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第22章 赤壁大戦編

第140話 東南の風は吹くのか?

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闞沢から書簡を受け取った曹操は、大いに喜んだ。
「では、二日後に周瑜が総攻撃を仕かけるのだな?」
「はい。その出撃に乗じ、黄蓋さまと韓当さまが、兵糧、武器を持参して内応いたします」

敵方の宿将二人が味方につくことも、さることながら攻撃を仕かけてくる日にちが分かったことは、曹操にとって大きい。
余裕を持って、対策を立てることができるからだ。

いよいよ孫呉との決戦かと軍議に参加している諸将は武者震いをする。
この烏林に来てから、軽い小競り合いはあったにせよ、本格的な戦闘は、今までなかった。
主な理由は、曹操軍の中に疫病が蔓延していたことと、陸口側も戦闘に消極的な姿勢を示していたからである。

ようやく大一番が始まるかと思えば、諸将の反応は自然なものと言えた。
ここで、曹操は、蔡瑁の後釜として水軍都督に任命した于禁と毛玠もうかいを目の前に呼ぶ。

「この大船団による戦闘、打合せ通り抜かりないな」
「はっ。弓箭きゅうせんを得意とする者、一万、準備はできております」

その答えを聞いて、曹操は満足した。
周瑜が攻撃をしてくるというのであれば、歓迎して派手に出迎えてやる。

曹操は、それだけの準備を烏林で行ってきた。
この大艦隊だからこそできる戦法も司馬懿が考案し、兵士の中には既に浸透している。

「諸将、決戦は二日後である。それまで、どのように過ごしても構わないが、準備を怠ることだけは許さない」
曹操は、一旦、諸将に対して、引き締めを行った。
その後、大きな声で気焔きえんを吐く。

「この戦で揚州を平らげ、この遠征を終わらせる。荊・揚の二州を版図に加え、許都へ凱旋するぞ」
曹操の一声に、雄叫びのような歓声が聞こえた。

士気は十分に充実している。
実はまだ、兵士たちの体調は万全ではない者も多いのだが、その不安が消し飛ぶほどに気勢が上がった。

龐統の鉄鎖の陣により、傷病者の状態は、烏林に来た当初よりも大分ましになっている。
戦をするならば、曹操にとっても、そう悪い時期ではないのだ。

欲を言えば、もう一月待ってもらえると、前線に復帰できる兵が更に増えるため、非常にありがたいのだが、それは虫が良すぎるというもの。
曹操は、思いのほか長くなった、この遠征に終止符を打つべく、決戦の日を待つのだった。


諸葛亮が七星壇に登ってから、二日が経過する。
風は、いまだ北西の風しか吹いておらず、周瑜はじっとしていることができない。

「まだ、期限までは一日ありますよ」
「それは、分かっているのだが・・・」
多少なりとも、天候に変化の兆しが見られれば気も休まるのだが、それすらないのでは心中穏やではいられなかった。

「少し、気温が上がったような気も致しますが・・・」
魯粛は、そう言うが周瑜には、何も感じられない。

諸葛亮が祈祷しているが、念じて風が変わるというのならば、自分にもできるだろう。
気分を紛らわせるために、冗談を言うが、「では、見せて下さい」と魯粛も乗っかって来た。

試しに周瑜が念じて旗を見上げると、不思議、北西の風がぴたりと止まる。
旗は力を失い、柱にしなだれるのだった。

「公瑾殿、これは・・・」
「うむ」

しかし、それも一瞬のこと。旗は再び、北西へと力強くなびくのである。
まぁ、当然そうだろう。

「風が変わるのは明日だ。今、変わっても、まだ準備ができていないからな」
「そうです。とにかくもう一日、待ちましょう」
このようなことで疲れを感じるのも損と、二人は東南の風については、諸葛亮、一人に任せることにするのである。


そして、翌日・・・・風は未だに変わっていない。
それでも黄蓋と韓当は準備を進めなければならなかった。

足の速い船団を用意して藁を満載にする。その中には火の回りをよくするために煙硝えんしょうなど、火薬の類を忍ばせた。
それらの上に青色の布を被せて、外見からは悟られないように隠すのである。

これで、準備は完了。
あとは周瑜からの号令を待つばかりとなった。

その周瑜は、ここに来て判断に迷っている。
『風は本当に吹くのだろうか?苦肉の計は、二度も使えないぞ』

何度、頭の中でこの自問を繰り返したか分からなかった。
この件に関しては、魯粛も口が重い。
励まし、鼓舞しようとも、根拠がないのだ。

そもそも東南の風が吹くという理由を諸葛亮から、誰も聞いていない。
分からないことを信じるには、いささか賭けているものが大きすぎた。
今さら、言い出すことではないのだが・・・

「あれ、お二人ともお揃いで、まだ、ここにいらっしゃるのですね」
不意に天幕の入り口が開くと入って来たのは簡雍だった。

「これは、簡雍殿。このような場所に来られるとは、珍しいではありませんか」
反応したのは魯粛である。正直、周瑜はこの簡雍のことなどすっかり忘れていた。

それは、諸葛亮の存在感があまりにも大きいせいでもある。
その簡雍とやらが、一体、何の用なのか?

「差し出がましいのですが、そろそろ、準備を始めた方がよろしいのかと思いまして」
「何の準備のことを言っているのかな?」

周瑜が、やや意地悪な質問をした。諸葛亮の従者風情が、軍事に口を出すなと言いたげである。
「確か、曹操さんからは狩りを誘われていたはずです。狩猟に出かける準備ですよ」

曹操からの手紙にかけて隠語を使ってくるとは、猪口才な。
周瑜は、もう少し簡雍との問答に付き合うことにした。

「しかし、その肝心の狩猟も、罠の仕掛けが不十分では、いい獲物が獲れるわけがない」
「仕掛けは、既に十分ですよ」

東南の風がまだ、吹いていない。話してみて、簡雍のことをもう少し頭のいい人物かと思ったが、見込み違いのようだ。
どうも状況を理解していない。

「いえ、本当に十分です。孔明さんの話を聞いている味方の周瑜さんですら、東南の風が吹くことを疑っている。それでは、敵方は?・・・当然、想像すらしていないでしょう。今以上に火計の強襲が成功する、その条件が揃うことがありますか?」
「確かに、そうだが・・・」

実体が伴わないでは、所詮、ただの空論で終わる。
行き詰まるところ、東南の風が吹くのか吹かないのかなのだ。

「東南の風は吹きますよ」
「その根拠は?」

簡雍は、諸葛亮からあの夜、風が吹く理由を聞かされていた。
最終的に周瑜の信を得るために、明かしてもいい許可までもらっている。

この戦は、機が肝要。
風が吹き出す前に信じて動き出さなければならないのだ。風が変わってからでは、曹操が不利と気づき退却することも考えられる。
そうすると、千載一遇の機会を、みすみす逃してしまうことになるだろう。

簡雍は、諸葛亮から聞かされたことを周瑜と魯粛に話した。
この時期、この地方において毎年、気象条件が揃えば東南の風が吹くということを。
その気象条件は、諸葛亮にしか分からないが、その前兆については聞いていた。

「東南の風は、南から暖気を連れて来ます。冬でありながら、少し暖かくなるのが、その前触れです」
そう言われれば、昨日から気温が上がったような気が魯粛はしていた。
周瑜も、昨日は感じなかったが、そう言われれば、暖かくなってきているような気はする。

しかし、それでは疑問が残った。
「自然現象で東南の風が吹くことを知っていながら、なぜ、諸葛亮殿は祈祷を行っているのか?」
「一言で言えば、そういう行動を起こさなければ、誰も信じないからです」

確かに、毎日続く北西の強い風が、明日は東南に変わりますと言って、にわかに信じる者は少ない。
下っ端の兵士の中には、迷信深い者も多かった。信用させて戦に没頭させるには、神秘的な儀式は効果的な方法だと思われる。

「それでは、最後に・・・毎年、吹くと言ったが、決まった日にちではないだろう。それが、どうして今日だと分かるのだ?」
「それは、孔明さんの洞察力と弛まない学問に対する探究心の成果です。その結果、本日の夜だと導き出したのです」

周瑜は唸った。
諸葛亮の智謀の冴えは知っている。その諸葛亮が極めた学問の成果だと言われれば、根拠として十分なような気がするのである。

「よし、分かった。出陣の準備を始める」
周瑜は簡雍に向かって、宣言すると、すぐに従者の一人を呼びつけた。

「公覆殿、義公殿に計画通りに進めると伝えてくれ」
その後、天幕を勢いよく飛び出していく。
本格的に準備を開始するつもりなのだろう。

「簡雍殿の助言、後押し、助かりました」
「いえいえ、全て孔明さんの指示です。私は従ったまでです」

諸葛亮が自分の努力を自慢するようなことを言うとは思えない。
東南の風が吹く説明は、諸葛亮の言葉としても周瑜を動かしたのは、間違いなく簡雍の言葉だと魯粛は思う。
相手が謙遜する以上、それ以上、追及する気はないが・・・

何にせよ、これでどのような結果になろうとも間違いなく歴史は動く。
曹操軍五十万対孫劉同盟軍四万。
後に語り継がれる赤壁の戦いが、本格的に開始されようとしていた。
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