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第二章 沈められた少女
第8話 沈められた少女
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*
──やっぱり、そうだ。
諸星日向は散らばった資料と向き合っていた。
東條大学文化人類学のゼミは大学の外れの古びた建物の一室にある。壁の色はくすみ、夏には雑草が生い茂る。しかしながら日向は、静かなこの空間が好きだった。
ゼミの顧問である織部努も帰宅したので、部屋には日向しか残っていない。かつては校舎として使われたこの場所も、今では文化人類学部のゼミでしか使用されていない。おかげでこの場所は、織部のどこで買ったのかわからないような土器や仮面など、民俗学研究の資料で溢れかえっていた。
日向は調査の手掛かりとなった、あるものを見ていた。
この手掛かりが正しいならば、日向が立てていた仮説とも符合してくる。
明日、織部に話してみようと日向は思った。論文にしようかと思っていた内容だが、まだ織部には何も話していない。仮説がまだ想像の域を出ていなかったからだ。
散らばった資料を手繰り寄せ、大雑把にまとめて机にしまうと、日向は電気を消して部屋を後にした。
辺りは暗くて不気味だが、一年通っているうちに慣れてしまった。四月の夜はまだ肌寒く、肩に掛けていたカーディガンに袖を通した。
少し歩くと裏門がある。本館からは離れているので、ここを利用する学生は少ない。
年寄りの警備員に会釈をして門を抜ける。
日向は大学の近くのマンションで一人暮らしをしている。
父親から、母親は日向を生んだ直後に離別したと聞かされていた。そのため、日向は父親の手で育てられた。
父親は日向が三歳の時に病に倒れ、そのまま亡くなってしまった。そのまま日向は、千葉に住む父方の親戚に引き取られた。
叔父や叔母は元々父とはあまり連絡を取っていなかったということで、父や日向を生んだ母親に関して、あまり知り得るものはなかった。
父親の遺品に古い日記があったことに気付いたのは、しばらく後のことだった。日向が一才になる頃から亡くなる少し前の日付で止まっていた。
日記といっても日付は飛び飛びで、日向の育児に関する記録がほとんどだった。父は実業家の祖父母の会社を継いだことにプレッシャーを感じていた矢先、幼い日向の世話も重なったことで苦心していたようだ。
しかし、一箇所気になることが書いてあった。そこには『彼女は今頃どうしているだろう、魔女に呪われた華月町に帰っていることはないだろうが』と書かれていた。
育ての親である叔父や叔母に訊いてみても、日向の母親について知っている人間は誰もいないと言われた。それはおろか、結婚していたということさえ知らない人ばかりということだった。
ネットで検索すれば何でも出てくる時代だが、特に名産や観光地のない過疎の華月町については、ほとんど有益な情報は出てこない。
話題がヒットしたとしても、数年前に華月町に拠点構えた、サバトという宗教法人のきな臭い話題ばかりだった。それも噂話がほとんどで、使える情報はあまりない。高校生になった日向は、民俗学に興味を持ち始めたこともあり、大学で華月町について学ぼうと決意した。
准教授の織部が受け持つ二年制のゼミに入り、一年学んだ。織部は民族による文化形成を研究している。
華月町については全く知らないということだったが、情報収集に親身になって協力してくれた。日向の話を聞いたこともあるだろうが、失われつつある風習というものが、研究者の魂に火をつけたのだろう。
実の母親についてのことも知りたかったが、それ以上に『魔女に呪われた華月町』という言葉が気になっていた。それから、華月町に着いて調べる日々が始まったのだ。
いつかそれが母の身元を知ることになるようにと祈りながら。
車に気づいていなかったわけではない。けれど、浮かんだ仮説を整理して歩いているうちに、警戒心が薄れていた。
気づいた瞬間には口を手で塞がれ、車に引きずり込まれた。
車の後部座席に押し込まれ、馬乗りにされた。頭が混乱し、叫ぶこともできないうちに、黒い手が日向の目と口にガムテープを貼った。うつ伏せにされ、抵抗もできないうちに手足を拘束され、身動きが全く取れなくなった。
「よし、出せ」
男の声がして、車が動き始めた。日向は戒めを解こうともがくが、テープは全く緩みそうにない。
暴れる日向を乗せた車は、華月町に向かって走り出した。
*
華月町の外れにあるサバトの施設に蝋燭の明かりが灯り、二つの影を揺らしていた。
「アルダ様、間もなく到着します」
声を掛けられアルダは、イリスの方を向くと静かに頷いた。
『アルダ様。失敗してしまいました』
というノックスの言葉を思い出す。
見つかった少女の死体に、静かな町は一変した。
しかし、過去を嘆いてばかりもいられない。もう既に事態は動き始めているのだ。アルダは首を吊って息絶えた少女の姿を思い描く。
彼女に罪はない。ただ、選ばれた、それだけだ。
我々が彼女を殺したのだ。
そんなことを考えていると、外から一台の車が入ってきた。
間もなく、新たな生贄が捧げられる。
──あの魔女の滝に。
*
──嫌だ、やめて。助けて。
諸星日向は素足に感じる冷たい岩を踏みしめながら思った。目の前に流れる川の水は轟音を放ちながら眼窩の暗闇へ呑み込まれていく。
日向は白装束を着させられ、後ろ手に縛られ、足も膝で縛られていて身動きができない。猿轡を噛まされているので声を出すことさえもできない。
「魔女よ。貴女に、この女の魂を捧げる」
声がした。──魔女、それはずっと日向が調べていたもの。
日向を囲うように、黒いマントに仮面を着けた人物が三人いた。背は違うが、皆が同じ仮面を着けている。
魔女、サバト、あなたたちは一体。
真ん中にいる人物がナイフを日向に近づける。このままでは刺されてしまうが、背後には切り立った崖の滝しかない。さほど高くはないが、縛られた状態で落ちては助からないだろう。
じりじりと迫る切っ先に、思わず後退りするが、背後には滝が迫っていた。逃げようにも膝から下しか動かないので、走ることもできない。
ナイフが身体に接するほど近づき、反射的に一歩下がってしまった。
バランスを崩したが、不自由な身体では立て直すことができなかった。
身体が宙を舞った。
一瞬の静寂ののち、怒号のような水音に包まれた。
落下しながら、全てがスローモーションになり、飛沫の一粒一粒がはっきりと見えた。
束の間の浮遊ののち、全身に衝撃が走る。猿轡は水面に落ちた衝撃で外れたが、代わりに開けた口に濁流が一気に流れ込んできた。
上下左右全てが暗闇だった。強く押さえつけられるように、頭上に強い水圧を感じた。おそらく、こちらが水面だ。しかし水を掻いてもがこうとするが、迫りくる水圧がそれを拒み、抗おうとするが縛られた手足ではどうしようもない。日向は自分がここで死ぬのだと悟った。
諦めを受け入れた瞬間、苦しみが軽くなった気がした。
頭に、優しく微笑む女性の姿が浮かんだ。あれは、誰だろうか。
気づいていた。あれが自分の母親の姿なのだと。
日向は母親の顔を知らない。けれど、確信していた。幼児の頃の記憶が生んだ幻だったのかもしれない。理由など、どうでも良かった。おそらく、これが自分にとっての走馬灯なのだ。ずっと会えなかった、探し続けていた母親が、そこにいた。
身体から力が抜けていく。
打ち付ける水の轟音も、もう聞こえなくなっていた。
ここは深海のように穏やかで、胎内にいるかのような安心感に包まれている。
薄れゆく意識のなか、目を瞑った日向の顔には微笑が浮かんでいた。
ライトが当てられ、水面を跳ねる泡となった水がキラキラと輝いていた。
五分経っても沈んだ少女は浮かんでこない。
そのまま川にでも流れていけば、万一にもどこかに引っかかり助かる可能性はある。しかし、この滝のふもとは水が深く溜まり、池のようになっている。手足を縛られた状態では、ここから脱出することは不可能だ。
これで魔女への貢ぎ物は終わった、わけではない。欲深き魔女にとっては、一人の少女の魂では足りないのだ。
「あと一人……」
仮面をつけたまま、男は小さく呟いた。
──やっぱり、そうだ。
諸星日向は散らばった資料と向き合っていた。
東條大学文化人類学のゼミは大学の外れの古びた建物の一室にある。壁の色はくすみ、夏には雑草が生い茂る。しかしながら日向は、静かなこの空間が好きだった。
ゼミの顧問である織部努も帰宅したので、部屋には日向しか残っていない。かつては校舎として使われたこの場所も、今では文化人類学部のゼミでしか使用されていない。おかげでこの場所は、織部のどこで買ったのかわからないような土器や仮面など、民俗学研究の資料で溢れかえっていた。
日向は調査の手掛かりとなった、あるものを見ていた。
この手掛かりが正しいならば、日向が立てていた仮説とも符合してくる。
明日、織部に話してみようと日向は思った。論文にしようかと思っていた内容だが、まだ織部には何も話していない。仮説がまだ想像の域を出ていなかったからだ。
散らばった資料を手繰り寄せ、大雑把にまとめて机にしまうと、日向は電気を消して部屋を後にした。
辺りは暗くて不気味だが、一年通っているうちに慣れてしまった。四月の夜はまだ肌寒く、肩に掛けていたカーディガンに袖を通した。
少し歩くと裏門がある。本館からは離れているので、ここを利用する学生は少ない。
年寄りの警備員に会釈をして門を抜ける。
日向は大学の近くのマンションで一人暮らしをしている。
父親から、母親は日向を生んだ直後に離別したと聞かされていた。そのため、日向は父親の手で育てられた。
父親は日向が三歳の時に病に倒れ、そのまま亡くなってしまった。そのまま日向は、千葉に住む父方の親戚に引き取られた。
叔父や叔母は元々父とはあまり連絡を取っていなかったということで、父や日向を生んだ母親に関して、あまり知り得るものはなかった。
父親の遺品に古い日記があったことに気付いたのは、しばらく後のことだった。日向が一才になる頃から亡くなる少し前の日付で止まっていた。
日記といっても日付は飛び飛びで、日向の育児に関する記録がほとんどだった。父は実業家の祖父母の会社を継いだことにプレッシャーを感じていた矢先、幼い日向の世話も重なったことで苦心していたようだ。
しかし、一箇所気になることが書いてあった。そこには『彼女は今頃どうしているだろう、魔女に呪われた華月町に帰っていることはないだろうが』と書かれていた。
育ての親である叔父や叔母に訊いてみても、日向の母親について知っている人間は誰もいないと言われた。それはおろか、結婚していたということさえ知らない人ばかりということだった。
ネットで検索すれば何でも出てくる時代だが、特に名産や観光地のない過疎の華月町については、ほとんど有益な情報は出てこない。
話題がヒットしたとしても、数年前に華月町に拠点構えた、サバトという宗教法人のきな臭い話題ばかりだった。それも噂話がほとんどで、使える情報はあまりない。高校生になった日向は、民俗学に興味を持ち始めたこともあり、大学で華月町について学ぼうと決意した。
准教授の織部が受け持つ二年制のゼミに入り、一年学んだ。織部は民族による文化形成を研究している。
華月町については全く知らないということだったが、情報収集に親身になって協力してくれた。日向の話を聞いたこともあるだろうが、失われつつある風習というものが、研究者の魂に火をつけたのだろう。
実の母親についてのことも知りたかったが、それ以上に『魔女に呪われた華月町』という言葉が気になっていた。それから、華月町に着いて調べる日々が始まったのだ。
いつかそれが母の身元を知ることになるようにと祈りながら。
車に気づいていなかったわけではない。けれど、浮かんだ仮説を整理して歩いているうちに、警戒心が薄れていた。
気づいた瞬間には口を手で塞がれ、車に引きずり込まれた。
車の後部座席に押し込まれ、馬乗りにされた。頭が混乱し、叫ぶこともできないうちに、黒い手が日向の目と口にガムテープを貼った。うつ伏せにされ、抵抗もできないうちに手足を拘束され、身動きが全く取れなくなった。
「よし、出せ」
男の声がして、車が動き始めた。日向は戒めを解こうともがくが、テープは全く緩みそうにない。
暴れる日向を乗せた車は、華月町に向かって走り出した。
*
華月町の外れにあるサバトの施設に蝋燭の明かりが灯り、二つの影を揺らしていた。
「アルダ様、間もなく到着します」
声を掛けられアルダは、イリスの方を向くと静かに頷いた。
『アルダ様。失敗してしまいました』
というノックスの言葉を思い出す。
見つかった少女の死体に、静かな町は一変した。
しかし、過去を嘆いてばかりもいられない。もう既に事態は動き始めているのだ。アルダは首を吊って息絶えた少女の姿を思い描く。
彼女に罪はない。ただ、選ばれた、それだけだ。
我々が彼女を殺したのだ。
そんなことを考えていると、外から一台の車が入ってきた。
間もなく、新たな生贄が捧げられる。
──あの魔女の滝に。
*
──嫌だ、やめて。助けて。
諸星日向は素足に感じる冷たい岩を踏みしめながら思った。目の前に流れる川の水は轟音を放ちながら眼窩の暗闇へ呑み込まれていく。
日向は白装束を着させられ、後ろ手に縛られ、足も膝で縛られていて身動きができない。猿轡を噛まされているので声を出すことさえもできない。
「魔女よ。貴女に、この女の魂を捧げる」
声がした。──魔女、それはずっと日向が調べていたもの。
日向を囲うように、黒いマントに仮面を着けた人物が三人いた。背は違うが、皆が同じ仮面を着けている。
魔女、サバト、あなたたちは一体。
真ん中にいる人物がナイフを日向に近づける。このままでは刺されてしまうが、背後には切り立った崖の滝しかない。さほど高くはないが、縛られた状態で落ちては助からないだろう。
じりじりと迫る切っ先に、思わず後退りするが、背後には滝が迫っていた。逃げようにも膝から下しか動かないので、走ることもできない。
ナイフが身体に接するほど近づき、反射的に一歩下がってしまった。
バランスを崩したが、不自由な身体では立て直すことができなかった。
身体が宙を舞った。
一瞬の静寂ののち、怒号のような水音に包まれた。
落下しながら、全てがスローモーションになり、飛沫の一粒一粒がはっきりと見えた。
束の間の浮遊ののち、全身に衝撃が走る。猿轡は水面に落ちた衝撃で外れたが、代わりに開けた口に濁流が一気に流れ込んできた。
上下左右全てが暗闇だった。強く押さえつけられるように、頭上に強い水圧を感じた。おそらく、こちらが水面だ。しかし水を掻いてもがこうとするが、迫りくる水圧がそれを拒み、抗おうとするが縛られた手足ではどうしようもない。日向は自分がここで死ぬのだと悟った。
諦めを受け入れた瞬間、苦しみが軽くなった気がした。
頭に、優しく微笑む女性の姿が浮かんだ。あれは、誰だろうか。
気づいていた。あれが自分の母親の姿なのだと。
日向は母親の顔を知らない。けれど、確信していた。幼児の頃の記憶が生んだ幻だったのかもしれない。理由など、どうでも良かった。おそらく、これが自分にとっての走馬灯なのだ。ずっと会えなかった、探し続けていた母親が、そこにいた。
身体から力が抜けていく。
打ち付ける水の轟音も、もう聞こえなくなっていた。
ここは深海のように穏やかで、胎内にいるかのような安心感に包まれている。
薄れゆく意識のなか、目を瞑った日向の顔には微笑が浮かんでいた。
ライトが当てられ、水面を跳ねる泡となった水がキラキラと輝いていた。
五分経っても沈んだ少女は浮かんでこない。
そのまま川にでも流れていけば、万一にもどこかに引っかかり助かる可能性はある。しかし、この滝のふもとは水が深く溜まり、池のようになっている。手足を縛られた状態では、ここから脱出することは不可能だ。
これで魔女への貢ぎ物は終わった、わけではない。欲深き魔女にとっては、一人の少女の魂では足りないのだ。
「あと一人……」
仮面をつけたまま、男は小さく呟いた。
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