上 下
9 / 27
第1話 草原の巫女

8、悪夢

しおりを挟む
リシュアは悪夢にうなされる。
大地が猩々緋の男が引き連れた赤銅色の軍団の行進にうち震え、聖なる森の守りの村が焼かれる夢だ。
涙が出きってもうこれ以上流れそうもない、ありえないほど悲惨で辛い夢だった。

リシュアは男たちが土足で踏み込んできた時に、倉庫に小さな姉と共に押し込められた。
悪夢は恐怖のどん底までリシュアを落とす。
夢の中で、夢なら覚めてと何度も願う。
だが、脳内で作り出した己の夢はリシュアを解放しない。

婆たちも大きな姉たちも、互いに呪いを掛け合い凍えて死ぬ。
呪術により隠されているはずの、扉はいともたやすく見つかってしまうだろう。
扉の隙間から、冷気が細く長く、床を這い、リシュアの足元になだれ込む。
近づく死の予感に、恐怖に震える。
その冷気は足裏から取り込まれ体の内側を凍らせながら登ってくるようだった。

リシュアは恐慌に陥っていたが、イリューシャ姉はせまりくる死の予感を感じながらも、冷静だった。
扉を背にしてリシュアに向かい合い、リシュアの日焼けた手とは違う細く白い手で、その手のひらでリシュアの頬を挟み込んだ。

「泣いてはだめよ、見つかってしまう」

顔を寄せ、その美しい水色の目でリシュアを覗き込んだ。
真剣で冷えびえと冴え渡る、悲しみを凝縮させたような目で、それから姉はリシュアになんといったのか。
ひんやりとした唇が押し付けられた。

最後に交わしたキス。
別れのキス。
あなたにわたしの最後の息を、歌をあげる。
そう言ったのだ。

「イリューシャがキスを、、、?」
「そう、、、悪夢の中のキスは、いつものキスではなくて、もっと濃厚な、大人の人のするようなキスだった。イリューシャの、最後の息を受け取った。歌を凝縮させたような、魂を凝縮させたような、何かだった、、、」

最後の息。
不吉な言い方だった。
リシュアは何をうけとったのか。
凝縮したなにかの果物の種のようなもの。
何かを理解するまでに飲み下してしまったのでわからない。
吐き出そうとしても体の奥深くに取り込んでしまった。
夢の中の出来事といえ、イリューシャの体からでてきたものが、リシュアに悪さをするはずがないと思う。

踏み込むのをためらわせるための呪文を描いた魔方陣も、燃え上がる熱をその身体に立ち上らせた侵入者の足を止めることはできなかった。
そして、最後まで赤い侵略者からリシュアを庇うように立った小さな姉は、死んでしまった。

「リアルで悲しい夢。破壊の夢。姉たちは全員死んでしまい、守りの村は焼かれ、わたしは走って逃げだした。
ひどい夢でしょう?こんなひどい夢、見たことない。シュリ、思い出しても震えがくる。だから、ぎゅっとして」

身体は重かった。
昨夜、悪夢を見る前に、滝壺で泳いだりしたのか。
なぜか昨日を思い出そうとしても遠い出来事のように茫漠としている。
だが、この身体の重さは長く水に浸かり続けて冷えた時の感じに似ているのだ。
疲れ切るまで泳いだに違いない。
声も自分の声のように聞こえないぐらい、かすれていた。

腕をまわして大きな体にしがみついた。
リシュアは構わずその胸に頬を押し付ける。
強く熱い身体。
どくどくと波打つ心臓の確かな音は、生きている実感を与えてくれる。
疲れると、シュリのベッドにもぐりこんでしまうのだ。
厳しいときもあるが、最後のところではリシュアを庇ってくれる、優しい兄である。
雷の夜も、森がざわめく不穏な夜も、リシュアは兄のベッドにもぐりこみ、その確かな存在に一晩中しがみつく。
シュリの一番は双子の妹のイリューシャだが、二番目にはリシュアが来ると思うのだ。
今回も、無意識のうちにシュリの布団に潜り込んでしまったのだ。
今も、このまま熱い身体に顔を押し付けまどろんでいたかった。
兄はなぜか戸惑いながらもシーツの上から抱きしめ返してくれる。

「、、、それで皆どうなったんだ」
「こんなに後味の悪い夢は見たことがない。婆さまも、イリューシャも皆、死んでしまった」
「、、、巫女たちの中でお前だけが生き残ったというのか?」

シュリの声色が微妙に違う。
話し方もおかしかった。
どこか戸惑っている様子もあった。
シュリのベッドに入り込んだのは、一年も前のことだしびっくりしたのかもしれない。
自分だってびっくりだった。気が付いたら潜り込んでいたのだ。

胸の奥で違和感がちりちりして落ち着かなくなる。
それが何かわからない。
今は、追求したくなかった。

「わたしは巫女でないでしょう?皆凍ってしまった。死の夢は悪夢だけど、その意味としては悪くはないものでしょう?古きものを手放し、新たな何かが始まる吉夢でもあるから、、、」
「、、、それが夢であるならば」

無理やりリシュアは目を開けた。
夢うつつのゆらゆらする心地よさは瞬時に消え去った。

匂いが違っていた。
まとう周りの空気が違っていた。
己の頬を押し付けていた肌は白い。
シュリとは違う男の肌。

急激に目が覚めた。
リシュアが体を無防備に寄せていた男は、半裸の体を起こし、リシュアの裸の体に腕をまわしていた。
どうして裸で抱き合っているのか状況が全くわからず、混乱する。
シュリと同じぐらいの黒髪黒目の若い男。
10歳のリシュアと比べれば、若いとはいえ大人である。
その顔は、日と風にさらされた草原の男たちの顔ではなかった。
強い意思を感じさせるはっきりとした顔立ちは、中原の男たちの顔だった。
じっと、しがみつくリシュアを見つめていた。

裸の若者はリシュアも安心させるように強張った笑みを浮かべた。

「それは夢ではない。凍るというのは意味がわからないけど。イリューシャとは巫女のことか?お前は俺が助けた。冷えていたからお前を拾ってからずっと温めた。女の子だとは、知らなかった。一緒に寝たからといって、餓鬼に手をだすことはないから安心しろ」
「助けた、、、?夢じゃない、、、?」
若者の顔に苦悩が浮かぶ。
「泥だらけで凍えて行き倒れていた。俺が見つけなければ、こうして温めてやらなければ死んでいただろう」
「どうしてそんなことに?」
「そんなこと俺が知っているはずがないだろ。お前が先ほど話していた状況が、そうなのではないか?ところでなんて呼べばいいのか」

腕にはいくつもの見慣れない枝で擦ったような擦り傷がいくつもあった。
腕だけではなく恐らく身体中に。
物音ひとつしなくなった祠から、転がるように無我夢中で逃げた時に付けた傷。
急激に悪夢と現実が重なっていこうとするのを、リシュアは全身全霊で拒絶しなければならなかった。

リシュアは恐怖にベッドから飛び降りた。
テントは移動できる仕様ではあるが長期滞在用のものではない。
部屋の細かな様子が目に入らない。
手近な布を体に巻き付けた。
心臓がどくどくと不吉な予感に打ち始める。

「あんたは誰?」
己の声が遠い。
ベッドから若者は上半身を起こし、片足を立てた。
「俺は、安寧国第10皇子のシリアン。で、お前の名前は?」

安寧国皇子。

悪夢が再びリシュアを捕らえた。
だが、それは悪夢ではなくて現実なのだ。
聖なる森の清浄な空気と違う。
森の生き物たちの気配ではない、ざらついた人間の気配。
金属の擦れる音。
聞きなれない生活音。
もう日は上っている。

「シリアンさま、起きられましたか?」
その時、テントの幕の向こうから声がかかる。

ここはどこだ。
リシュアはその声に向かって走り出す。
テントの幕ごと体当たりしてひるんだ隙間を外に走りだす。
ぶつかった痛みも感じなかった。

「おい、待て!子供!そんな恰好で、、、」
テントの中から慌てた声がリシュアを引き止めようとするが無駄だった。
テントの外には、リシュアが想像もしたことのない光景が広がっていた。






しおりを挟む

処理中です...