後宮夜譚

藤雪花(ふじゆきはな)

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真珠夫人

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昔のことである。
 若干二十名の馬賊の若者たちが、殷国の山間平野を卓抜した騎馬で走り抜け、時に馬上から人々を襲い、時に官僚邸に火矢を放ちながら、龍山の麓に堅牢に構えた龍虎門の開門を迫ったのは、ゆうらりと大地から陽炎が立ち上る残暑の厳しい夕刻のことである。

 猛る若者たちを出迎えたのは殷国の老いた秀王。
 王は皺だらけの顔をさらにぐにゃりと縮ませた。
 石畳を重く引きずる絢爛豪華な礼服で、高く手にした巻物を大きく開き、金泥文字を朗々と読み上げる。

「神をも恐れぬ勇猛な馬賊の戦士たちよ!わずか二十の手勢で我に開門させるとは誠にあっぱれ至極!天地の祝福を受けた者たちであろうか!お前たちの成し遂げた偉業は向後2000年の間、殷国の黄金の歴史に燦々と刻まれることになろうぞ!」

 秀王は十の宝石の重さにしなびた手を震わせながら合図する。
 城門から溢れだしたのは、薄物を纏う妃や、その侍女や楽女たち。
 血塗れた革帷子の若者たちを白い手で引き下ろし、腕をからめて龍虎門をくぐった。
 恭しく500の頭を下げる官僚たちの間を通り抜ける。
 天地が創造する優美なものを、あまねく閉じ込めたかのような後宮へと、反乱者たちを導き入れたのである。

 秀王の首をはねる時を図っていたはずの馬賊は、絢爛優雅な世界に目を剥いた。
 太刀の代わりに女の腰を引き寄せた。
 孔雀や象や猿の脳髄といった珍味を存分に喰らい、金の杯から喉仏を大きく上下させ美酒をあおる。
 甘い香りに誘われるままに年上の女の豊かな胸に顔をうずめ、美貌の宦官を柱影に引き込んだ。
 つい先日まで田舎で馬を調教していた彼らは、秀王の美女たちにもてなされることで、どんな強敵も跳ね返し続けた龍虎門の内側に侵入するという誰にも成し遂げられなかった偉業を、たった二十人で成し遂げたことを実感したのである。

 十番目の妃である真珠夫人は、猥雑さを増しはじめたその場からそっと抜けだした。

 手にした灯りにゆらゆらと羽虫が近寄っては遠ざかる。
 満月を重い闇が喰らっていた。
 後宮の外れに真珠夫人の館がある。
 馬賊に後宮が占拠されてから鈴虫の音以外に彼女を迎えるものはない。
 寝室の扉がわずかに開いていた。
 部屋の中で灯した灯りの前を下女がよぎるからなのか、漏れこぼれた光と影が明滅していた。

 ついと、部屋の灯りが消えた。
 ようやく真珠夫人はただならぬ状況かもしれないと察したのだが、身構えるには遅すぎた。
 散乱した絹の衣装、壊された寄木細工の宝石箱、丁寧に布に包んでいたはずの真珠の連なる銀の髪飾りは剥き出しである。外から手にしていた油ランプが寝室の状況を映し出す。
 砂漠の向こうから取り寄せた瑠璃の瓶はコルク蓋が引き抜かれ、ふんわり薔薇の芳香が夫人の鼻腔をかすめた。
 一瞬のうちに、扉横の暗がりに身を潜めていた何者かに灯りを奪われ闇の中に引きずり込まれた。
 悲鳴を上げる前に、汗ばんだ固い手の平が顔に押し付けられた。
 必死に手を振り回し足を蹴り上げて暴れれば、背後から羽交い締めにされる。
 侵入者の広い胸や固い腹の筋肉、弾力のある脚の強さを全身で思い知る。
 そして、干し草のような匂いと野生の動物のような体臭、それらが部屋中に広がる薔薇の香りと混濁し、その濃厚な匂いに夫人の頭の芯がしびれた。
 拘束されているのか、抱きしめられているのか、ふりほどけばいいのか、しがみつけばいいのかわからない、どちらともとれるあわいの妖しい感覚におぼれそうになる。 
 息ができない。
 窒息死を覚悟した時にようやくその手が緩んだ。

「し、しいッ。暴れるな。……手荒なことをするつもりはない。頂けるものを頂いたら去ってやる。あんたの、細首を飾るのは真珠か?桃色の照りと巻きが美しく、まるであんたそのもののようだ。それに、これほどの大きさの大真珠は拝んだことがない。よく見せろ」

 床に転がっていた灯りに顔を向けさせられた。
 天井に踊る影は龍山に巣くう鬼のようだ。
 男の、荒い息が頬に触れ、熱さに体が震えた。
 男は、真珠夫人の首の金鎖から大真珠を引きちぎる。
 親指の関節ほどあるその大きな神秘の結晶を、男は目をすがめ炎に透かし愛でた。
 それはたちまち夫人に取りかえされることになるのだが。

「これはわたくしの命よりも大事なもの!欲しければこの腹を引き裂いて奪ったらいいわ!」

 夫人は、握りしめた真珠を口の中に押しこんだ。
 なんとか嚥下しても胸の半ばで巨大な岩の塊のようにつっかえる。
 たちまち自分のしでかしたことの愚かさを悟っても、飲み下すこともはき出すことも出来そうにない。
 大きく開いた口からひっひっと苦しい息が漏れた。
 汗と涙を全身から噴き出させ、美貌を苦しげにゆがませる。
 そんな時でもこのまま死ねば、窒息死ということになるのかしらと、ばからしいことが夫人の頭によぎった。
 あわてたのは男だった。
 女の口に手をこじいれて塊を引きだそうとして悪態をつき、震える背中を周囲に涙や鼻水が飛び散るほど激しく叩いた。
 四度目にやっと、大きな塊が女の内側で、とおろりと落ちていく。
 夫人は男の足元に崩れ落ちた。

「ったく、飲み込むってなんて女だ。俺はあんたの腹を割いてまで真珠を取り出すつもりはないぜ。どんな高価で貴重な物でもしょせんただの物にすぎないだろ。墓に愛蔵品やらなにやら入れて奉るのも、死者のためというよりも残されてしまった側の気持ちの問題だ。いまここにある命のほうが、よっぽど貴重でなにものにも代えがたく価値があるって思わないか?たかが真珠ごときで死のうとするなんて、殷国の女はまったくわからん」

「たかが真珠ごときではないわ。国宝よ。三年前に婚姻の印として賜った十番目の妃の証の大真珠よ」
「真珠が妃の証だって?そういや、秀王の美人の妃たちは宝石の名で呼ばれていたが、その真珠のように国宝をみんな持っているってことか」
 ごちそうを目の前にした腹を空かせた子供のように盗賊は目を輝かせたが、すぐさま眉間を寄せた。
「……王は三年前もご老人だろうに。あんたはたいそう若い。他の妃たちも女盛りだ。年がつりあってないじゃないか?」
「子を産まなかった女や王の訪れが一年ない女は離縁され、新たな妃が娶られる。子を産んだ女は離宮に体よく追い払われる。わたしは五代目の真珠夫人なの。このままあなたたちの饗宴が続く限り、あと三日で、王の訪れのない一年となるでしょう。そうなれば王は、名分を得てわたくしと離縁できる。代わりに新たな夫人が迎えられ、六代目の真珠夫人と呼ばれ、後宮は若返ることになるでしょう。その時に真珠が必要とされるの。真珠夫人たる大真珠を失ってしまえば、わたくしは罰を受け、離縁される以前に生きて後宮からでることはないでしょう」

 馬賊の若者は夫人の代わりに憤慨した。

「一年夫婦関係がなければ離縁だって?あんたはそれでいいのかよ?……ったく。その真珠が必要なら今すぐ吐き出した方がいいんじゃないか?胃酸でピンクの真珠層が溶けちまうぜ。下からひねり出した時にはただの石の礫だ」

 消化のことが念頭になかった女は蒼白になった。
 先ほどの苦しさを思えば、はき出せるとはとうてい思えない。
 いっそのこと腹を割いて取り出した方が楽なのではないかと、寝室にナイフはなかったかと夫人は目を泳がせた。

「……馬鹿な考えはよせ。命より貴重なものはないと俺が言ったことをもう忘れたのかよ。それに、遅かれ早かれこの国は内部から崩壊していくだろうって予言してやる。あんたらの好きな神託だと受け取ってもらってもいいぜ。俺は無鉄砲な奴らに乗せられてここまで来たが、途中で増税に苦しみ、飢饉に苦しみ、疫病で苦しみ秀王を呪う町をいくつもみてきた。土台がそんな有様だというのに、この国の中枢の、豪華絢爛贅沢三昧、酒池肉林……。王城が自己保身の近視眼の無能者たちが支配しているなんて思いもしなかったぜ。ここに来て、よおうくわかった。俺たちが動こうと動くまいと、この国の終焉はすぐそこだ。俺が宴を抜け出しあんたの館に侵入できたのも、何も特別なことをしたわけじゃない。あんたを守る者が既に逃げ出していなかったからだ。あと三日もこの国は持たないかもしれないぜ?俺は、真珠が気に入ったんじゃない。あんたが気に入ったんだ。酒と女に溺れる仲間を置いて帰る前に、あんたの何かが欲しかったんだ。それを、俺の戦利品にしようと思ったんだが」
「ものには意味がないっていったでしょう」
「あはは。それもそうだな。それじゃあ、一番大事なものをいただこうか?あんたをこの内部から爛れて腐っていく殷国奥津城から奪い去ろうか?……美しい絹の衣を脱ぎ棄てて、俺とくるか?強制はしない。決めるのはあんただ」

 さし伸ばされた手を衝動的に女はとった。
 一度握れば離さない。
 痛いほど強くて熱い、たくましい手だった。

 
 その深更のこと。
 後宮に、鎮圧部隊の千の矢の雨が降る。
 王を人質に後宮を占拠し、わが物顔に乱暴狼藉の限りを尽くしていた暴徒たちは粛清される。そのときに、暴徒たちを身を挺して引きとどめていた女たちも犠牲になったのである。

 暴徒と10人の妃たちは全員死亡と公文書には記録されたのだが、ひとり夫人を抱えて馬を巧みに操り矢の雨をくぐりぬけ、龍虎門外へと逃亡した馬賊の若者を見たというある宦官の日記が残されている。
 さらわれたは真珠夫人ではないかと噂された。しかしながら、10年たっても20年たっても、大真珠は市井に出回ることはなかった。
 馬賊の若者と真珠夫人の行方は、誰も知らない。
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