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第22章 赤壁大戦編

第145章 憐憫、華容道

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曹操軍の足取りは非常に重かった。
やはり、先ほど葫蘆口で、食事にありつけると期待が膨らんだ中での、張飛の襲撃が効いている。

結局、何も口に入れることはできず、中途半端に食べ物の匂いが鼻腔をくすぐった分だけ、空腹感が増してしまった。
その昔、似たような状況で、近くに梅林があると機転を利かせて、兵を鼓舞させた経験が曹操にはあったが、今はそんな元気も出ない。

「江陵までは、あとどれほどか?」
「この山道、華容道を抜ければ、もう目と鼻の先にございます」

地理に詳しい者が、そう曹操に伝えた。もう一息といったところなのだが、季節は冬。
山道だけあって、雪がちらほらと降り出した。

空腹と寒さ。睡眠不足と相まって、ただ道を歩いているだけでも脱落していく者が、一人、二人と出始める。
曹操がこんなにも極限状態に追い込まれたのは、本当に久しぶりのことだった。
余計なことは、もう考えられない曹操だが、この華容道の雰囲気から、悪い想像がふと湧き上がってくる。

諸葛亮の兵法は、もう認めざるを得なかった。
趙雲、張飛の強襲で生き残れたのは、奇跡に近い。
そして、この華容道に曹操であれば・・・

「やはりか」
曹操が目にしたのは関羽の一軍である。
またもや、行動を読まれて伏兵を配置されていたのだった。

「皆の者・・・」
振り返って、声をかけるが途中で止まる。

関羽の襲来に兵士は全員、腰が砕けて、その場に座り込んでしまったのだ。
これでは、戦にならない。

「こうなれば、致し方ない」
曹操、自ら刀に手をかけた。関羽との一騎打ちに挑もうというのである。

「丞相、お待ち下さい」
すかさず、司馬懿が止めた。どう考えても犬死にしかならない。
それよりも、この場を切る抜ける方法に賭けるべきだと思ったのだ。

「丞相、関羽殿は真に義に篤い男でございます」
「そんなことは、重々、知っている」
「そこで、昔、丞相が関羽殿にかけた恩義にすがってみてはどうでしょうか?」

司馬懿が言っているのは、曹操が徐州を攻めた時、下邳城を守っていた関羽の命を助けたことを言っている。
その後、劉備の消息が知れた際も、いずれ敵対すると知りながら、関羽を劉備の元に送り出していた。

「分かった。戦うよりも、幾分、ましだ。試してみる価値はありそうだな」
曹操は、司馬懿の提案に従うことにする。
簡単な打合せをした後、駒をゆっくりと関羽の方へ進めて行った。

「こうして会うのは、白馬以来か・・・お互い、年を重ねたな」
「曹操殿、ご挨拶、痛み入るが、私も任務でこちらにやって来ている。潔く、首を差出していただきたい」
関羽としては、当然の主張だが、もう少し話を聞いてほしいと、曹操は粘る。

「言っていることは、十分に理解できるが、その前に、昔、君にかけた恩義のことを思い出してほしい」
「それならば、白馬で顔良を斬って、お返ししたはず」
「うむ。確かに・・・だが、劉備の元へ去る君を送り出した私の心情も、いくらかは察してほしい」

自分の言葉に関羽の気持ちが揺らいでいる。そう感じ取った曹操は、司馬懿に合図を送った。
司馬懿は、素早く関羽の前に平伏する。

「何もただでとは申しません。丞相の命を救っていただけるのならば、この場にいる五十名の首、ただちに献上いたします」
司馬懿に倣って、荀攸や一般兵も平伏するのだった。
中には天に祈りを捧げている者までいる。

曹操一人の命を助けるために、五十余名の人間が慈悲を乞うていた。
この様子に関羽は天を仰ぐ。

『この者たちを、私は討てない』
関羽は、何も言わずに赤兎馬を返した。背を向けているうちに、この場を去れという意味である。

「すまない」
その言葉を残して、曹操軍は足早に華容道を走って行った。
関羽は、その後ろ姿すら目で追うこともせず、軍を引き返す。

曹操は、最後にして最大の危機を脱することができた。そして、ようやく江陵城に辿り着いたのは、その日の夕刻のことであった。


戦勝に湧く夏口城。
帰還した趙雲、張飛からの戦果報告に盛り上がっていた。
そこに、手勢を率いた関羽がやって来る。

「おお、関羽将軍、お待ちしていました。ぜひ、我が君にご報告下さい」
諸葛亮が出迎えると、劉備の前まで案内する。
その間、関羽はずっと黙りっぱなしだった。

「趙雲将軍、張飛将軍から敵を討った報告を受けましたが、残念ながら、曹操の首については、まだです。きっと、関羽将軍がお討ちになったのでしょうね」
「いや、そのようなことはない」

関羽のただならぬ雰囲気に、騒いでいた城内が静まり返る。
劉備が心配そうに関羽を見つめた。

「曹操の首を獲れなかったのですか・・・おかしいですね。華容道の辺りでは、もう曹操軍は疲労の限界のはず。関羽将軍率いる精鋭相手に生き残れるとは、到底思えませんが・・・」
関羽は多くを語らないが、諸葛亮の鋭い追及は、まだ続く。

「まぁ、よいでしょう。それでは、とった兵の数はいかほどでしょうか?」
「首は一つもとっていない」
「何と!それでは、曹操軍は華容道に現れなかったのですか?・・・これは、私としたことが」

しかし、そんなことがないことは承知済み。
諸葛亮は、関羽の前を二度三度、往復しながら考え込む。
そして、結論を出した。

「関羽将軍、あなたは曹操に手心を加えましたね」
衝撃の言葉が諸葛亮の口から出たが、関羽は反論しない。
何故なら、まったくその通りだからだ。

「私は戦勝報告に来たのではない。懲罰を受けに来たのだ」
「なるほど。そういう訳ですか・・・では、罰を言い渡します。関羽将軍、あなたを斬首といたします」
斬首と言われても関羽は動じない。その場に座り込むと、潔くその首を前方に差出すのだった。

「曹操を討つことさえできれば、漢王朝を扶けるという我が君の悲願が達成できました。その機会を、自分勝手な判断で逃した罪は重い。よって、斬首が妥当なのです」
「長々と理由を言わずとも死罪にあたることは分かっている。さっさと刑を執行されよ」

目の前の情景に、劉備は唖然とする。
こんなことで関羽がこの世を去る。考えただけで、劉備の思考は固まってしまうのだった。

「大将!」
簡雍の呼びかけがなければ、そのまま呆けていたかもしれない。

「孔明、待ってくれ。雲長の罪は確かに許しがたいが、俺とは桃園結義で生死を誓った仲だ。雲長の死は、俺の死も意味する。どうかこの罪、一時、俺に預からせてくれないか?」
劉備がそう叫ぶと、張飛、趙雲が関羽の横に並んで平伏し、命乞いをした。

「軍師、後生だ。関兄の命だけは勘弁してくれ」
「私からもお願いいたします。この先、曹操が邪魔だと言うのなら、私が討ってきますゆえ、どうかご慈悲を」

すると、他の諸将からも関羽の助命を願う声が飛び交う。
この様子には、さすがに諸葛亮も折れるのだった。

「我が君、それと皆さんが、そこまで言うのであれば、斬首は取り消します。関羽将軍には、しばらく謹慎を命じます」
関羽は、張飛、趙雲に伴われ、下がっていく。

その後ろ姿を見送る諸将は、皆、身を引き締めるのだった。
関羽は、言わずとも知れた武官の筆頭である。その関羽でさえ、軍律に反すれば死罪を命じられるのだ。

誰もが軍律を守ることを肝に銘じる。
異様な雰囲気の中、報告会は終了して、武官、文官は散開した。広間には劉備と諸葛亮、簡雍のみとなる。

「孔明、雲長が曹操を討てないと知っていたのに、死罪はやり過ぎじゃないのか?」
「いえ、軍律の厳しさを理解していただくのに、非常にいい機会となりました。・・・ただ、私も少々、肝を冷やしましたが・・・」

諸葛亮は、劉備が止めに入るのが遅かったことを振り返った。危うく、あのまま斬首を執行するところだったのである。

「まったく、肝心なところで呆けるんだから」
「それは悪い。雲長が死ぬと考えたら、頭が真っ白になっちまった」
「いえ、中途半端なところで止めないでほしいと伝えていた、私の説明が悪かったのかもしれません」

いずれにせよ、簡雍の一言のおかげで、丸く収まってよかった。
赤壁での戦いも、勝利を得ることができ、曹操の野望を一旦は、止めることに成功する。

だが、劉備にとっては、その次が大切になるのだ。
曹操を退けたものの具体的な戦果は、まだ得ていない。

「孔明、次はどうする?」
「はい。曹操の軍勢は、完全に死んでいません。そこで曹操と孫権を噛みあわせて、その間に我らは荊州の南、四郡を取ります」

そんなことができるのかと思うが、諸葛亮が言うのであれば、間違いなくできるのだろう。
そもそも荊州を取ることは、諸葛亮の『天下三分の計』での既定路線。
荊州の地がないと始まらないのだ。

「それじゃあ、また、孫権のところと交渉だな」
「ええ。ただ、もう時代は動き始めています。それほど、難しいことはございません」

諸葛亮は、事も無げに言う。
劉備は、思わず笑ってしまった。

新野を捨てて落ち延びた日、一旦、全てを失ったのだが、ここから逆襲を開始する。
この頼もしい軍師と信頼を置ける家臣たちがいれば、本当になんとなるような気が劉備はするのだ。
どうせ、今は『ぜろ』。何も持ち合わせていなければ、失うものもない。

「それじゃ、ここから劉備伝説の第二章、開始だな」
「第一章があったのを知りませんでしたが、いつ終わったのですか?」

簡雍がからかうので、劉備としてはしまらないのだが、これはいつものこと。
このまま、もう一度、世に出ようと劉備は思う。
黄巾党討伐の義勇兵の頃と比べれば、だいぶ年を取ったが、まだまだ、気持ちは老け込んでいない。

「第一章の終幕は、ついさっきだ。そんなの俺の気分次第だよ」
「はぁ。・・・それじゃ、その伝説とやらは、何章まで続くんでしょうかね?」
「そんなもん、俺が生きている間、ずっとだよ」

簡雍は、「言うと思った」という顔するが、口には出さない。
これまでに劉備が領地を失ったのは、一度や二度ではなかった。

その度に、不屈の精神で立ち上がって来たのである。
それは、これからもずっと続くのだろう。

「でも、正直、疲れるので第三章は、勘弁して下さい」
「ああ、俺もそう思う」

広間の中に静かな笑いが広がった。
劉備が言う第二章は、笑いの中、始まるのだった。
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