セイクリッド・カース

気高虚郎

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第5章:作戦準備

第55話:泣き虫の天使

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※ ※ ※ 都 教会の一室 ※ ※ ※



「うぅ…。」

ベッドの上で少女は幸せな夢を見ていた。
夢の内容に感極まっているのか、眠りながらも涙が頬を伝っている。

「天使様…、降りてきて…。」

寝言だ。
夢では抑えきれず、現実へと漏れ出た想い。

「降りて…。」

夢の中で言い切る前にロレインの意識は現実へと戻った。
彼女はゆっくりと目を開くと、体を起こして涙を拭う。

「お母さま…。」

途中から気付いていた、夢であることに。
ずっと浸っていたかったが、そうもいかない。
現実でやることがあるのだから。

「おはよう。」

「ひゃっ!」

彼のあいさつと美しさで、まどろんでいたロレインの意識はすぐさま完全覚醒へと導かれた。
彼女が寝るベッドの傍らには椅子に座った便利屋がいた。

「なんであなたが!?爺やは!?」

「執事さんなら屋敷に戻った。そばにいてあげてほしいって頼まれたんだ。」

フィリップもずっとそばにいてあげたかったが、屋敷に戻らないわけにはいかなかった。
務めをマデリーンに交代してもらい、次に修道士、そして紆余曲折あって今日の修行が終わった便利屋にお鉢が回ったのだ。

「えっと…、私はどれぐらい寝てたの…?」

「もうすぐ夕方だ。」

少女は言葉を失った。
フィリップのおかげで昨晩は数日ぶりに眠りについたが、そこまで疲れていたとは。

「そろそろ手を離してくれるか?ベッドの横に座るやいなや掴まれて動けないんだ。」

「え?あっ、ええっと!ごめんなさい…。」

自分の片手の所在を確認するとロレインは顔を赤らめた。
彼女は寝ている間、便利屋の手を握りしめていたのだ。
しなやかな手首、滑らかな手の甲、綺麗な指。このうっとりするような手を握っていたと思うと恥ずかしくなってくる。

「なんにせよ寝られたようでなによりだ。君のお陰で武器は出来た。避難訓練の件も浸透している。俺や騎士団の訓練も順調だ。アウェイクニング作戦の実行の日は近いから、体調は整えておかないとな。」

「いい夢を見られたわ、お母さまと一緒に泣き虫の天使様を呼んでたの。」

幼き日の記憶の大抵は月日と共に忘却に押し流される。
だがこの記憶はずっとロレインの心に刻まれていた。

「泣き虫の天使様?」

「うん。昔、お母さまが話してくれた。残酷なことが苦手ですぐに泣いちゃうから、魔王との戦いから逃げて世界の隅っこにいたんだって。」

なんと情けない天使だろうか。
しかし微笑ましくもある。

「それでも神様の終焉の命には逆らえず、その天使様もまた世界の隅っこでラッパを吹いて終焉を招いたの。けど炎で苦しむ人たちを見て天使様は涙を流した。その涙の雨で炎を消して、少しでも多くの命を助けようとしたんだって。」

「とても素敵な天使様だ。」

天使。
温和なイメージとは裏腹に、その本性は神の命を忠実にこなす無慈悲な審判者だ。
だからこそ泣き虫の天使には親しみを感じる。

「子供だった私はお母さまに一緒に泣き虫の天使様を呼ぼうって言ったの。そしたらお母さまは嬉しそうに頷いてくれて、日が暮れるまでお母さまと一緒に天に向かって叫んだわ。『天使様、降りてきて』って。」

母と一緒に天使を呼んだ記憶。
それは思い起こすだけで、何度でもロレインの心に幸せを呼び起こしてくれる。
大好きだった人の笑顔や声と共に。

「なるほど。だから祭りの日、屋根の上で叫んでたのか。『天使様、降りてきて』って。」

「もう!聞こえてたんじゃない!」

「そりゃ聞こえるさ。あんなに大声だったら。」

笑い合う便利屋とロレイン。
しんみりとした空気もすっかり晴れたようだ。

「少し歩かないか?半日以上寝てたんだから、体を動かさないとな。」

「そうね。じゃあ歩きながら何をしてたのか聞かせて。修練場で裸になったって聞いたわ。」

「ああ、その話か。」

今だけは作戦の重圧を忘れて、散歩することにしたようだ。
人目を気にするのを忘れてはいけないが。



※※ ※ 都 教会前 ※ ※ ※



教会の前に一台の大きな馬車が止まった。
中から出てきたのは血相を変えた老人だ。

「お爺さん!本当にここでいいんですか!?」

「構いません。あなたの仕事は終わりです。ありがとうございました。」

礼を言いながら馬車を出る老人に、御者の青年の頭はパニック状態だ。
これから地の果てまでの逃避行になるのかと思ったら、アリアンナ邸から都への片道で仕事が終わりになるとは。

「でも俺は大金貨70枚も前金で貰ってるんですよ!そんな大金、お爺さんを都に届けただけで貰うなんて気が咎めますよ!この仕事のために家まで引き払ったのに!」

真面目な青年だ。
楽な儲け話に罪悪感を感じるとは。

「御者さん。あなたの名前は!?」

「えぇ?ターロです!」

突然、聞かれた名前にターロは反射的に答える。
そして老人は青年の肩に手をかけた。

「ターロ様。これも神様のお導きです。あなたが大金を得た事には理由があるはず。どうか誘惑に負けず、良き行いのためにそのお金を使って下さい。それでは。」

まるで魂に問いかけるような助言をくれた老人は振り返ることなく、教会へと入っていった。

「良き行いって…。」

ターロは最近した良き行いを思い出した。
橋で心臓が止まって倒れた老人を助けた事だ。確かにあれは勇気と良心がなくては出来なかっただろう。しかし、この大金の前ではその良心も揺れ動くばかりだ。

「ねえ、御者さん!」

ターロの今後についての思案は女性の声によって中断された。
呼び掛けてきたのは派手な恰好をして、化粧の濃い女性だ。
おそらく娼館の人だろう。

「ほっといてください。今はそういう気分じゃ…。」

「呼び込みじゃないよ!私の友達をすっごく遠くまで逃がしてほしいの!金ならある、時間がないんだ!そのデカい馬車なら行けるでしょ!」

その形相を見るに随分と急いでるんだろう。
ターロはまずは話でも聞くことにするのであった。

「分かりました。その友達の名前は?」

「アマンダって言うんだけど…。」
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