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2巻
2-2
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「ご想像のとおりですわ。今しがた、山神さまと日鞠さま、お二人の縁の糸を切断させていただきました」
「……え?」
あまりに唐突な話に、日鞠は言葉を失う。
縁の糸を切った? 孝太朗と、自分の?
「ま、待ってください。それって、いったいどういう……?」
「わたくしは橋姫。橋に宿り守護するあやかし。全国津々浦々に伝承がございますが、わたくしが宿るこちらの橋は、かねてより『縁切り橋』と呼ばれているのです」
「縁切り橋……?」
「そして先ほど、わたくしの橋に想いを通わせる男女が同時に足を踏み入れました。よって『縁切り橋』の習わしに基づき、お二人の縁の糸を切断させていただいた。ごくごく簡単なお話ですわ」
「ちょ、ちょ、ちょっとちょっと、待ってください!」
「落ち着け日鞠」
慌てて言葉を紡ごうとする中、孝太朗がへたり込んだ日鞠にそっと視線を合わせてくる。
その瞳に浮かぶ孝太朗の優しさに、じわりと涙が滲みそうになった。
落ち着いてなんていられない。こうした事情があるから、孝太朗はあんなに念を押していたのだ。
お前は橋の外で待っていろ、と。
「俺たちがここに来たのはお前に手紙で呼ばれたからだ。縁切り目当てで橋に踏み入ったわけじゃない」
「条件さえ合えば、本人たちの意思に関係なく縁切り橋の呪いは発動する。孝太朗さまも当然ご存じでしたでしょう?」
「ちょーっと乱暴が過ぎるんじゃない、凜姫。おおかた今のだって、密かに日鞠ちゃんの嫉妬心を煽りたてて、橋に立ち入るように仕向けたんでしょう」
投げかけられた類の言葉に、橋姫は笑顔のまま口を閉ざした。
確かに、先ほどまで胸に溢れていた不安な気持ちが、今は綺麗に消えている。つまりあれも、橋姫の術のひとつだったということだろうか。
「あの程度の嫉妬心など、わたくしからすればそよ風のようなものですわ」
細められた橋姫の鋭い目に、日鞠の心臓がぎくりと跳ねる。
「あの程度のことで誹りを受けるのでしたら……わたくしは? わたくしのことはいったい誰が庇ってくださいますの……?」
「り、凜姫さん?」
「わたくしはっ! 長い間ずっとそちらの女性に嫉妬しておりますのに!!」
びしっ、と音が聞こえるような勢いで、橋姫が日鞠を指さした。
「こいつがお前に何をした」
「最初は他愛のないものですわ。我らが山神さまのご厚意を受け街に住みつかれましたこと。穂村家のご子息ともご交友が深まっているらしいこと。街中のあやかしたちに慕われ始めたらしいこと。それはまあいいでしょう。わたくしもそこまで狭量ではございません。ですがこれはどうしても捨て置くことはできませんでした。なんといっても、あの! 麗しの! 茨木童子さまの懐に入り込むだなんて!!」
「へ?」
「あ?」
「うわあ」
三者三様に声を漏らすも、橋姫の耳には届いていない。
茨木童子。
この夏にとある依頼がきっかけで知り合った、鬼のあやかし。
もしかすると橋姫は、茨木童子に懸想しているのだろうか。
そしてどういうわけか、彼女は日鞠と彼との仲を疑っているらしい。
「待ってください凜姫さん! 何か誤解されています! 私、茨木童子さんと疑われるようなことなんてこれっぽっちもありません……!」
「いいえ、いいえ。わたくしの情報網に間違いはございませんわ。あの方は夏頃起こったとある事件をきっかけに、あなたを特別に気に入られたご様子。妬ましいですわ、羨ましいですわ、許せませんわ! わたくしの恋路を邪魔立てするつもりであれば、あなたの恋も阻んで差し上げますわ!」
「おい凜姫、こちらの話を」
「問答無用!」
橋姫がぱしっと両手を打った瞬間、日鞠たちは橋から少し離れた車のそばまで移動させられていた。
目を丸くしていると、遠い橋の上に一人佇む橋姫がにこりと笑顔を見せる。
「縁切りの呪いは徐々に効いてまいります。とはいえ、いつかわたくしの気が晴れましたら、その効果が消えることもあるかもしれません。もちろん保証はいたしかねますが」
「凜姫さん!」
「それでは皆さま、どうぞお気をつけてお帰りあそばせ」
優雅に言い放った橋姫は、忽然と姿を消した。
その場に残された三人は、しばらく言葉を失ったまま、橋の下から微かに届く流水の音を聞いていた。
「あんなに橋に立ち入るなと言われていたのに、本当に本当にすみませんでした!」
「もういい。済んだことだ」
帰りの車の中、日鞠は繰り返し孝太朗と類に頭を下げていた。
しょんぼり肩を落とす日鞠に、隣に座る類が微笑みかける。
「そうだよー。さっきも言ったけど、あれは凜姫が日鞠ちゃんの嫉妬心を煽っていたのが原因だからねえ。俺のほうこそ、もっとしっかり日鞠ちゃんを見ていなくちゃいけなかったよ。ごめんね?」
「いえそんな、類さんが謝ることなんてありませんから」
「まあ、それより目下の問題は、凜姫がかけたっていう『縁切り』の呪いの効果。だよね?」
類の言葉に、日鞠の心臓がどきっと大きく鳴る。
なにせ橋姫から縁切りを通告されて以降、日鞠はその内容が気になって仕方がなかったのだ。
この夏ようやく想いを通じ合わせた孝太朗との関係が、いったいどんな風に変わってしまうのだろうと。
「孝太朗は? 何か変なところとかある?」
「俺は、特段変化はねえな」
運転席から届いた短い答えに、日鞠はほっと胸を撫で下ろした。
「日鞠ちゃんは、どう?」
「私も、特に変化はありません。ただ凜姫さん、呪いは徐々に効いてくるって言っていましたよね……?」
「うーん。こればっかりは様子を見てみないとなんとも言えないねえ。何事もなく終わってくれれば一番いいけれど」
そうなる可能性にかけたいが、先ほどの橋姫の様子を見るに難しいのだろう。
なにせ日鞠は、橋姫の想い人である茨木童子に気に入られている女性として、現在絶賛憎まれ中なのだ。
「それにしても、凜姫があの茨木童子の奴をねえ。確かにあいつは、日鞠ちゃんを気に入っている風ではあったけど」
「そうでしょうか? 私からすると茨木童子さんは、暇潰しにからかってきているだけのような気がしますけれど」
「んー。そういう交流を持っているってだけで、やきもち焼きの凜姫が憤慨するには十分なのかも。ね、孝太朗?」
「さあな」
わざとらしく尋ねる類に、孝太朗が短く答える。
そうこうしている間に、車は街外れのあぜ道から整備された市街地へと進んでいく。
見慣れた風景の中に薬膳カフェを見つけると同時に、建物の前にぽつんと佇む小さな人影が見えた。
「あれは……豆ちゃん?」
CLOSEの札が提げられた扉の前で、頭にわら傘を載せた着物姿の少年がきょろきょろと辺りを見回していた。
孝太朗の運転する車に気づくと、大きな瞳を一層大きく見開く。
「日鞠どの! 孝太朗どの!」
「豆ちゃん! どうしてこんなところに? まさかずっと私たちを待っていたの?」
駐車場に停められた車から、日鞠は慌てて外に出た。
「実は、あのあとどうも手紙の用件が気になりまして。橋姫の凜姫どのと言えば、縁切りで有名な御方。なにやら不吉な予感が頭から離れず……!」
豆腐小僧があれほど手紙を渡すのを躊躇していたのは、それが原因だったらしい。
「わざわざありがとう。ひとまずカフェの中に入ろうか。今日は少し冷えるから、外にずっといたら風邪を引いちゃう……、きゃっ」
話しながら鍵を取り出そうとした日鞠が、誤って店前の花壇に足をぶつける。
ぐらりと体勢を崩した日鞠に、運転席から出た孝太朗が素早く反応した。
「日鞠……、っ!?」
「おっとっと!」
次の瞬間、日鞠の身体を支えたのは孝太朗ではなく類だった。
何が起こったのかわからず、その場の四人が目を瞬かせる。
「る、類さん、すみません。ありがとうございます」
「あー、ううん。それはいいんだけど……」
日鞠の身体をよいしょと離しつつ、類の視線はちろりと孝太朗のほうへ向く。
「えーっと、孝太朗。もしかして今のが……?」
「日鞠」
「は、はい」
「そのまま、その場を動くな」
「え?」
言われると同時に、孝太朗が真っ直ぐこちらへやってくる。
ここは屋外で、カフェの目の前で、類や豆腐小僧もいて。
そんな状況にありながら、伸ばされた孝太朗の手の動きは、抱擁を予感させるものだった。
思わず頬に熱を集め、日鞠は訪れるであろう温もりを想像して胸を高鳴らせた。
が。
「へっ?」
孝太朗の手が届くと思われた瞬間、日鞠は驚きの速さであとずさった。
突如生まれた二人の距離に、再びその場の四人は目を瞬かせる。
「おお。日鞠ちゃん、見事なバックステップ」
「ち、違います! なぜだかわかりませんが、今、身体が勝手にっ」
「どうやら、『効果』とやらが現れ始めたらしいな」
冷静な孝太朗の言葉に、日鞠ははっと息を呑んだ。
「これが、凜姫さんの言っていた『縁切り』の呪いの効果ですか……?」
呆気に取られた様子の三人を前に、一連の出来事を目にしていた豆腐小僧は顔を真っ青にして震え上がった。
「本当に本当に申し訳ございませんでした! 孝太朗どの、日鞠どの!」
「大丈夫だよ。大したことないから、豆ちゃんもそんなに泣かないで。ね?」
その後、四人はひとまず二階の自宅スペースに戻った。
今回の縁切りの責任を感じているらしい豆腐小僧は、瞳から大量の涙を流している。
膝に座らせた豆腐小僧の背中を、日鞠はあやすように優しく撫でた。
「今回のことは豆ちゃんのせいじゃないよ。私が孝太朗さんの言いつけを忘れて、橋に足を踏み入れちゃったのが原因なんだから」
「ううっ、しかしながら、手紙をお渡しするときにわたくしの口からお伝えするべきだったのです。孝太朗どのと日鞠どのに、決して二人では橋に踏み入りませんようにと。ですがわたくしのような小物妖怪が出過ぎた真似かと、妙な遠慮をしてしまい……それが結果として、このような由々しき事態にっ!」
「それも、俺が前もって伝えるべきだったことだ。お前に非はねえよ」
さらりと告げた孝太朗に、豆腐小僧の涙がぴたっと止まった。
「で、ですがですがっ、このままでは孝太朗どのと日鞠どのの幸せな日常にも支障が……!」
「うーん。確かに好き合った男女が触れ合うこともないままひとつ屋根の下っていうのは、ある意味一番の拷問かもねえ」
「る、類さんっ」
「ぴゃっ! それは真にございますか、類どのっ!」
「お前は黙ってろ類。落ち着け豆腐小僧」
再び顔色を悪くした豆腐小僧に、孝太朗は告げる。
「今回のことは俺の失敗だ。お前がここで頭を下げたところで事態が変わるわけでもねえ。妙な責任は感じずに、お前もさっさと棲み家の森に帰れ」
「うう、承知いたしました……」
「そうだねえ。それに豆ちゃんも、ここで泣いてるよりももっと有意義な時間の使い方があるんじゃないかなあ。例えばご用聞きとしての情報網を駆使して、凜姫の縁切りについて調べたり、縁切りの呪いを消す方法を探ってみたり……なんて?」
「……ハッ!!」
わかりやすい類の誘導に、豆腐小僧は日鞠の膝からぴょんと飛び下りた。
そして孝太朗と日鞠に向かって大きく頭を下げると、いつにも増して勇ましい表情を浮かべる。
「孝太朗どの、日鞠どの! 本件の解決は、ぜひともわたくし豆太郎に一任ください! 必ずや解決方法を突き止め、お二人の幸せな日常を取り戻してみせますゆえ!」
「あ、ありがとう豆ちゃん。でも、無茶はしないようにね?」
「必ずや吉報を携えて戻ってまいります! どうぞ今しばらくお待ちくださいませ!」
すっかり使命感に燃えているらしい豆腐小僧は、ぴしっと敬礼をしたあと日鞠たちの自宅を去っていった。
「それじゃあ、俺もひとまずお暇しようかなあ」
どこか満足げに頷いた類もまた、よいしょと腰を上げる。
そんな幼馴染みの様子に、孝太朗は呆れた眼差しを向けた。
「類。お前もしれっと人を操りやがるな」
「人聞き悪いなあ。豆ちゃんも責任を感じてるみたいだったし、役に立ちたい気持ちを汲んであげるのならこれが最善でしょ。孝太朗と日鞠ちゃんだって、いつまでもこのままでいいなんて思っていないだろうし?」
「類さん……」
思わずこぼれた日鞠の声に、類がにこりと笑顔を向ける。
あまり深刻にならないように、努めて朗らかに状況を打開しようとしてくれる。そんな彼の優しさを感じ取ったのは、きっと日鞠だけではなかった。
「あ。それから念のため、しばらくはこの子を置いていくことにするよ」
そう言うと、類は右手の親指と人差し指で輪を作る。
そこへ類がふっと息を吹きかけると、輪の中からしゅるりと長く白い胴を揺らして子狐が現れた。
「わっ、管ちゃん!」
「きゅうん」
類の家に代々仕えるという憑きものの一種・管狐だ。
美しい毛並みにぴょこんと小さな三角耳。何よりこちらを見つめるつぶらな瞳が、毎度胸をきゅんとときめかせてくれる。首元に結われた朱色の紐には、丸い鈴が揺れていた。
「呪いの効果で不自由があるといけないから。何かあったらこの子に手伝ってもらって」
「はい。ありがとうございます、類さん」
「俺のほうでも、凜姫について色々調べてみるよ。とりあえず、明日また薬膳カフェでね」
ひらひらと手を振り、類もまた日鞠たちの家をあとにした。
玄関で見送りを終えた日鞠と孝太朗の間に、どこか気まずい沈黙が落ちる。
「……はは。なんだか、大変なことになっちゃいましたね」
「そうだな」
ダイニングに戻ると、孝太朗は普段と変わらない様子でホットミルク用の鍋を取り出す。
「お前も色々あって疲れただろ。ホットココアでも飲むか」
「はい。ありがとうございます」
そう答えながら、日鞠は孝太朗の背中を見つめていた。
橋姫にかけられた縁切りの呪い。
彼女は、呪いは徐々に効いてくると言っていた。
孝太朗と触れ合えなくなるだけでなく、これからさらに何か変化が現れるのかもしれない。
まさか最終的には、孝太朗自身の気持ちまで消えてなくなってしまうのだろうか。
「日鞠」
「あっ」
気づけば目の前に、ほかほかと甘い湯気の立つマグカップが差し出されていた。
「触れ合いさえしなければ、カップの受け渡しくらいはできるみたいだな」
「そ、そうですね。よかったです」
慌てて笑みを浮かべた日鞠だったが、一度胸に浮かんだ不安はなかなか消えてくれない。
いつもどおり向かい合ってダイニングテーブルに腰を下ろした二人は、ひとまずココアで身体を温めた。
「美味しいですね。孝太朗さんの入れてくれるココアは、身体の芯まで温かくなります」
「……」
「……孝太朗さん?」
「悪かったな。今回のことは、すべて俺の判断ミスだ」
孝太朗から告げられた思いがけない言葉に、日鞠は目を瞬く。
「橋に向かう前に、ちゃんと説明するべきだった。二人で橋に足を踏み入れてはいけない理由を、もっと明確にな。それをおろそかにした、俺の責任だ」
「そんな。孝太朗さんはちゃんと橋に入っちゃいけないと言ってくれましたから、孝太朗さんの責任じゃ」
「それでも、俺との縁が切れると聞いていたのなら、お前も橋に足を踏み入れることにもっと抵抗したはずだろう」
確信めいた言葉に、びくっと肩が揺れる。
確かにそのリスクを知っていれば、たとえ嫉妬心に駆られたとしても、日鞠は不用意に橋に近づかなかったかもしれない。
「説明すべきとわかっていたが、あのときは気恥ずかしさが先立って言えなかった」
「え?」
「俺が、お前との縁を切られたくないんだと。正直に口にするのを躊躇った」
「……!」
告げられた言葉に、胸がどきんと大きく音を鳴らす。
孝太朗もまた、自分との縁を大切に想ってくれていた。その想いが、じわりと日鞠の心に沁みていく。
触れ合えない指先に代わって、互いのマグカップがかつんと音を立てる。それだけでも想いの繋がりが見えるようで、胸の奥がふわりと熱を帯びた。
「俺が必ずどうにかする。心配するな」
「はい。私も、何かできることがないか考えてみますね」
微笑み合ったあと、二人は再びココアに口をつける。
甘い湯気に満たされていく空間を、管狐が心地よさそうに漂っていた。
ところがどっこい。縁切りの呪いはそう甘いものではなかった。
「三番ランチ、出るぞ」
「はいっ、あ……!」
「日鞠ちゃん、大丈夫っ?」
翌日の薬膳カフェでは、呪いが早くも業務に支障を来していた。
孝太朗と日鞠が近づこうとすると、いずれかの動きが意図せず止まる。そのため料理の提供に時間がかかり、カフェの回転率が下がるばかりか、悪いときにはせっかくの料理を床に落としてしまう事態が発生していた。
この数ヶ月で築き上げてきた阿吽の呼吸が突如崩れたことは、当然常連客の目にも留まるところとなる。
「日鞠ちゃん、もしかして今日、どこか体調が悪いんじゃないの?」
「珍しいわよねえ。日鞠ちゃんがこんなにミスを連発しちゃうだなんて」
「もしかしたら日鞠ちゃんと店長さん、喧嘩でもしたのかしら……?」
おばさま方からの心配そうな声にペコペコ頭を下げつつ、日鞠は内心重いため息を吐いていた。
これは確かに、由々しき事態かもしれない。
類がうまくフォローしてくれているものの、三人で回しているカフェでは限界がある。
結局いつもの数倍の疲労感とともに、ランチタイムはなんとか乗り切ることができた。
扉にCLOSEの札を垂らした日鞠は、扉を閉ざすと同時にがくりと肩を落とす。
「お疲れさま、日鞠ちゃん。今日は例の呪いのせいでてんてこ舞いだったねえ」
「うう……類さん、孝太朗さん。本当にすみませんでした! 三度もランチプレートを駄目にしてしまって……!」
「謝る必要はねえよ。俺も何度か目測を誤った。それに、だ」
言うなり、厨房から出てきた孝太朗は日鞠に手を伸ばした。
すると、やはり日鞠の身体は意図せずぐんと勢いよくあとずさりしてしまう。問題は、呪いが発動した際の二人の距離だった。
「あれ? なんだか日鞠ちゃん、避ける反応が昨日よりも速かったような……?」
「どうやら、許される距離がじわじわと広がっているらしいな。これもあの姫が言う縁切りの呪いの効果か」
確かに、昨日まではマグカップを寄せ合うほどの距離でも問題なかったはずだ。しかし、今では片腕を伸ばした距離にいることも危うかった。
「うーん。このまま順調に距離が広がり続けたら、さすがに面倒なことになるねえ。距離次第では、そもそも一緒に暮らすこともままならなくなるだろうから」
「そ、そんな」
ガン、と頭を殴られたような心地になる。
孝太朗との間に広がっていく物理的な距離。これからいったいどうなってしまうんだろう。
今はこうして目にしていられる孝太朗の姿さえ、もうこの目で見られなくなるのだろうか。
「日鞠」
「わっ、大丈夫日鞠ちゃん。顔が真っ青だよ!?」
孝太朗の呼ぶ声に、類がいち早く反応して日鞠を支える。
どうにか笑みを浮かべようとするものの、うまくいったのか日鞠にはわからなかった。
今の日鞠にとって、孝太朗との生活は当たり前で、大切で、かけがえのないものなのだ。
「どうしたらいいんでしょう。やっぱりまた凜姫さんのもとに行って、許してほしいと謝ったほうがいいんでしょうか」
「うーん。凜姫は別に、日鞠ちゃんに怒っているわけじゃないと思うなあ。どちらかというと、羨ましいんだよ」
「羨ましい、ですか?」
「凜姫はあの橋に宿ったあやかし。橋を離れることができず、会いたい者に会いに行くこともできない。昨日調べた情報によると親しい友人も少なく、長年収集してきた着物で心を慰めながら過ごしているらしいからね」
「あ……」
類の言葉に、日鞠はすとんと胸に落ちるものを感じる。
橋姫は置かれた境遇から、長年想いを寄せる者に勇気を出して会いに行くことも叶わない。やりきれないその想いは、まさに今自分が抱いている焦りと辛さそのものだ。
そう思うと、一見理不尽な呪いをかけた彼女の心の内を少しだけ理解できるような気がした。
「失礼いたします! 孝太朗どのっ、日鞠どのーっ!」
「豆ちゃん!?」
カランと下駄の音が聞こえたかと思うと、カフェ店内に飛び込むようにして豆腐小僧が現れた。
いつも白い頬は赤く染まり、小さな肩は上下に大きく揺れている。
「不肖豆太郎、突き止めてまいりました! 凜姫がかけた縁切りの呪いを無効にする方法を!」
「……え?」
あまりに唐突な話に、日鞠は言葉を失う。
縁の糸を切った? 孝太朗と、自分の?
「ま、待ってください。それって、いったいどういう……?」
「わたくしは橋姫。橋に宿り守護するあやかし。全国津々浦々に伝承がございますが、わたくしが宿るこちらの橋は、かねてより『縁切り橋』と呼ばれているのです」
「縁切り橋……?」
「そして先ほど、わたくしの橋に想いを通わせる男女が同時に足を踏み入れました。よって『縁切り橋』の習わしに基づき、お二人の縁の糸を切断させていただいた。ごくごく簡単なお話ですわ」
「ちょ、ちょ、ちょっとちょっと、待ってください!」
「落ち着け日鞠」
慌てて言葉を紡ごうとする中、孝太朗がへたり込んだ日鞠にそっと視線を合わせてくる。
その瞳に浮かぶ孝太朗の優しさに、じわりと涙が滲みそうになった。
落ち着いてなんていられない。こうした事情があるから、孝太朗はあんなに念を押していたのだ。
お前は橋の外で待っていろ、と。
「俺たちがここに来たのはお前に手紙で呼ばれたからだ。縁切り目当てで橋に踏み入ったわけじゃない」
「条件さえ合えば、本人たちの意思に関係なく縁切り橋の呪いは発動する。孝太朗さまも当然ご存じでしたでしょう?」
「ちょーっと乱暴が過ぎるんじゃない、凜姫。おおかた今のだって、密かに日鞠ちゃんの嫉妬心を煽りたてて、橋に立ち入るように仕向けたんでしょう」
投げかけられた類の言葉に、橋姫は笑顔のまま口を閉ざした。
確かに、先ほどまで胸に溢れていた不安な気持ちが、今は綺麗に消えている。つまりあれも、橋姫の術のひとつだったということだろうか。
「あの程度の嫉妬心など、わたくしからすればそよ風のようなものですわ」
細められた橋姫の鋭い目に、日鞠の心臓がぎくりと跳ねる。
「あの程度のことで誹りを受けるのでしたら……わたくしは? わたくしのことはいったい誰が庇ってくださいますの……?」
「り、凜姫さん?」
「わたくしはっ! 長い間ずっとそちらの女性に嫉妬しておりますのに!!」
びしっ、と音が聞こえるような勢いで、橋姫が日鞠を指さした。
「こいつがお前に何をした」
「最初は他愛のないものですわ。我らが山神さまのご厚意を受け街に住みつかれましたこと。穂村家のご子息ともご交友が深まっているらしいこと。街中のあやかしたちに慕われ始めたらしいこと。それはまあいいでしょう。わたくしもそこまで狭量ではございません。ですがこれはどうしても捨て置くことはできませんでした。なんといっても、あの! 麗しの! 茨木童子さまの懐に入り込むだなんて!!」
「へ?」
「あ?」
「うわあ」
三者三様に声を漏らすも、橋姫の耳には届いていない。
茨木童子。
この夏にとある依頼がきっかけで知り合った、鬼のあやかし。
もしかすると橋姫は、茨木童子に懸想しているのだろうか。
そしてどういうわけか、彼女は日鞠と彼との仲を疑っているらしい。
「待ってください凜姫さん! 何か誤解されています! 私、茨木童子さんと疑われるようなことなんてこれっぽっちもありません……!」
「いいえ、いいえ。わたくしの情報網に間違いはございませんわ。あの方は夏頃起こったとある事件をきっかけに、あなたを特別に気に入られたご様子。妬ましいですわ、羨ましいですわ、許せませんわ! わたくしの恋路を邪魔立てするつもりであれば、あなたの恋も阻んで差し上げますわ!」
「おい凜姫、こちらの話を」
「問答無用!」
橋姫がぱしっと両手を打った瞬間、日鞠たちは橋から少し離れた車のそばまで移動させられていた。
目を丸くしていると、遠い橋の上に一人佇む橋姫がにこりと笑顔を見せる。
「縁切りの呪いは徐々に効いてまいります。とはいえ、いつかわたくしの気が晴れましたら、その効果が消えることもあるかもしれません。もちろん保証はいたしかねますが」
「凜姫さん!」
「それでは皆さま、どうぞお気をつけてお帰りあそばせ」
優雅に言い放った橋姫は、忽然と姿を消した。
その場に残された三人は、しばらく言葉を失ったまま、橋の下から微かに届く流水の音を聞いていた。
「あんなに橋に立ち入るなと言われていたのに、本当に本当にすみませんでした!」
「もういい。済んだことだ」
帰りの車の中、日鞠は繰り返し孝太朗と類に頭を下げていた。
しょんぼり肩を落とす日鞠に、隣に座る類が微笑みかける。
「そうだよー。さっきも言ったけど、あれは凜姫が日鞠ちゃんの嫉妬心を煽っていたのが原因だからねえ。俺のほうこそ、もっとしっかり日鞠ちゃんを見ていなくちゃいけなかったよ。ごめんね?」
「いえそんな、類さんが謝ることなんてありませんから」
「まあ、それより目下の問題は、凜姫がかけたっていう『縁切り』の呪いの効果。だよね?」
類の言葉に、日鞠の心臓がどきっと大きく鳴る。
なにせ橋姫から縁切りを通告されて以降、日鞠はその内容が気になって仕方がなかったのだ。
この夏ようやく想いを通じ合わせた孝太朗との関係が、いったいどんな風に変わってしまうのだろうと。
「孝太朗は? 何か変なところとかある?」
「俺は、特段変化はねえな」
運転席から届いた短い答えに、日鞠はほっと胸を撫で下ろした。
「日鞠ちゃんは、どう?」
「私も、特に変化はありません。ただ凜姫さん、呪いは徐々に効いてくるって言っていましたよね……?」
「うーん。こればっかりは様子を見てみないとなんとも言えないねえ。何事もなく終わってくれれば一番いいけれど」
そうなる可能性にかけたいが、先ほどの橋姫の様子を見るに難しいのだろう。
なにせ日鞠は、橋姫の想い人である茨木童子に気に入られている女性として、現在絶賛憎まれ中なのだ。
「それにしても、凜姫があの茨木童子の奴をねえ。確かにあいつは、日鞠ちゃんを気に入っている風ではあったけど」
「そうでしょうか? 私からすると茨木童子さんは、暇潰しにからかってきているだけのような気がしますけれど」
「んー。そういう交流を持っているってだけで、やきもち焼きの凜姫が憤慨するには十分なのかも。ね、孝太朗?」
「さあな」
わざとらしく尋ねる類に、孝太朗が短く答える。
そうこうしている間に、車は街外れのあぜ道から整備された市街地へと進んでいく。
見慣れた風景の中に薬膳カフェを見つけると同時に、建物の前にぽつんと佇む小さな人影が見えた。
「あれは……豆ちゃん?」
CLOSEの札が提げられた扉の前で、頭にわら傘を載せた着物姿の少年がきょろきょろと辺りを見回していた。
孝太朗の運転する車に気づくと、大きな瞳を一層大きく見開く。
「日鞠どの! 孝太朗どの!」
「豆ちゃん! どうしてこんなところに? まさかずっと私たちを待っていたの?」
駐車場に停められた車から、日鞠は慌てて外に出た。
「実は、あのあとどうも手紙の用件が気になりまして。橋姫の凜姫どのと言えば、縁切りで有名な御方。なにやら不吉な予感が頭から離れず……!」
豆腐小僧があれほど手紙を渡すのを躊躇していたのは、それが原因だったらしい。
「わざわざありがとう。ひとまずカフェの中に入ろうか。今日は少し冷えるから、外にずっといたら風邪を引いちゃう……、きゃっ」
話しながら鍵を取り出そうとした日鞠が、誤って店前の花壇に足をぶつける。
ぐらりと体勢を崩した日鞠に、運転席から出た孝太朗が素早く反応した。
「日鞠……、っ!?」
「おっとっと!」
次の瞬間、日鞠の身体を支えたのは孝太朗ではなく類だった。
何が起こったのかわからず、その場の四人が目を瞬かせる。
「る、類さん、すみません。ありがとうございます」
「あー、ううん。それはいいんだけど……」
日鞠の身体をよいしょと離しつつ、類の視線はちろりと孝太朗のほうへ向く。
「えーっと、孝太朗。もしかして今のが……?」
「日鞠」
「は、はい」
「そのまま、その場を動くな」
「え?」
言われると同時に、孝太朗が真っ直ぐこちらへやってくる。
ここは屋外で、カフェの目の前で、類や豆腐小僧もいて。
そんな状況にありながら、伸ばされた孝太朗の手の動きは、抱擁を予感させるものだった。
思わず頬に熱を集め、日鞠は訪れるであろう温もりを想像して胸を高鳴らせた。
が。
「へっ?」
孝太朗の手が届くと思われた瞬間、日鞠は驚きの速さであとずさった。
突如生まれた二人の距離に、再びその場の四人は目を瞬かせる。
「おお。日鞠ちゃん、見事なバックステップ」
「ち、違います! なぜだかわかりませんが、今、身体が勝手にっ」
「どうやら、『効果』とやらが現れ始めたらしいな」
冷静な孝太朗の言葉に、日鞠ははっと息を呑んだ。
「これが、凜姫さんの言っていた『縁切り』の呪いの効果ですか……?」
呆気に取られた様子の三人を前に、一連の出来事を目にしていた豆腐小僧は顔を真っ青にして震え上がった。
「本当に本当に申し訳ございませんでした! 孝太朗どの、日鞠どの!」
「大丈夫だよ。大したことないから、豆ちゃんもそんなに泣かないで。ね?」
その後、四人はひとまず二階の自宅スペースに戻った。
今回の縁切りの責任を感じているらしい豆腐小僧は、瞳から大量の涙を流している。
膝に座らせた豆腐小僧の背中を、日鞠はあやすように優しく撫でた。
「今回のことは豆ちゃんのせいじゃないよ。私が孝太朗さんの言いつけを忘れて、橋に足を踏み入れちゃったのが原因なんだから」
「ううっ、しかしながら、手紙をお渡しするときにわたくしの口からお伝えするべきだったのです。孝太朗どのと日鞠どのに、決して二人では橋に踏み入りませんようにと。ですがわたくしのような小物妖怪が出過ぎた真似かと、妙な遠慮をしてしまい……それが結果として、このような由々しき事態にっ!」
「それも、俺が前もって伝えるべきだったことだ。お前に非はねえよ」
さらりと告げた孝太朗に、豆腐小僧の涙がぴたっと止まった。
「で、ですがですがっ、このままでは孝太朗どのと日鞠どのの幸せな日常にも支障が……!」
「うーん。確かに好き合った男女が触れ合うこともないままひとつ屋根の下っていうのは、ある意味一番の拷問かもねえ」
「る、類さんっ」
「ぴゃっ! それは真にございますか、類どのっ!」
「お前は黙ってろ類。落ち着け豆腐小僧」
再び顔色を悪くした豆腐小僧に、孝太朗は告げる。
「今回のことは俺の失敗だ。お前がここで頭を下げたところで事態が変わるわけでもねえ。妙な責任は感じずに、お前もさっさと棲み家の森に帰れ」
「うう、承知いたしました……」
「そうだねえ。それに豆ちゃんも、ここで泣いてるよりももっと有意義な時間の使い方があるんじゃないかなあ。例えばご用聞きとしての情報網を駆使して、凜姫の縁切りについて調べたり、縁切りの呪いを消す方法を探ってみたり……なんて?」
「……ハッ!!」
わかりやすい類の誘導に、豆腐小僧は日鞠の膝からぴょんと飛び下りた。
そして孝太朗と日鞠に向かって大きく頭を下げると、いつにも増して勇ましい表情を浮かべる。
「孝太朗どの、日鞠どの! 本件の解決は、ぜひともわたくし豆太郎に一任ください! 必ずや解決方法を突き止め、お二人の幸せな日常を取り戻してみせますゆえ!」
「あ、ありがとう豆ちゃん。でも、無茶はしないようにね?」
「必ずや吉報を携えて戻ってまいります! どうぞ今しばらくお待ちくださいませ!」
すっかり使命感に燃えているらしい豆腐小僧は、ぴしっと敬礼をしたあと日鞠たちの自宅を去っていった。
「それじゃあ、俺もひとまずお暇しようかなあ」
どこか満足げに頷いた類もまた、よいしょと腰を上げる。
そんな幼馴染みの様子に、孝太朗は呆れた眼差しを向けた。
「類。お前もしれっと人を操りやがるな」
「人聞き悪いなあ。豆ちゃんも責任を感じてるみたいだったし、役に立ちたい気持ちを汲んであげるのならこれが最善でしょ。孝太朗と日鞠ちゃんだって、いつまでもこのままでいいなんて思っていないだろうし?」
「類さん……」
思わずこぼれた日鞠の声に、類がにこりと笑顔を向ける。
あまり深刻にならないように、努めて朗らかに状況を打開しようとしてくれる。そんな彼の優しさを感じ取ったのは、きっと日鞠だけではなかった。
「あ。それから念のため、しばらくはこの子を置いていくことにするよ」
そう言うと、類は右手の親指と人差し指で輪を作る。
そこへ類がふっと息を吹きかけると、輪の中からしゅるりと長く白い胴を揺らして子狐が現れた。
「わっ、管ちゃん!」
「きゅうん」
類の家に代々仕えるという憑きものの一種・管狐だ。
美しい毛並みにぴょこんと小さな三角耳。何よりこちらを見つめるつぶらな瞳が、毎度胸をきゅんとときめかせてくれる。首元に結われた朱色の紐には、丸い鈴が揺れていた。
「呪いの効果で不自由があるといけないから。何かあったらこの子に手伝ってもらって」
「はい。ありがとうございます、類さん」
「俺のほうでも、凜姫について色々調べてみるよ。とりあえず、明日また薬膳カフェでね」
ひらひらと手を振り、類もまた日鞠たちの家をあとにした。
玄関で見送りを終えた日鞠と孝太朗の間に、どこか気まずい沈黙が落ちる。
「……はは。なんだか、大変なことになっちゃいましたね」
「そうだな」
ダイニングに戻ると、孝太朗は普段と変わらない様子でホットミルク用の鍋を取り出す。
「お前も色々あって疲れただろ。ホットココアでも飲むか」
「はい。ありがとうございます」
そう答えながら、日鞠は孝太朗の背中を見つめていた。
橋姫にかけられた縁切りの呪い。
彼女は、呪いは徐々に効いてくると言っていた。
孝太朗と触れ合えなくなるだけでなく、これからさらに何か変化が現れるのかもしれない。
まさか最終的には、孝太朗自身の気持ちまで消えてなくなってしまうのだろうか。
「日鞠」
「あっ」
気づけば目の前に、ほかほかと甘い湯気の立つマグカップが差し出されていた。
「触れ合いさえしなければ、カップの受け渡しくらいはできるみたいだな」
「そ、そうですね。よかったです」
慌てて笑みを浮かべた日鞠だったが、一度胸に浮かんだ不安はなかなか消えてくれない。
いつもどおり向かい合ってダイニングテーブルに腰を下ろした二人は、ひとまずココアで身体を温めた。
「美味しいですね。孝太朗さんの入れてくれるココアは、身体の芯まで温かくなります」
「……」
「……孝太朗さん?」
「悪かったな。今回のことは、すべて俺の判断ミスだ」
孝太朗から告げられた思いがけない言葉に、日鞠は目を瞬く。
「橋に向かう前に、ちゃんと説明するべきだった。二人で橋に足を踏み入れてはいけない理由を、もっと明確にな。それをおろそかにした、俺の責任だ」
「そんな。孝太朗さんはちゃんと橋に入っちゃいけないと言ってくれましたから、孝太朗さんの責任じゃ」
「それでも、俺との縁が切れると聞いていたのなら、お前も橋に足を踏み入れることにもっと抵抗したはずだろう」
確信めいた言葉に、びくっと肩が揺れる。
確かにそのリスクを知っていれば、たとえ嫉妬心に駆られたとしても、日鞠は不用意に橋に近づかなかったかもしれない。
「説明すべきとわかっていたが、あのときは気恥ずかしさが先立って言えなかった」
「え?」
「俺が、お前との縁を切られたくないんだと。正直に口にするのを躊躇った」
「……!」
告げられた言葉に、胸がどきんと大きく音を鳴らす。
孝太朗もまた、自分との縁を大切に想ってくれていた。その想いが、じわりと日鞠の心に沁みていく。
触れ合えない指先に代わって、互いのマグカップがかつんと音を立てる。それだけでも想いの繋がりが見えるようで、胸の奥がふわりと熱を帯びた。
「俺が必ずどうにかする。心配するな」
「はい。私も、何かできることがないか考えてみますね」
微笑み合ったあと、二人は再びココアに口をつける。
甘い湯気に満たされていく空間を、管狐が心地よさそうに漂っていた。
ところがどっこい。縁切りの呪いはそう甘いものではなかった。
「三番ランチ、出るぞ」
「はいっ、あ……!」
「日鞠ちゃん、大丈夫っ?」
翌日の薬膳カフェでは、呪いが早くも業務に支障を来していた。
孝太朗と日鞠が近づこうとすると、いずれかの動きが意図せず止まる。そのため料理の提供に時間がかかり、カフェの回転率が下がるばかりか、悪いときにはせっかくの料理を床に落としてしまう事態が発生していた。
この数ヶ月で築き上げてきた阿吽の呼吸が突如崩れたことは、当然常連客の目にも留まるところとなる。
「日鞠ちゃん、もしかして今日、どこか体調が悪いんじゃないの?」
「珍しいわよねえ。日鞠ちゃんがこんなにミスを連発しちゃうだなんて」
「もしかしたら日鞠ちゃんと店長さん、喧嘩でもしたのかしら……?」
おばさま方からの心配そうな声にペコペコ頭を下げつつ、日鞠は内心重いため息を吐いていた。
これは確かに、由々しき事態かもしれない。
類がうまくフォローしてくれているものの、三人で回しているカフェでは限界がある。
結局いつもの数倍の疲労感とともに、ランチタイムはなんとか乗り切ることができた。
扉にCLOSEの札を垂らした日鞠は、扉を閉ざすと同時にがくりと肩を落とす。
「お疲れさま、日鞠ちゃん。今日は例の呪いのせいでてんてこ舞いだったねえ」
「うう……類さん、孝太朗さん。本当にすみませんでした! 三度もランチプレートを駄目にしてしまって……!」
「謝る必要はねえよ。俺も何度か目測を誤った。それに、だ」
言うなり、厨房から出てきた孝太朗は日鞠に手を伸ばした。
すると、やはり日鞠の身体は意図せずぐんと勢いよくあとずさりしてしまう。問題は、呪いが発動した際の二人の距離だった。
「あれ? なんだか日鞠ちゃん、避ける反応が昨日よりも速かったような……?」
「どうやら、許される距離がじわじわと広がっているらしいな。これもあの姫が言う縁切りの呪いの効果か」
確かに、昨日まではマグカップを寄せ合うほどの距離でも問題なかったはずだ。しかし、今では片腕を伸ばした距離にいることも危うかった。
「うーん。このまま順調に距離が広がり続けたら、さすがに面倒なことになるねえ。距離次第では、そもそも一緒に暮らすこともままならなくなるだろうから」
「そ、そんな」
ガン、と頭を殴られたような心地になる。
孝太朗との間に広がっていく物理的な距離。これからいったいどうなってしまうんだろう。
今はこうして目にしていられる孝太朗の姿さえ、もうこの目で見られなくなるのだろうか。
「日鞠」
「わっ、大丈夫日鞠ちゃん。顔が真っ青だよ!?」
孝太朗の呼ぶ声に、類がいち早く反応して日鞠を支える。
どうにか笑みを浮かべようとするものの、うまくいったのか日鞠にはわからなかった。
今の日鞠にとって、孝太朗との生活は当たり前で、大切で、かけがえのないものなのだ。
「どうしたらいいんでしょう。やっぱりまた凜姫さんのもとに行って、許してほしいと謝ったほうがいいんでしょうか」
「うーん。凜姫は別に、日鞠ちゃんに怒っているわけじゃないと思うなあ。どちらかというと、羨ましいんだよ」
「羨ましい、ですか?」
「凜姫はあの橋に宿ったあやかし。橋を離れることができず、会いたい者に会いに行くこともできない。昨日調べた情報によると親しい友人も少なく、長年収集してきた着物で心を慰めながら過ごしているらしいからね」
「あ……」
類の言葉に、日鞠はすとんと胸に落ちるものを感じる。
橋姫は置かれた境遇から、長年想いを寄せる者に勇気を出して会いに行くことも叶わない。やりきれないその想いは、まさに今自分が抱いている焦りと辛さそのものだ。
そう思うと、一見理不尽な呪いをかけた彼女の心の内を少しだけ理解できるような気がした。
「失礼いたします! 孝太朗どのっ、日鞠どのーっ!」
「豆ちゃん!?」
カランと下駄の音が聞こえたかと思うと、カフェ店内に飛び込むようにして豆腐小僧が現れた。
いつも白い頬は赤く染まり、小さな肩は上下に大きく揺れている。
「不肖豆太郎、突き止めてまいりました! 凜姫がかけた縁切りの呪いを無効にする方法を!」
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