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第15章 大戦前夜編

第85話 小覇王、夭逝す

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ある明朝、呉郡呉県の城内で、孫策は考え抜いた末の決断を周瑜に告げる。
「公瑾、俺は許都へ向かうことに決めた」

曹操と袁紹の対決に話題が集中する世の中。
隙をついて、許都を攻め落とそうと言うのか。

君主が、そう決断したのならば、勝利のための策を練り上げ、全力を持って支えるのが軍師の務め。
「軍の規模はどうする?」
周瑜の頭の中では、すでに許都までを経由する進路、要所となる関や砦が浮かんでいる。

そんな天才軍師の様子に、一瞬、間をおいて、
「すまない。俺の言い方が悪かった」と、孫策が謝罪するのだった。
「言い方?どういうことだ?」
「いや、許都を攻めるのではない。玉璽の返還に行こうと思っただけだ」

今の情勢を考えると勘違いを起こしすいが、自分の早とちりに周瑜は赤面する。
確かに孫策は向かうとしか言っていない。
それでは、孫家の方針をどのように考えているのか、一度、確認しておこうと周瑜は思った。

「・・・それで、曹袁の争いでの、我らの立場はどうする?」
「結論を言えば曹操につくだが、正確に言えば、漢王朝につくだ」
「わかった。そこは張昭殿とも話を詰めよう」

華北に対する方針もほぼ、定まり、孫策は玉璽を返すため許都へ行く準備を始める。
まずは、父の墓前への報告を行うことにした。

孫堅の棺は、曲阿きょくあの山中に埋葬されている。
孫策は譜代の臣、程普、黄蓋、韓当と周瑜を伴って、父の墳墓へと向かった。

墓前に着くと、
「すまないが、まずは、父と二人きりで話をさせてくれ。情けない姿を、あまり人に見せたくない」
孫策は、少しはにかみながら、供の者たちに、そう告げた。

「分かった」
周瑜たちは、一人、墓標に進む孫策の背中を見送る。
その間、程普、黄蓋、韓当は散開して孫策の警護にあたった。

自領とはいえ、野盗の類は出没するかもしれない。警戒するに越したことはないのだ。
そんな中、孫策は、孫堅のお墓に花を手向けると手を合わせて、心の中で念じる。

『父上から預かった玉璽を、天子さまに還しに行ってまいります。ここに至るまで、私は孝の道から外れましたが、ようやく正道に戻れます。どうか、これからの孫家を見守って下さい』

すると、不思議と暖かい風が孫策を包み込む。
それは、まるで、孫堅が返事をしているようだった。

孫策の気持ちがほぐれたのだが、その矢先、
『?』
その暖かい風に混じって、異臭が孫策の鼻をくすぐる。
その匂いは、道士が好む香のようだった。

「公瑾、賊がいるぞ」
「何っ」
孫策の声に周瑜が抜刀すると、散っていた程普、黄蓋、韓当たちも集まって来る。

前を見据えながら、孫策は白刃を片手に下がっていった。
不意に前方から飛んできた矢が、孫策の頬をかすめる。

「所在は知れたぞ。姿を現したら、どうだ」
孫策が前の林を睨みつけ、大声を上げると二人の男が現れた。
それは、一人は灰色の外套を纏った男、もう一人は弓を構えた若い男だった。

その若い男の方に、孫策は見覚えがある。
許貢きょこうの息子か?」
「そうだ、父の仇め」

孫策の刃は、揚州を制圧するために多くの血を吸ってきた。
今さら、仇と罵られても痛痒を感じない。
思い当たることが多すぎるのだ。

「もう一人は、于吉うきつの弟子だな?」
「我が尊師を殺めたこと、後悔させてやる」

于吉とは、太平道を究めたという年齢不詳の道士のことだった。
江南の地にあって、不可思議な呪文を唱えては、人々の病気の治療にあたっているという。
それは、まるで黄巾の乱の首魁、張角とやっていることが瓜二つ。

つい先日、江南の地で黄巾の乱の再発を恐れた、孫策が処刑したばかりだった。
これで二人の動機は割れた。しかし、大人しく二人の望みまで、叶えてやる孫策ではない。

「仇と言うが、この孫策の前に立ちはだかった者を屠っただけ、お前たちも立ちふさがるというのであれば、同じ道を辿ってもらう」
「刃でしか語れぬ狂人め」

道士の言葉と同時に、許貢の息子が弓を放つ。
孫策は、難なく打ち落とすと二つの違和感を覚えた。

一つ目は、先ほどの矢と今の矢では、矢勢が違う。そして、二つ目は、矢によって受けた、頬の傷がひりひりと痛みだしたのだ。それはただの矢ではないことを示す。
「まだ、他に仲間いるぞ。そして、毒矢を射っている」

孫策の言葉に周瑜たちは周りを見回すが、敵を捕捉できない。
他にも人を伏せているとすれば、迂闊に動くことができなくなってしまった。

「観念しろ」
許貢の息子が弓を捨てて、剣を持ち、孫策に突進してくる。
丁度、孫策が供えた花を踏みにじった。

「おのれ」
孫策も応戦して、斬り伏せると返す刀で、道士の男にも刃を突き立てた。
道士の男が血反吐とともに不気味に笑った瞬間、孫策の左肩と右足に激痛が走る。

はじめから囮になるつもりで、この道士は棒立ちでいたのだ。
別の仲間の矢は、孫策が動く前からこの道士に照準を合わせており、孫策が動いた瞬間に矢を放った様子。そのため、矢の一本は道士の体にも刺さっている。

さすがの孫策も斬る瞬間は無防備となり、毒矢の餌食となってしまったのだ。
孫策は、次第に足元がふらつくと、その場に倒れ込んでしまった。

「伯符」
周瑜が駆け寄ると、孫策から玉のような汗が流れていて、ひどい高熱も発している。

程普たちが矢を射た者たちを捕らえると、鄭宝ていほうの元仲間だったことが判明するが、そんなことより、今は孫策の容体の方が重要。
その場で、三人の首を斬り落とし、苦しむ孫策を急いで近くの曲阿城まで、運ぶのだった。

孫策は居室の中で、三日三晩、うめき声をあげて苦しむ。
そして、四日目、静かな朝を迎えた。

不審に思った、周瑜が部屋の扉を開けると、寝台に体を起こした孫策がいる。
部屋に入ると、周瑜は孫策の変貌ぶりに驚いた。
頬はげっそりとこけ、目の下のくまもひどい。何より、これまで真っ黒だった髪の毛が白髪へと変わっているのだ。

周瑜は、心の動揺を見せまいと、平静を装って声をかける。
「もう大丈夫なのか?」
周瑜の言葉に返答はせず、孫策は、ただ微笑むのみだった。
その微笑にはかげろうのような、はかなさを感じる。それでいて、いつも以上の優しさに包まれていた。

「仲謀と張昭殿を呼んでくれ」
大きくはないが凛とした声に、何かを感じた周瑜は、熱いものが込み上げてくるのを、必死に堪える。

・・・そうなのか、伯符。
長年、ともに過ごした周瑜だからこそ分かる、孫策の機微。
孫策は間違いなく死期を悟っている。

「分かった」
間もなく、二人がやって来ると、まず、孫権に話しかけた。
「仲謀、お前には玉璽を託す。天子さまにお返しして、孫家を正道に戻してくれ」
「それは、お元気になられてから、兄上がなさればいいのでは?」

周瑜は、そんな孫権の肩を叩くと、首を振って見せた。
はじめ、その意味が分からない孫権も、その意図に気づくと、驚いた表情を孫策に向ける。
確かに昨日まで、苦しんでいたが、今は普通に話せているではないか・・・

信じられない。信じられないが、改めて、兄の目を見ると、
『そうなのですね』
孫権も覚悟を決めて、一言一句、最後の言葉を聞き漏らさぬようにした。

「仲謀、お前には二つの財産を残す。一つはこの揚州の地、もう一つは智勇揃った臣たちだ。お前は、この二つをもって、孫家を守り抜け」
「分かりました」
孫権は涙を拭きながら、承知する。

孫策は、孫権の頭に手をやると、優しい兄の表情をみせた。
「内のことは、そちらの張昭殿、外のことは公瑾に尋ねれば間違えることはない。お前は守ることに関しては、恐らく、この俺より上だ、安心しろ」
「全て、承知いたしました」

最後、声になっておらず、泣き崩れてしまったところ、周瑜が立ち上がらせる。
新しい君主として、十九歳の若者には、酷だが、最後までしっかりとしてもらわなければならないのだ。

続いて、張昭が孫策の前に立った。
「張昭殿、未熟な私をよくここまで導いて下さいました。貴方には感謝の言葉しかありません」
「馬鹿者、お主は、まだまだこれからだと言うのに・・・」
「申し訳ありません。・・・どうか、仲謀を助けてやって下さい。但し、貴方の目から見て、仲謀が君主として足りないと思われたときは、見捨てて出奔なさってもかまいません」

張昭は天を見上げて目をつぶる。それから、大きく息を吐き出すと、
「未熟者の面倒をみることには、もう慣れたわ。安心するがいい」
もともとしわの多い顔が、さらにしわくちゃになって答えた。

「お主は君主としては、まだまだだが、将としては、儂は認めている。今度は立派な君主を育ててみせるぞ」
「感謝します。・・・それにしても、将としてですが、ようやくお墨付きをいただけたのですね。よかった」
「ふん、大負けに負けてじゃがな」

最後まで、張昭の憎まれ口を聞けて、孫策の口元がほころぶ。
そして、いよいよ周瑜の番だった。

「公瑾」
「伯符。俺たちの間に言葉はいらない」
周瑜は、そう言うと孫策を抱きしめた。

「戦場でのたれ死ぬとばかり思っていたが、お前に抱かれて最後を迎えるとはな」
「絶世の美女でなく、申し訳ない」
「・・・いや、これも意外と悪くない」

そのまま、孫策は静かに息をひきとった。
享年二十六歳。
江南の地で暴れまくった小覇王の、あまりにも早い死だった。

その後、孫権は孫策の地盤を引き継ぐと、遺言通りに玉璽を持って、許都へと参内する。
その功より、討虜将軍に任じられると兄同様に会稽太守も拝命した。
また、同行した張紘の働きによって、曹操から不可侵の約束も取り付けるのだった。

代替わりしたことによる内乱の兆しは、揚州の中にもある。
孫権はしばらくの間、内政に勤しむことになり、華北の争いに参加することはなかった。
若い孫権の真価が問われる日々が続く。
これからが、孫呉の踏ん張りどころとなるのだった。
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