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第12章 忠烈の士編

第68話 曹操の血の涙

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朝廷より危険視された元董卓配下で構成される張繡陣営。
降伏、恭順を示すと、その居城、宛城も曹操に明け渡した。

そして、開城から数日後には、張済の後妻である鄒氏の屋敷に曹操は入り浸るようになる。
賈詡による手引きだが、曹操を骨抜きにするいわゆる『美人の計』。

張済の甥である張繡は心焼かれる思いを抱くが、その計略のためにぐっと我慢する。
曹操の気持ちが緩みきるその日まで、体の奥底にある怒りを研ぎ澄まし、心の中で、情念の炎を燃やすのだった。

曹操の心理状態の変化は、賈詡が観察している。
何気ない会話の中から、張繡らに対する興味が薄れてきた瞬間を逃さず、汲み取るというのだ。
それは賈詡にしかできない芸当に思われた。

そろそろ頃合いかと思われたとき、宛城近くに野盗の類が出没する。
脅威的には軍を出すほどの相手ではないが、試しに曹操に出撃しての駆逐を打診してみた。

すると、「治安のためであれば、問題ない」と、あっさり許可が下りる。
これまでの張繡の努力で信頼を勝ち取ったということと、鄒氏に早く会いたい気持ちが、気もそぞろに、そう言わせたのだろう。

いずれにせよ、曹操から軍行動の許可をもらったのは、大きい。
これで、大手を振って軍を動かせる。

あと、問題なのは、曹操軍の中にいる典韋の存在だった。
張繡兵は、それほど多くない。寡兵であるがため、典韋のような豪傑一人で戦局がひっくり返される可能性がある。

そこで張繡軍の中でも勇将といわれている胡車児こしゃじに、典韋を討つ方法を相談することにした。

「まともに闘っては勝てません。こういう手合いは、猛獣を相手にすると同じく考えた方がいいでしょう」
「では、遠巻きにして矢か?」
「はい。それで、徐々に体力を奪うしかありません」

その答えに賈詡は考え込んだ。
それでは、あまりにも時間がかかりすぎてしまう。

勇者を殺す方法としては忍びないが、毒矢を使わせてもらうか。
これは戦争、いや生存競争なのだ。仕方がないだろう。


宛県の城下町、張繡の軍勢が物々しく動き出す。
野盗を討ちに行くと、曹操軍の者たちは聞いていたため、特に警戒することなく見送っていた。

すると、突然、その矛先が自分たちに向けられることとなり、慌てふためく。
武器を持つ準備もなく、張繡軍に襲われては、いかに精強な曹操軍といえどひとたまりもなかった。

「曹操を探せ」
胡車児の指示で、曹操軍を討ち倒しながら、鄒氏の屋敷がある区画へ軍を進める。
さすがに、ここの警護はしっかりしており、張繡軍も簡単に抜くことはできない。

よく見ると、守っているのは豪傑、典韋だった。
手こずるのは、当然かと思った胡車児は、賈詡の指示通り、典韋に対して毒矢を射かける。

「不意打ちとは、卑怯な真似をしおって」
怒り心頭、典韋は双鉄戟を振り回すと、張繡軍の矢など難なく、打ち落とす。
そのまま防衛に徹していたのだが、矢で倒れた味方の兵に不自然さを感じた。

死体を確認すると、泡を吹いており、顔色もおかしい。
「毒矢か!」
どの程度の猛毒か分からないが、味方の兵には、確実に矢を避けるように指示をする。

ただ、それによって、射かけられる矢に集中するあまり、敵兵の接近を簡単に許してしまった。
矛や刀によって、自陣兵は倒れていき、不覚にも典韋も脇に軽い切傷をもらう。

「貴様ら、許さんぞ」
自分に傷を負わせた兵の刃にも毒が塗られていることを認めると、手段を選ばぬ張繡軍のやり方に怒髪天を衝く。
典韋の顔が、鬼や阿修羅のような形相へと変わっていった。

近づく者、敵味方関係なく、双鉄戟の餌食とするのだった。
双鉄戟は、血のりで切れ味が鈍るものの、かまわず典韋が振り回すので、役割はもはや戟というより棍棒に近い。

旋風のように双鉄戟を振るう典韋の体力は無尽蔵に続くと思われたが、やはり典韋も人の子。
疲労と毒により、次第に動きが鈍りだした。
握力も失いつつあり、手から双鉄戟がすっぽ抜ける。

武器をなくした典韋、討ち取るのは今しかないと、胡車児は一斉攻撃を指示した。
自身が先頭を切って、典韋に飛びかかる。

殺れると、思った瞬間、強い衝撃を胡車児は受けた。
なんと武器を失った典韋は、片手で転がる死体の足を掴むと、それを振り回してきたのだ。
片手に一体ずつの死体を掴み、目をむく典韋の姿は、およそ人とは思えない。

恐れをなした張繡兵は近づくことができず、ただの睨み合いが続いた。
ほどなくして、典韋が動いていないことに気づき、恐る恐る近づいてみると、息をしていなかった。
立ったまま、張繡兵を威嚇していたのだ。

それを見た胡車児は、どうあがいても自分は、この域にまで到達できないと典韋の豪勇に驚嘆する。
典韋の死体を通り抜け、鄒氏の屋敷に辿り着いたときには、既に曹操が脱出した後。
典韋は命を賭して、曹操を守ったのだった。


時は曹操が屋敷を脱出する前に遡る。

張繡軍の異変に気付いた曹操の嫡子、曹昂そうこうと甥っ子の曹安民そうあんみんは、曹操がいるであろう鄒氏の屋敷に踏み込んだ。

「父上、急変です。張繡軍が反乱を起こしました」
外の騒ぎに何事かと思っていた曹操は、曹昂の言葉を聞いて納得する。
そして、鄒氏に対して穏やかな口調で話しかけた。

「あなたも、このことはご存知で?」
鄒氏は頷くと、
「私は、張済の妻です。この先も、それは変わりません」
その言葉を聞いた、曹操は「そうか、分かった」と告げ、鄒氏を斬り伏せるのだった。

子脩ししゅう、脱出する。馬を持て」
「すでに、絶影ぜつえいを準備しています」

曹操は愛馬絶影に跨ると、囲みが薄そうな場所を探す。
典韋が防波堤となっており、脱出できそうな道筋が残っているように、曹操の目には映った。

「よし、ついて参れ」
曹操が愛馬に鞭打った、その瞬間、屋敷の屋根の上から数十本の矢が放たれる。
典韋を迂回して、やって来た別動隊のようだ。

曹操は太ももに矢がかすった程度ですんだが、他の二人は?
曹操が確かめると、曹安民は馬上で前のめりに体をあずけて、動かなくなっていた。

「子脩は無事か?」
「父上、私は無事でございます。・・・しかし」
無事というわりに曹昂の顔色が悪い。

従兄弟が目のまで亡くなったのだ。顔が青ざめても仕方がないだろうと、曹操は思い込んだ。
深く考えている間はなく、第二射が来る前に、射程より早く逃げなくてはならない。
「父上」
「何だ?」

曹昂が指さす先を確認すると、矢が絶影の頭部を打ち抜いていたのだ。
それでも走っているのが不思議なことだった。

しかし、このまま走り続け、逃げ切れるとは、到底、思えない。
曹昂は、絶影が走れなくなる前に曹操を自分の馬に乗せる。
大人二人を乗せて走る馬は、当然、行き足が鈍った。

後から曹操は気づくが、あの時、曹昂が青ざめていたのは死を身近に体験したからではなく、ある決意を自分の中で下したからだったのだ。

それを実行に移す。
曹昂子脩そうこうししゅうが死のうとも歴史は変わりません。・・・しかし、曹操孟徳が亡くなるのは漢の損失です」
そう言うと、曹昂は馬から飛び降りる。

荷が軽くなった馬は、勢いがついて、たちまち曹昂との距離が開いていった。
「どうか、ご無事で、父上」
「し、子脩!」

走りながらではあるが、曹昂に張繡兵の凶刃が襲いかかるのが見えた。
その先は、見るに堪えられなく曹操は、ただ、前を見て駆け抜ける。
『子脩』
心の中で息子の名を何度も叫んだ。


何とか追手を振り切った曹操は、南陽郡舞陰県ぶいんけんで散り散りになった兵をまとめる。
その時、初めて典韋が戦死したことも知らされた。

今回の戦、曹操自身反省すること多い。いや、多すぎる。
出陣するときから、まず気構えがなっていなかった。

献帝の依頼だからという軽い考えと、鼻から張繡は戦う意思がないだろうと高をくくっていた部分がある。
その緩みが鄒氏にうつつを抜かすという油断を呼び、結果、大きな損失を自身にもたらした。

息子の死もそうだが、何より、替えの利かない忠臣、典韋を失うということは、油断の代償としては、あまりに大きすぎる。

曹操は、人目を気にせず血の涙を流した。
生き残った曹操軍は、生き残った喜びよりも、亡くなった者たちへの哀悼の気持ちでいっぱいになる。
重い足取りで、許都へと向かうのだった。
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