セイクリッド・カース

気高虚郎

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第4章:幾多の呼び名を持つ者

第39話 祭りの日 昼~夕方

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※ ※  ※   教会 治療室   ※  ※  ※


「脈拍が安定しません!弱まっています!」

マデリーンを中心として医者や薬師たちがバルマンの治療に取り組んでいる。
脈が止まって脳に血が巡らなければ数分で事態は深刻化する。1分1秒すらが貴重な時間だ

「かっ、かっ、かっ…!」

診療台に横たわるバルマンのか細い呼吸が室内に響く。
今にも消えつつある彼の生命が、この世につながっている音だ。
橋の上で倒れた彼は即座に教会に運び込まれた。
マデリーンの弟子の統身道で、心拍は回復したがいまだに危険な状態が続いている。

「一体どうなって…!こんな症例は初めてです!」

旧友の危機にマデリーンも駆け付けたが、統身道のベテランたる彼女でさえこの状態を経験したことはない。

「このままでは数分以内に再び心停止状態になります!司祭様、どうすれば!?」

初めて遭遇する症例にマニュアルなど存在しない。
マデリーンは一刻を争う事態の中で、己の経験と技術に瞬時に対処を見出した。

「強力な昇圧薬を塗った針で心拍に関わる経絡を刺激します!薬の準備を!」

マデリーンは薬師が用意した小瓶に針を浸した。
針に塗られたのはドラゴンの甲状腺から取れる血流促進剤だ。
用法、用量を少し間違えただけで死に至るほどに強力だ。
そして循環器系に関する経絡がある腕の点に針を当てた。

「3、2、1!」

バルマンの経絡を針が刺激し、血管に薬が送り込まれる。
すると意識を失ったバルマンの体が薬のショックで仰け反った。
薬が効いている証拠だ。

「心配しないで、バルマン!私がおります!」

激しく脈打つ心臓。
統身道によって出来る処置は全て施した。
後は彼の生命力を信じるしかない。
マデリーンは共に戦った旧友を励まし続けた。


※ ※  ※   待合室   ※  ※  ※


2人しかいない教会の待合室。その椅子に座って、少年と少女は治療の結果を待っていた。
少女は手を合わせてひたすら祈り、少年は無表情で俯いていた。

「あなたも前にこんな経験があったの…?」

「ああ。」

親しい者が生死の境を彷徨い、その顛末を見守るしか出来ない。
永遠にも感じる時の中で待ち続けること。
その経験をロレインは以前にもしていた。

「私は2度目よ。前はお母さまとお父様の為に祈ったわ。救われたのは1人だけだった。何度、経験すれば今のあなたみたいに平然としてられるの?」

便利屋の表情はこれまでにないほどに落ち着いていた。
まるで全てを受け入れているかのようだ。共に中州を救った戦友の生死さえも。
ロレインはもう2度目だというのに不安で押しつぶされそうだというのに。

「平然なんかじゃない。きっとまた会える、そう信じてるだけだ。いつか俺にもその時が来るんだから。」



※ ※  ※   教会前  ※  ※  ※



「いやー、良かった。助かったんですね。」

「ええ。容体は安定しました。あなたの迅速な対応のおかげで、後遺症もなさそうです。」

教会の入り口前でマデリーンは、バルマンを救った若者に感謝した。
彼が橋の上で周囲に呼びかけなければ、命はなかっただろう。

「それにしてもあの方、司祭様の親友の学者さんだったとは。助けられてなによりです。これからお祭りで告白するつもりなんですが勇気が出ましたよ。誰かの命を救えるなら、告白することだってできますよね。それでは。」

「あなたの告白に神の加護があらんことを。」

若者の微笑ましい恋心が、苦難を切り抜けた直後の緊迫した心を安らげてくれる。
是非とも彼の告白が上手くいってほしいものだ。
女の子との待ち合わせまでもう時間がないようで、駆け足で向かっていった。



※  ※  ※   教会  病室  ※  ※  ※



マデリーンが病室に入ると寝ているバルマンの横に少年と少女が無言で座っていた。
彼の無事をその目で確認しているが、まだ心は晴れやかではないようだ。

「ロレイン。ありがとうございます。あなたの祈りが届いて、バルマンは無事ですよ。」

ずっとバルマンの無事を祈っていてくれたのだろう。
しかし彼女は無言のままだ。

「ここは私に任せて、あなたは便利屋様の観光の再開を…。」

「教えてください、司祭様。私の祈りは誰に届いたんですか?」

なんとも彼女らしくない言葉が出たものだ。
そんな答えなど分かり切っている。

「決まっております。神様に…。」

「神様は世界を滅ぼそうとされました。それでも我々を見守ってくださるのですか?」

マデリーンは言葉が出なかった。
ロレインにその事を教えたのは誰であろう自分自身だ。

「教授を救ったのは橋で居合わせた人や司祭様たちです。神様が何をなさったのですか?」

「それです。神様はバルマンの窮地に親切な若者を巡り合わせ、私の技術が間に合うように計らって下さったのです。バルマンはここで死すべき定めではなかったのです。」

あの若者がいなくても他に親切な人がいたかもしれない。
しかし、親切なだけでなく周囲に呼びかける勇気があったのはあの若者だけかもしれない。

「でしたら何故、お母さまは救って下さらなかったのですか?お母さまが生きてさえいればそもそも教授がこんなことにはなりませんでした。」

アビゲイルが生きていればティモシーは正気を失わず、ロレインがこの依頼をする必要はなかった。この依頼がなければバルマンもこんな目に遭わずに済んだ。
そして今になって彼を救ったから崇めろ、などというのはとんだマッチポンプだろう。

「私たちは祈りの前に3つの存在を口にします。神様、救い主様、そして天使様です。しかし救い主ソルゼはただの人間で、魔王と戦う力などありません。」

救い主ソルゼは奇跡を起こす者などではない。
ただ神に選ばれただけの指導者でしかない。

「そして司祭様にはこの事も教えていただきました。天使様は全員、亡くなられたと。なら私たちは誰に祈っているのですか!?」

そう叫ぶとロレインは病室を出て行った。
神、救い主、天使。そのどれもが我々を救わないというのであればそもそも祈る意味などあるのだろうか。

「誰に祈ってるか…。実は私も知りたいんです。まだ誰にもお会いしたことがありませんからね。あら、こんな事を言ったら司祭失格ですね。」

長い沈黙の後にマデリーンがようやく口を開いた。
彼女自身もその答えを知りたくてしょうがないようだ。

「俺は何も聞いてないし、司祭様は何もおっしゃってません。ご安心を。」

マデリーンのこの発言を彼以外が聞いていたら、酷く失望するだろう。
ならばこの発言は墓まで持っていかねば。

「便利屋殿。お一人で気が進まないでしょうが祭りに行かれてください。祭りのきっかけとなった奇跡の立役者が不参加では運営も浮かばれません。この祭りが終わるまでバルマンの安全は私が保証します。」

「そうですね。」

あの船頭の言葉もある。
さらにマデリーンに頼まれたとはあっては流石に断り切れない。

「きっちりと顔を隠してくださいね。あなたの美しさは夢魔や吸血鬼よりも人を惹きつけますからね。それとこれも。我々の分も目いっぱい祭りを楽しんでください。」

マデリーンが便利屋に渡したのはコイン一枚。しかしそれは1枚で家具一式を揃えられるほどの大金貨だ。たった一枚のコインのなんと重いことか。

「いいんですか、こんなに。もしかして先ほどの発言の口止め料なんじゃ…?」

「まさかとんでもない。それは幻です。一夜経てば消えてしまうんです。だから今夜で使い切ってしまってください。」

「ありがとうございます。」

随分とリアルなコインの幻を手に、彼は部屋を出ていった。
全身全霊を持って楽しむとしよう。

「さて…。」

意識の戻らないバルマンの横にマデリーンは座った。
今夜は徹夜だ。たとえどんな非常事態が起こったとしても命を繋いでみせる。

「あなたに一体、何があったのですか…?」

倒れる前のバルマンの様子は若者から聞いた。
その時だけ全身に妙な模様が浮かび、操られているようで、何かを川に捨てたことを。
間違いなく彼に異変が起こっている。
愛弟子アビーの死、ティモシーの乱心、フィリップの衰弱、そして今度はバルマン。
これ以上の被害を出すわけにはいかない。
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