セイクリッド・カース

気高虚郎

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第69話:転倒注意

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※ ※ ※ 庭園  噴水近く ※ ※ ※



噴水のそばに大きな馬車が止められている。
貨物運搬用の馬車だ。それを引く2頭の馬もガタイの良い品種だ。
その馬車に少女と老人が駆けつけてきた。

「お嬢様、早くお乗りください!」

「で、でも…、お父様が!」

ロレインはいまだに状況を呑み込めていないようだ。
今がどれだけ緊急を要する事態なのか。

「理解されておられるのですか?我々は世界を地獄に変える怪物のそばにいたかもしれないのですよ!あの場を去れたのは奇跡に等しいのです!」

「あれはお父様よ、間違いないわ!魂を感じたもの!」

これが熟練の魔術師なら、信頼に足る言葉だろう。
だがロレインは技術も精神も未熟だ。

「相手は魔王!魂すら模倣することが可能ならどうされるのですか!?あなたはアリアンナ家の者!生き延びねばなりません!今は黙ってこの場から離脱ください!」

穏やかな姿しか見せないフィリップの圧にロレインは押し黙った。
自分にはアリアンナ家の血筋としての責任がある。もし失敗すれば、魔王復活に加担した父の罪を雪がねばならない。

「わかったわ…。」

ようやくロレインは承諾してくれた。これでひとまず安心できる。
しかしそれは始まってしまった。

「鳥が怯えてる…。」

ロレインが馬車に近づいた瞬間、庭園の木々に止まった鳥たちが激しく鳴き始めた。
ひたすら騒ぎ、次々と飛び立っている。

「お嬢様、離れて!」

今度は馬が大きな嘶きを上げて暴れ出した。
フィリップが落ち着かせようとするも、まるで効果がない。
目には恐怖が宿り、狂ったかのように脚をばたつかせている。
ついに馬車を引きずりながら、勝手に走り出した。
御者のいない暴走した馬はそのまま庭園の木に凄まじいスピードで激突した。

「な、何故このような…。」

フィリップが倒れる馬の様子を確認すると苦しそうに体をばたつかせている。
脚が折れ、もうこの馬は死を待つしかない状態だ。
せっかくの脱出手段が失われてしまった。

「屋敷の厩舎に参りましょう!馬を探して…!」

鳥、馬。そして彼女も影響を受けていた。
ロレインは唇が紫色になるほどに青ざめ、震えていたのだ。

「どうなさったのです!?」

フィリップが近づいても彼女の様子は一向に改善されない。
これでは逃げるどころではない。

「しっかりしてください!お嬢様!」

「ま、まさか…。」

動物たちは鋭い第6感を持つ。ゆえに影響を受けたのだ。
そして魔術を扱うロレインもまた同じように感じ取ったのだろう。
彼の復活を。



※※ ※ 庭園  魔法陣 ※ ※ ※



「はっ、かっ、かぁっ…!」

体が固まって動かない。内臓の働きが乱れて呼吸がままならない。精神が麻痺して一切の感情が消し飛ぶ。
飲んだくれ野郎はこの感覚を知っている。
子供の頃、家に入り込んだ熊と目が合った時に同じ状態に陥った。

「ど、どうなって…?」

首をぎこちなく振って見回すと武器を持った仲間たちも同じ事になっている。
ボスが立ち上がった時からこの状態だ。
飲んだくれ野郎はこれまでボスに怒鳴られ、喉を掴まれ、剣を向けられるなど死にそうな目に合わされて漏らした。
だが最も本能が警告してるのは今だ。酒に酔って暴れている時の方がまだ安心できた。
今のボスには欠けていた何かが完成し、超越された脅威がある。

「バルベリス!?そうだったのか!」

例外が一人いた。
飲んだくれ野郎の横のブレゴだ。
彼は難問を解き明かしたような表情で独り言を喋っている。興奮が勝っているようだ。

「1人で納得してんじゃねえよ、説明しろ。バルベリスってクラウ・ソラスがどうたらこうたらの奴か?」

「ああ!天使たちは魔人バルベリスと戦って追い詰め、ミカエルはとどめにその体を愛剣クラウ・ソラスで貫いた!だが奴は笑みを浮かべるとクラウ・ソラスはどす黒く染まり、奪って逃げた!そして今度はドワーフの姿で現れ、その手には魔剣に変えたクラウ・ソラスを持っていた!そう、バルベリスは1人の依り代を犠牲にしてクラウ・ソラスを魔剣に変え…!」

「そこは飛ばせ!」

早口の解説を長々と聞いている状況ではない。
硬直した舌でよくここまで喋れるものだ。

「天使達は今度こそとドワーフを真っ二つにした。だが今度はエルフの姿となって現れた。次は獣人の姿で、次は魔女、次は吸血鬼。バルベリスは姿を変えて何度も天使達を苦しめた。切り刻もうが、焼き尽くそうが慕う部下たちの体を依り代にしてな。奴には決まった姿はなく、えぇっと要は…。」

「つ、つまりボスはバルベリスの新たな依り代に選ばれちまったって訳か…。」

魔王復活など妄想も甚だしいと言いたいが、合点がいく。
憑りつかれたかのような奇行、剣を指で折る腕力、大量の使い魔、革命家みたいな演説。
それら全てが納得できる。今になってブレゴのどうでもいい知識が役立つ日が来るとは。

「やべえよ!天使や他の魔王はもういないなら、奴の天下だ…!」

謎が解けたからといって出来る事などない。
この場で真実に辿り着いたブレゴと飲んだくれ野郎は変わり果てた元ボスの言動を見るのだった。




「残念な結果に終わったな。無数の依り代の魂を束ねる私に打ち勝とうなど無謀だった。だが奴は健闘したぞ、妻の喪失で壊れる程度の精神にしてはだが。」

「くそっ…!」

氷塊と魔法陣の間で便利屋は震えていた。
身長差ゆえに見下ろされるのは当然だ。
しかし魔王の視線は、全身に鉛を流し込まれたかのような重圧を与えてくる。
だが膝を折るわけにはいかない。見上げて目前の脅威を見定めねば。

「何故、動ける…!?」

「当ててみるといい。ヒントなら与えたぞ。」

統身道は完璧に決まっていた。
動きを封じる経絡を片っ端から封じ、首から下以外は動けなくしていた。
第三者の協力が無ければ動くことなど出来ないはずだった。

「さっきの尻尾!?」

「ご名答。私に蟲毒の研究をさせたことを忘れていたのか?本来は主に幸福を運ぶ精霊を生み出す儀式なのだぞ。」

魔王の襟から蛇が顔を出した。
邪悪なオーラを纏った黒い蛇が舌を出し入れしながらこちらを見ている。

「こいつは大量の使い魔たちの犠牲の末に生まれた、命じずとも主の望みを叶えてくれる“最高傑作”の使い魔だ。お前が人質ごっこをしてる間に、牙で経絡を突いて硬直を解いてくれたのさ。」

「経絡の事も知っていたのか!?」

「私がどれだけの時を生きていたと思う?人体の知識など完璧に把握しておる。だがここまで追い詰めるとは見事ではあったぞ。」

甘かった。
魂、経絡、蟲毒。あらゆる面において劣っていた。
ロレインとフィリップの応援、マデリーンの統身道、アウェイクニング作戦。全てがバルベリスの掌の上で踊らされていたのだ。

「さてこれからどうする?今のお前は八方塞がりだ。頭上の氷、目前には私、周囲には部下がいる。降伏以外に道はあるのか?」

「そうだな、では…。」

そして膝を折らずに見上げる事で得た情報。
圧倒的な存在たる魔王が氷塊を浮かべ、“最高傑作”である蛇をちらつかせた理由。
これはただのアピールではない。そこから判断される行うべき行動。

「こちらを進呈する!」

便利屋は懐からある物を素早く取り出し、魔王の顔面へと投げつける。
しかし忠実なる“最高傑作”は首を伸ばし、蛇特有の大きく開いた口でキャッチして主を守った。

「感謝する。美しい瓶だ。」

それは実に美しかった。
“最高傑作”が咥えるそれは神聖な装飾が施された小瓶だ。

「贈り物はその中身だ!」

これが真の贈り物。
便利屋は“最高傑作”が咥える小瓶にハイキックを叩き込んで、瓶の破片と中身を飛び散らせた。

「ぐあっ!」

液体が使い魔に被り、魔王の目に入る。
“最高傑作”がけたたましい悲鳴を上げ、魔王の顔が苦痛でゆがむ。
不浄なるものに苦痛を与える液体。瓶を満たしていたのは聖水だ。

「よしっ!」

便利屋は振り返って全力疾走の体勢へ移った。
魔王の不意を突いた今こそ脱出の好機。わざわざ使い魔で防いだのも、氷を浮かべて威嚇したのも、まだ硬直が完全に取れていない証。
ここから離脱して世界に知らさなければならない。帝王の復活を。

「なにっ!?」

一気に最高速度で駆け出そうとした瞬間、体勢が崩れた。足がなにかに引っかかったのだ。
跳躍せんばかりの勢いで走り出したがゆえに便利屋の体は前方へと大きく倒れた。

「窪み…?」

躓きながら自分の股越しに見ると窪みがあった。
儀式の場となった魔法陣にある浅い窪み。便利屋はそれに蹴躓いたのだ。
極限の緊張状態ゆえにこんな物を見過ごすとは。

「うわああああああああ!」

チンピラ達が悲鳴を上げて走り回る。
先ほどまで浮いていた氷塊が魔法陣に落下して圧し潰し、轟音と衝撃が轟く。膠着状態からの急変に大パニックだ。

「倒れるぞ!逃げろ!」

巨大な氷の柱はさらに倒れるという段階まで残している。
一軒家ほどの大きさはある物体がゆっくりと。

「ぐっ、がっ!」

氷塊が地響きを上げて倒れる中、便利屋は地面を転がった。
全速力での疾走は、全速力での転倒に化けてしまった。
しかし転んでいる場合ではない。直ちに立ち上がり、今度こそこの場から離れなければ。

「立ってんじゃねえ!」

「がはっ!」

突然の不意打ちに息が止まる。
脇腹に大槌の柄がめり込んだ。
バズラだ。彼の一撃に便利屋は再び倒れ伏した。

「騒ぎを起こすのが大得意のようだな。だがもう逃がさねえぞ。」

「ちくしょう…!」

油断からの無防備に、バズラの体格からの攻撃で大きな痛手を喰らってしまった。
脇腹を抱えながらうずくまる便利屋にバズラは大槌を振り上げた。

「てめえに顎を蹴られてから、飯を噛むたびにはらわたが煮えくり返ったもんだ!待ちわびたぜ、この瞬間をよ!」

大男が力いっぱい振り下ろす重量たっぷりの大槌。
だがバズラの渾身の一発は、便利屋の頭のすぐそばの地面へと叩きつけられた。

「と行きてえがそれはボスの役目だ。すぐに思うだろうぜ、俺に殺された方がマシだったってな。同情するぜ、お前はやりすぎた。」

聖水で魔王の意識を逸らして氷塊を浮かべる余裕を奪い、落下の衝撃でチンピラ達が混乱させて逃げる。その作戦は便利屋の誤算によって失敗した。
まずチンピラ達を甘くみていた。バズラはこの混乱の中でも見逃さなかったのだ。
何より悔やみきれないのが窪みに足を取られ、転倒したこと。あれが無ければ逃げきれていたかもしれない。

「飲んだくれ野郎!俺が見張るから持ち物を調べろ!」

「わかった!」

賊を捕らえたバズラの元へ皆が集まってくる。
一番に駆け付けた飲んだくれ野郎は便利屋の装備を調べると息を呑んだ。

「これは…!?」

腰のベルトを調べると出てきたのは一本の短剣。
その刀身は純度の高い銀で出来ている。おまけに宝石の装飾付きだ。
かつて山賊の目利き役だったから分かる。これには途方もない歴史的価値も備わっていることが。
少なくとも人生を3回はやり直せるほどの値打ちがある。

「おーい、こっちだ!ブレゴ、いつまでも慌ててんじゃねえ!」

バズラが仲間たちに呼び掛けている瞬間、飲んだくれ野郎はその短剣を懐に隠した。
これまでの人生で出会えた最高の宝は頂いた。

「おい、武器はあったのか!?」

「あったあった!ほら!」

短剣を誤魔化すために銀の針を奪ってバズラに見せる。
先ほど人質ごっこに使っていた針だ。

「武器がこんな針だけ!?んなわけねえだろ!」

「本当だって!それよりみんな無事なのか!?」

言われるがままに周囲を確認すると仲間は全員無事だ。
だが肝心の者の姿が見えない。

「まさか…。」

チンピラ達は倒れた氷塊へと集まる。
その者の所在はこの下以外に考えられない。

「動くぞ、離れろ!」

巨大な氷はスムーズな動きで持ち上がった。
彼が自分に乗っかる氷をどかしたのだ。
何十人もの男が梃子を使っても、数センチほどしか動かせそうにない氷塊を軽々と。
魔王バルベリスは平然とした顔で氷の下から出てくるのだった。

「賊は逃がしたのか?」

「いや、捕らえてる!ほら!」

無能な奴らだがたまには役に立つ。
魔王は飲んだくれ野郎から銀の針を取り上げると、地に伏せる便利屋の目前に落とした。

「この針は返しておこう。それで何が出来るか期待してるぞ。」

「次は…、その喉を貫いてやる…!」

便利屋は見下ろしてくる魔王を睨みつけるのだった。
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