俺は心の中であえて”娘”と呼んでおく。
彼女は、文句もこぼさず埃まみれの部屋に入り、そこの丸椅子に座って足も組まない。茶も菓子も欲しがらず、ただじっと本を読みふけっていた。
それだけで彼女は、他の皇族令嬢と違うのだと分かる。
身なりも清楚なワンピース一枚で、髪もだらりと下ろしている。俺は女性に関してあれやこれはよく分からないが、分かる範囲での感想は、やけに化粧っ気が無く身だしなみに関心が無いのだろうか、とぼんやり思っているくらいだ。
それが”姫”らしくないというところに繋がっている。
……とても変な話、彼女が”姫”であるならばだ、フリフリのドレスを着て髪も結われているだろうし、派手目な化粧も施している。百歩譲って古書を読みたがる変人だったとしても、こんな埃まみれの個室に入るのは少しぐらい躊躇し、丸椅子などには座りたがらない。それに姫と茶と菓子はセットなはずなのだ。
エセルはただそこにじっと座っており、両手で持った本に向かっていた。俺が眺めているのも気にしないで、エセルはずっとその本に没頭していた。
それが一体どんな内容のものなのだろうと気になり、出来る限り覗こうとしたがダメだった。この位置からは遠くて見えない。
少しばかり咳払いをして喉を整える。
「その本、そんなに面白いことが書いてあるのか」
彫刻のように動かないエセルに、ついに話しかけてみた。
「よくもそんな細かい活字をじっと見ていられるのだな。内容はつまらんし、文章もくどいし、結局のところ作者の自己満足を綴っているだけにしか思えん」
言いながら俺はようやく傍の本に触れた。
題名と表紙だけで選んだが、内容はどこかの偉人が書いた論文である。適当なページに指を挟み、そこからパラパラとページを捲っていく。やっぱり読む気にならんので、あくまでページを送っているだけだ。
「死んだ人間の自伝が何の為になる。こんな古書など読むより、外に出た方が何倍も世界は広いぞ。それとも”お姫様”は日光の下には出んのか?」
手元の古書がパタンと音を立てて閉じられた。結局これは何の本だったのだろう。興味もないから他の二冊の上に適当に置いた。
返事が無いなと思いながら顔を上げると、相変わらずエセルは本と向き合っている。べらべら悪態ついていた俺の声は、なんにも届いていなかったようだ。
「おーい」
「……」
呼びかけたってピクリとも動かない。居眠りの間に本当に彫刻とすり替わったのではないか。
やや大ぶりに手も振ってみる。別に彼女に背を向けられているわけでもないので、その横顔にある真剣な眼差しの隅で、俺がいるのが見えているはずなのだが。しかしそれでも全く動じなかった。
「……エセル殿」
いくら読書好きでも、これでは半ば呆れてしまう。
俺はとにかく体が痛むし、ここに居ても時間が無駄に過ぎるだけであるから、とっとと退出しようと思っていた。負けじとここは何度か呼びかけた。
するとようやくエセルが名を呼ばれていたことに気付いてくれた。静かに俺の方を見たが、窓の光が眩しかったのか目を細めていた。俺はやけに薄化粧なその顔をじっと見つめている。
「王子? どうかされましたか?」
俺はエセルの持っている本を指して言う。
「それ、面白いのか?」
「あ、これ」
目線を落としたその本を俺に見せてくれるのかと思っていたら、何故かエセルはその本をパタリと閉じる。そのまま膝の上に置いて、そっと両手で隠すみたいに覆っていた。
「少し読んでみると興味深くて」
「何の本なんだ?」
エセルは口を閉ざしたままで目を泳がせている。何か訳がありそうだ。しかしまあ別に、俺もそこまで興味があるわけではない。彼女の読んでいる本にも、彼女にも。
「言いにくいなら別に良い。ただ気になっただけだ」
はあ。とエセルにも聞こえるくらいの溜息を吐き、俺は首をコリコリ鳴らして回した。何か気に病んだのだろうか、やがてエセルがポツリと言うのが耳に届く。
「私たちは上手くやれるでしょうか」
「上手く?」
指の腹で首元の心地よい場所を探りながら返した。言わずともこの政略結婚が成功するかと尋ねられているのは分かっている。しかしエセルはその後はだんまりだ。
「そうだなあ」と俺の意見を伝えておくとしよう。
「残念ながら俺は皇族女性が嫌いだ。理由は特にない。毛嫌いというやつだな。この結婚も政略的なものだとこっちは割り切っている。不自由にはさせないつもりだ。本ならいくらでもあるから読み尽くすと良い」
俺はそのまま立ち上がり傍の本をかっさらって適当な棚に戻した。
「次からは一人で来て良い。俺は仕事に戻る。じゃあな」
三言告げて書物庫を出ていく。エセルは何も言わず俺を目で追っていただけだ。俺はすんなりと扉を閉めて書斎へと歩き出した。
残念ながら俺たちは上手く行かない。これであの娘と会うことも当分は無いだろうと思っている。
0
あなたにおすすめの小説
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
なぜ、私に関係あるのかしら?
シエル
ファンタジー
「初めまして、アシュフォード公爵家一女、セシリア・アシュフォードと申します」
彼女は、つい先日までこの国の王太子殿下の婚約者だった。
そして今日、このトレヴァント辺境伯家へと嫁いできた。
「…レオンハルト・トレヴァントだ」
非道にも自らの実妹を長年にわたり虐げ、婚約者以外の男との不適切な関係を理由に、王太子妃に不適格とされ、貴族学院の卒業式で婚約破棄を宣告された。
そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。
「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」
この判断によって、どうなるかなども考えずに…
※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。
※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、
※ 画像はAIにて作成しております
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
私と子供より、夫は幼馴染とその子供のほうが大切でした。
小野 まい
恋愛
結婚記念日のディナーに夫のオスカーは現れない。
「マリアが熱を出したらしい」
駆けつけた先で、オスカーがマリアと息子カイルと楽しげに食事をする姿を妻のエリザが目撃する。
「また裏切られた……」
いつも幼馴染を優先するオスカーに、エリザの不満は限界に達していた。
「あなたは家族よりも幼馴染のほうが大事なのね」
離婚する気持ちが固まっていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる