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「我人に背くとも、人我に背かせじ」

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西暦189年。
漢王朝の皇帝、霊帝れいていが崩御すると外戚である大将軍何進かしんと宦官の集まり十常侍じゅうじょうじの間で争いが起こった。

朝廷から地方の群雄までも巻き込んだ諍いは、互いの手による何進将軍の謀殺と宦官たちの殺戮一掃、それで終わりを告げる。

・・・そのはずだったのだが、混乱の中、他の諸侯を出し抜いた男がいた。
西涼せいりょう太守の董卓とうたくである。

董卓は権力を掌中に収めると、洛陽において暴虐の限りを尽くした。
新皇帝、少帝しょうていを廃し新たに献帝けんていをたてると、自身の一族の栄華のために、ありとあらゆる無法に手を染める。
董家に連なるものは、老いも若きもみな諸侯となり、領地を手に入れるのだった。

そんな董卓に配下になれと命令された、曹操孟徳そうそうもうとくという若き将校は、きっぱりと断り、漢の都、洛陽らくようを脱出する。
郷里に帰り、董卓討伐の軍を挙げるつもりだったのだ。

董卓の元を離れた曹操を危険分子とみなした、董卓の参謀李儒りじゅは、手配書を回して捕らえようとする。
その罪状は、『董卓の殺害未遂』

それを聞いた曹操は、鼻で笑った。
「私が本気で殺す気なら、未遂などで終わるはずがないだろう」

罪状は偽物でも手配書は本物。
これがなかなか厄介な代物で、通る関所ごとに変装や対策をうたなければならなかった。
そして、間もなく実家がある兗州陳留郡《えんしゅうちんりゅうぐん》というところで、とうとう曹操は捕まってしまう。

その地は中牟県ちゅうぼうけん
牢に入れられた後、県令の前に引き出されるのだった。
県令の名前は、陳宮ちんきゅうという。

陳宮は、曹操に董卓殺害の理由を問いただした。
「お主は、なぜ、董卓殿を殺害しようとしたのだ?」
「してもいないことに理由はつけれられないな」
白刃を持つ官吏の横で、堂々とした態度。
陳宮は曹操の胆力に目を見張った。

「では、殺す動機もないのだな?」
「動機ならある」
「なっ」
県令の尋問途中で、殺意を告白するとは、信じられない言動だった。
陳宮他、立ち会っている者のざわめきが収まらない。

「逆に県令殿にお尋ねするが、漢の禄をむ者として、董卓を殺害したいと思わない不忠者がいるのだろうか?」
董卓の手の者に聞かれたから、ここにいる全員が処刑されてしまうかもしれない。
それくらい危険なことを、曹操は言い放つ。
これ以上この場で、この男に関わるべきではないと判断した陳宮は、曹操は牢に戻すよう指示するのだった。


その夜、牢の中で眠りにつく曹操を起こす者がいた。
それは県令の陳宮である。
「いかがされた県令殿?」
「昼間、曹操殿の申す事の方が正論であると感じた」
「董卓の件かな?」

陳宮は黙って頷く。今でこそ、地方の小役人に収まっている陳宮だが、若いころは著名な人物らと交わりがあり、志も持ちあわせていた。

「曹操殿は、これからどうなさるおつもりか?」
「これから?」
曹操は陳宮に縛られている手を見せる。
これからのことなど語れる状況ではない。

「こ、これは失礼いたした」
陳宮は慌てて、牢を開けると曹操の拘束をといた。
曹操は自由になった両手をさすると、
「郷里に戻って、挙兵します」
「単独で討てるほど、甘い相手ではないと思われますが?」
「もちろん、そこで諸侯を巻き込むのです」

曹操が言っている意味が理解できない陳宮は、そのからくりを聞いて感心する。
偽勅をもって、反董卓連合を作るなど、その発想は見事というしかない。

しかも、この策の発案者は別にいると聞いて、驚きは増すのだった。
世の中は広く、知者も星の数ほどいるということか。
「これから、私も同行させて下さい。何としても陳留まで辿り着きましょう」

曹操は陳宮という仲間を得て、その夜のうちに牢を抜け出した。
陳留へ通じる道として、もう中牟県の関所は使えない。
別の逃走経路を決めなければならなかった。

夜が明け、山中で一休みしながら、今後のことを相談していると、商隊の一団が通りかかる。
ちょうど、腹も空かせていた二人は、何か食べ物を所望しようと交渉することにした。

手配書があるため、その交渉役は陳宮に任せて、曹操は草陰に隠れる。
交渉途中、この商人の声にどうも聞き覚えがあった曹操は、草陰からそっと顔を出して、様子を探ってみた。

すると、図らずも旧知の人物だったことに非常に驚く。
呂伯奢りょうはくしゃ殿ではありませんか」
「ん?」

不意に予想もしない方角から声をかけられ、その声の主を探す。そこには知人の曹操が立っていたため、呂伯奢は目を大きくした。
「これは、孟徳殿」と、名前を呼んだあと、周りに気を使って声を低くすると、
「一体、どうなされたというのですか?」

どうやら、手配書のことは承知済みで、曹操の心配をしてくれているようだった。
この呂伯奢は曹操の父、曹嵩そうすうの友人で、曹操自身も幼少のころから何度も面識がある商人である。
曹操が事情を離すと、呂伯奢は理解を示し庇護してくれることになった。

一旦、呂伯奢の商家がある成皋県せいこうけんまで戻ることになるが、次回の商談で地方に出る際には商隊の中に二人を紛れさせて、安全に陳留まで送ってくれるという。
成皋県だと、距離的に陳留から離れることになるが、安全というのは二人にとって、魅力的だった。

まぁ、急がば回れということだろう。
曹操と陳宮は呂伯奢の提案にのり、その荷台の中に隠れた。
荷台の中で揺られ、数日をかけて成皋県に着くと、呂伯奢の屋敷に案内される。

そこで、呂伯奢の息子たちを紹介されて、歓迎の宴が開かれることになった。
その準備の中、都一のお酒が売り出されている情報を聞き、呂伯奢が買い出しに出かける。
曹操はお構いなくと言いつつ、逃亡生活の中、まともな食事をしてこなかったため、宴の料理を楽しみするのだった。

ほどなくして時が経つと、陳宮からは意地汚いと言われるかもしれないが、待ちきれない曹操は、料理の様子を探りに行く。
すると、呂伯奢の息子たちのひそひそ話が聞こえてきたのだった。
しかも、その内容に曹操は耳を疑う。
慌てて、陳宮も呼び寄せ、二人で聞き耳をたてた。

「縛って、殺せばいいのではないか?」
「声を出されても迷惑だ。口も封じよう」
曹操と陳宮は顔を見合わせると、頷き合い、目で合図を送る。
機先を制するため二人は一気に台所まで行くと、有無を言わさず呂伯奢の息子を含む八人を切り殺した。
全員の死を確認した陳宮は、一息つこうと裏庭の井戸に回り、水を飲もうとする。

すると、驚愕の事実に唖然とした。
陳宮は、曹操を裏庭まで連れてくると、木に吊るされている豚を指さし、
「我々は、大きな過ちを犯してしまったようです」
どうやら、先ほどの会話は豚を屠殺とさつする相談だったようだ。
さすがの曹操も後味が悪い表情をする。

「ここに至っては悔いても仕方ない。呂伯奢が戻って来るまでに、逃げ出さなければ」
曹操のいう通りであるが、陳宮はなかなかすぐに動くことができない。
せめてもの気持ちと死体に手を合わせていると、曹操が荷物をまとめてやって来た。

「大義のためだ。今は逃げよう」
屋敷を飛び出した曹操を、後ろ髪を引かれながら陳宮も追うのだった。
呂伯奢の家にあった馬に乗って走っていると、前方に見たことがある荷台と馬を見かける。

「あれは、呂伯奢殿では?」
「そうだな」
お互いが認識できる距離にあり、今から隠れるのは不可能だった。
二人の慌てた様子に、呂伯奢は驚いて話しかけてきた。

仕方なく、曹操は馬を降りる。
「どうしました?何かあったのですか?」
「・・・実は、董卓の追手がやって来まして」
「それは大変だ。急いで逃げなければ・・・」

曹操は、咄嗟の嘘をつくが、このままその嘘を利用しようと考えた。
「お前の息子が密告したおかげだ。どう責任をとる?」
「そ、そんな馬鹿なこと・・・」
呂伯奢は信じられなかったが、曹操が嘘を言う道理はなさそうだ。

友人の子息を裏切ってしまうとは・・・
視線を落とし、うなだれた瞬間に曹操は呂伯奢を袈裟斬りにした。
「・・・曹嵩殿・・すまなかった」
その言葉を残して、呂伯奢は絶命する。

一部始終を見ていた、陳宮はあまりの出来事に呆然とするが、すぐに曹操を非難した。
「呂伯奢の息子たちは事故のようなもの。・・・しかし、今のは・・・」
完全なるだまし討ち。しかも、本来、何の罪もないというのに後悔の念を抱かせながら殺すとは・・・
おおよそ、良心を持つ人間の行動とは思えない。

「我人に背くとも、人我に背かせじ」
曹操はそう言うと、一人、馬に跨った。

どちらにせよ、生きたまま、呂伯奢を屋敷に返すつもりは曹操にはなかった。
家族の死体を見れば、いくら父親の友人とはいえ、曹操を許すはずがないからだ。
どうせ死ぬのなら、それなりに理由があった方が納得するというものだろう。
もっとも、曹操は死んだことがないため、死に際の人の気持ちなど、分かりようもなかったが・・・


その夜、山中で休憩していると、陳宮は黙って、曹操から離れようとした。
その後ろ姿に曹操は声をかける。
「陳宮、今、君が私に抱いている感情は、君が思っていることとは別のものだよ」
「ただの軽蔑だが、それが違うと?」
「ああ、違うね。それはというのさ」

曹操と自分が同族?
何を馬鹿なことを言っている。
陳宮は首を振ると、そのまま、曹操の元を立ち去るのだった。


ここは陳留太守、張邈ちょうばくの屋敷。
陳宮が曹操と別れて五年の歳月が流れていた。

今は、呂布りょふという猛将に参謀として仕えているのだが、これといった領地を持っているわけではなかった。
一方の曹操は、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの兗州牧。
この五年で、こうも差が開いたものかと思うが、別に自嘲しているわけではない。
冷静な分析の結果である。

陳宮は、今、屋敷の主、張邈を訪れようとしていた。
何やら、徐州から使者が来ているというので、話に加わろうと思ったのだ。
その使者の目的は、徐州を攻めている曹操の背後をついてほしいという依頼のはず。

どうも呂布が滞在していることもこみで、交渉に来ている節があるが、陳宮の考えと利害は一致する。
その思惑通りに乗ってやるつもりだ。
うまくいけば、曹操から兗州を丸ごと奪い取れるはず。

曹操のほえ面を拝めると思えば、その足取りも軽くなった。
現状の差など、ただの途中経過。最後に笑った者が勝ちなのだ。
別れ際、あの時、曹操が陳宮に放った言葉の意味が、今では分かる。
確かに陳宮の本質は、曹操と同じだった。

『さて、張邈をどうやって騙して、その気にさせるかの』
陳宮はほくそ笑みながら、徐州からの使者に話しかけるのだった。
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