宝生の樹

丸家れい

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序章

白人

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 がちゃり、と手枷が外れる音がした。

「逃げるなら今だ、あずま

 そう微笑んだ七歳年上の兄・蓮水はすみ直政なおまさの声を聴いた東は首を傾げた。拍子にざっくばらんに伸びた東の白銀の髪が揺れる。

 解像度の低い、不明瞭な世界で生きてきた東の瞳は、相も変わらず直政の姿を映し出すことはできなかった。

 手枷が外れたのは、二年ぶりだった。自由が利く手を所在なさげに宙に浮かせていた東は家の中の異変に気付く。
 まだ夜明け前のはずなのに、家の中が騒がしい。東の部屋である地下室まで、怒号や悲鳴が轟いていた。

「兄さん、何が起きてるの?」

 東が耳をすませるも、直政は何も言わなかった。不意に頭に何かが覆う。
 東が頭を触ると、刺繍が施されている打掛が被らされていた。

 おそらく、義母上ははうえの打掛だろう。

 自分が着衣している薄い麻で織られた着物とは違う、分厚くて華やかな打掛だ。

「いいか。もうすぐ夜明けだ。日に当たるなよ。裏口までは一緒に行ってやるが、その後は私の友人がお前を保護してくれる」

「兄さんの友人?」

「そうだ。年下の女ではあるが、気概のある女でな。頼りになるぞ。気が強すぎるのが玉に瑕ではあるがな」

 その友人のことを思い出しているのか、直政は困惑気に笑った。しかし、どこか愉快そうな口ぶりでもあった。

 東は薄い唇を開く。

「兄さんはその後どうするの?」

「私は私の罪を償わねばならん」

「罪って……」

 なに、と問おうとした東の語尾を遮るように、ぐしゃぐしゃと直政に頭を撫でられた。

「行こう」

 東は直政に手を引かれながら階段を上り、地下室を出た。

 家の匂いを嗅いだのは久方ぶりだ。地下室の冷たくて湿った空気が充満していた東の肺の中に、家族の気に染まった空気がぬるりと入り込む。

 怒りの気、憎しみの気、怯える気。

 混沌とした感情の渦の中心にあるのは、自分への非難の色。

 今、家の中が騒然としている原因は自分なのだと東は悟った。

 だから、直政が自分を逃がしてくれているのかと思案していると、裏口付近に誰かがいる気配がした。

「兄さん、その先、誰かいるよ。……たぶん、父上だ」

 たぶん、と言ったのは東が一度も父親と会ったことがないからだ。直政が地下室へ来てくれるときにかすかに感じる黒いもの。
 優しい直政に冷たい黒を保有する要素などない。直政に付着した黒は、父親のものなのだろうと東は憶測を立てていた。

 直政は、東の手首を掴む手に力を込めて立ち止まることなく歩を進めた。
 直政の切れ長の瞳に、恰幅の良い影が映り込む。立ち止まった直政は顔を歪めて目を眇めた。

「父上」

 直政の低い声に東はびくりと身体を震わせた。いつも穏やかな直政から発せられた声とは思えぬほどの嫌悪の色が帯びていた。

 東は顔を歪める。
 弱視である自分の瞳は、常に黒色と灰色の世界しか映さない。ぼんやりと人影を感知する働きがあるものの、不明瞭で誰が誰なのか判別はできなかった。

 だが、東は色を感じることができた。

 感情の類である気の色やその人が持つ天来の色。
 目が見えなくとも、頭の中――額のあたりに色や映像が浮かぶのだ。

 相手の記憶なのか、人物が浮かぶこともあれば、人外の姿も垣間見ることがある。

 今、頭の中で視えるのはすべての光を吸い取る粘着質な黒色。私欲に塗れ、大切なものを見失った色。他者のことは顧みない非情な欲がぶくぶくと肥えたねっとりとした黒色は、次第に形を成していく。

 蜘蛛のように細長い手足を生やしたそれは、しがみ付くように父親の影を覆う。

 陰の気に包まれた父親には妖怪が憑いていた。
 
 妖怪を見るのは初めてではないが、妖怪から放たれる歪んだ気と父親から放たれる自分に向けられた憎悪の気に東は眩暈を起こす。

 ふらついた東は直政の温もりに縋った。

 黒い髭を蓄えた父親が檄を飛ばす。

「直政、お前か。主上に告げ口をしたのは!」

「そうです」

 直政は迷うことなく確然と言う。父親の怒号に怯えた東は面を伏せた。

 次いで、東はにわかに困惑する。

 兄さんが、僕のことを露見したの……?

 東の髪の色は白銀。肌も抜けるような白で、東のような色の薄い人間を倭ノ国では白人しろひとと呼ぶ。
 白人は視力も弱く、皮膚も弱い。太陽の日差しを受ければ火傷を負ってしまい、外を出歩くこともままならない。

 そして、古来より倭ノ国に生まれ出づる白人は断罪だと決まっていた。白人は倭ノ国に災いをもたらすと。故に、白人を産み落とした血族もまた断罪。家系の断絶、自らの死を恐れた父親は東を病死としていた。

 本来なら父親に殺されていてもおかしくはなかった東だが、命を取り留めることができたのは、母親のおかげなのだと直政から聞かされている。

 その命を繋いでくれた母は、東が二歳を迎えたときに病死し、東は地下室へ閉じ込められた。後添いの義母、義母が生んだ妹も、一度も地下室へやってくることはなかった。

 東のことを気にかけてくれていたのは、兄の直政だけだった。

 直政の反抗的な物言いに父親が歯噛みする。

「主家を支えてきた譜代の臣が、裏切り行為をして許されると思うか!」

「思いません。ですから……」

 直政はゆっくりと、東から手を放した。そして、鞘から刀を抜いて父親に向ける。
 狼狽する父親の声が情けなく響く。

「な、直政! わしに刀を向けるとは……早く、刀を仕舞え!」

「以前より、私はあなたに失念していた。……譜代の臣がなんだというのか。譜代の臣だからといって、家臣団内で威張り倒し、終には謀反まで企むとは……。自らの企てを遂行するために罪のない民を処刑するなど性根が腐っておる。……いや、私もか……」

 皮肉気に笑う直政に、東は憎悪に似た悲哀の感情を受け止めた。

 東がぎゅっと直政の袴の袂を握り締めると、直政は柔らかく笑んだ。
 
 次いで、

「この家から出ていけ」

 と東を腕で押しやった。
 東は呆然と立ち尽くす。

「ならぬ!! こいつの存在が明らかになれば確実にわしらも罪を被らねばならん! 今、殺せばよい! 死体は隠しておけば証拠はなくなるのだ。主上に言い訳が立つ!」

 そう黒い焦燥感を滲ませた父親は刀を抜いて、東に振り上げた。
 東は動けなかった。

 瞬間。

「『こいつ』ではない。『東』だ」

 冷酷に響く直政の声と共に、ごとりと何かが落ちた音と液体が飛び散る音が聞こえた。そして、「わしの腕が……!」と悲鳴を上げる父親の叫び声が醜くこだまする。

 自分に向けられた父親の憎悪の言葉が、色が、東の身体を強張らせる。

「早くいけ!」

「で、でも……!」

「行け!!」

 直政の鋭い声に弾かれたように東は走り出した。背後から直政の声が投げられる。

「達者でな。あおによろしく」

 東は振り返ることなく下唇を噛み締めて、裏口の扉を押した。
 
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