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第22章 赤壁大戦編

第138話 孫呉の使者

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長江、烏林の入り江に釣り糸を垂らす男がいた。
その男は、編笠を目深にかぶっており、その表情を捉えることはできないが、遠目には笑っているようにも見える。
その不気味な男の元に、付近を哨戒しょうかいしていた曹操兵がやって来た。

「ここは曹操丞相の水上要塞の近くだ。直ちに立ち去らねば、ひっ捕らえるぞ」
男は曹操兵を見ると、溜息を一つ漏らす。疲れたように肩に手をあててほぐす動作をしてから、ゆっくりと立ち上がった。

「ようやくやって来たか。あまりにも遅いので、こんなに大漁となってしまったではないか」
その男は釣籠の中身を長江に向かって空ける。中から、七、八匹の魚が出てきて、水に帰ると元気に泳いでいった。

「何を言っている。立ち去る気がないのか?」
「ない」
その返答に曹操兵、三人はいきり立つ。槍の穂先を編笠の男に向けるのだった。

「おいおい、早まるな。私は揚州の重鎮、黄蓋将軍の使いの闞沢という者だ。曹操丞相にお目通り願いたい」
黄蓋と言えば、かつて江東の虎と呼ばれた孫堅の股肱ここうの臣で、今も孫家三代に仕える名将である。
曹操軍の下っ端の雑兵ですら、聞いたことがある名前だ。

その有名な将軍の使いと名乗る者が曹操丞相に面会を求めるとは、どういうことだろうか?この事案は、雑兵三人には手が余った。
三人は額を合わせて相談するのだが、もちろん結論は出ない。

仕方がないので、要塞の近くまでこの編笠の男を連れて行き、上役に相談することにした。
結局、その上役も判断しかねたのだが、たまたま見回りで巡回していた者の中に闞沢のことを知る者がおり、身元が判明する。

揚州の家臣の一人であることは確定したので、すぐさま上層部に報告がいった。
程なくして、晴れて闞沢は曹操に面会することが叶ったのだった。


この時期の敵軍からの使者に、曹操は相手の意図を図りかねる。
「闞沢と言ったか。一体、私に何の用かな?」
「何の用とは、悠長なことをおっしゃいますな」

曹操の質問に闞沢は、笑い飛ばして言い返す。この豪胆な態度に、曹操以外、この場に立ち合っている者たちの間から、どよめきが起こった。
その中の一人、龐統も面白そうな男がやって来たと、興味の視線を注ぐのである。

「私のどこが悠長なのか、教えてもらえるとありがたいのだが」
一見、挑発ともとれる闞沢の態度だが、さすがは曹操、落ち着いて対応した。
闞沢としては、多少、予測と違う展開なのだろうが、かまわず会話を続ける。

「この時期、白昼堂々と敵陣に乗り込むのは、死を覚悟してのこと。そのような者が訪れる以上、用向きは国家の大事しか他ならない。それを何用かと確認をされたので、悠長と申し上げたまでです」
「うむ。さすがに使者に選ばれるだけあって、口が達者だ。それでは、その国家の大事とやらを伺おう」

曹操に促されると闞沢は、黄蓋と韓当、両者の連名で書かれた手紙を曹操に差出した。
黄蓋の使者と聞いていたが、同じく孫呉の要となるべき将軍、韓当の名前まで飛び出したので、曹操は驚く。
興味深く、その手紙を何度も読み返した。

その手紙を要約すると以下のことが書かれている。
『今回の戦の首謀は、周瑜と魯粛の二名。ところが、その周瑜は曹操丞相の大軍を前にし、臆病風に吹かれて引き籠り、魯粛は他国の軍師の顔色ばかりを窺う。先日、その周瑜に指摘をしたところ、百杖の刑の辱めを受けました。ここに至り、盟友韓当とともに孫家を見限る決断をし、近く、曹操丞相の元へ馳せ参じたく存じ上げます。どうぞ、よしなにお取り計らいください』

曹操は、手紙をたたむと衛兵に闞沢を捕らえるように指示をした。
これは、何事かと闞沢は内心、青ざめるが気丈にも理由を曹操に問いただす。

「黄蓋、韓当が内応するということだが、肝心の期日が書かれていないではないか。戦が終わってから、馳せ参じますでは、まったく話にならない」
闞沢の疑問に自信を持って、曹操が答える。龐統も曹操から、その手紙を受け取って中身を吟味した。
龐統が手紙に夢中になっていると、闞沢の笑い声が聞こえだす。

「曹操丞相とは、どのような人物かと思っておりましたが、案外、見る目はないと見えますな」
「事が露見したからと言って、開き直るのは見苦しいのだが」
曹操は、そう決めつけるが闞沢は大きく頭を振った。

「内応するのは宿将の二人ですぞ。私のように自由に動けるわけがない。もし日時を定めて、その日を違えてしまえば、曹操丞相はどう思われますか?」
そう言われて、曹操もハッとする。

「・・・確かに、二度と信用しないかもしれない」
「長年仕えた主家を裏切るのです。それくらい慎重になるのは当然ではありませんか?それを約束の日が書かれていないなどの理由で足蹴にされては、黄蓋さま、韓当さまの覚悟が報われないというもの」

闞沢の言い分も分からないではなかった。こうなってくると曹操も判断がつかなくなる。
周りの荀攸、司馬懿も同様であった。

「龐統殿は、どう思われる?」
「そうですね」

龐統は手紙を、もう一度読みながら、闞沢に鋭い視線を送る。
当人は、見透かされないように気を吐いているようだが、曹操の所見通り、黄蓋と韓当の内応は、偽りだと見抜いた。

曹操が指摘した日時が記載されていないのは、単に決戦を挑む日にちが、まだ、決まっていないからだろう。
だから、書けなかったのだと推測した。

ここで、どう答えるべきか迷う。信用すべきと言うべきなのだが、その根拠となるものが乏しいのだ。
このところ、自分自身を見る司馬懿の視線が気になっており、迂闊なことは言えなくなっている。
「今のところ、信じる信じないは保留でよろしいかと。敵陣の内情を探らせてから、判断なさっても十分、間に合うのではないでしょうか?」

期日が定まっていないということは、見方を変えれば、時間的な余裕がまだあると言えた。
これが事実ならば、戦局に大きな影響を与えるだけに、もう少し慎重に扱ってもいいようにも思う。
龐統の意見は、見識深いように、荀攸、司馬懿も感じるのだった。

「そうだな。悪いが闞沢殿。ことがはっきりするまで、君は軟禁させてもらう。よろしいな?」
「ええ、すぐに分かることです。今は従いましょう」

闞沢を衛兵に任せると、一室の中に閉じ込めて、見張りを置くことにした。
広い部屋ではないが、窓もあり嫌疑定かでない他国の使者として、待遇が悪い方ではない。

しかし、闞沢はこの部屋に長居することはなかった。
曹操のもとに蔣幹からの報告が、やっと届いたのである。

黄蓋たちの計算では、とっくに報せがいっていたはずなのだが、それが遅れたのは、蔣幹が自分の手柄として報告内容を盛りに盛るため、何度も報告書を書き直したからだった。
曹操もその文章を読んで、苦笑いをする。

周瑜と黄蓋を仲違いさせたのが、自分の功績だと強く主張してあり、黄蓋の百杖の刑以降の三人の密談の様子も事細かく書かれていた。
まぁ、蔣幹の報告が話半分としても、孫権陣内に不協和音があったのは事実の様子。黄蓋及び韓当が内応するという話は信憑性が高まった。

それに伴い、闞沢の待遇も変わる。部屋から解放されると、今後の情報交換、打合せの使者として、陸口に戻ってよいとまで言われた。
闞沢自身は、もう孫家を見捨てこちらに来たため、戻りたくないと主張するのだが、他の者では黄蓋と韓当が疑うかもしれないと、曹操自ら、説得する。
闞沢は、内心ほくそ笑みながら、渋々という体で陸口へと帰っていくのだった。

内通の使者がいなくなると、曹操は、蔣幹の報告をもう一度、確認する。
その中で、内応に関わること以外、黄蓋の手紙にもあった周瑜自身が弱気になっているという事実が、どうやら本当であることが分かった点を大いに喜んだ。

曹操軍の方も疫病の蔓延など、非常に苦しい状態なのだが、予想以上に相手が警戒してくれていることに、このまま押し切れる可能性が出て来たのである。
水上での決戦経験が未だに曹操にはなかった。

しかし、用意したこの大艦隊で、このまま陸口へ向かえば、相手はなす術もなく、白旗を上げるのではないか?
そんな想像さえしてしまう。
そう考えると、黄蓋や韓当以外にも、こちらに降りたいと思っている敵将は、意外といるのではないかと勘ぐるようになった。

それは、あまりにも都合が良すぎるかと、戒める曹操だったが、苦難続きの江南攻めにようやく手ごたえを感じたのも事実である。
長年の経験から、決戦の日は近いと肌で感じた。
この優位を保ったまま、勝ち切る。
自身の勝利を疑わない曹操は、決戦の日を待ちわびるのだった。
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