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第6話 兄妹は復唱する

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 奈津美の髪は、肩よりも短い。
 それなのに髪の印象が凛と焼き付くのは、その美しさと繊細な揺れ方のせいだろう。
 いつもよりどこかその揺れ幅を大きくして、奈津美は校内の階段を下っていた。目指す先は、生徒玄関前のホールに隣接する、購買課。
「いらっしゃい。何かお探しですか、奈津美ちゃん」
「さすが、妹関連の名前は、憶えてくれましたか」
 授業と授業の間の時間は、さすがに購買を訪れる生徒も少ない。
 都合よく当人と2人きりのシチュエーションを手に入れた奈津美は、早々に本題に入った。
 もちろんその本題は、購買で何かを購入したいというものではない。
「実は私、小さいころからカメラ好きだったんです」
「へえ、そうなんだ」
「それで今度、ある写真コンテストに出るんです」
「そう。頑張ってね」
「モデルとして、芽吹にも協力してもらうつもりです」
 ここでようやく、息吹の飄々とした空気が一瞬乱れた。
 額が開けられた少し長めの前髪。その隙間から見える瞳のわずかな揺れに、奈津美はここぞと続ける。
「でも、それには提出する書類があって、未成年なんで保護者からの承認欄も必要なんですよ」
「……そうなの?」
「知りませんでしたか。もしかして芽吹、モデルのことお兄さんには言ってなかったのかな。それとも、今後も内緒にするつもりなのかな。でも、どうしてでしょうね」
 さらさらと繰り出される奈津美の言葉に、息吹は微笑を浮かべたまま押し黙る。
「まあ、あの子も恥ずかしがりですからね。保護者欄は、外国の両親に頼んで、送り返してもらうなんて言ってましたけど」
「そっか」
「ついでに言うと、私、あの子を炊きつけたんですよ。撮影の指南役をお兄さんに頼んでみてくれないかって。でもそれも、あの子は口に出せないままになったみたいですね」
「……」
「私は部外者だと承知の上で言います。妹にここまで気を遣わせて、保護者欄を埋めることのできないお兄さんって、どうなんでしょうね」
「南、奈津美さん」
 フルネームを知っていたとは驚いた。静かに告げられた名前に、怒りを燃料にしていた奈津美が一瞬怯む。
「芽吹は、いい友達を持ったんだね」
「は」
「安心した。ありがとう」
 ふわりと微笑む息吹が、チノルチョコを差し出す。
 非売品、とだけ告げられ、奈津美は無言で受け取った。どうやら退散の頃合いらしい。
 ぺこりと頭を下げた奈津美は、再び教室に続く道を戻っていく。
「さて。吉と出るか、凶と出るか」
 できれば自分のお節介が、少しでも親友の救いになりますように。
 教室に戻る道すがら、奈津美は静かに祈った。


 芽吹の放課後は、週5で野球部マネージャーの仕事が入っている。
 その事情もあり、コンテストに向けた撮影練習は、基本的に休み時間で行われることになった。
「芽吹、ちょっと休もう」
「大丈夫。まだ始めたばかりだし」
「いいから。あんた、顔色が相当きてるよ」
 カメラを下ろした奈津美に、強めの語気で告げられる。
 近くで見守っている華も心配そうに眉を下げていて、芽吹はようやく我に返った。
 何度も広げたはずの拳が、またも固く握られている。小さく震える手を開くと、じとりと嫌な汗が滲んでいた。
「改めて見るとよくわかるわ。芽吹、あんた本当に写真苦手だったんだねえ」
「芽吹、はい、お水」
「あ、りがとう」
 しみじみ告げる奈津美に、軽口をたたく気力もない。
 久しぶりにまっすぐ向き合ったカメラレンズに、芽吹の心はすっかり委縮してしまっていた。
 カメラへの恐怖心が薄れていたと思っていたのは、ただの思い違いだったようだ。ただ撮影の機会から逃れ、心の奥に刻まれた傷に蓋をしていただけだ。
「迷惑かけてごめん。でも、引き受けたからにはちゃんとやり通すから」
「そりゃそうだ。あんたをモデルに選んだのは、この私なんだからね」
 間髪入れずに頷く奈津美が、「でも」とくぎを刺す。
「それであんたを追い詰める真似はしたくないから。だから何でも相談してよね。私たち、今はチームなんだから」
「ん。ありがとう、リーダー」
 とはいえ、このままじゃ駄目だ。
 撮影を始めて1分もたたないうちに貧血でやられていたら、どんな作業も進まない。このままじゃ、奈津美の大きなチャンスを奪いかねない。
 どうにかしなくちゃ。
 重くぐらつく思考を抱えた芽吹は、正反対に澄んだ青空をぐっと睨みつけた。


「……息吹?」
 何度かドアに耳を押し当てた後、音を立てないように慎重に扉を開く。
 中は予想通りすでに消灯し、セミダブルのベッドには息吹が横になっていた。つま先立ちで顔を覗くと、瞼はしっかり閉じられている。
 それにしても――やっぱり、黙っていればいい男、なのかもしれない。
 変に感心する自分にかぶりを振った後、芽吹はまた静かに扉を閉めた。
 忍び足で1階に降りたつと、キッチンの電気だけをそっと灯す。リビングにもほのかに差す光を確認し、芽吹は懐からあるものを取り出した。
「えっと。確か、このボタンを入れれば電源が入るって言ってたよね」
 奈津美から教わった手順を思い出し、恐る恐るスイッチを入れる。赤いランプが点灯し、内部のふたが軋むように開く音がした。
 その音だけでもドキッと震える心臓が情けない。
 しっかりしろ。これで無理なら、写真のモデルなんて100年かかっても無理だ。
 奈津美と華の心配そうな表情を思い出す。
 そして――カメラはもう撮らないと告げた、息吹の消えそうな表情も。
 結局息吹とは、今日1日ろくに口をきけないままだった。
 朝は気まずさが先行して逃げるように家を出た。帰宅後は、息吹が芽吹とあえて重ならないように行動していた。朝あからさまに避けたんだ。そうさせてしまったのは他でもない自分だろう。
 でもきっと、この壁を乗り越えることができれば。
「自分で、決めたことでしょ」
 大丈夫だよ。幼かったころの自分に言い聞かせる。
 きっと、自分のカメラ恐怖症を克服できれば、息吹の心を動かせる。そうしたらきっと、あの苦しそうな表情を和らげることだって。
 リビングに飾られた写真は、いつだって清々しくて心が澄んだ。
 息吹がカメラを無心で構えている姿。
 それを、いつか見てみたい、と芽吹は思った。
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