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第2章 黄巾の乱編

第8話 長社の戦い

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蒼天已死そうてんすでにしす 黄天當立こうてんまさにたつべし 歳在甲子としはこうしにあり 天下大吉てんかだいきち

「やっぱり、よく分かんねぇな」
「何がです」
「これさ」

劉備たちは冀州鉅鹿郡きしゅうきょろくぐんで、黄巾党の主力に相対する師、盧植ろしょく北中郎将ほくちゅうろうしょうの救援に向かう途上だった。
馬上で劉備が睨めっこしているのは、黄巾党が掲げる標語である。

「あれは、釣り出すための芝居じゃなかったんですね」
「うるせぇ。ただの赤っ恥だよ」

こいつ、絶対、わざと言ってやがる。
劉備は簡雍にからかわれ、あの時のことを思い出した。

「確かに五行思想から言えば、蒼天を漢王朝って言うのは無理がありますよね」
「だろ」
もっとも、劉備は五行思想なんて難しいことは考えてはいないが・・・

相克そうこくの関係から、黄天に打克つ蒼天はいない。だから、黄天の世が来る」
「そう言ってくれるなら、まだ分かる・・・ような気がする」
「でも、漢王朝ってのが定説になっているんですよねぇ・・・」

簡雍も首を傾げた。
今まで気にもとめていなかったが・・・

「まぁ、作った本人に聞けば分かるか」
「もちろん、会えればですけど」

作ったのは当然、黄巾党の首魁、大賢良師たいけんりょうし張角ちょうかくである。
この乱の最終的な討伐相手。

・・・この人、会うつもりなんだろうか・・・
とはいえ、義勇兵ごときでどうにかできる相手とは思えない。

「さぁ、急ぎましょう」
簡雍は無駄話を切上げて、進軍を急がせた。


豫州潁川郡長社県よしゅうえいせいぐんちょうしゃけんの原野。
そこに設置された天幕の中に劉備はいた。
鉅鹿郡で師の盧植に会った際、折しも潁川郡での官軍敗走の報が届き、盧植の指示で救援に向かうことになったのだ。

救援には千人の増援と盧植から割符を与えられる。
割符は劉備が無位無官であるため、盧植が後ろ盾だとする証明だった。

案の定、ここの軍権を任されている皇甫嵩こうほすう左中郎将さちゅうろうしょうは、この割符を見るまでは、相手にもしてくれなかった。
こうして、何とか盧植の指示に従い合流した劉備は、天幕の中の末席を与えられたのである。

「敵将の名は波才はさい。兵の数は八万です。黄巾党は朱儁しゅしゅん右中郎将うちゅうろうしょうを破った勢いに乗じて、ここ長社まで駒を進めています」

誰か分からないが天幕の中で戦況を説明している。
それにしても、ここで名指しをしなくてもいいだろうに。

恐らく朱儁だろう、説明の後、ずっと歯噛みしている。
官軍もどうやら一枚岩ではないらしい。

「大将、知り合いですか?」
軍議が続く中、簡雍が耳元で話しかけた。
確かに劉備も気になっている。

皇甫嵩の隣に座る若い将校にずっと見られているからだ。
その将校は紅色の甲冑を纏い、顔立ちは整っているが、どこか冷たい印象を受ける。

劉備は首を振ると、
「・・多分、会ったことないな」
記憶の中にはないし、もし、以前に会ったことがあれば、絶対に忘れることはできない。
劉備は、何故かそんな人物のような気がするのだった。


重い空気の中、一向に軍議がまとまらない。
皇甫嵩は、隣に座る将校に意見を求めた。

曹操そうそう騎都尉きとい、何か意見はあるか?」
「まずは、皆さんにお喜び申し上げます」

曹操と呼ばれた男は、スッと立ち上がったのち、落ち着いた声で、まるで祝辞を始めるかのように切り出した。

若造が何を言い出すんだという空気が流れる。
しかし、曹操は気にせず話し続けた。
「我らの勝利が確定しました」

天幕の中にざわめきが広がるが、劉備は嫌な予感がする。
「それは、僅か五百の手勢で五万の大軍を打ち破った勇将が、この戦に参加してくれるからです」

おいおい・・・
振り返ると簡雍が肩をすくめ、首を左右に振っている。
まさか・・・
劉備の不安は的中し、曹操は劉備のもとへ、ゆっくりと歩いてきた。

そして、横に並ぶと劉備に立つよう促す。
「この御仁の名は、劉備玄徳殿。万夫不当の猛者、二名を義弟として従える勇将です」
いきなり紹介され、注目を集めた劉備は、どうしていいか分からず、軽く会釈をするのであった。

『君をだしにしてすまない。士気を上げるには演出が必要なんだ』
曹操の小声に劉備も小声で返す。

『俺は、一体、どうすれば?』
『理解が早くて助かる。私の指示通り動いてくれ』
『分かった』

曹操は、劉備の前に立つ。
視界が曹操でふさがれるが、劉備の表情など細かい動作を周りに見せない工夫だろう。
「劉備殿、いかにしてこの戦、勝利を得ようと考えていますか?」
劉備だけに見えるように曹操の口が“火計”と動く。

「それは、火計です・・・かね」
「なるほど、火計ですか」

そう言うと、曹操は天幕の中央に移動する。
「明日の晩、強風が吹くことが予想されます。黄巾党をこの陣地に誘い込んで火計をしかければ、我々の勝利は間違いないでしょう」

最後に、劉備へと視線を送り、
「そうですね。劉備殿」
「その通りです」

曹操がにこりと笑う。
冷たい印象を受けていたが、そんな笑顔もできるんだな。
劉備は違うことで感心するのであった。

曹操は皇甫嵩のもとへ行くと下知を懇願した。
皇甫嵩は立ち上がると、
「明日、そこの・・・」
「劉備玄徳殿です」
「劉備玄徳の進言を採用し、火計の作戦を実行する」
そう宣言するのであった。


「その通りです。・・・最後、声が裏返ってましたよ」
「うるせぇな」

劉備たちに与えられた陣幕の中、大根芝居を簡雍が馬鹿にしている。
とっさのことだったのだから、仕方がないだろう。

「何だ、俺も見たかったぜ」
張飛も乗っかってきた。

「しかし、その曹操という者、一体、何者でしょうか?」
関羽が劉備のために話題を変える。

確かに劉備のことを知っているとは・・・情報量とその機転。
只者じゃないことは間違いない。

「失礼する」
そこに突然、曹操が劉備の陣幕を訪れた。

「話をすれば現れる。洛陽での評判通りですね」
簡雍の言い方が不敬だったのか、供の者が反応する。
しかし、曹操がすぐに止めて、劉備に話しかけた。

「君の部下もなかなか優秀なようだ」
「俺に何かようかい?」

劉備の言い方も癇に障ったのか、今度は供の者が抜刀しかけた。
とっさに関羽と張飛が劉備の前に立つ。

とん、話にならないから下がっていろ」
供の者は、そう言われると素直に従い、陣幕の入り口まで下がるのだった。

「私の名前は曹操孟徳そうそうもうとく。騎都尉の職をいただいている。そして、彼は夏侯惇かこうとん。私の一族に連なる者だが、なかなかの激情家でね。申し訳ない」
「いえ、こちらこそ。俺は劉備玄徳です」
劉備も謝罪し、曹操に席を勧めた。

「明日の作戦だが、君にしんがりを頼みたい」
「俺に?」
曹操は申し訳なさそうに頷いた。

「他の将にも頼みにいったが、誰からもいい返事がもらえなくてね」
「それで、最後に俺たちのところにきたと」
「そうなる」

曹操が話した作戦は、夜襲をかけるが敗れたふりをして皇甫嵩、朱儁の両中郎将が退却する。
慌てふためき、陣地を明け渡したところで入り口をふさいで火計をしかけるというものだった。

明け渡すのはいいが、そこが無人だった場合、黄巾党が疑い、すぐに退却してしまうので誰かが残って戦わないといけないらしい。

「そんな大役、俺たちでいいのかい?」
「本陣を守っているんだ。ひとかどの将が残っていないといけない。その点、君たちの大興山での活躍は噂となって、黄巾党の間でも有名だからね」
曹操は劉備を持ち上げて話す。

「その噂は、明日、あなたが黄巾党に流すんですよね?」
簡雍の言葉に曹操は目を細めた。

「やはり、優秀だ。・・・名を聞いても?」
「私は表に出るつもりはありません。・・名乗るほどではないです」

曹操は、それ以上深追いはせず、
「頼めるかな?」
劉備に迫るのであった。

「誰かがやらないと勝てないんだろ。いいぜ」
「良かった」
話がまとまり、曹操が立ち上がる。

「ちょっと待った。・・確実に仕留めるために俺たちごと閉じ込めるってことはないよな?」
劉備の言葉に曹操が笑う。

「私がそんな人間だとでも?」
口元に笑みがあっても目が笑っていない。
劉備は背筋に冷たいものを覚えた。

「まぁ、まだ、お互いに信をおける間柄じゃない。明日は私の右腕、惇を君の隊につけるよ。・・・それで信用してくれるかい?」
「ああ、疑ってすまない。分かったよ」
劉備と曹操の視線がぶつかるが、最後はお互い微笑んで終わる。

曹操が陣幕からいなくなると、少しの間、沈黙が続いた。
それを破ったのは劉備である。

「なぁ、明日、本当に大丈夫だよな?」
「知りませんよ。私は戦場にはいませんから」
簡雍が冷たくあしらう。

「まぁ、わざわざ顔合わせさせた夏侯惇さんが偽者じゃなければ、大丈夫でしょう」
「えっ、そこまで疑うのかよ?」
「私なら、疑います。・・・でも、多分、大丈夫でしょうね」

味方ごと焼き払ったとなれば外聞が悪い。
劉備がただの無位無官なら、存在自体をもみ消すことができたが、一応、盧植の後ろ盾があることは知れ渡っている。
滅多なことはしないはず。

それにしても、曹操孟徳。
たとえ味方であっても油断できない男である。

劉備の最後の質問。
考えた策の一つを言い当てられた。そんな表情を一瞬したからだ。

最大の警戒が必要。
簡雍は肝に銘じることにした。


そして、翌日、火計作戦が決行され、劉備一家は本陣から無事脱出。
黄巾党に大打撃を与えるのであった。

波才を討つことはかなわなかったが、長社の地から、黄巾党は撤退する。
この一戦が分水嶺ぶんすいれいとなり、旗色が一変、戦いは官軍の優勢へと変わっていくのであった。
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