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第26章 劉備入蜀編

第176話 涪城での宴

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法正からの書簡が届くと、成都の劉璋は大いに喜んだ。
その中身には、劉備が信用に足る人物だと言う記載があったからである。

「これで、問題なく劉備殿を成都に呼べるな」
陽気に話す劉璋とは裏腹に、黄権、劉巴らは浮かない顔をした。

「こちらの返答を待たず、劉備は公安を出発したと聞きます。これは、益州を取らんとする野心の現れではないでしょうか?」
黄権が注意を促すが、劉璋は気にも留めない。

「いや、それは我らが張魯に狙われている事情から、急がれたのであろう。英明な判断だと思うぞ」
この楽観的な思考が、今まで益州に平和をもたらしていたのだが、今回は裏目に出た。
黄権や劉巴が心配している緊張感が伝わらないのである。

そして、ついには、「それでは、涪城ふじょうまで出迎えに行こうではないか」と、言い出した。
劉備が率いている兵数も把握していない現状で、万が一にも裏切られた場合、涪城ではいささか心もとない。
万全の準備さえしていれば、涪城も悪い城ではないのだが、何せ行動が急すぎるのだ。

その点、成都であれば城壁も高く、変事が起きても防衛可能である。
ここは、大人しく待っていた方が、絶対的に安全なのだ。

「張魯の方にも動きがあるかもしれません。ここは、成都でお待ちになっていた方がよろしいのではありませんか?」
「なに、涪城など、目と鼻の先であろう。張魯が動いたところで、大して問題あるまい」

何を言っても、考えを改めることをしない。しかも自分、一人で準備を進めて、馬車の手配までするのだ。
こうなっては、益州牧を単独で行動させるわけにもいかない。

「軍の手配も必要です。申し訳ございませんが、数日、お待ちいただけませんか?」
「うん。・・・まぁ、そういうことであれば致し方ない。だが、劉備殿の到着前には、涪城にいないと話にならんぞ」

黄権は、しかと承って、何とか日数を稼ぐことができた。その間にできるだけ、劉備の情報を集めて、少しでも不審な行動がないか確認する必要がある。
調べて分かったことは、率いる兵は二万。主だった将は、黄忠と魏延という名前らしい。
らしいというのは、あまり二人に関する情報が益州にはないのだ。

荊州では名のある将かもしれないが、長い間、戦をしていない益州では他国の将の情報には疎い。
関羽、張飛、趙雲くらい有名であれば、さすがに益州でも知れ渡っているのだが・・・

その三将を連れて来ていないということが、また、益州の陪臣たちの判断を悩ます要因となった。
益州を本気で取りに来るつもりなら、当然、彼らの力は必要なはず。
連れて来ていないということは、益州を侮っているのか、それとも本当に取る野心がないのか。

判断ができないまま、時が過ぎ、劉璋が涪城に出発しなければならない期限となった。
劉璋を止める明確な理由がない以上、涪城へ行くのを黙認するしかない。

そんな中、強引な行動に出る臣がいた。
劉璋を乗せた馬車が成都の門の手前まで来たとき、足を縄で縛りつけ逆さ吊りになっている男がいるのである。

王累おうるいではないか。そこで何をしている?」
「劉璋さまに讒言、申し上げます。どうか、劉備と会うのを止めていただきたい」
「断ると申せば?」

王累は逆さの状態でも器用に剣を抜いた。足を縛り付けている縄を斬り、脳天から落ちると言う。
命を賭した讒言なのだが、劉璋には、ただの脅迫にしか見えなかった。

「好きにせい。私は劉備殿に誠意を見せなければならない」
劉璋は王累を無視して、馬車を走らせるのである。馬車が成都の門を通過した後、王累は涙ながら縄を切った。地面に大きな音が響く。

地面に落ちた王累の元に駆け付けた者が耳にした、王累の最後の言葉は、「惜しいかな、蜀」だったそうだ。
国の行く末を案じた臣の亡骸を背に、劉璋は涪城へと向かうのである。


涪城に着いた劉璋は、早速、歓待の準備を始めた。
遠路はるばるやって来る同族の英雄を迎え入れるのに、失礼があってはならない。

そんな劉璋は、王累が亡くなったことなど、もう忘れていた。
劉備とどのような会話をするかなどで、頭がいっぱいなのである。

準備万端、整ったところで、丁度、劉備一行が涪城に到着したとの知らせを受けた。
待ちきれぬとばかりに、劉璋は城外まで出て、劉備を出迎える。
この時点では、もう劉璋の行動を止める者は、誰もいなかった。

劉璋は、先頭にいる劉備の姿を見つけると、馬車から降りて到着を待つ。
劉備も劉璋にすぐ気づき、下馬して近づいて行った。
これが、二人の初めての対面である。

「お初にお目にかかります。荊州の劉備です」
「私の方こそ、お会いできて光栄。益州の劉璋です」

同族の雄同士は、固い握手を結んだ。
城の中で酒宴の用意があるというので、兵を城外に待機させ、主だった者たちで城内に入る。

席の用意が整うまで、別室で劉備は待機し旅の疲れを癒した。
休んでいるところ、龐統が劉備の前に立つ。

「一応、聞いておきますがね」
「ん?・・・ああ、なしだ。というか、その手のことは止めてくれ」
「承知しました」

主語や述語など、肝心な部分が抜けているが、龐統が言いたかったのは、劉璋をこの場で暗殺することである。
益州の主、取って代わるのに一番、手っ取り早い方法なのだが、龐統も本気で提案しているわけではなかった。

入蜀して間もない劉備が騙し討ちで、劉璋を討ったところで、人心掌握ができるはずがない。
益州を取るのであれば、土地と士民の併せでなければ意味がないのだ。

念のため、主君の意向を確認したが、龐統の考えと一致したため、素直に引いたのである。
法正も同様に考えていたため、早計に走らない劉備に安堵した。

正直、劉備も益州は喉から手が出るほどに欲しいが、どうやって手に入れるかは、算段がついていないのである。
一番、平和的なのが陶謙や劉表から持ちかけられた譲渡だが、そう簡単な話ではないことは分かっていた。
とにかく今は、実績を積んで劉璋の信任を得るしかない。

宴の中では、信用を得るため、ことさら仁者的な態度を示した。
そんな劉備に劉璋は傾倒する。

わずかに劉備の方が年上だったため、劉備のことを『大兄たいけい』と呼んだ。
劉備の方は、遠慮して、季玉殿きぎょくどのと字で呼ぶに留める。

「大兄の援軍、感謝いたします」
「我らは、同族です。助け合うのは当然のこと」

仁愛の言葉に感銘を受ける劉璋は、酒が大いに進んだ。そして、酒のせいか思慮が浅いせいか、重要な確信めいた質問を劉備に投げかける。

「大兄は、赤壁で曹操を破りましたが、天下への志をお持ちでしょうか?」
あまりにも突拍子もなく、大きな質問をするので、会場が一瞬、静まり返った。

その状況に気付きもせず、まったく意に介さない劉璋は、ある意味、大物かもしれない。
返答次第では、対応が変わるかもしれないと固唾を飲む蜀臣の前で、劉備は劉璋の問いかけを笑い飛ばした。

「男子たる者、そういった気持ちを持つことは必要だろう。・・・だが、今、私が考えているのは、漢室をどうやってお助けしていくかだけです」
「おおお、それは私も同様です」

するりと躱されたと、蜀臣は肩透かしを食らった気になったが、劉璋は、その回答を気に入ったようである。
劉備と劉璋は、ますます意気投合したのだった。

宴は和やかな雰囲気のまま、無事に終了を迎えることになる。
しかし、最後になって、また劉璋が飛んでもないことを言い出し、会場をざわつかせた。

「私は、大兄に譲りたいと思います」
一体、何を言い出すのかと、注目を集めた劉璋が口にしたのは、「私が連れてきた兵一万を、そのままお使い下さい」
さすがに益州を譲るとは言わなかったが、それでも直ぐに黄権と劉巴が止める。

今、一万の兵を劉備に渡せば、涪城は裸同然となるのだ。
劉備が占拠しようとした場合、対抗できない。
臣の讒言を疎ましそうに劉璋が聞いており、場の雰囲気が悪くなりかけたので、劉備がすっと立ち上がった。

「季玉殿のご厚意、感謝する。ただ、本日が初対面、御家中の方の心配も分かる。我らは、これよりすぐ葭萌関かぼうかんに向かい、張魯に備えるので、ご安心を」
宴に対する礼も述べると、劉備は退出した。

酔いも醒めぬうちに、葭萌関へ向かおうと言うのである。
そんな劉備に、劉璋は一万の兵を連れて行ってほしいと、再度、懇願した。あまり断り続けるのも不敬と考えた劉備は、増援を了承する。

新たに一万を加えて三万になった劉備軍は、風の如く旅立っていった。
劉備が涪城から去ると、とりあえず黄権、劉巴らは安堵で胸をなで下ろす。

「噂通りの仁君だったではないか」
ただ、劉璋が上機嫌になっていることが悩みに種として残った。

仁君ということであれば、尚更、劉備の存在は際立ってしまう。
一国に二人の盟主がいて、いい影響が出るはずがないのである。
劉璋の忠臣たちは、何事も起こらないことを切に願うのだった。
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