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プロローグ
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二〇一七年四月二十二日 土曜日
──大人になんてならない。 高澤美沙は漠然と、そう感じていた。
十七歳になってからも、自分が大人に近づいているという感覚はまるで起きなかった。人は何をもって、大人になったといえるのだろう。
K県にある華月町は山奥にある、時代に取り残された町だ。田舎町に流れる空気は、都会に流れるそれとは違う。人が多く行き交うほど空気は循環される。
それに比べ、人の出入りが少ない田舎町は空気が淀んだまま、どこにも流れていかないようだ。同級生には田舎の空気を嫌い、都会に憧れる子が多いが、美沙にとってはそれが嫌ではなかった。
アルバイトをしている喫茶店《ホープ》は、まさに町の止まった空気を象徴するような古くからある純喫茶だった。
店主の新島保はしきりに「ここは喫茶店ではない、カフェだ」と主張するけれど、誰がどう見てもカフェと呼ぶにはほど遠い、寂れた田舎町の一角に佇む個人経営の喫茶店だった。
四人掛けの席が二つ、二人掛けの席が三つ、カウンターに五席、そこに座るのは、古くからの常連客ばかりである。当然ながら誰もここをカフェという常連客はいない。何十年も代わり映えしない客たちが通ってきた、それが喫茶ホープなのだ。
高校に入ってからバイトを始め、一年半ほど経つと美沙も店に溶け込み、常連客ともすっかり馴染みとなった。馴染みになるというよりは、時代が止まったこの喫茶店の空気に染まっているという感じだけど。
お世辞にも美人とは呼べない地味な顔立ちの自分だが、常連の高齢者たちには愛嬌のある顔に見えるようで、美沙は常連客たちから孫のように可愛がられていた。
コンビニでバイトをしている友人からは、毎日のようにこんな客が来たと愚痴を聞く。それを考えれば、問題を起こさない馴れた常連客ばかりの喫茶店の方が楽なものだ。
一年前のホープの姿を並べても、今と座っている人が全く違わないほど、ここは時が止まっている。
「美沙ちゃん、それ終わったら上がっていいよ。あとはやっておくから」
テーブルを拭き終わろうかというタイミングで声を掛けられた。ホープの営業時間は夕方の六時までだ。シフトは週末の土日が中心だけど、平日も学校帰りに片付けを中心にバイトをしている。
妻に先立たれた保の負担を少しでも減らせればと、自ら提案したのだ。美沙が手伝いをするまでは、客足が落ち着く夕方まで、食器類が流し台に積まれたままになっていた。
代わりに土日は早めに上がらせてもらえるようになった。 片づけを終え、保に声を掛けてから店を出ると、辺りは暗くなっていた。
四月も後半になって陽も長くなっていたが、華月町のような山間にある町では、平地よりも早く日が沈む。
点々と、申し訳程度に設置されている街灯が、頼りなく道を照らしていた。それでも生まれ育った町で、周りは知っている人ばかり。夜道を歩くことに、恐ろしさを感じることはなかった。
晴れた昼間は暑さを感じるほどの陽気だが、夜はまだ肌を出して歩くには寒い。家までは歩いて十五分ほど。
その間、民家はあるが、人通りはほとんどない。家から漏れてくる生活音以外は何も聞こえない、静かな夜だった。 静かで暗い場所は、美沙の想像力を広げるにはピッタリの場所だ。
昨日は良い事があった。密かに気になっている同級生の中里晃一と話すことができたのだ。気になったのは数ヶ月前。それなのに、まだ話しただけで高揚している自分が情けなくもあった。
彼が気になってからというものの、すっぴんで学校へ行くことが恥ずかしくなり、隣町まで買いに行って、馴れない化粧も始めた。
「あ、それって。高澤もあの映画好きなの?」 カバンに付けていた、有名な海外のアニメ映画のキャラクターグッズだった。
「う、うん。中里くんも?」
「俺、大好きなんだ。今度また続編やるよな」
返事をしようとした矢先、彼は他の男子に呼ばれていってしまった。
今どき、こんなベタな事で喜んでしまうなんて。周りの子は化粧も恋愛も当たり前のようにしているのに、自分は本当に現代を生きる女子高生なのだろうか。
彼の事を思い浮かべ、彼と一緒にあの映画の続編に行けたらなんて考えながら歩いていた。
暗さで気づかなかったが、公園の脇に一台のワゴン車が停車していた。闇に溶け込むような黒い車体はこの辺りで見慣れないものだ。暗くて人が乗っているかは判らない。
知らない車がこんな時間にいるのは珍しいなと思いつつも、それ以上は気にも留めず歩いて横を抜けようとした。
ドアの開く音がしたと思った瞬間、革の手袋をした手が口を塞ぎ、足が地面から離れた。美沙の小柄な身体はいとも簡単に持ち上げられ、ワゴン車の中へ引きずり込まれた。
「動くな、静かにしろ」
男の声がした。暗い車内に鈍く光る何かが見えた、それは切っ先を美沙に向けたナイフだった。男の言葉がなくとも、美沙は混乱と恐怖で動くことができなかった。
なんとか頷くと、口を押えつけていた手が離れた。それでも声を出すことはできない。男が何かを美沙の足の上に放り投げた。
「それを口に貼れ」
男が転がしたガムテープを持ち上げる。指示に従おうとしても手が震えてうまくいかない。 もたつく美沙へ男が「早くしろ」と苛立ちげに怒鳴りつけた。
震えながらもなんとかガムテープを千切り、口に貼った。不快な臭いが鼻をつく。
「足も縛れ」
男がナイフを向けたまま指示を出した。言われたとおりにガムテープを引き出し足首に巻いていく。恐怖で息が荒くなるが、口が塞がっているため、息苦しい。足首に巻いたことを確認すると、男はガムテープを美沙から取り上げた。
「手を後ろにまわせ」
言われたとおりに後ろにまわした手首に男は何重にもガムテープを巻いていった。縛り終えると、男はガムテープを投げ捨てた。美沙の目からは涙があふれていたが、それを拭うことはできない。
「泣くことはない。お前は、選ばれたんだ」
男の声が冷たく響いた。動きだした車の後部座席で高澤美沙は家族のことを考えていた。 家に帰りたい。
その願いは叶うことはなく、漠然と抱いていた想像のように、美沙が大人になることは永遠になかった。
*
四月二十三日 日曜日
桜井忠雄は華月町の外れにある山道を歩いていた。
齢四十を過ぎ、運動不足による体力の低下を憂い、散歩を始めた。最初は近所の公園などを歩いていたが、次第にそれも飽きてきた。飽きるまで散歩が趣味として続いたことは自分でも意外ではあるが。
隣町である華月町の外れに山道を見つけたのは偶然だった。十年以上乗り、ボロボロになった愛車を乗り換えたのだ。新車の乗り心地を確かめるため、普段は行かない方面へ車を走らせていた時に見つけたのが、あの場所だった。
片側通行の道幅はあったが、人の気配どころか、車さえほとんど通らないような道だった。
張り切って長時間運転しすぎてしまい、道の端に車を停車させ、一息ついた。ふと、ガードレールの切れ目から道があるのが見えた。
車を降りて見てみる。入口から左右に木が生い茂っていたので、夏になれば草が塞いでしまいそうだ。トレッキングコースというよりは、獣道といった風情だが、辛うじて人ひとり分は歩ける幅があった。
人に忘れられたような山道を五分ほど進むと、少しして道が右に折れていた。四月とはいえ、暑い日が続いていたので身体が汗ばんできた。歩くつもりはなかったし、ましてや山登りできる装備などない。
これ以上歩いても取り立てて見所もなさそうなので、道を曲がって何もなければ引き返そうと心に決めていたが、曲がった瞬間、静かだった森にカラスの声が響いた。
突然の声に身体が反応してしまう。 カラスの声は正面から聞こえた。目を向けると、五十メートルほど先で道が開けて、小さな野原になっていた。 中央には大きな木がある。
太い枝にロープが掛けられ、白い物体がぶら下がって揺れていた。 それが首を吊った人の姿であると気づくまでに時間は掛からなかった。
その様子からして間違いなく死んでいるだろう、そう確信していながらも、近づいていく。今となっても何故そうしたか、自分でも思い出せなかった。
冷静だったのではなく、その光景があまりに現実離れしていたから信じられなかったのかもしれない。
白装束のようなものを纏い、首を吊った少女だった。
左目は髪に隠れて見えないが、右目は大きく見開かれていた。一瞬、口がないように見えたが、それは口にベージュのガムテープが貼られていたからだった。
手は背中に回されていて見えない。力なく揺れる脚には、靴下も靴も履いていない。
一縷の希望もなかった。この少女は、死んでいる。
ふと、肩のところで何かが動いた。 カラスが後ろに回された手を登るように現れ、死体となった少女の肩にとまった。
カラスは桜井を見つめていた。くちばしに何かを咥えている。桜井はようやくそのカラスの口にぶら下がった正体が判った。
あれは、人の……。
改めて顔を見ると、左目は髪で見えなかったのではない、そこにあるはずのものがなくなり、ただ黒く見えていただけだったのだ。
だらりとだらしなくカラスの口から垂れ下がっているのは、人の目玉だった。
身体に力が入らず、その場にへたり込む。
ひいぃ……。
という声が身体のどこからか零れていった。 カラスが地面に降りた。大切な宝物を置くように、目玉を転がっていた丸太のようなものの上に置くと、こちらに向かってきた。
まるで、自分の餌を奪われまいと抗議するように、カーっと威嚇の声を放った。
その声で我に返り、後ろを向き一目散に走った。
背後からカラスが飛んで追ってきているような気配がしたが、振り向くことさえできなかった。
腕にバシバシと左右の草木が当たるが気に留めてなどいられない。
出口が見えた。
車のロックを解除すると、運転席へ飛び乗り、ドアを閉めた。
激しく脈打つ鼓動が全身に響く。
──警察に通報しなくては。
スマートフォンを取り出し、震える指で番号を押す。耳に当てて顔を上げると、車のボンネットにさっきのカラスがいた。
その目はじっと桜井を見据えていた。
くちばしを開くと、また大きな鳴き声を放った。
ひっ、と驚いた拍子にスマホを落とした。「警察です。事件ですか、事故ですか」
という声が下から聞こえる。
慌ててスマホを拾うと、カラスはいなくなっていた。
覗き込んだボンネットには、カラスが残した爪痕がハッキリと残されていた。
……ああ、新車なのに。
桜井はぼんやりとした頭で爪痕を見つめていた。
──大人になんてならない。 高澤美沙は漠然と、そう感じていた。
十七歳になってからも、自分が大人に近づいているという感覚はまるで起きなかった。人は何をもって、大人になったといえるのだろう。
K県にある華月町は山奥にある、時代に取り残された町だ。田舎町に流れる空気は、都会に流れるそれとは違う。人が多く行き交うほど空気は循環される。
それに比べ、人の出入りが少ない田舎町は空気が淀んだまま、どこにも流れていかないようだ。同級生には田舎の空気を嫌い、都会に憧れる子が多いが、美沙にとってはそれが嫌ではなかった。
アルバイトをしている喫茶店《ホープ》は、まさに町の止まった空気を象徴するような古くからある純喫茶だった。
店主の新島保はしきりに「ここは喫茶店ではない、カフェだ」と主張するけれど、誰がどう見てもカフェと呼ぶにはほど遠い、寂れた田舎町の一角に佇む個人経営の喫茶店だった。
四人掛けの席が二つ、二人掛けの席が三つ、カウンターに五席、そこに座るのは、古くからの常連客ばかりである。当然ながら誰もここをカフェという常連客はいない。何十年も代わり映えしない客たちが通ってきた、それが喫茶ホープなのだ。
高校に入ってからバイトを始め、一年半ほど経つと美沙も店に溶け込み、常連客ともすっかり馴染みとなった。馴染みになるというよりは、時代が止まったこの喫茶店の空気に染まっているという感じだけど。
お世辞にも美人とは呼べない地味な顔立ちの自分だが、常連の高齢者たちには愛嬌のある顔に見えるようで、美沙は常連客たちから孫のように可愛がられていた。
コンビニでバイトをしている友人からは、毎日のようにこんな客が来たと愚痴を聞く。それを考えれば、問題を起こさない馴れた常連客ばかりの喫茶店の方が楽なものだ。
一年前のホープの姿を並べても、今と座っている人が全く違わないほど、ここは時が止まっている。
「美沙ちゃん、それ終わったら上がっていいよ。あとはやっておくから」
テーブルを拭き終わろうかというタイミングで声を掛けられた。ホープの営業時間は夕方の六時までだ。シフトは週末の土日が中心だけど、平日も学校帰りに片付けを中心にバイトをしている。
妻に先立たれた保の負担を少しでも減らせればと、自ら提案したのだ。美沙が手伝いをするまでは、客足が落ち着く夕方まで、食器類が流し台に積まれたままになっていた。
代わりに土日は早めに上がらせてもらえるようになった。 片づけを終え、保に声を掛けてから店を出ると、辺りは暗くなっていた。
四月も後半になって陽も長くなっていたが、華月町のような山間にある町では、平地よりも早く日が沈む。
点々と、申し訳程度に設置されている街灯が、頼りなく道を照らしていた。それでも生まれ育った町で、周りは知っている人ばかり。夜道を歩くことに、恐ろしさを感じることはなかった。
晴れた昼間は暑さを感じるほどの陽気だが、夜はまだ肌を出して歩くには寒い。家までは歩いて十五分ほど。
その間、民家はあるが、人通りはほとんどない。家から漏れてくる生活音以外は何も聞こえない、静かな夜だった。 静かで暗い場所は、美沙の想像力を広げるにはピッタリの場所だ。
昨日は良い事があった。密かに気になっている同級生の中里晃一と話すことができたのだ。気になったのは数ヶ月前。それなのに、まだ話しただけで高揚している自分が情けなくもあった。
彼が気になってからというものの、すっぴんで学校へ行くことが恥ずかしくなり、隣町まで買いに行って、馴れない化粧も始めた。
「あ、それって。高澤もあの映画好きなの?」 カバンに付けていた、有名な海外のアニメ映画のキャラクターグッズだった。
「う、うん。中里くんも?」
「俺、大好きなんだ。今度また続編やるよな」
返事をしようとした矢先、彼は他の男子に呼ばれていってしまった。
今どき、こんなベタな事で喜んでしまうなんて。周りの子は化粧も恋愛も当たり前のようにしているのに、自分は本当に現代を生きる女子高生なのだろうか。
彼の事を思い浮かべ、彼と一緒にあの映画の続編に行けたらなんて考えながら歩いていた。
暗さで気づかなかったが、公園の脇に一台のワゴン車が停車していた。闇に溶け込むような黒い車体はこの辺りで見慣れないものだ。暗くて人が乗っているかは判らない。
知らない車がこんな時間にいるのは珍しいなと思いつつも、それ以上は気にも留めず歩いて横を抜けようとした。
ドアの開く音がしたと思った瞬間、革の手袋をした手が口を塞ぎ、足が地面から離れた。美沙の小柄な身体はいとも簡単に持ち上げられ、ワゴン車の中へ引きずり込まれた。
「動くな、静かにしろ」
男の声がした。暗い車内に鈍く光る何かが見えた、それは切っ先を美沙に向けたナイフだった。男の言葉がなくとも、美沙は混乱と恐怖で動くことができなかった。
なんとか頷くと、口を押えつけていた手が離れた。それでも声を出すことはできない。男が何かを美沙の足の上に放り投げた。
「それを口に貼れ」
男が転がしたガムテープを持ち上げる。指示に従おうとしても手が震えてうまくいかない。 もたつく美沙へ男が「早くしろ」と苛立ちげに怒鳴りつけた。
震えながらもなんとかガムテープを千切り、口に貼った。不快な臭いが鼻をつく。
「足も縛れ」
男がナイフを向けたまま指示を出した。言われたとおりにガムテープを引き出し足首に巻いていく。恐怖で息が荒くなるが、口が塞がっているため、息苦しい。足首に巻いたことを確認すると、男はガムテープを美沙から取り上げた。
「手を後ろにまわせ」
言われたとおりに後ろにまわした手首に男は何重にもガムテープを巻いていった。縛り終えると、男はガムテープを投げ捨てた。美沙の目からは涙があふれていたが、それを拭うことはできない。
「泣くことはない。お前は、選ばれたんだ」
男の声が冷たく響いた。動きだした車の後部座席で高澤美沙は家族のことを考えていた。 家に帰りたい。
その願いは叶うことはなく、漠然と抱いていた想像のように、美沙が大人になることは永遠になかった。
*
四月二十三日 日曜日
桜井忠雄は華月町の外れにある山道を歩いていた。
齢四十を過ぎ、運動不足による体力の低下を憂い、散歩を始めた。最初は近所の公園などを歩いていたが、次第にそれも飽きてきた。飽きるまで散歩が趣味として続いたことは自分でも意外ではあるが。
隣町である華月町の外れに山道を見つけたのは偶然だった。十年以上乗り、ボロボロになった愛車を乗り換えたのだ。新車の乗り心地を確かめるため、普段は行かない方面へ車を走らせていた時に見つけたのが、あの場所だった。
片側通行の道幅はあったが、人の気配どころか、車さえほとんど通らないような道だった。
張り切って長時間運転しすぎてしまい、道の端に車を停車させ、一息ついた。ふと、ガードレールの切れ目から道があるのが見えた。
車を降りて見てみる。入口から左右に木が生い茂っていたので、夏になれば草が塞いでしまいそうだ。トレッキングコースというよりは、獣道といった風情だが、辛うじて人ひとり分は歩ける幅があった。
人に忘れられたような山道を五分ほど進むと、少しして道が右に折れていた。四月とはいえ、暑い日が続いていたので身体が汗ばんできた。歩くつもりはなかったし、ましてや山登りできる装備などない。
これ以上歩いても取り立てて見所もなさそうなので、道を曲がって何もなければ引き返そうと心に決めていたが、曲がった瞬間、静かだった森にカラスの声が響いた。
突然の声に身体が反応してしまう。 カラスの声は正面から聞こえた。目を向けると、五十メートルほど先で道が開けて、小さな野原になっていた。 中央には大きな木がある。
太い枝にロープが掛けられ、白い物体がぶら下がって揺れていた。 それが首を吊った人の姿であると気づくまでに時間は掛からなかった。
その様子からして間違いなく死んでいるだろう、そう確信していながらも、近づいていく。今となっても何故そうしたか、自分でも思い出せなかった。
冷静だったのではなく、その光景があまりに現実離れしていたから信じられなかったのかもしれない。
白装束のようなものを纏い、首を吊った少女だった。
左目は髪に隠れて見えないが、右目は大きく見開かれていた。一瞬、口がないように見えたが、それは口にベージュのガムテープが貼られていたからだった。
手は背中に回されていて見えない。力なく揺れる脚には、靴下も靴も履いていない。
一縷の希望もなかった。この少女は、死んでいる。
ふと、肩のところで何かが動いた。 カラスが後ろに回された手を登るように現れ、死体となった少女の肩にとまった。
カラスは桜井を見つめていた。くちばしに何かを咥えている。桜井はようやくそのカラスの口にぶら下がった正体が判った。
あれは、人の……。
改めて顔を見ると、左目は髪で見えなかったのではない、そこにあるはずのものがなくなり、ただ黒く見えていただけだったのだ。
だらりとだらしなくカラスの口から垂れ下がっているのは、人の目玉だった。
身体に力が入らず、その場にへたり込む。
ひいぃ……。
という声が身体のどこからか零れていった。 カラスが地面に降りた。大切な宝物を置くように、目玉を転がっていた丸太のようなものの上に置くと、こちらに向かってきた。
まるで、自分の餌を奪われまいと抗議するように、カーっと威嚇の声を放った。
その声で我に返り、後ろを向き一目散に走った。
背後からカラスが飛んで追ってきているような気配がしたが、振り向くことさえできなかった。
腕にバシバシと左右の草木が当たるが気に留めてなどいられない。
出口が見えた。
車のロックを解除すると、運転席へ飛び乗り、ドアを閉めた。
激しく脈打つ鼓動が全身に響く。
──警察に通報しなくては。
スマートフォンを取り出し、震える指で番号を押す。耳に当てて顔を上げると、車のボンネットにさっきのカラスがいた。
その目はじっと桜井を見据えていた。
くちばしを開くと、また大きな鳴き声を放った。
ひっ、と驚いた拍子にスマホを落とした。「警察です。事件ですか、事故ですか」
という声が下から聞こえる。
慌ててスマホを拾うと、カラスはいなくなっていた。
覗き込んだボンネットには、カラスが残した爪痕がハッキリと残されていた。
……ああ、新車なのに。
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